第六章

第24話

 季節は移る。厳しかった冬を越えて、先週に入ってようやく暖かくなってきた。

 街の桜は五分咲きといった所である。まだ満開には至っていないが、それでも薄紅色の花びらが街に彩りを与えていた。

 高橋は咲き始めた桜並木を歩きながら、そっと目を細めた。とても綺麗で愛おしい風景である。「あれ」以来、こんな日常のちょっとしたことにも感動し、大切に心のアルバムにしまっておこうと思うようになった。そういう意味では貴重な体験をしたと思う。それが良いことなのかは別として。

 今週末にはゆかりと花見に行こう。なに、遠出する必要はない。近所にも桜が綺麗な公園がある。弁当を作ってもらって、酒も少し持っていって。そんなことをぼんやりと考えながら、高橋は会社を目指した。こんな朝は清々しい気分になるが、同時に仕事をしたくなくなってしまう。高橋の本心は、このまま会社を休んで酒でも飲みながら気の早い花見をしたいという所だった。

 しかし休むほど仕事に余裕があるわけではない。高橋は小さくため息をつきながら歩いていった。

「あ、高橋さん。おはようございます」

 会社に着くなり若林が元気な声を上げてきた。高橋は「おはよう」と挨拶を返し、彼の隣の席についた。

 四月を迎え、高橋の部署にも多少の配置変換があった。去年の暮れあたりから若林は高橋の下で仕事をしていたのだが、この四月で正式に高橋の部下になった。それに合わせて席も隣同士になったのである。

 初めて一緒に仕事をするようになったが、若林はとても優秀な社員であった。言ったことはもちろんのこと、言い忘れていたことや高橋自身気付いていなかった作業までそつなくこなしてくれる。おかげで今までにないくらい仕事がスムーズにいき、残業時間も今までに比べれば随分と少なくなった。

 今日の作業も、高橋が気にする必要もないくらいきっちりとまとめてある。特に指示することもなく、そのまま作業に入ってもらった。手のかからない、優秀な部下である。

 ふと高橋は佐藤のことを思い出した。彼と一緒に仕事をしていたときはこんな風にスムーズに仕事に移れることはほとんどなかった。その頃が少し懐かしく感じられた。

 佐藤のことに触れる人は、もう誰もいない。

 佐藤は失踪したことになった。戦闘で佐藤が命を落とした一〇月三一日から、佐藤は忽然とこの世から消えたことになったのだ。家に帰らなくなったことを不審に思った佐藤夫人が警察に捜索願を出したが、半年経った今も特に進展はなさそうだった。もっとも、佐藤夫人の様子を見る限り、あまり積極的に捜しているようには見えないが。今回のことで夫人に一度会ったが、佐藤夫妻の仲は、少なくとも熱くはなさそうだった。佐藤が普段何をしているのかなどを夫人は把握しておらず、会社の同僚であった佐々木や高橋に「どこにいると思います?」と訊く始末だった。

 ともかく、佐藤は葛西と同じように失踪扱いとなり、少しずつ周囲の人間も、彼がいない生活に慣れるようになっていったのである。

 半年か。高橋は仕事をしながら小さくため息をついた。半年も経てば佐藤がいないことが日常になってくる。今は意識的に皆話題から避けているが、そんなことをしているうちに佐藤のことなど記憶の片隅に追いやって、「そんな人もいたね」と懐かしがるようになるのだろう。

 数え切れないほどの人を殺した佐藤も、そうやって記憶から風化されるのだろう。「死ぬ」ということは、そういうものなのだ。

 高橋はそこまで考えて再びため息をついた。どうしても感傷的になってしまう。もう、全てが終わったというのに。

「高橋さん、最近ため息多いっすよ」

 若林が作業の手を止めそう訊いてきた。

「彼女さんと喧嘩でもしました?」

「ああ。まあそんな所かな」

「ダメじゃないっすか。ちゃんと謝った方がいいですよ?」

「なんで俺が悪いって決めつけるんだよ」

「いやー、高橋さん結構理屈っぽい所があるので、彼女さん泣かせたのかなって」

 若林の軽口に、高橋は「バカ」と背中を叩いた。最近こうして若林が軽口を叩いて高橋を和ませる場面が多い。恐らく若林も、高橋が佐藤の失踪についてで悩んでいると感じているのだろう。高橋もそれはありがたかった。

 ともかく、こうして忘れていかなければならないのだろう。高橋はそう気持ちに折り合いをつけて仕事に戻った。

 その日は定時に上がることにした。今日はゆかりも早く上がる日である。夜は二人でゆっくりすることに決めているのだ。

 ゆかりとは先月から同棲を始めた。正式にプロポーズをして、ゆかりの両親にも挨拶には行ったのだが、「婚約はしばらく同棲をしてからにしなさい」というゆかりの両親の提案により、ひとまず一緒に住むことになったのだ。高橋は思ってもいない提案に少々面を喰らったが、「一緒に住んでみないと解らない面もある。結婚してから許せない部分が見つかって別れるよりは、結婚前に見つけた方がよい」というゆかりの父親の合理的な説明に高橋は納得した。これも娘を想ってのことなのだろう。

 高橋とゆかりは仕事場が市外で離れているが、ゆかりの仕事場に近い所に住むことにした。高橋は多少通勤に苦労することになったが、まあ仕方ないと諦めていた。

 高橋が「これから帰る」とメールをすると、すぐに「私も終わったよ」とメールが帰ってきた。既に同棲を始めて一ヶ月経つが、「これから帰る」旨のメールはいまだに若干の気恥ずかしさを感じる。

 高橋がアパートに帰ると、既にゆかりが夕飯の準備に取りかかっているようだった。ドアを開けた瞬間に漂ってきたシチューの香りに、高橋は頬を緩ませた。

「あ、おかえりー」

 リビング兼ダイニングキッチンのドアを開けると、予想通りエプロン姿のゆかりが夕飯を作っていた。彼女は高橋の帰宅に気付き、笑みを浮かべてきた。

「うまそうな匂いだね。今日はシチュー?」

「当たり。圭介最近鼻が利くね」

 そんなちょっとしたやりとりにも充足感を感じながら、高橋は部屋着に着替えた。

 夕食を食べながら、県内ニュースで今週末辺りに桜が満開になるというニュースを聞き、朝思いついたことを思い出した。

「ねえ。週末に近場で花見しない? 弁当持って酒も少し持って行ってさ」

 高橋のそんな提案に、ゆかりは笑顔でうんうんと頷いた。

「いいね。あ、じゃあ坂本さん達も誘っちゃおうよ。あっちの方が桜綺麗な場所いっぱいあるじゃない」

 確かにこのアパートの近辺よりも、坂本達が住む辺りの方が桜のスポットは多い。しかし高橋は「坂本か」と一瞬躊躇してしまった。

「なに? また喧嘩でもしたの?」

「なんでもない。そうだな。坂本達も誘ってみよう。いやなに、あいつがいると酒がいくらあっても足りないなと思っただけ」

「確かに。坂本さん大酒呑みだからねー」

 ゆかりが笑って返してきたので、高橋はホッと息をついた。

 あれ以来、坂本とはほとんど連絡を取っていなかった。一度このゆかりとの新居に夫婦で招いた時に連絡を取り合ったのみである。

 理由は特にない。強いて言えば、半年前に佐藤を殺した時のことを思い出したくないというところか。どうしてもまだ佐藤の腹を刺した時の感触が忘れられない。坂本と接していると、その時のことを鮮明に思い出してしまわないかという心配があった。

 しかしいつまでもそんなことも言っていられない。高橋は夕飯を食べ終え、二人で後片付けを済ませた後に坂本に花見の誘いのメールを送った。

「楽しみだね。予定会うといいね」

「まあ、ダメでも二人で行こうよ」

「うん」

 しかしなかなかメールの返信は来なかった。

「来ないね」

「ま、年度始めだし、坂本さんも忙しいんじゃない。それよりお風呂入ってきてよ。早くお風呂済ませてゆっくりしようよ」

 ゆかりにそう促され、高橋は風呂に入ることにした。衣服を脱ぎ、歳を取るごとに少しずつだが着実に成長している腹周りにため息をつきながら、浴室へと足を向けた。少しずつ暖かくなったとはいえ、まだまだ裸では寒い。高橋は手早く身体を洗って湯船に身体を沈めた。少し熱いのがちょうど良い。高橋は大きく息をつきながら身体を弛緩させた。湯をすくって顔を洗うと、言葉に出来ないくらいの充足感に包まれた。

 こんなに幸せで良いのだろうか。そう思って大きく伸びをしたが、次の瞬間「自分だけ」という言葉が浮かび、動きが止まった。

 あれ以来、どうしても幸せを実感する度に「自分だけ幸せになって良いのだろうか?」と思ってしまう。

 あの戦闘で佐藤が死んだ。最後に彼の命を奪ったのは、葛西のナイフである。それを高橋は坂本に投げて渡した。あの瞬間、高橋は確かに佐藤を「殺そう」と強く思っていた。佐藤を殺したのは坂本だが、自分も同罪であると思っていた。ナイフを渡した者、そのナイフで殺した者。事象は異なるが、本質は同じである。違うのは、「自分は手を汚したくなかった」という気持ちだけ。その分自分の方が罪深いかもしれない。

 そんな自分が、こうやってのこのこと生き延びて、幸せを実感しても良いのだろうか。高橋はどうしようもないことだが、ついそう考えてしまった。

 その度に心の中で唱えるキーワードがあった。

 誰しも多かれ少なかれ、別の誰かの犠牲により幸せが成り立っているのだ。

 だから気にする必要はない。仕方のないことなのだ。

 高橋は息をついて気持ちを切り替えると、湯船から出て頭を洗い始めた。そうしているうちに次第に気持ちが元に戻ってゆく。発作みたいなものだ。今は仕方ない。これもいずれはなくなるだろう。時間が全て解決してくれるのだ。

 もう一度湯船に浸かり、再び伸びをした。幸せだ。大丈夫、今度は変な気にはならない。

 高橋はそのまましばらく湯船に浸かり、程よく喉が乾いた所で風呂から上がった。身体は十分暖まった。入る時とは異なりゆっくりとした動作で身体を拭いて脱衣場に戻った。服を来て髪にタオルを当てながらリビングへと戻った。リビングではゆかりがテレビを見ながらストレッチをしていた。

「あ、メール来てたよ」

 ゆかりにそう言われ、高橋はタオルを肩に掛け、テーブルに置いておいた携帯電話に手を伸ばした。

「なんか二回鳴ってたよ?」

 ゆかりの言葉に「誰だろう?」と首を捻りながら、携帯電話のメールボックスを開いた。ゆかりは相変わらずストレッチを行っている。すぐには動かないつもりのようだった。

 確かにメールは二通届いていた。一通は坂本から。そしてもう一通は。

「…………」

 高橋は顔が歪みそうになるのをなんとか堪えた。外見上は無表情のままで通せただろう。しかし急に黙り込んだ高橋に、ゆかりは「どうしたの?」と聞いてきた。

「いや、坂本だよ。あいつ同じメール二回送ってきやがった。『花見、ぜひ行こうぜ』だって」

「そ。週末、楽しみだね」

 ゆかりはそう言って勢いよく立ち上がり、風呂に入る支度を始めた。彼女が風呂へと消えたのを確認すると、高橋は再び携帯電話を開いた。確かに坂本のメールは「花見、ぜひ行こうぜ」という内容だった。しかし坂本から二通来たというのは嘘である。高橋はため息をついて送信者の名前を確認した。

 佐藤加奈子、と液晶には記されていた。

 加奈子とはあの戦闘以来一切連絡を取っていなかった。特に話すこともなかったし、戦闘を強く思い出すので意識的に避けていたのだ。彼女のこれからの生活も気にはなっていたが、連絡を取るのは自分が完全に立ち直ってからだろう。高橋はそう考えていたのだ。

 何の用事だろうか。高橋は風呂からシャワーの音がするのを確認して、恐る恐る内容を確認した。


 メッセージを送っても返事がないので、メールしました。

 お話ししたいことがあります。出来れば会いたいのですが、いかがでしょうか。


 彼女のメールは非常に簡素だった。「メッセージ」という単語がひどく懐かしく感じた。そう言えばあれ以来サイトには接続していなかった。

 高橋はしばらく考えた後に「いいですよ。いつにしましょうか」と返した。

 加奈子からの返信はすぐに届いた。「明日は早めに大学を上がれそうです。明日はいかがでしょうか」と書かれていた。

 高橋は仕事カバンから手帳を取り出して、今週の予定を確認した。一応問題なさそうである。高橋は「いいですよ」と返した。

 何の用事だろうか。高橋は考えたが、良い内容ではないことくらいは容易に想像できた。

 高橋は深いため息をついて冷蔵庫からビールを取り出して開けた。ゆかりが上がるまで我慢しようと思ったが、飲まなければゆかりとまともに接していられそうになかった。


 翌日、高橋は若林に仕事を託し、午後半休を取った。

「任せてください」

 自信たっぷりにそう言う彼を残して、高橋は一人昼過ぎの時刻に会社を後にした。

 外は小雨がパラついている。高橋は折りたたみ傘を差しながら、加奈子に仕事が終わった旨のメールを送った。

 駅に向かっている途中に加奈子からの返信が届いた。「カラオケボックスの前に待っています」とのことだった。

 今回は電車で行くことにした。車を取りに戻るのも骨だし、なによりもゆかりにバレたくなかった。大学方面行きの電車に揺られながら、高橋は加奈子の要件について考えた。

 加奈子は何かしらの用事があってメールを送ってきたのだろう。まさか彼女が「会いたかったから」などという理由で連絡を取ってくるはずがない。

 だとしたら、なんの用事なのだろうか。佐藤について、なにかあったのだろうか。まさか三人で殺したことが発覚したとか。高橋は大学が近づくにつれ不安が増していった。

 駅を降りると雨は本降りになってきた。小さな折りたたみ傘では身体を完全にガードすることが出来ず、高橋は肩を濡らしながら大学の外周を横切っていった。

 加奈子は前と同じようにカラオケ店の外で待っていた。彼女は相変わらずの無表情を相貌にたたえながら、静かに立ち尽くしていた。高橋の姿に気付くと小さく頭を下げてきた。

「急にすみません」

「いや、俺もメッセージ見ていなくてごめん。それより話ってなに?」

「ここでは話せませんので」

 加奈子はそう言ってカラオケ店の中を示した。高橋は同意し、中へと入った。

 若者向きのオシャレな部屋に案内され、腰を下ろして一息つくと、加奈子はカバンから一通の封筒を取り出してきた。事務用に使われる簡素な白封筒である。

「これは父が私に宛てた手紙です」

 加奈子はそう言って封筒を高橋に差し出した。表には佐藤の字で「加奈子へ」と書かれてあった。

「先日父の部屋を整理したら出てきました。恐らく半年前の戦闘の時に用意したものだと思います。あ、中を見てもいいですよ」

 高橋が受け取った手紙をどうすべきかと悩んでいるのを察知したのだろう。加奈子がそう水を向けてきた。

「では失礼して」

 高橋はテーブルに封筒を置き、一回手を合わせた後に手紙を取り出した。

「父は、私が最後の最後で裏切るという所まで、解っていたみたいなんですよね」

 加奈子はそう言ってかすかに表情を落とした。

 手紙は確かに佐藤の字であった。


 この手紙は必要に応じて高橋主任に見せてほしい。彼は思慮深いから、言葉だけでは信じないかもしれない。だから、はっきりと私の意志が私の直筆で記されたこの手紙を見せることで少しでも彼が信じる助けとなるのなら、ぜひ開示してほしい。

 私は高橋主任に、いくつかのことが伝えられずに戦闘を迎えるることになってしまった。それはとても残念なことで、彼のためにもぜひ伝えるべきだと思っている。

 だから、娘である加奈子にその命を託したいと思う。面倒かもしれないが、出来ればお願いしたい。父の、最後の願いだ。

 これから記すのは、私と葛西君の最後の戦闘の時のことだ。

 最後の戦闘が決まってルール決めを行っている時、葛西君から「直接会って話がしたい」とコンタクトがあった。

 戦闘前に対戦者と接触を持つことは、危険を伴うためサイトでは推奨されていない。しかし私は葛西君のことは以前から気にかけていたこともあり、承諾することにした。

 葛西君は私に二つほどお願いがあると切り出してきた。

 一つは五分間の非戦闘時間の設定だ。開戦後五分間を、お互い危害を加えない非戦闘時間として取り扱うことだった。

 長年このサイトで活動しているが、そのような申し出は初めてだった。理由を訊いた所、「戦場じゃないと友達と正面から向き合えないから」と、葛西君はとても悲しそうな顔でそう言っていた。

 そしてもう一つ。これは加奈子には言っていなかったが。葛西君から頼まれたことがあった。

 私の見えない共闘には手を出さないでください。

 明らかに私に不利な依頼だったが、「ハンデですよ。このくらいでちょうど良いはずです」そう言う葛西君に、私は承諾した。

 そしてそのまま戦闘当日を迎えた。あの日私は加奈子をフィールドから出した後、ルール通り五分間その場で待機した。恐らくその間に坂本君と何か話をしたのだろう。

 葛西君は五分経過する前にこちら側に走ってきたのだ。彼は背中を負傷していて、ひどく怯えていた。

 私は何があったのかと訊いたが、彼は「僕と坂本との間の問題だから」と、その理由を話そうとはしなかった。

 その代わり、一つだけ依頼されたことがあった。

 もし坂本という男が何年か後に僕の仇打ちに来た時には、アイツを殺してやってください。

 なぜかと聞いたが、葛西君は答えることは無かった。

 葛西君の背中の傷は、その時点ではまだ致命傷というほどではなかった。しかしどちらかが死ななければ試合は終わらない。そのため、私は葛西君の首に手をかけた。だから葛西君を殺したのは私だが、葛西君を傷つけたのは私ではない。

 では誰が葛西君の背中に傷を負わせたのか? 状況からして一人しかいない。坂本君だ。戦闘中、フィールドには私と葛西君と、彼の見えない共闘である坂本君しか存在しない。葛西君の背中を刺せるのは、彼しか考えられない。

 私はしばらくフィールド内を捜したが、坂本君の姿はどこにもなかった。その時既に彼は戦場から離脱していたのだ。

 その日は仕方なく終戦の手続きをして終わることにした。

 それからしばらく葛西君に言われたことが頭から離れなかった。しかし坂本君はその戦闘を最後にサイトには顔を見せなくなり、私は次第に彼の事を忘れていった。

 それが先日から再び活動を再開して、私も数年ぶりにそのことを思い出した。

 あの時葛西君の身に何があったのか、とね。

 私はずっとそのことを考えていたのだが、一応自分なりに答えが出たのだ。

 加奈子も知っているとおり、あのサイトで戦闘を積極的に行う人達には、大まかに三種類の人間がいる。

 死ぬかもしれないという状況を好む者。

 殺すという行為を好む者。

 人間を壊す行為を好む者。

 葛西君は一番目、私は二番目、そして坂本君は三番目の人種なのだ。彼の戦闘の状況を運営委員に訊いて、解ったのだ。彼の戦闘では遺体の損傷が激しいものが多い。一応高橋主任と一緒の時は自重しているようだが、前回の戦闘では四肢が全て切断されていたそうだ。

 葛西君は坂本君をこちら側に引き込んだことを後悔していたようだ。恐らくそんな彼を元のまっとうな道に戻そうとしたのだろう。

 しかしそれだけでは一つ説明がつかないことがある。坂本君を殺すように依頼したことだ。あの時葛西君はこう言った。「もし坂本という男が何年か後に僕の仇打ちに来た時には、アイツを殺してやってください」彼はとても友達想いの青年だ。例え自分が殺されそうになったとして、相手を殺してほしいと頼むだろうか。多分彼はそんな理由では私に殺してほしいと頼まないだろう。

 ここからは完全に私の想像で恐縮なのだが。

 恐らく葛西君は、坂本君の心の闇に気付いたのではないかと思う。見知らぬ人間を壊すことに飽きたときに、一番大切な人を壊したいと思うようになる。葛西君を壊してもまだ満たされなかった時、坂本君が次に誰を狙うか。

 もう一人の親友である高橋主任ではないかなと思う。

 そう考えると一つ納得のゆくことがあるんだ。高橋主任の入会だ。恐らく高橋主任をいずれ殺すために、このサイトに誘ったのではないかな。

 まあ、全ては私の想像の域を出ない話だがね。

 ともかく、私が死んだ後は高橋主任の力になってほしい。彼には仕事で大きな恩がある。愚鈍なフリをする私に、嫌な顔せずに接してくれた。

 私は彼の力になりたいのだ。

 加奈子。殺しだけの人生にしてしまってすまなかったな。

 これからは好きなように生きてほしい。


「……この手紙に書かれていることのほとんどが父の想像ですが」

 加奈子は高橋が読み終えた頃合いを見て、そっと口を開いた。

「それでも伝えないよりはマシかと思いました」

「…………」

 高橋は手紙を加奈子に返し、小さく唸った。この手紙の内容をどう受け止めたら良いのか解らなかった。坂本が人を壊すことを好む? バカな。あいつはそんな男じゃない。あいつは……。

 そこまで考えて、高橋は「ぐちゃぐちゃ」という言葉を思い出した。渡辺との戦闘での出来事だ。佐藤が運営に確認したところ、遺体の損傷が激しかったらしい。あれを坂本が行ったとすれば。

 高橋は己の中に湧き出る疑念を振り払うように頭を強く振った。

「それで、俺はどうすればいいんだ?」

 その問いに、加奈子は首を横に振った。

「ひとまず父の意向通り、この内容を伝えておこうと思いまして」

「……そうか」

 高橋はそう言いながら大きくため息をついた。どこに気持ちを持っていけば良いのか解らなかった。「俺の友達を悪く言うなよ」と言いたい所だが、これを書いた佐藤はもうこの世にはいない。加奈子はただ父の意向に従って手紙を開示しただけである。

 それに、心当たりがないわけではなかった。目、だ。佐藤との戦闘が終わった後の坂本の目。あれは高橋が見たことのない色をしていた。あの目は葛西の仇討ちだけではなかった気がした。

「……じゃあなんで佐藤さんとの戦闘にあんなに執着したんだ?」

「解りませんが、父を殺したとなると特別対戦の申し込みが殺到しますし、殺し合いを存分にしたいのでしたら、まず父と戦うというのはあると思いますよ。現に、あれから坂本さんは毎月のように特別対戦をしていますし」

「……え?」

 知らなかった。高橋が声を上げると、加奈子は「そういえばサイトを見ていないんでしたね」と洩らした。

「坂本さんは今サイト内では一番人気です。なんといっても今まで最強だった父を倒したのですからね。坂本さんは毎月欠かさず特別対戦をして、今のところ全て勝っていますよ」

「なんで……」

 高橋のつぶやきに、加奈子はそっと首を振った。

「私には解りません。坂本さんの事はほとんど知りませんので」

 加奈子の言葉が高橋の心に突き刺さった。友達のあなたが訊くことなのかと暗に言っているように感じた。もちろん彼女に悪気はないのだろうが。

 坂本も同じようにサイトから足を洗ったと思い込んでいた。葛西の仇討ちは完了したのだ。もう己の手を血で染める必要もないのだ。

 だけど坂本は今も殺し合いを続けている。その理由はどこにあるのだろう。やはり佐藤の手紙の内容が正しいのだろうか。

「ともかく」

 高橋が思い悩んでいると、加奈子がそれを遮るように口を開いた。

「私は伝えるべきことは全て伝えました。その上で、父の遺言通りあなたを守りたいと思います。何かあったら連絡をください。私は全力であなたを守りますので」

 加奈子は相変わらずの無表情でそう言うと、受付の時に渡されたリモコンなどが入っているカゴを持って立ち上がった。もう話は終わりということだろう。

「……佐藤さんがいなくなって、生活はどうだい?」

 高橋がそう訊ねると、加奈子の動きが止まった。

「母は何も変わりません。元々ウチの両親の関係は冷えていたようですし。最初は捜索願いを出したりとしていましたが、今は特に何も」

「君は?」

「私、ですか?」

 加奈子は首を傾げて訊き直してきた。

「ああ。もう人殺しをしなくてよくなって、青春を謳歌できているかなと思って」

「……そんなに急に変われません。むしろ今は何をすれば良いのか、解りません。今までの人生の全てを注ぎ込んできたものが急になくなったのですから」

 加奈子はそう言って少し悲しそうな顔をした。高橋はようやく解るようになってきた。彼女は表情がないわけではない。ただ、変化が非常に小さいため、一見すると解らないだけなのだ。

「まあ、ゆっくり探したらいいよ」

「この問題が解決したら考えます」

 加奈子はいつもの無表情に戻ってそう言った。

 確かに大きな問題である。高橋はそのことを思い出して大きくため息をついた。


 その日の夜、高橋は半年振りにサイトに接続した。今日はゆかりが会社の歓迎会で帰りが遅くなる日である。高橋は一人なので気にすることなく昔のノートパソコンを引っ張り出した。

 最近の戦況を見ていると、確かにこの半年間、坂本は欠かさず戦闘を行っている。佐藤を殺したときには四勝であったが、今は九勝である。そして今月も特別対戦を行う予定になっている。

「…………」

 高橋はため息をついて考えた。あの坂本が俺を殺そうとしている? にわかに信じがたいが、確かに佐藤の手紙にははっきりとそう書かれていた。

 そう言えば。高橋は佐藤との戦闘前日のことを思い出した。あの日高橋が夜遅くまで会社に残っていると、佐藤が姿を現したのだ。そして坂本について何か言おうとしていた。あの時はこのことを言おうとしていたのか。

 高橋は再びため息をついた。こんなことならあの時きちんと聞いておくべきだった。そうすれば、少なくとも今解らないことをクリアにすることが出来たのに。

 高橋はクローゼットの奥に仕舞ってある高橋の私物を詰めた収納ボックスから、葛西の手紙を取り出した。

 葛西は佐藤との戦闘の時、五分間の非戦闘時間を設けた。葛西はその時間に坂本に何かを伝えたのだ。そしてその結果、葛西は坂本に刺された。

 葛西、お前は何を坂本に伝えたんだ? 高橋は葛西の手紙を読みながら、そう心の中でつぶやいた。葛西の手紙は既に何回読んだのか解らない。高橋に宛てた手紙は、何度読んでも穏やかな彼しか表れていない。なあ葛西。何を一人で抱え込んでいたんだよ。

 高橋はしばらくそうして手紙を見つめていたが、一つあることに気がついた。

「ん?」

 高橋への手紙は二枚ある。本来一枚で終わるような短い文章だが、文章の間隔を多めに取って二枚目に渡っている。二枚目には「だから、坂本をよろしく頼む。」という一文と、日付署名が書かれているだけの、余白の多い紙である。その二枚目にうっすらと模様のようなものが浮かんでいることに気付いた。よく見てみるとそれは文字である。恐らく一枚目を書いているときに筆圧で二枚目に写ったのだろう。しかしそれにしては一枚目とは違うところに写っている。

 よく目を凝らしてみると、見慣れない文章が見えた。なんだ? 高橋は立ち上がり、筆記用具入れから鉛筆を取り出した。裏に写っているのは別の手紙だ。高橋は高鳴る鼓動を抑えながら、手紙を鉛筆で丁寧に擦って文字を浮かび上がらせた。

 そこに書かれていたものは、高橋が始めて読む文章だった。高橋宛ての手紙にもない、坂本宛ての手紙にもなかった文章である。


 この手紙を読んでいるということは、僕がいなくなっているということだろう。

 非常に残念だが、それはもう仕方ないと思っている。僕は元の穏やかな生活に戻れるチャンスを自ら潰して、あの世界に戻ってしまったのだから、自業自得だと思っている。

 自分のことはいいんだ。でも君のことが気がかりでならない。

 僕は君をこの世界に巻き込んでしまってとても後悔している。君にこの悦びを知らせてしまったこともね。

 僕はずっと考えていたんだ。君の心の中にある闇がどんなものなのかって。君は僕に内緒で毎月のように参加していたよね? いや、それ自体を否定するつもりはないんだ。僕がそれを否定する資格はないからね。

 でも、そんな君から、僕は一つの結論しか思いつかなかった。とても辛いことだけどね。

 僕の結論は最後の対戦の時に伝えていると思う。それを心に刻んで、出来ればあんな世界からは足を洗ってほしい。

 それが僕の最後の願いだよ。


「……なんだ?」

 高橋は文面を読み終わり、思わず声が漏れてしまった。これはどういうことだ? 高橋はもう一度ゆっくりと読んでみた。

 文中の「君」は文面からして坂本のことだろう。文面ではかなりぼかしているが、戦闘のことを記しているのだろう。

 これはどういうことなのだろうか。高橋はもう一度文面を読みながら、この写り込んだ文章の意味する所を予想した。

 恐らく坂本の手紙は三枚あったのだ。あの佐藤の事が書かれた紙の他に、この己の手紙に複写されている文面が三枚目としてあるのだ。

 しかし坂本はこの文章の書かれた手紙を隠した。それはつまり……。

「ただいまー」

 急にそんな声が聞こえ、高橋は慌ててパソコンを隠した。ゆかりが帰ってきた。

 ちょうど再インストールを終えたあたりでゆかりが帰ってきた。

「ちょっと飲み過ぎちゃったー」

 ゆかりは頬を赤く染めた顔で近づいてきた。高橋は素知らぬ顔でそれを迎えた。

「おかえり」

「ただいまー……って、あんたなんて顔をしてるの?」

 ゆかりにそう言われ、高橋は「何?」と己の頬に手を添えた。自分がどんな表情をしているのか、高橋にも解らなかった。

「なんかヒトを三人くらい殺したような顔してるよ? 怖い」

「……なにバカなこと言ってるんだよ」

 高橋は動揺を見せないように注意しながら笑い飛ばした。

「お前が遅いからちょっと心配していただけだよ」

「心配してくれたの? ありがとー」

 ゆかりはそう言って高橋に抱きついてきた。完全に酔っ払っている。

「ほら、早く風呂入りなよ。明日も仕事なんだから」

 高橋はゆかりの身体を引き離そうとするが、きつく抱きしめられているのでなかなか離れない。

「ゆかり?」

「ねえ。どこにも行っちゃダメだからね」

 彼女は抱きつきながら、小さな声でつぶやいてきた。その声色がとても切実そうで、高橋はゆかりに見えないところでそっと顔を歪めた。

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