第28話 12月26日 高速バス・神谷高司

 嫌な予感はしていた。


 高速バスの運転手が二人ともやたらと欠伸を噛み殺していたこと。高速道路ではなく一般道ばかりを走り続けていること。極め付けは運転手がつけている腕章に運送会社コルテーゼの文字があったこと。コルテーゼというのは、上田創士が起こした事故のスポンサーとなっていた会社だ。


 黒風は金を巻き上げた企業を次の新しいターゲットにすることがある。普通に蹴落とすよりも、ズルをして昇り詰めようとしているものを叩き落とすほうが、生み出される利益も心理的効果も大きくなるからだ。


 まさかな。そう思いながら神谷高司がスマートフォンで確認をしようとすると、尾崎玲華が腕にしがみついてきた。

「知ってましたよ。先生が真姫って人以外、誰も本気で好きになれないこと」


 尾崎の口から神谷真姫の名前が出てくるということは、ICレコーダーを見せた人間が教えたということだろうか。神谷は可能性のある人間を思い浮かべていた。問題は尾崎がどこまで知っているかだ。


「わかっていて付き合うなんて、君は変わってますね」

「先生と一緒ですよ。手に入らないモノのほうが燃えるんです」


 尾崎はニッコリと笑う。ご機嫌なようだ。やはり他に選択肢がないからといって尾崎を誘うべきではなかった。尾崎に気をつけろという椎名のアドバイスを守るべきだった。神谷はそう思ったが何もかもが遅すぎた。


「でも振り向いてくれない相手をずっと思い続けるのって辛いですよね」


 神谷は真姫と出会った時のことを思い出していた。中学生の頃だ。当時高学生だった真姫に一目惚れをした。だが真姫への恋心に気づいたときには、すでに兄の恋人だった。母の愛情だけでなく、初めて好きになった女ですら兄に奪われた。本当に欲しいものは手に入らなかった。昔からずっと。


「辛い気持ち、わかります。私もずっと同じ状態だったから」


 どれだけほかの女と付き合っても、真姫への気持ちが揺らぐことがなかった。手に入らないからこそ余計に欲しくなる。心が苦しくなればなるほどに、もっと好きになる。まるで呪いのような初恋だった。


 転機が訪れたのは、宇月拓也が患者としてカウンセリングに来た時だ。妻の浮気で悩んで鬱状態になっているようだった。その浮気相手が兄の神谷航平だと知ったとき、これはチャンスなのだと神谷は思った。


 宇月の相談に乗っている振りをしながら、浮気をしている兄や妻をこの世から排除しなければ、平和な家庭生活が破滅に追い込まれるというイメージを植え付け、プレッシャーをかけ続けた。


 さらに宇月は同僚秘書の横領を知り、隠蔽に協力しなければ職を失うという状況に陥っていた。同時にいくつもの秘密をかかえて、家庭も職場もどちらも失いかねないという極限状態に追い込まれた宇月は、神谷の望み通りに犯行を遂げた。


 ただ一つ誤算だったのは、几帳面な宇月がカウンセリングを受けていたときの会話をすべて録音していたということだった。表向きはただのアドバイスにしか聞こえないように、巧妙に会話をしていたとはいえ、裁判の証拠として提出された場合は、殺人教唆の罪に問われる可能性が高い。その会話が録音されていたのが、あのICレコーダーだったのだ。それを宇月の同僚だった瀬山が手に入れたせいで、神谷はずっと脅されていた。


「しかも大好きな真姫さんは死んじゃったんですから。先生のせいで」


 すべては真姫を救うためにしたはずだった。だが夫を失った真姫が神谷の元に来ることはなく、そのまま自らの命を絶ってしまった。兄の航平と義姉の真姫の命だけではなく自分の未来も含めて、すべてを壊したのは神谷自身だった。


「だから先生を楽にしてあげますよ」


 尾崎はうっすらと微笑んだ。それはまるで自殺を考えている患者が『死にたい』と口にしたときと同じような表情で。


「一緒に行きましょう。もう苦しまなくていいんですよ、神谷先生」


 下り坂に差し掛かるとバスのスピードが上がった。運転がフラフラしている。

 やはり何かがおかしい。そう思い始めた時に電話の着信バイブが鳴る。神谷は絡みついていた尾崎の腕を引きはがし電話に出る。相手は椎名りさだった。


「今どこにいますか」

「……高速バスの中ですが」

「まさか左側の最前列だったりしませんよね」


 神谷が座っている席は、椎名の指摘した通りの場所だった。


「そこ、バスの中で一番死亡率が高いんですよ。過去に起きた事故の四割近くは前方左側で死んでますから」


 神谷は眉をひそめる。


「君は組織の人間なのですか」

「黒風のことですか? 残念ながら違います。説明している暇はありません。それより運転手やバスにおかしな様子はありませんか」


 運転手を見ると、先ほどから何度となくブレーキを踏んでいるのにスピードが落ちる気配はない。必死にハンドルを切って蛇行運転をしているが、急カーブが近づいているのが見える。


「残念ながらその車種、昨日ブレーキ系統の欠陥でリコールされる予定だったんですが、いろいろ事情があって発表が遅れてるみたいで。内部で隠蔽工作が進んでるようですね」


 バスに衝撃が走り、乗客から悲鳴が上がった。

 スピードが出すぎていたバスは、急カーブを曲がりきれずにガードレールにぶつかった。側面を擦りつけるようにしながら、なおも止まらない。金属が擦れ合う音と振動が伝わって来る。


「シートベルトをして頭を守ったほうがいいですね。間に合わないかもしれませんが」


 その言葉を聞き終えた直後、加速を続けるバスがガードレールを突っ切った。重力に振り回されるような感覚を最後に、神谷は意識を失った。





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