第16話 12月23日 桜木南コーポ・藤崎理玖

 森野こころの帰りを待っているうちに、ソファーで眠ってしまったようだ。着替えもせずに寝たせいで体が硬く重い。


 藤崎理玖の手にはスマートフォンが握られたままだった。森野からの着信はない。一緒に住み始めてから、森野が連絡もなく外泊をしたことは今までなかったはずだ。


 画面のガラスがひび割れたスマートフォンを見ると、スーパーの前で男と楽しそうに笑っていた森野を思い出し、衝動的に頭をかきむしる。

「くそっ」


 自分の目で実際に見て、すでに結果が出ていることなのに、諦めきれずにみっともない真似をしていることが情けなくて仕方がなかった。このまま森野は戻ってこないのではないのか。そんな気すらしていた。


 着信のバイブが鳴る。慌てて電話に出ると不動産業者からだった。

「あの家は取り壊しが決まったそうです」

「取り壊し?」


「付近でマンション建設案が立ち上がりまして。さすがに新築マンションの隣に、一家惨殺事件の現場があるというのはまずいという判断みたいです。手を尽くしてみましたが、最近住宅関連に勢力を伸ばしてるクラルテが相手では無理でした」


 電話を切って藤崎はため息をつく。

 最悪なタイミングで最悪なことは重なるものだ。掴もうとしていたものが面白いように手からすり抜ける感覚を藤崎は感じていた。


「あれ、もしかしてここで寝ちゃったの?」


 声に驚いて藤崎はソファーから起き上がった。森野が帰ってきたのだ。まるで何事もなかったかのように。いつも通りの森野だった。

「ダメだよ。風邪ひくよ」


 ソファーに座っている藤崎を一瞥すると、森野は手を洗いに洗面所に向かった。リビングに戻ってきた森野は、藤崎の隣に無防備に座って背伸びをする。


「あー疲れた。二十五を越えると徹夜はやっぱキツイかも」

「遅かったな。昨日は夜勤じゃなかったろ」

「……ちょっとね。他の人がシフト入れないっていうから」


 そう言って森野がソファーにもたれかかった風圧で髪が揺れた。嗅いだ覚えのない甘い匂いが漂ってくる。

 やっぱりそういうことか。藤崎は苦笑するしかなかった。


「嘘つきだな、森野は」

「なんのこと」

「うちのと違う匂いがする」


 森野はとっさに髪を触った。シャンプーや髪とは一言も言っていないのに。森野は自分の嘘を自らの行動で証明したことに気づいていないようだ。


「見たんだ。スーパーの前で男と歩いてるところ」

 藤崎の押し殺したような声を聞いても、森野は何も答えなかった。


「あんな風に笑えるんだな。いつも無理して笑ってるのとは全然違う。そんなにあの男がいいのか」


 嘘でもいいから否定して欲しかった。だが森野は何も言わない。言い訳すらしてくれない。騙す価値すら自分には無いと思われているようで、藤崎は悔しくてたまらなかった。


「誰も好きにならねぇんじゃなかったのかよ」


 自分がずっとガキ扱いされていて、男として見られていないことなんてわかっていた。同じ施設で育ったよしみで、捨て猫を世話するようなつもりで家に置いてくれていたのも知っていた。それでもいつかはきっと森野が自分に振り向いてくれると、その日を待ち望んでいた自分がバカなだけだ。


「俺のことが邪魔なら、はっきりそう言えよ」


 衝動を抑えきれなくなった藤崎は、森野の体を押し倒し、強引にキスをしようとした。


「……やめ……て」


 唇が触れる直前に、藤崎は動きを止めた。

 あの日と同じ瞳をしていた。森野は震えるような声で言う。


「お願いだから、もうやめて。お母さんがお義父さんを刺した時を……思い出すから」


 ガラス玉のような冷たい目で藤崎のことを見つめている。


「私はお父さんとして好きだよって言っただけなのに。私のせいでお義父さんもお母さんもおかしくなっちゃったから。だから……一生誰にも好きだなんて言わないことに決めてたんだ。でも」


 森野の目から涙がこぼれ落ちた。


「どうしよう。ずっと誰も好きにならないようにしてたのに。好きになっちゃったんだよ、夏目くんのこと」


 子供のように泣きじゃくっている森野を見るのは初めてだった。

 森野から体を離すと、藤崎はため息をついた。


「そっか。だったら仕方ねぇよな」


 藤崎は目を閉じて天を仰ぐ。涙が湧き出てきそうになるのを必死にこらえて、両手で頬を叩いて気合をいれてから立ち上がる。

「じゃ、俺行くわ」


 涙声の森野が言った。

「どこに」


「好きな男がいるのに、同居してる男がいたらまずいでしょ。いくらこんなガキでもさ。荷物はあとでまとめて取りに来るから」

「でも住むところは」

「大丈夫。もともと社長の家で寝泊まりしてたぐらいだし。あーでも今は彼女さんいるみたいだしダメかな」


 藤崎はカレンダーを見た。二十五日まではあと二日だ。そうすれば二十歳になる。


「しばらくは漫画喫茶にでも泊まるよ。明後日まで乗り切ったら、親がいなくても普通に契約できるし」


 森野は心配そうに見ている。

「敷金とか、いっぱいお金必要だよ。大丈夫なの」


 藤崎は笑ってみせた。引きつっている気がしたが、なけなしのプライドを総動員して必死に口角を上げて、笑っている振りをする。


「だから大丈夫だって。俺こう見えても、ちゃんと事務所で五百円貯金してっから。引越し終わったら、今までの家賃分は払うつもりだったし」


 本当は綺麗な消え方の斡旋で、十分に金はたまっていた。社長や桜に保証人になってもらえば、引越しはいつでもできたのだ。それを先延ばしにしていたのは森野とできるだけ長く一緒に暮らしていたかった、ただそれだけだった。


「そんなの払わなくていいよ」

「最後にそのぐらいさせてくれよ。ずっと森野に甘えてた俺が悪いんだからさ」


 ずっと人を本気で好きになれなかった森野が恋をしたというのなら、邪魔をするわけにはいかない。きっとその夏目という男となら、呪われた過去から抜け出して、ようやく森野が幸せになれるかもしれないのだから。


「よかったな、森野。やっとまともになれて。そいつに気持ち伝わるといいな」

 そう言い残して藤崎は出て行った。





 商店街を歩いていた藤崎は不動産屋の前で足を止める。張り出されている間取りを睨みつけていた。


 ワンルーム、1DK、1LDK、築年数、占有面積、駅からの時間、敷金礼金、管理費。自分で賃貸契約を結んだことのない藤崎には、ぼんやりとしたイメージしかわかない。


 普段から目にしたことはあっても、本当に必要になるまで深く考えたことはなかったからだ。興味のないことに対する知識なんてだいたいそんなものだ。どんな間取りがいいのか、相場がどの程度なのかもよくわからなかった。見れば見るほどよけいにわからなくなっていく。


「お部屋お探しでしょうか」

 扉を開けた店員が声をかけてきた。


「いや、見てるだけなんで」

 藤崎はそっけなく返事をして店を離れると、駅裏にある漫画喫茶に入って行った。


 フロアに充満している雑多な匂いを嗅いで、ふいに森野から漂っていたシャンプーの匂いを思い出す。頭の中に森野を押し倒した瞬間の映像がフラッシュバックした。それと同時に大好きな女に振られたという最悪な記憶もセットになって蘇る。


 藤崎は嫌な記憶を打ち消すためにシャワールームへ向かい、熱めのシャワーを浴びた。いくら洗っても鼻の奥に甘いシャンプーの匂いがこびりついているような気がしていた。ほかの男に抱かれている森野の姿が、勝手に頭の中で作り出される。


「くそっ」

 無意識のうちに壁を叩いていたが、妄想は消えない。イライラしながら体を拭いて服を着る。


 個室に入って、ネットでバカバカしい動画ばかりを探して見ていたが、苛立ちは静まらない。腹が空いているわけでも無いのに、ナポリタンやサンドイッチ、カレーやラーメンなどを手当たり次第に食べまくる。最後には気持ちが悪くなってトイレに駆け込んで全部吐いた。


 洗面台で顔を洗ってから鏡を見ると、そこに映っていたのはとんでもないクズの顔だった。堕ちるところまで堕ちた無様な男の顔だ。


「どうせ捨てるつもりなら、優しくなんかするなよ」


 藤崎は泣いていた。

 人殺しに泣く権利などない。好きな女に振られたことを悲しむ権利もない。なのに泣くことを止められなかった。



 綺麗な消え方はじめましたへようこそ。

 ゆうた様。

 本日のリストが更新されました。

 どの愚者に綺麗な消え方を与えるべきかお選びください。

  ▼U・T 10歳

 本当にこの愚者でかまいませんか?

  ▼はい

   いいえ

 では、与えるべき裁きをお選びください。

  ▼爆弾テロに巻き込まれて死亡

   (横領議員を失脚させるために貢献)

 本当にこの綺麗な消え方でかまいませんか?

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