第21話

「高橋主任、出来ました」

 パソコンに向かってその日の仕事をしていると、急に隣からそんな声が聞こえてきた。佐藤である。彼は昨日頼んでいた内部資料が完成したらしく、得意気な顔で確認を依頼してきた。

 佐藤の態度はいつもと何ら変化は感じられない。戦闘前日だというのに。

 ついに戦闘前日の金曜日を迎えてしまった。高橋はそれまでなるべく考えないようにしていたが、さすがに前日ともなるとどうしても考えてしまう。明日の深夜、この目の前の人と闘うのだ。そして来週の月曜日にはどちらかが「失踪」という形で処理されるのだ。どちらが勝つのかは解らない。しかしこうして仕事で話をするのは今日で最後となるのだ。

 本当にこの道しかなかったのだろうか。高橋はそんな考えが頭によぎり、すぐに考え直した。今更そんなことを考えても仕方ないのである。

 高橋は気を取り直して佐藤が作成した文書に目を通した。文書の内容は問題ない。高橋が考えた文章をただ清書しただけなのだから。問題は誤字が何個あるのか。

「……あれ?」

 高橋は佐藤の成果物を四回見直して声を挙げた。誤字脱字は一切ない、完璧な文書だった。

「……直す所ないですね」

 高橋がそう言うと、佐藤は「本当ですか?」と表情を輝かせた。

「ええ。完璧です。誤字は一つもないですね」

「やった!」

 佐藤は諸手を挙げて喜んだ。その声が思いの他大きかったのか、周りのメンバーが一斉に高橋達の方を向いた。

「ちょっと佐藤さん、声大きいですよ。……あ、なんでもないです」

 高橋は立ち上がって周囲に頭を下げると、周りのメンバーは机に向きなおして仕事に戻った。

「お、一発オッケーだったんだな」

 しかし最初から成り行きを見ていた佐々木だけはそう言って笑顔で近づいてきた。

「佐藤、やったな」

「ええ。高橋主任のおかげですよ」

「そっか。良かったな。高橋君もここまでめげずによく頑張ったな。感謝しているよ」

 佐々木はそう言って高橋の肩を軽く叩いた。

「いえ……」

「これからも佐藤をよろしく頼むね」

 そんな言葉を残して佐々木は自席へと戻っていった。

 佐藤を見るとまだ喜んでいる。もうこんな事をするのも最後なのだ。そう思うと少し涙が出そうになった。


「あれ? 高橋さん、今日は遅いですね」

 夜になり、誰もいなくなったフロアで高橋が黙々と仕事をしていると、帰ったはずの若林が少し陽気な声で話しかけてきた。振り返ると彼は頬を少し赤く染めていた。どうやら酔っているようである。

「ああ、何となく切りが悪くてね。それより君こそどうした? 飲み会じゃなかったっけ?」

 確か若林は「同期の飲み会があるんですよ」と、嬉しそうに定時で帰っていったのだ。

「ええ。今二次会終わって三次会行く途中で携帯忘れたことに気づきましてね……あ、あった」

 若林は自席の机に置いてあった携帯電話を手に取った。

「では、高橋さんも無理されないように」

「ああ。そっちこそ呑みすぎないようにね」

 「まかしてくださいよ」と若林はフロアから出て行った。その足取りはフラフラで、高橋は少々心配になった。

 高橋は再び仕事に戻り、ようやく一区切りつけるところまで来たところで大きく伸びをした。時計を見ると既に午後一一時を越えていた。いつもならまだまだ仕事をする人がちらほらといるような時間帯だが、不況で仕事が減っているせいか、その日は高橋が最後のようだ。広いフロアがシンと静まりかえり、高橋がいる辺り以外の明かりが全て消されていた。

 ついに戦闘前日になってしまった。出来るだけ考えないようにしていたが、どうしてもそのことが頭から離れない。高橋は気持ちを紛らわせるために仕事の引継書を作っていた。一応、自分がいなくなっても滞りなく仕事が出来るように、自分の頭の中にしかないノウハウを文章に起こしているのである。

 縁起が悪いことだということは解っていた。自分が死んだときのことを考えるなんて。しかしどうしてもやらずにはいられなかった。自分がいなくなって、抱えているプロジェクトがダメになって周り迷惑を掛けることだけは、どうしてもしたくなかった。

 どのみち今日は家にいても落ち着かないだけだろうし、仕事が出来てちょうど良かった。どうせ今日はサイトにも接続する気はない。大きく息を付き、再び伸びをした。チラと隣の席を見たが、当然佐藤はいない。彼はいつも通り定時に笑顔で帰っていった。彼の行動に全く変化はない。違ったのは今日の仕事に間違いが一切なかったことだけである。それもそれほど不自然なことはない。

 やはり経験が違うのだろうか。そんなことを考えて帰り支度をしようとしたとき、不意にフロアのドアが開いた。

 また誰か忘れ物でもしたのだろうか。高橋がそう思って振り返った。

「やあ高橋主任。遅くまでお疲れさまです」

 入り口に立ってたのは佐藤だった。彼はいつも通りの笑顔を向けて高橋の方に近づいてくる。一度家に戻ったのだろう。スーツではなくてスウェットの上下を着ていた。

「こんな遅くまでどうしたんですか? 今はそんなに忙しくないはずですが」

「いえ、色々やることがありましてね。佐藤さんこそどうしたんですか?」

「ちょっと忘れ物をしたもので。ところで高橋主任、あのサイトの鉄則を知っていますか?」

 急にそう振られ、高橋は身構えた。今の彼はいつもの「佐藤さん」ではない。殺しをするときの佐藤である。

「……鉄則、ですか?」

「ええ。『戦闘前日に特別なことをしてはいけない』負けた際に運営が素早く失踪ということで処理をするために、普段と同じように生活をしなければなりません。それ、引継書ですよね? 失踪をほのめかすためにはよいかと思われるかもしれませんが、止めた方がいいですよ?」

 図星を突かれて高橋は身を揺らせたが、寸前で言葉を呑み込んだ。自分は見えない共闘ということになっている。これはカマをかけているのだ。

 高橋は自分のパソコンの画面に目を移した。今映っている内容から引継書だと解るものはないはずだ。

「……何のことでしょうか。今日は少し切りが悪いので残っていただけですよ」

 涼しい顔でそう言うと、佐藤は口の端を吊り上げて笑った。いつもとは違う、冷たい笑いである。

「ははっ、さすがに引っかかりませんね。見えない共闘で出るのか探ろうとしたのですが」

「残念ですが、そこまで単純ではないですよ。で、何の用ですか? 見たところ忘れ物をしているようには見えませんが」

 高橋の言葉に、佐藤は「参りましたな」と頭を掻いていた。彼は若林のように自席で何かを探すようなそぶりをしていない。ただ、高橋の前で冷たい笑みを浮かべているだけである。恐らく高橋が遅くまで作業をすることを読んでいたのだろう。

「いや、明日はゆっくり話をしている暇はないと思いましてね。高橋さんは明日、見えない共闘で参加するんですよね?」

「……さあ、解りません」

「隠さなくてもいいですよ。解ってますから。この際なぜ見えない共闘なのかはあえて訊きません。今日は高橋さんに忠告したいと思いまして」

「忠告?」

「ええ。坂本君に関することです。彼は……」

 佐藤が言いかけている途中で高橋は「佐藤さん」と言葉を遮った。

「……すみませんが、我々は一応敵対する関係ですので、もうそういった話はあまりしない方がよいと思いますが」

 高橋が控えめにそう言うと、佐藤は一瞬表情を落とした後にすぐに笑顔になり、

「確かにそうですね。いや、申し訳ないです。どうも歳を取るとそういう分別がつきにくくなりましてね。でも聞いておいた方がいいと思うんですけどねえ……」

「私ももう帰りますので」

 高橋はパソコンをシャットダウンさせ、帰り支度を始めた。取りつく島もないと悟ったのか、佐藤は小さく笑いながら頭を掻いた。

「わかりました。じゃ、私もこれで失礼します。……この調子だと、明日も晴れそうですね」

 佐藤は窓際に足を向け、ブラインドを横にずらして夜空を確認した。今日はすっきりとした晴天だった。明日の予報も晴れである。

 高橋はその言葉には応じず、黙々と帰り支度を続けた。今はもうブレたくない。これ以上は一言も会話をしたくなかった。

「では、明日楽しみにしてますので。お互い頑張りましょうね」

 佐藤はそう言って小さく礼をすると、一足先に会社から出ていった。

 これでいいのだ。今は坂本との信頼関係を崩さないことの方が重要だ。今佐藤と話をするわけにはいかない。

 高橋は深いため息をついて会社を出た。家に着く前にゆかりからメールが届いた。「明日は何時に行けばいい?」という内容だった。明日は夜中に出発するので、それまではゆかりと会うことになっているのだ。

 高橋は「いつでもいいよ」と返し、その日はそれ以上何もせずに就寝した。眠れるかどうか心配だったが、仕事で必要以上に頭を使ったおかげか、さほど苦労することなく眠りについた。

 葛西の夢を見た。夢の中では葛西はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。

 彼は最後の戦闘で五分間の非戦闘時間を作った。理由は、坂本と話があるため。

 その時葛西はどんな話を坂本としたのだろうか。

 なんとなく、今その事を坂本に訊く気にはならなかった。今坂本とはいい関係を保っている。それを訊くことでまた関係が悪くなるのは、この時点ではよろしくない。今は佐藤を殺すことに集中しなければならないのだ。

 しかし、どうしても気になってしまう。あの日、葛西は坂本に何を言おうと思ったのか。そして、その結果なにがあったのか。なぜその時起こったことを佐藤は加奈子に話さないのか。

 なあ。どうなんだ? 高橋は夢の中で葛西に語りかける。あの日お前は何を抱えて闘っていたんだ?

 しかし葛西は答えない。ただ、穏やかに笑い続けていた。

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