第25話
五分咲きだった桜は、ここのところ暖かかったおかげで、週末にはほぼ満開になっていた。関東から一週間ほど遅れた開花に、県内の桜のスポットは花見客で溢れかえっている。
そんな中、坂本のマンション近くの公園ではほんの数組だけでひっそりと花見が行われていた。駅から近い所にあって桜も綺麗だが、住宅街の中にぽっかりと穴が空いたように存在するその公園は、地元の住民のみが知る穴場のスポットであった。
「それにしてもこんな所に桜のスポットがあるとはねえ」
ゆかりは大きく息をつきながらそう言った。確かに高橋も知らなかった。さほど大きくもない公園だが、それなりの大きさの桜が二本植えられてある。大人数で宴会をするには寂しいが、ごく小数でひっそりと桜を愛でるには十分であった。高橋達は坂本家の三人を含めて五人で、一本の桜の下にブルーシートを敷いて花見を行っていた。公園の中には高橋達を除くと二組しかいない。その二組はもう一本の大きい方の桜の下にいるので、高橋達が桜を独占しているような形になっている。
「それにしてももっと人がいてもおかしくないけど、なんでこんなに空いているんだろ」
「ここのはみんな見飽きているからな。あとモロ近所だから知った顔も多いし……あ、どうも」
坂本は最後の言葉を沿道を歩くご近所さんらしき老婆に向けていた。向こうも坂本達に深々と礼をして去っていった。
「気兼ねなく酒呑むんなら、他の場所に行くさ。ほら高橋。もう一本いこうぜ」
そう言って缶ビールをクーラーボックスから取り出す坂本に、高橋は首を振った。もう既に五〇〇ミリリットルを二本空けている。昼間からそんなに酔っていられない。
「なんだよ付き合い悪いな。じゃあゆかりちゃんはどうだい?」
ゆかりも真っ赤な顔をさせながら「遠慮しときます」と笑顔で言った。彼女はまだ酎ハイを一本しか呑んでいないが、元々酒があまり強くないため、もう限界のようである。
坂本はブツブツと文句を言いながら自分用のビールのみを開けた。
「ほら、お酒は強要しないの。高橋さんとゆかりちゃんはあんたみたいにザルじゃないんだから」
「男は気合でなんとかするんだよ。なあ由紀?」
「お酒臭いお父さんきらーい」
由紀がそう言ってそっぽを向き、さらにいじける坂本に、高橋達は笑い声を上げた。
「そういえば歩美さんはお酒呑まないんですか?」
ひとしきり笑った後にゆかりが首を傾げた。言われてみれば歩美は最初からお茶しか飲んでいないように高橋も思えた。
「まあ、ちょっと、ね」
歩美は意味深そうな笑みを浮かべながら、言葉を濁していた。
「これから運転でもするんですか?」
「妊娠中の飲酒はダメなんだって」
ゆかりの質問に、坂本がぽつりとそう言った。最初言っている意味が解らなかったゆかりと高橋だったが、
「もう、もっとちゃんと言おうと思っていたのに」
と恥ずかしそうに眉をひそめる歩美の姿に、言っている意味が理解できた。
「えー、本当ですか。すごいすごい。おめでとうございます」
ゆかりが一人で盛り上がり、嬉しそうに手を叩いていた。
「まあ、まだ安定期に入ってないから、どうなるか解らないんだけどね。だからあんまり他の人には言わないでね」
「で、男の子女の子どっちなんですか?」
「まだ解らないわよ。まだ四ヶ月目だから」
「いやー、それにしてもおめでとうございます。由紀ちゃんやったね」
由紀はまだ何が起こるのかを完全には理解していないのだろう。要領を得ない顔をしながらもゆかりに笑みを返していた。
「…………」
そんな幸せそうな女性陣を尻目に、高橋は黙々と酒を呑んでいる坂本を見た。その顔は照れているのかつまらなそうにしているのか、複雑な表情をしている。彼が何を考えているのか、高橋には解らない。
もしかしたらこの半年間戦闘を続けていたことを後悔しているのかもしれない。歩美の妊娠を機に足を洗うのかもしれない。そんな淡い期待を考えているときにフッと坂本と目が合った。
「ん? どうした?」
「いや、なんでもない」
「……そうか」
坂本は首を傾げながら再びビールを傾けた。
どうすべきか。高橋はしばらく考えた結果、諸々を問いただすことにした。こんな幸せな空気の中で訊くべきなのかと一瞬思ってしまったが、思い立った時にやらなければ、いつまでも訊かずにズルズルといってしまうのは目に見えている。
高橋は「ちょっといいか」と坂本を立たせ、誰もない公園の隅のベンチを指差した。坂本も心得ているように「おう」と応えると、ベンチの方に歩き出した。
「どうしたの?」
「ちょっと男だけの話があってね」
ゆかりの問いにそう答え、高橋もベンチの方へと歩いていった。公園の外れのそのベンチには二人以外の人の気配はない。視線の先にはゆかり達が騒いでいる姿が少し小さく見える。
「で、どうした?」
坂本は持ってきた缶ビールを傾けながら訊いてきた。酒は呑んでいるが、その目は真剣だ。高橋の様子からふざけた話ではないということは察しているのだろう。
「……あのさ」
高橋はどこから切り出せばよいのかと考えながら口を開いた。いざとなると様々なことが頭に浮かんだ。佐藤の手紙、加奈子の言葉、葛西の手紙。しかしその全てを伝えるのは危険だということは高橋にも解っている。だから順序が大事なのだ。
「どうしたんだよ」
次の言葉がなかなか出てこない高橋に、坂本が苛立たしげに言ってきた。
「……この半年さ、サイトにつなげてなかったから知らなかったけど、お前、戦闘を続けているみたいだな」
高橋の言葉に、坂本は表情を落とした。
「なんでそれを?」
「いや、何気なくつなげてみたらお前の戦績が上がっていてな。おかしく思って最近の履歴を見てみたんだ」
高橋はあえて加奈子の名前は出さなかった。出すとしても、それは今ではない。
「なあ。半年前ので終わったんじゃなかったのかよ」
「いや、あれはな……そう、無理にでもやらなきゃいけないんだよ」
「無理にでも?」
「ああ。ほら、佐藤がいなくなって花形選手がいなくなっただろ? だから盛り立てるようにって運営に言われてな」
坂本はそう言って乾いた笑みを浮かべた。
「嘘はよせよ」
「嘘じゃねえよ」
「じゃあなんで、終わった後に遺体を切り刻んでいるんだよ。運営に訊いたんだけどさ、毎回遺体の損傷がひどいんだってな」
高橋がそう言うと、坂本はしばらく押し黙ってしまった。
「なあ、半年前のあれは、本当に仇討ちだったのか?」
「…………」
沈黙が流れた。坂本の顔から笑みが消え、眉間に皺を寄せて渋い顔をしていた。
「黙っていないで何とか言ってくれよ」
「あれは……確かに仇討ちだった」
坂本は顔を上げ、高橋の目を見てはっきりとそう答えた。彼の目はまっすぐで、嘘を言っているようには見えない。しかし。
「佐藤さんから話を聞いたんだ。昔の、佐藤さんと葛西と坂本の三人の戦闘の時の事を。あの時葛西は背中を負傷していたそうだな。状況からして、お前がやったとしか思えないんだけど、どうなんだ?」
高橋がそう言うと、坂本の表情がみるみるうちに曇っていった。やはり、佐藤さんが言っていたことは間違っていなかった。出来れば嘘であってほしかったが。高橋はショックを受けながらも何とか己を奮い立たせた。
「なあ。あの日、お前と葛西の間に何があったんだ? 戦闘開始直後の五分間、何があったんだ?」
「…………」
坂本はその問いには答えなかった。口をつぐみ、ジッと高橋を見つめてきた。高橋も黙って坂本を見る。しばらく二人の間に重い沈黙が流れた。
いつまで続くのか解らないその睨み合いは、坂本の方が折れた。彼は視線を外し、自嘲ぎみに笑って口を開いた。
「なあ、俺は……」
「ねえねえ。なに二人で話してるの?」
急に割って入ったのはゆかりだった。彼女は陽気そうに笑っている。手には新しい酎ハイが握られている。
「……悪いけど、今大事な話をしてるんだ」
高橋は舌打ちしそうになるのを必死で堪え、できる限り平静を装って言った。頼む。今は邪魔しないでくれ。
しかしそんな高橋の願いも虚しく、ゆかりは笑いながら絡んできた。
「またそんなこと言って変な話でもしてるんでしょ?」
「いや、マジで今は勘弁してくれ」
「いいから行くよ? ほら……」
「今はダメだって言ってるだろ!」
高橋は思わず大きな声を出してしまい、ハッと我に返った。ゆかりは状況を把握できていないのか、呆気に取られたような泣きそうな顔をしていた。
「……ごめん」
「ほら高橋。なに熱くなってるんだよ。まったく昔のことでさ。ごめんね。ゆかりちゃん」
一瞬流れた気まずい空気を、坂本が間延びした声で破った。
「こいつさ、高校の時ユリちゃんって娘好きだったんだけど、絶対に認めないんだぜ。往生際が悪いよ」
坂本が笑いながら目配せをしてきた、合わせろということだろう。彼の顔はいつもの坂本に戻っていた。
「だから、あれは違うって言ってるだろ?」
「はいはい。ゆかりちゃんの前じゃ初恋の話は言えないわな」
「えー、なにそれ。聞いたことない。坂本さん教えて」
ゆかりは先ほどのことはなかったかのように元気な声を挙げる。何とかごまかせたようだ。高橋はホッと息をつきながら、「だから違うって」と話に乗った。
「ま、詳しくは向こうで新しいビール呑みながらな。なあ高橋」
坂本は元の桜の木の下に戻りながら高橋の方を振り返った。一瞬、唇が動いた。「後でな」そう動いたように高橋は見えた。
「あ、ああ」
高橋も腰を上げ、元の宴に戻っていった。
出来れば、葛西の手紙の件は嘘でありたかった。前の手紙が写っていたとしても、それが実際に坂本の手紙として使われたわけではない。そう一縷の望みを持っていたが、そんな甘い考えは無残にも打ち砕かれた。
やはり葛西や佐藤の考えは正しいのだろうか。そうなると、最終的には。
高橋はそれ以上深く考えるのを止めた。まだ解らないのだ。坂本には坂本なりのちゃんとした考えがあるかもしれない。まだ解らない。必死にそう自分に言い聞かせていた。
しかし、やはりそんな甘い考えは、その後簡単に崩されるのであった。
後でな。
坂本は確かにそう言っていたはずなのに、それから三日間なにも進展はなかった。花見の日もあれ以上の言及は出来ず、その後坂本からの連絡は一切なかった。そろそろこちらから話を聞くきっかけを作ろう。そう思った四日目の夜、ゆかりが風呂に入っている間に何気なくサイトに接続してみると、坂本からのメッセージが届いていることに気付いた。
今月の俺の戦闘を見学しにこないか?
坂本のメッセージにはそう書かれていた。
どういうことだろう。高橋は考えながらサイトの接続を切った。いつゆかりが戻ってくるのか解らない。早めに行動しなければならない。
これが坂本の言う「後で」なのだろう。高橋はOSの再インストールをしながら眉をひそめた。やっとあの忌まわしい世界から抜け出せたのに、見学とはいえまた戦場に行かなければならないのか。
「なんでなんだよ……」
高橋は呻くようにそうつぶやいた。もう終わったのではないのか。葛西の仇討ちが終わって、平和で退屈な世の中に戻ることが出来たのではないのか。
なぜまた戦闘に参加しなければならないのか。
高橋は背後にあるクローゼットに目を向けた。クローゼットの奥の収納ボックスのさらに奥に、佐藤との戦闘に使用した折りたたみナイフが着古したシャツにくるまれて仕舞われている。坂本はスティレットと呼んでいただろうか。佐藤の血を吸ったそのナイフをどうしても捨てられずに持ってきてしまった。それを再びひもとかなければならないのか。いや、今はゆかりとの生活がある。今更あんな意味のない世界に戻りたくはない。しかし、坂本は高橋にとってかけがえのない「親友」なのだ。坂本は恐らく何かしらの悩みを抱えている。それを放っておいてよいのか? こんな中途半端な状態で終わらしてよいものか。
「あー気持ちよかった」
やがて風呂から上がったゆかりが上気した顔でリビングに入ってきた。彼女はタオルを頭に巻き、いくつかの化粧品を抱えている。
「圭介も早く入っちゃいなよ」
「ああ」
高橋は腰を上げ、風呂へと歩いていった。結局この日は結論を出すことが出来なかった。
翌日、高橋はサイト接続用のノートパソコンをカバンに忍ばせて会社に向かった。ゆかりには「今日は遅くなる」と伝えてある。今日は外で接続するつもりだった。
会社に行き、若林とともに仕事を進めた。若林は半年前まで佐藤がいた席に腰を下ろしている。それを見る度に、あの戦闘はなんだったのかと思ってしまった。あれが最後のはずだった。葛西の仇討ちから始まった無益な殺し合いは、葛西の仇である佐藤を殺して決着がついたはずだ。それなのになぜまだ坂本はあのサイトに居座り続け、そして自分も戦闘の世界に戻らなければならないのか。
やはり佐藤は殺すべきではなかったのだろうか。
高橋は内心でそう思いながらも、表には出さずに仕事を続けた。
八時過ぎに若林を返し、高橋も九時に会社を出た。サイトに接続できる時間までまだ一時間ある。高橋は街中を適当に歩いて時間を潰した。ウイークデイの繁華街は閑散としていると思ったが、意外と酔客で賑わっている。まだ年度初めで歓迎会シーズンだからだろうか。高橋は繁華街を抜けて駅から少し外れた所にあるマクドナルドに足を向けた。
マクドナルドの中は外の賑わいとは異なり静かなものである。いくつか電車待ちの酔客が混じってはいるが、概ね騒いではない。高橋はホットコーヒーを注文し、カウンター横にある階段を登った。二階はさらに静かである。教科書を広げ勉強をしている高校生、カバーつきの文庫本片手にコーヒーを飲んでいるサラリーマン、一生懸命携帯電話を操作しているスーツ姿の女性。彼らはお互いの距離を空けて点在していた。
高橋は彼らを避けるようにフロアの隅にあるテーブルに腰をかけた。一応後ろは壁であり、誰かに画面を覗かれる心配はなさそうだ。高橋はカバンからノートパソコンを取り出した。パソコンを起動させ、マクドナルドの無線LANを使ってインターネットに接続した。時間まで適当にニュースサイトを巡り、午後一〇時を過ぎた所でサイトに接続した。
今日は誰からもメッセージは来ていない。高橋は少し考えてから坂本宛にメッセージを送った。
見学するしか道はないのか?
坂本の返信はすぐに来た。彼もまた、時間通りにサイトに接続していたようだった。坂本からの返信はただ一言「ああ」だけだった。
戦闘を見なければ解らない。つまりは坂本の戦闘には意味があり、「無理にでもやらなきゃいけないんだよ」というのは嘘だったということである。
やはり仇討ちも嘘だったのだろうか。では、あの戦闘はなんだったのだろうか。
考えても解らない。解るはずもない。その理由を知るためには、またあの世界に戻らなければならないのだ。
「…………」
高橋は随分と長い間考えた。正直な所人が死んでいる姿も誰かが殺している所も、もう見たくはない。しかし行かなければ何もかもが解らないし、なによりも坂本を放っておくわけにはいかない。これは、目を閉じてやり過ごしていればいいような問題ではないのだ。
考えに考え、迷いに迷った結果、高橋は接続時間終了五分前に、「解った」と送った。送った後、高橋は大きくため息をついた。それがフロア中に響いたらしく、まわりの人達が一斉に振り向いて、高橋は首を引っ込めた。
さすがに遅かったためか、その日坂本からの返事はこなかった。
パソコンを閉じたとき、ふと加奈子の顔を思い出した。彼女に言うべきか。マクドナルドを後にし、終電にギリギリ間に合って一息つきながらも、高橋はそのことをずっと考えていた。彼女と佐藤の言っていることが正しいとしたら、次に坂本の標的になるのは高橋である。高橋自身それは頭にあり、今回の見学も大きな危険が伴うということは重々承知である。恐らく加奈子は「止めた方が良い」と言うだろう。
だからこそ、彼女には黙っておこうと思った。確かに坂本の言っていることは嘘ばかりだが、それでもまだ、彼を見捨てたくはなかった。恐らく坂本は何か深い事情を抱えているのだ。だから戦闘を止めることが出来ないのだ。高橋はそう自分に言い聞かせてゆかりの待つアパートへ帰っていった。
翌日もまた、高橋はノートパソコンを持参して会社に行った。仕事が終わり、昨日と同じようにマクドナルドでサイトに接続した。
坂本のメッセージが届いていた。
ありがとう。詳細は掲示板で見てくれ。
お前は戦闘に参加する必要はない。時間前に戦場に来てもらえばいい。
その時になったら携帯に連絡するから、そうしたらフィールドに入ってくれ。その時には戦闘は終わっているはずだから、その点は心配しなくてもいい。
あと今回日程的にダメだったら、来月以降でも大丈夫だ。どうせ来月もやるだろうし。
いずれにせよ今月で大丈夫かどうかは連絡をくれ。
メッセージには当日の段取りまで書かれていた。つまりこれ以上打ち合わせはしないということだろう。次に顔を合わせるのは、この「携帯に連絡があった」時なのだろう。
坂本の姿が見えずにこみ上げてくる不安感を必死で拭い去った。大丈夫だ。相手はあの坂本なんだから。そう考えても言葉に説得力が持てず、もう考えるのをやめた。
高橋は「現在の戦況」をクリックして、対戦内容を確認した。
坂本祐司(9勝0敗0引き分け) - 吉田弘(4勝0敗0引き分け)
田中和也(1勝0敗0引き分け)
次に高橋は「対戦者連絡用掲示板」を開いた。坂本の戦闘であろう「2010年4月特別対戦」のスレッドでは、最終的に以下の要領で合意がなされていた。
2010年4月対戦要綱
○日時:2010年4月24日(土)24:00~
○場所:病院跡地(○○県××市・・・)
○主なルール:
・戦闘のフィールドは三階フロア全体、それ以外の階は立ち入り禁止とする。
・定刻前に坂本側は四階北側階段前に、渡辺は二階南側階段前に待機する。
・定刻となったらそれぞれ階段を使用して三階に移動、三階に到着したところから戦闘開始とする。
○制約事項:
・なし。
○吉田側へのペナルティ:
・吉田側のみ事前にフィールド内に罠を仕掛けることを禁止する。
四月二四日。高橋はスケジュール帳を確認した。一応今のところ予定はない。ゆかりをなんとか説得すれば何とかなりそうだ。
高橋は坂本に「今月で大丈夫だ」とメッセージを送った。
それ以降坂本からのリアクションはなかった。
これからどうなるのだろうか。高橋は考えてみたが、やはり答えは出なかった。ただ、先日の花見を心の底から楽しめるような日はもう来ないだろうことは、何となく解っていた。坂本が過ちに気付き、殺しの世界から足を洗って一件落着。そんな都合の良いことはほぼありえないだろうことは、高橋にも解っていた。
それでもできれば、と淡い期待を持ってしまう。だから加奈子には連絡を取らず、一人で解決するのだ。
それからしばらくは安穏とした日々を過ごした。加奈子からも坂本からも連絡はない。一応、ゆかりが風呂に入っている間が接続時間の時はサイトに接続してみるが、特に動きもなく、メッセージも届いていなかった。
穏やかな日々が続いたが、やはり高橋には心から平和な日々を楽しむことは出来なかった。さながらテスト前の学生のように、落ち着かず常に先に控える戦闘を考えてしまって、その度に憂鬱な気分になってしまった。
それでも一週間が経過すると大分精神的には落ち着いてきた。なるようにしかならないし、憂鬱になったところで状況は変わらないのだ。そう思えるようになって、ようやく前を向いて生活が出来るようになってきた。そうなると職場では若林が、家ではゆかりが、自分に対して妙に気を遣っていることに気付いた。恐らく陰鬱な気持ちが外に出ていたのだろう。高橋は申し訳ない気持ちになり、必要以上に元気のあるように周囲にアピールした。
そうして高橋のまわりでは表面上はいつもと変わらぬ日々が流れていった。
そんな時であった。加奈子からメールがあったのは。
至急会いたいです。二四日までに。
今回はゆかりが風呂に入っている時にメールが着信した。加奈子のメールには短くそう書かれていた。
寒気がした。なぜ加奈子が坂本の戦闘を見学することを知っているのだろうか。いや、メールには要件は書かれていない。もしかしたら別の要件かもしれない。しかし加奈子がこのタイミングで「会いたい」と言ってくる他の理由が、高橋には思いつかなかった。
どうするべきか。高橋は考えたが、特に断る理由は見つからない。彼女は別に高橋の妨害をしようとしているわけではない。むしろ高橋を心配し、力になると言ってくれているのだ。そんな彼女に内緒で話を進めようとしている高橋の方が悪いのだ。ゆかりが風呂から上がってくるまでさほど時間はない。高橋は急いで了承と空いている日程をメールで打ち込んで加奈子に送った。それから数回メールのやりとりがあり、なんとかゆかりが来る前に会う日程が決まった。二日後の木曜日、戦闘二日前の二二日である。場所はいつもの大学近くのカラオケ店である。
何を言われるのだろうか。危険だからと止められるのだろうか。単独行動を責められるのだろうか。高橋はそれからの二日間落ち着かない日々が続いた。
二日後の木曜日。高橋はいつものように細かい仕事を若林に託し、午後三時で仕事を上がった。最近若林に任せっきりになっている。高橋は申し訳ないと思いながらも一路大学近くのカラオケ店に向かった。
春の大学は祭りでもやっているかのように活気が溢れていた。前来たときは雨だったので落ち着いていたが、今日は春の陽気に包まれているためか、そこかしこで若さで満ち溢れている学生達が、恐らく意味はほとんどないようなことでバカみたいに騒いでいる。大学構内ではサークル勧誘などもやっているようである。
自分にもそんな時代があったものだ。しみじみと思いながらもスーツ姿の自分がすごく浮いていることに気付き、高橋は大学外周から外れた道を選んで歩いていった。
いつものカラオケ店に行くと、普段なら加奈子一人で立っている所に大学生の集団がいた。彼らは高橋の姿を確認すると、一斉に振り向いた。
その集団の中心に加奈子の姿があった。彼女はいつもとは異なり快活そうな笑顔を浮かべている。偽りの笑顔なのだろうが、そうしているととても可愛らしく見える。
どのような状況なのか、高橋は何となく解った。恐らく一人で待っている所で友達の集団に会ってしまったのだろう。そして男と待ち合わせをしているということでどのような輩なのか確認することにでもなったのだろう。彼らは高橋を遠慮なく見て、「スーツありえねー」や、「加奈子あんな大人と付き合ってるの?」と、加奈子を囃し立てていた。
「やあ」
高橋はどうしたら良いのか解らず、とりあえず無難に手を挙げて近づいていった。高橋が近づくと彼らの無遠慮な声はさすがに小さくなっていった。
「ごめんなさいね。高橋さん。友達がどうしても高橋さんのことを見たいって聞かなくて」
加奈子はやはりいつもとは違う声色で言った。顔は申し訳さそうに眉をひそめている。こうして表情豊かにすることも出来るんだよな。高橋がそう思っているうちにも「友達」達は「だっていとこのお兄さんなんて説明ぜってーあやしいもん」「そうそう。タカシくんにちゃんと報告しないとなんだから」と盛り上がっていた。どうやら高橋は加奈子の親戚ということになっているらしい。高橋は余計なことを言わないように曖昧な笑みを浮かべていた。
「だから、本当だって。高橋さんからも言ってよ。今日のカラオケ大会のために特訓するんだって」
なるほど。加奈子の描いたストーリーが解った。
「そうなんだ。いや、俺歌が下手でね。加奈子ちゃんに教えてもらおうかと思ってね」
「じゃあみんなで歌おうよ。そっちの方が楽しいよ」
「だめ、今日は高橋さんの特訓なんだか、あんた達はどこかに行ってよ」
「そうやって二人っきりになるのが怪しいんだ」
「だから、いとこなんだって」
加奈子は頬を膨らませながら反論していた。しばらくカラオケ店の前でそんな押し問答を繰り返し、ようやく「友達」の集団は去ってくれた。かなりの労力を用したのか、加奈子はとても深いため息をついた。
「……お疲れ。大変そうだったね」
「大学生の勢いにはついていけません」
加奈子はそう言って再び深いため息をついた。自分だって同じ大学生のくせに。高橋はそう思ったが、確かに加奈子は先ほどの「友達」とは同じ領域にはいないような気がした。ああやって無理にでも合わせているのだろう。それを日常的に行っているのがどれほど疲れることなのか、高橋には想像がつかなかった。
彼らとのやりとりで無駄な時間を使ってしまった。二人は急いでカラオケ店の中に入った。
「さて」
加奈子は腰をかけると同時にいつもの無表情に戻った。前置きもなく本題に入るつもりだろう。高橋は身構えて彼女の言葉を待った。
「明日の坂本さんの戦闘に、参加するつもりですか?」
やはり加奈子は見学のことを知っていた。高橋は背筋に冷や汗をかきながら、小さく頷いた。
「……どうしてそれを君が知ってるんだ?」
「坂本さんの戦闘のルールで、相手側へのペナルティがあったのですが、それが後日外されました。そうなる理由としては、坂本さん側に見えない共闘がついたとしか考えられません。そうなると、必然的に高橋さんかな、と」
「なるほど……」
高橋は小さくつぶやいた。彼女が特段鋭いのか、あのサイトではこの位の洞察は当たり前なのかは解らなかった。
高橋は観念してそれまでの経緯を全て加奈子に打ち明けた。花見で交わしたこと、そしてその後に戦闘の見学を打診されたこと。自分としてはまだ坂本を信じていて、戦闘の見学を行うこと。いまさら嘘をついても仕方がない。今あることを全て話した。
「……わかりました」
加奈子はほんの少し表情を固めて話を聞いていた。先ほどとは違い、その変化はとても少ない。加奈子はその後しばらく考えるそぶりをした後に、
「危険すぎます。止めた方がよいかと思います」
恐らく言われるだろうと思っていたことを言ってきた。加奈子は止めるだろう。そのくらいは容易に想像できた。なぜなら高橋自身、心の片隅では危険だということを思っているからである。
「……危険なのは十分承知しているよ。でも、そうしないと先に進めないからね。それに、俺は坂本が俺に危害を加えるとは思えないんだよね」
「でも……」
「いや、俺も解ってる。解ってるけど、行かなきゃいけないんだ。俺くらいは最後まで信じてあげないとさ。俺はあいつの友達だからさ」
「…………」
加奈子はうつむき、しばらく考えるように黙っていた。高橋はそれを静かに待つ。やがて加奈子は顔を上げると、カバンの中を探り始めた。
「わかりました。そもそも私に口出しをする権利もありませんし、いいと思います。その代わり……」
加奈子はカバンの中からあるものを取り出し、テーブルの下から高橋に手渡した。
「これは……」
それは高橋も見覚えがある。ポリカーボネイド製のグリップにズシリとくる重量。
「父が高橋さんのために用意したものです」
緒方が持っていた拳銃である。あの「銃口が鉛で塞がっている」と佐藤に没収された。
「鉛は父が取り除きました。父の書斎にありまして、あなたを守るときに使ってほしいという手紙と一緒に梱包されていました」
「…………」
佐藤は己が死んだ後のこともきちんと考えていたのだ。高橋が命を落とさないようにと。そう考えると高橋は辛くなった。そんな人を自分は殺してしまったのだ。
やはり……。
「……あの戦闘は、正しかったんですかね」
加奈子が高橋の言葉の続きをつぶやいた。顔を上げると、彼女も少し表情を固めていた。
「本当に、父を殺す必要はあったのでしょうか」
「……ああ。みんな前に進むためには必要だったんだよ」
高橋は努めて元気に振る舞い、拳銃を加奈子に突き返した。
「とりあえず、こんなのはいらないよ。物騒だし、隠し持っている自信がないよ」
「でも……」
「危なくなったら逃げるからさ。いいでしょ?」
高橋の言葉に再び考える仕草をして、
「わかりました。でも本当、危険な場合は真っ先に逃げてくださいね?」
加奈子は渋々拳銃を受け取った。
「解ったよ。心配ありがとう」
高橋はそう笑みを返した。
それからしばらくカムフラージュのために適当に歌を歌った。出るところをまた「友達」に見られたら、時間が短いと疑われてしまう。適当に、時間を潰すように交互に歌っていった。
一時間ほどそうして過ごし、カラオケ店を後にすることにした。
「あの……」
部屋から出る直前に、加奈子が無表情のまま口を開いた。
「坂本さんにとって、あの戦闘は本当に仇討ちだったのでしょうか?」
そう言われ、高橋は身を揺らせた。その疑問は高橋にもあった。聞きたいのはこっちの方である。しかし高橋はそんなことをおくびにも出さずに、
「ああ。仇討ちだって言っていたよ。奴の目は本気だった」
「それならいいのですが……」
「……違ったら、どうなの?」
高橋が遠慮がちにそう訊くと、彼女はまっすぐな目を高橋に向けた。
「もし違ったら、私は坂本さんを許しません」
「…………」
そして二人はカラオケ店を後にした。
外の駐車場に出ると、一人の青年がバツの悪そうな顔でこちらを見ていた。
「タカシ君」
加奈子が声色を変えて、驚いたようにそう言った。タカシ君。それが誰なのかすぐに解った。加奈子のボーイフレンドだろう。先ほど「友達」達が言っていた。恐らくあの後密告があったのだ。
「恵子から聞いてさ。どんな男かと思ってな」
タカシは機嫌の悪そうな口調でそう言った。表面上は気にしていない風に装いたいようだが、不快感を全面に表している。大学生らしい反応だった。
「だから、従兄弟のお兄ちゃんだって。なんでもないのに心配症なんだから」
「だって二人っきりってのはおかしいじゃん」
「歌がうまくなくて、あんまり他の人に聴かせたくないって言うことだからしかたないじゃん」
「でもさあ……」
加奈子とタカシはどこにでもいるカップルのように言い合いをしていた。加奈子の表情は豊かで、不機嫌になっているボーイフレンドをなんとかなだめるように一生懸命になっていた。先ほどまで拳銃を静かな顔で渡していた女性とはまったく思えない。
それでも、少し無理をしているように高橋には見えた。
「じゃあ、俺はこの辺で帰るよ。ごめんね、タカシ……君だっけ? 加奈子ちゃんを付き合わせてしまって」
高橋はそう言って二人を残して帰ろうとした。そんな高橋の態度から大人の余裕を感じたのか、タカシは「俺負けませんから」と捨て台詞を残して加奈子の肩を組んでその場から離れていった。
「…………」
タカシの純真で真っ直ぐで、平和な感じがうらやましく、高橋は小さくため息をついた。
それでもやはり、加奈子はあんな光り輝いた世界にいるべきなのだ。
彼女を束縛していた父親は、もういないのだから。
高橋は再びため息をついて歩き出した。家に帰るにはまだ少し早い。どこかで時間を潰さなくては。
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