第23話

 午前〇時。戦闘は音もなく始まった。

 高橋の位置からは様子は解らないが、恐らく既に坂本も佐藤もそれぞれの入り口からフィールドの中に入ったのだろう。

 高橋は身体を屈めながら、駆け足で搬入路に近づいた。まだ加奈子の姿は見えない。どこにいるのだろうか。高橋は不安になったが、構わず入ることにした。シャッターの端に空いている腰ほどの高さの穴から、屈んで資材庫に侵入した。

 資材庫の中は思った以上に明るかった。全ての電灯が点いている。相変わらず資材庫の中は何もなかった。

 後ろから背中を叩かれた。高橋は大きく身を揺らして振り向くと、そこには加奈子がいた。彼女は相変わらずの無表情で高橋を見ていた。

 高橋は一気に安心した。よかった。ここまでは作戦通りだ。高橋は口を開きかけたが、彼女が人差し指を口に当てるジェスチャーをしたので慌てて口をつぐんだ。今は戦闘中である。気を緩んでいる暇はない。

 彼女はパラシュートコードを手にしていた。作戦では彼女はナイフで佐藤を刺すことになっていた。少し気になったが、高橋は口にすることなく彼女と行動を共にすることにした。

 二人はそのまま加工室へと続く扉へと向かった。スライド式の扉を少し開け、中をうかがった。

 ちょうど佐藤が加工室に入った所のようだ。少し離れた所で佐藤が辺りを警戒している様子が見えた。手には細身のナイフが握られている。佐藤がナイフを持っているのを見るのは初めてだ。

 鼓動がさらに高まった。心臓の音が佐藤に聞こえるのではないかと心配になるほど早鐘を売っている。高橋は小さく息を整えて、何とか鼓動を安定させることを努めた。

 加奈子は高橋の後ろから内部を見ている。「合図したら出てください」彼女が耳元で囁き、高橋は小さく頷いた。

 やがて佐藤は機械の間を縫って奥の方へと進んでいった。扉の隙間から佐藤の姿が見えなくなった所で加奈子に背中を軽く叩かれた。合図だ。高橋は音を立てないようにゆっくりと扉を開け、加工室に入ろうとしたとき、首に何か違和感を感じた。

 なんだ? 手で触れると細い紐が巻かれているようだった。

 パラシュートコードだ。慌てて後ろを振り返ろうとするが、次の瞬間紐がきつく首に食い込んだ。

 加奈子さんが裏切ったのか? 高橋は薄れゆく意識の中でふとそう考えた。

 高橋は今起こった出来事が把握できないままその場に崩れ落ちた。


 ガラス張りだった正面玄関も、遮光カーテンが中の光を完全に遮っていた。そのため正面入り口から入った坂本は、眩しくてしばらく目が開けられなかった。光に慣れなければならない戦闘は坂本は初めてだった。

 エントランスは静まりかえっている。坂本は腰に吊っていたナイフを逆手に持ち、辺りを警戒しながら前へ進んでいった。

 食堂の前を通るとき、坂本は扉を開けて持っていたカバンをそっと入り口付近に置いた。今回はナイフ戦闘になりそうなので、できるだけ身軽になりたかったのだ。今のところ武器は手に持っているシースナイフと、ポケットに忍ばせている折りたたみナイフがあれば十分だ。坂本は食堂の扉を閉め、そのまま加工室の方へと進んでいった。

 大きな観音開きの扉を開け、加工室へと入った。下見の時と基本的に変わるところはない。体育館ほどの広さのその空間には、様々な機械が複雑に配置され、向こう側は見えないようになっている。あまりの明るさに戦闘の調子がつかめないが、坂本は気を引き締めて一歩一歩警戒しながら進んだ。

 加奈子の作戦の通りなら、ここで佐藤から何らかのアクションがあるはずだ。彼は娘にナイフ戦闘を教えることになっている。それならば、不意打ちではなく対峙しての戦闘になるはずだ。坂本はそう考えて入り口付近で相手の出方を待った。

 あともう少しだ。坂本は己の右手首に手を添えながらそう心の中でつぶやいた。もう少し。もう少しなのだ。

 坂本は自分が高揚していることに気付き、自制した。落ち着け。発奮して勝てる相手ではない。

「おーい。坂本君」

 遠くの方で佐藤の声が聞こえてきた。想定通りだ。佐藤からのアプローチだ。坂本は警戒しながら「なんですか」と声を上げた。

「こうも明るくては背後を取る戦い方も興に乗りません。ここは喧嘩方式でやりませんか?」

 喧嘩方式。つまりは対面してそこから戦うということだろう。これも想定通りだ。

「いいですよ」

「ではそちらに行きますので、どこにいますか?」

「こちら側の入り口付近にいます」

 「わかりました」と佐藤の声が止んだ。近づいているのだろうか。坂本は念のためどこかから伏兵がやってこないかと壁を背にして全方向に意識を集中させた。

 しばらくして、前方から佐藤が歩いてきた。彼は手に坂本と同じくらいの痩身のシースナイフを持っている。

 そして佐藤の背後には見覚えのある女性がいた。加奈子である。彼女は以前会ったときと同じように無表情である。一瞬目が合ったが、表情を変えることはなかった。

「ご協力ありがとうございます。あ、後ろの彼女は気にしないでください。私の娘の加奈子です。今回は見学で、戦闘には参加しませんから」

 加奈子はその場で無表情のまま頭を下げた。初めて会うような顔をしている。

「では時間ももったいないことですし、早速始めましょう。お互い準備は出来ているようですし」

 佐藤は坂本の手元を指し示した。お互いナイフを持っている。戦闘の準備は出来ているということだ。

 高橋はちゃんと近くにいるだろうか。坂本はふとそんなことが頭をよぎった。佐藤と加奈子以外の人の気配が感じられない。どうも嫌な予感がした。

 坂本は軽く頭を振り、そんな不安を振り払った。今は戦闘に集中しなければならない。片手間で勝てる相手ではない。気を引き締めて構えを作った。

「いいですね」

 佐藤は小さく笑った後に鋭い顔に戻り、ナイフを構えた。見た目は初老の小さな男だが、坂本にはとてつもなく大きく見えた。やはり強い。昔空手にのめりこんでいた坂本は、対峙しただけで本能的に相手の強さを測ることが出来る。恐らく、まともに一対一で戦って勝てる相手ではない。

 葛西の作戦を使ってよかった。それでも自らの力のみで佐藤を屠るために、坂本はナイフを持つ手に力をこめた。


 坂本の読み通り、佐藤は果てしなく強かった。精一杯の力で坂本が攻撃を繰り出すが、その全てを佐藤は危なげなく避けた。それだけではない。時折背後にいる加奈子にこの様な場合にどうするのかと、解説をしていた。

 完全に舐められている。坂本は頭に血が昇りそうになるのを必死で抑えた。熱くなったら相手の思うツボだ。大丈夫だ。こうして相手が油断していればこちらも都合がよい。

 それにしても。坂本は一瞬だけ佐藤の背後で微動だにしない加奈子に目を向けた。彼女は一切動く気配がない。隙をうかがっているようにも見えないし、どうしたのだろうか。やろうと思えばいつでも出来るはずだ。もしかしたら高橋が配置についていなくて動けないのだろうか。ほんのわずかだがそんなことを考えて、坂本は隙を作ってしまった。

「甘いですね」

 佐藤は坂本が突いてきた腕にナイフを這わせた。腕の内側がざっくりと割れ、血が流れる。

「くっ……」

 坂本は腕を引き、左手で患部を押さえた。幸い傷は深くないようだ。

「今は致命傷を避けるために血管は避けましたが、本来ならば内側の血管を狙いなさい」

 佐藤は後ろの加奈子にそう言った。加奈子は小さく「はい」と応えた。

 いったいどうなっているのか。坂本が混乱していると、佐藤がふっと笑った。

「話が違う、と思っているのでしょうか」

「……何のことだ?」

 坂本は努めて冷静に答えた。動揺を顔に出さないだけの冷静さはまだ残っていた。

「先日加奈子が教えてくれましてね。あなた方から接触があった、と」

 坂本は目を見開き、加奈子を睨んだ。彼女は無表情のまま坂本を見返している。

 今の言葉が意味することは一つしかない。加奈子が裏切ったのだ。いや、元からこうするために近づいたのだろう。ともかく、彼女は「こちら側」の人間ではなかったのだ。

「……高橋は?」

「はは、そんなこと言わなくても解るでしょう」

 佐藤の乾いた笑い声に、坂本は我を失った。雄叫びを上げ、佐藤に飛びかかった。しかし、

「隙だらけですね」

 佐藤は軽くそれを避け、ガードが空いていた坂本の腹にナイフを突き刺した。

「うっ……」

 腹が熱い。坂本は苦痛に顔を歪めた。まずい。このままでは死んでしまう。坂本は次の攻撃が来る前に佐藤の身体を突き飛ばした。その衝撃でナイフが抜け、血が一気に吹き出した。

 畜生。坂本は佐藤に背中を見せて後方に走っていった。腹が痛くてうまく足が動かない。よろけるように坂本は先ほど来た入り口の方へと向かった。

 佐藤は追ってくる気配はない。余裕があるのだろう。畜生畜生。坂本は叫びそうになるのを耐えて舌打ちで我慢した。今は余計な体力を使うべきではない。

 扉を開け、エントランスに身体をねじ込む。坂本は失いそうな意識を何とか奮い立たせ、食堂のドアを開けた。

 食堂は人の気配がない。高橋がいるかもしれないという一縷の望みがあったが、それも見事に打ち砕かれた。

 高橋はもう死んだのだろうか。畜生。坂本は涙が出てきた。痛くて落ち着いて考えられない。どうすればよいのだろうか。

 坂本はひとまず入り口付近に置いていたカバンを手に取り、カウンターの中へと隠れた。確実に明かりをつけたことが仇になっている。坂本がここまで進んだ道に血痕が残っている。この場所もすぐに佐藤に見つかるだろう。

 やはり二人でやっていればよかったんだ。あんなわけの解らん女を加えるからこんなことになったんだ。坂本は再び舌打ちをして、床を力の限り叩いた。拳が痛んだが、逆に気付けになった。

「畜生……畜生……」

 坂本はうわごとのようにつぶやきながら腹を押さえていた手を離した。血は止まらないがやれる。こうなったら最後に一咬みしてやる。坂本は気力を振り絞ってカバンを探った。

 その時、外からノックする音がした。足元の換気用の窓。確かに音がした。坂本は耳を澄ませる。もう一度ノックがした。

 もしや。坂本は身体を引きずってその音のする窓に近づき、ロックを外した。

「ああ……」

 坂本は外にいた男の顔を見て、安堵の声を上げた。

 窓の外にいたのは高橋だった。彼は心配そうな顔で見上げていた。


 高橋は、自分は死んだものだと思い込んでいた。

 そのため少し感じる肌寒さも、硬い床の感触も、天国か地獄かは解らないが、いわゆる「あの世」での感覚なのだろうとぼんやりと考えていた。

 しかしすぐに現実に引き戻される。こんな風に考えられるということは、生きているのではないか。そう考えた瞬間、全ての感覚が戻ってきた。

 まず感じたのは頭の痛みだった。ズキズキと波打つように痛み、高橋は苦痛に顔を歪めながら身を起こした。

 そこは搬入路の外側だった。アスファルトの床に、高橋は身体を屈めるように眠っていた。

 慌てて起きようとしたら頭に激痛が走った。苦悶に顔を歪めながら頭を押さえる。と、首に何かが巻きつけられていることに気付いた。手に取ると、それはパラシュートコードだった。

「あ……」

 高橋はその言葉をきっかけに全てを思い出した。

 あの時、後ろから首をパラシュートコードで絞められた。そしてあの時後ろにいたのは。

「なんでだよ……」

 高橋は小さく呻いた。状況からして加奈子が裏切ったとしか思えなかった。いつから裏切るつもりだったのだろうか。彼女の言葉はどこまでが真実だったのだろうか。

 あのとき交わした言葉も、嘘だったのだろうか。

 高橋は苦しそうに唇を噛んだが、次第に冷静になってきて、それどころではないことに気付いた。今は戦闘中である。加奈子は間違いなく佐藤側についている。作戦では坂本と佐藤が戦闘中に加奈子が後ろから刺すことになっている。その加奈子が動かなかったら。

 高橋は体中の毛が逆立った。坂本が危ない。しかしどうすればよい?

 耳を澄ますが、工場の中からは何も物音は聴こえてこない。既に戦闘は終わってしまったのだろうか。腕時計に目を向ける。現在は〇時二〇分だ。気を失っていた時間は短かったようだが、非常に微妙な時間である。

 どうすればよい? 搬入路から入って坂本を探すか。いや、そんな方法では佐藤に見つかって殺されるだろう。どうすれば……。

 高橋は坂本と交わした取り決めを思い出した。作戦が失敗して俺達が分断してしまったときの集合場所。もしかしたら坂本は食堂に行っているのかもしれない。高橋は立ち上がり、工場の外周を走っていった。無理な体勢で寝かされていたせいだろうか。身体の節々が痛む。高橋は顔を歪めながら食堂を目指した。

 食堂の外側辺りの場所に着いた。高橋の腰ぐらいの高さに細長い窓が並んでいる。カーテンが内側からかかっているため、中を確認することは出来ない。坂本は生きているのだろうか。もう死んでいて、この中に待ち受けているのは佐藤なのではないか。高橋は様々なことが一瞬で頭に浮かんだが、その全てを振り払った。そっと窓に手をかけてみる。しかし内側から鍵がかかっている。開くことは出来ない。試しに他の窓にも手を掛けるが、そのどれも開いていなかった。

 やはり坂本は死んでいるのか。それとも他の場所で戦闘中なのだろうか。高橋はその場から離れて正面玄関から入った方が良いのか思案に暮れているとき、かすかだが中から物音がした。

 誰かいる。高橋は耳を窓に付け、中の音に集中した。すると確かにすぐ近く、恐らくカウンターの中に誰かが何かをしている音が聞こえた。

 坂本だ。高橋は窓をノックしようと手を挙げたが、寸前である疑念が頭によぎった。

 もしも坂本もグルだったら。この集合場所自体佐藤の罠だったら。普段なら考えないようなそんな疑念が、加奈子の裏切りによって湧き上がってきた。最初から俺を殺すために仕組まれたとしたら。

 いや、そんなことはない。それならばさっき加奈子に殺されていただろう。いや、それも俺を苦しめるためのものだったら。

 止めどもなく湧き上がる疑念に、高橋は己の頭を殴って止めた。今はそんなことを考えている暇はない。

 高橋は大きく息を吐き、意を決して窓を強めにノックした。しかし中からの反応はない。もう一度ノックすると、鍵を開けるような音がした。

 もしも中にいるのが佐藤だったら。高橋は不安を振り切って窓を開けた。

「ああ……」

 中にいたのは坂本だった。彼はこちらを見て安心したような顔をしていた。

 高橋もホッと息をついたが、すぐに彼が重傷を負っていることに気付いた。

「大丈夫か」

 高橋は細い窓に身体をねじ込んで室内に入っていった。坂本は腹を怪我していた。苦しそうに押さえる腹部からは血が溢れ出ていた。

 高橋にはその傷がどれほど深いのかは解らない。だが、決して大丈夫とも言えない状況だということはすぐに解った。

「畜生……加奈子が裏切りやがった」

「ああ……坂本ごめん。俺の判断ミスだ」

 加奈子を信用しすぎた。元々彼女は佐藤側の人間だったのだ。楽観的に彼女を信じすぎてしまった。

「いいって……それよりまだ終わってない。いずれあいつらが来るだろうけど、一咬みくらいはしたい……」

 坂本は顔を歪めながら、言葉を絞り出すように言った。かすれてなんとかギリギリ聞き取れるくらいの声である。

 一咬み。高橋は泣きそうになった。つまりはもう坂本は生き残ることを諦めたのだ。どうせ死ぬのなら、最後に傷痕を残したい。そう思っているのだろう。

「……もう止めよう」

 高橋は小さくつぶやいた。見た限り坂本の怪我は死ぬほどではない。今すぐ手当てをすれば、死ぬことはないだろう。

「そこの窓から逃げよう。そうすればまだ……」

「馬鹿野郎。今更やめられっかよ。逃げるんならお前一人で逃げろ。俺は戦う」

「歩美さんと由紀ちゃんはどうするんだよ」

「……俺は人生で二度も逃げられないんだよ。ほら、時間の無駄だ。逃げたいんなら早くどっか行けよ!」

 坂本は苦しそうに顔を歪めた。こんな時の坂本は何を言っても聞く耳を持たない。歩美達の名前を出しても無駄なら、どうやっても無駄だ。高橋は大きく息を吐き、

「……じゃあ俺も一緒にやる。そうすれば少しはお前が生き延びる確率も増えるだろうし」

「お前なあ……もういいや。時間がもったいない。やるぞ。とりあえず俺を立たせろ」

 高橋は言われた通り、坂本を立たせた。彼は辛そうにしていたが、何とか自分の足で立つことができた。

「何か作戦はあるのか?」

「ああ……子供だましだけどな」

 坂本はカバンの中から細長い物体を取り出した。下前方に引き金のようなものが取り付けてあり、上後方に弓が付いている。

「これは……」

「念のため持ってきたボウガンだ。一応、合法で入手できる最強の武器だ。これをお前に使ってもらう。あとはこれ……」

 坂本はもう一つ、カバンの中から暗視スコープを取り出した。

「なんでこれが必要なんだ? こんなに明るいのに」

「明かりを消すんだ」

「……それはルール違反じゃないか?」

「いや、ルールには『明かりを消してはならない』とは記されていない。大丈夫だ。それを使って……」

 坂本はこれから行う作戦を高橋に伝えた。

 うまくいくのだろうか。高橋は不安になりながらも、頷いた。

 やるしかないのだ。


「……さて加奈子。そろそろ行こうか。多少は態勢を整えているだろうし」

 加工室で呆然と立ち尽くしていた佐藤が、時計を見ながらそう言った。今は〇時三〇分。坂本が逃げてから一〇分ほど経った。もう一頑張りするための準備をする時間としては十分だろう。

 もし逃げていたら、とも思ったが、その点は心配ないと佐藤は踏んでいた。あのような男は一度は逃げても二度目は逃げない。それはプライドが許さないだろう。

「ところで、高橋主任は、きちんと死なない程度に加減はしたかね?」

「はい。確かに息があることを確認しました」

 加奈子のその言葉に、佐藤は満足そうに頷いた。出来れば高橋は殺したくないと思っていた。彼はこちら側にいてはいけない男だ。それに葛西と交わした約束は、坂本を殺すことだけである。高橋は約束に含まれてはいない。無駄な殺生は出来れば避けたい。

「それでは行くとするか」

 佐藤は持っていたナイフの握りを確かめて、エントランスの方に歩いていった。加奈子もそれに続く。

 坂本が潜伏している先はすぐに解った。床に彼の血液が軌跡のように残っている。血痕は一直線に食堂に続いていた。

 佐藤は食堂のドアの細長い窓から中をうかがった。中の明かりは消されているようである。

「ふむ……」

 佐藤はドアから離れてしばらく考えた。明らかに食堂に潜伏しているようだが、他の場所に隠れている可能性はないか。しかしあれほどの怪我である。そのような細工が行えるほどの余力があるとも思えなかった。坂本はこの食堂にいると考えて問題はないだろう。

 佐藤はそっとドアを開け、食堂の中に入っていった。

 食堂の中は真っ暗である。全ての電灯を切っているようだ。佐藤は感覚を研ぎ澄ませ中の気配を探った。

 少し離れた所で荒い呼吸音が聞こえた。確か奥の方に配膳用のカウンターがあった気がする。音はその辺りから聞こえている。

 佐藤は小さく笑いながら、ゆっくりとカウンターに近づいていった。


 来た、と高橋は心の中でつぶやいた。既に心臓は破裂しそうなくらい高鳴っている。暗視スコープ越しに見つめていたドアが、ゆっくりと開かれた。

 姿を現したのは、予想通り佐藤だった。彼は警戒しながらも確かな足取りで食堂の中へと入ってきた。

 高橋は長机に肘を固定し、中腰の姿勢でボウガンを構えた。照準の先は佐藤の横腹辺りである。

 佐藤が入ってきてから、高橋は呼吸を止めていた。そうすればカウンターにいる坂本の荒い呼吸が耳に入るだろう。

 坂本の作戦は単純なものだった。カウンターにいる坂本が注意を引き、横から高橋がボウガンで撃つ。単純だが、高橋がここにいるとは思っていないから、欺けるかもしれないとの予想だった。

 坂本の読み通り、佐藤はカウンターの方にしか注意が向いていないようであった。彼はゆっくりとカウンターへと近づいてゆく。

 落ち着け。高橋は言うことを聞かない心臓をボウガンで押さえつけ、動く佐藤にゆっくりと照準を合わせた。

 よし、大丈夫だ。佐藤は警戒しているようで動きは遅い。ボウガンを扱うのは初めてだが、問題はない。

 高橋はゆっくりと引き金を引く指に力を込めた。喰らえ。

 しかし次の瞬間右手に鋭い痛みが走り、苦痛で顔を歪めた。手を引き、左手で押さえながら何があったのか確認した。手の甲にナイフが突き刺さっている。何があった? そう思っているうちに佐藤が地面を蹴って高橋の元へ跳んできた。

「あ……」

 呆気に取られる高橋の腹部に、佐藤の拳がめり込む。高橋は小さく呻きながらその場に倒れた。

「残念ですね。私は心臓の音も聞こえるんですよ」

 佐藤はそう言う間にボウガンを拾い上げ、ライトでカウンターを照らしながらボウガンを構えた。

 そこには同じようにボウガンを構える坂本の姿があった。

「さて、そのオモチャを捨ててもらえませんか? 多分、君が撃つよりも先に私は撃つことが出来ますよ?」

「…………」

 二人はしばらく睨み合っていたが、やがて坂本が諦めたようにボウガンを捨てた。

「よし、いい子ですね。加奈子、電気を点けなさい」

 坂本はようやく入ってきた加奈子にそう伝えた。食堂の電灯スイッチは入り口横にある。

「ああ、ちゃんと仕掛けがないかを調べてからにしなさい」

 佐藤の言葉に小さく頷き、加奈子はスイッチの辺りをライトで照らした。

「父さん。言った通りです」

 電灯スイッチには仕掛けが施してあった。導線がむき出しになったコードが、テープで固定されてある。そのコードは券売機近くにあるコンセントにつながっている。不用意に触ると、感電するようになっていた。

「これで驚いている隙にやるつもりだったんですね。残念でしたね」

 佐藤はそう言って歪んだ笑みを作っていた。全ての策が尽きたと思っているのだろう。

 いや、まだだ。高橋はそっと屈み、足元に手を置いた。そこには三挺目のボウガンが置いてある。坂本が念のため、用意した予備のボウガンである。佐藤はまだ坂本の方を向いている。こちらには気付いていない。だま望みはある。高橋はボウガンに手を掛けた。

 しかしそれより早く佐藤は反応し、高橋に向けてボウガンの引き金を引いた。ボウガンは音もなく矢を射出し、高橋の右肩に突き刺さった。

「ぐっ!」

 高橋は身体に走った衝撃に、その場に倒れこんだ。そして次の瞬間食堂の明かりが点いた。加奈子が仕掛けを取ったらしい。

「これで全ての策が尽きた、ですかね?」

 そう言って佐藤はニヤリと笑った。


 高橋はどうすれば良いのか、見当もつかなかった。カウンターから引きずり出される坂本の姿を、ただジッと見ているしかできなかった。

「加奈子、卑怯だぞ!」

 坂本がそう叫んでいたが、高橋には薄い膜が張られたように、現実感がなくなっていた。ここで死ぬのだろうか。死んだらどうなるのだろう。呆然とそんなことを考えていた。右手首と右肩が焼けるように痛かった。

「卑怯、ですか。でも最初に卑怯な提案をしてきたのは君達ではないですか」

 佐藤は歪んだ笑みを浮かべた。やはり最初から全部嘘だったんだ。

「……どこから、なんですか?」

 ふと、高橋はそう口に出てしまった。佐藤は一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに笑みに戻し、口を開いた。

「高橋主任と加奈子が会ったその日の夜に話を聞きました。高橋主任から裏切るように頼まれた、と。そこで私が筋書きを考えたんですよ」

「……じゃあ、明日美さんの話は? あれも嘘なのか?」

 高橋の問いに、加奈子は小さく首を振った。そうか。それでも全てが嘘ではなくて良かった。つまりは父との絆を重視したということだ。

「さて、この辺で終わりにしましょうか。高橋主任。同僚のよしみで、今フィールドから出れば高橋主任は見逃してあげますよ?」

 佐藤にそう言われ、正直な所逃げ出したい欲望に駆られてしまった。死にたくはない。プライドを全部かなぐり捨てて、ここから逃げ出したい気持ちはあった。

 しかしなぜか高橋の足は、彼の心に反して一歩も動こうとしなかった。

 なぜだか高橋にも解らなかった。早く逃げなければ。頭の中でそういくら念じても、坂本をこの場に残して逃げるということを、高橋はどうしても出来なかった。

「高橋、逃げろよ……」

 坂本が力なくそう言うが、高橋は首を横に振った。

「そうですか。それは残念です」

 佐藤は小さく息を吐いて、まず坂本を倒し、馬乗りの形になった。ナイフを逆手に持ち、そのまま坂本を見下していた。

 何かないのか。高橋は頭をフル回転させた。今自分は腰に吊っている葛西のナイフと折りたたみナイフを持っている。しかし今飛びかかっても返り討ちに合うだけだ。なにか、ないか。

 と、佐藤の後ろにいた加奈子が一瞬高橋の方を見てた。加奈子は高橋と目が合うと、小さく頷いたような気がした。

「…………」

 高橋は小さな動作で腰のナイフに手を掛けた。ポケットの中に手を入れ、折りたたみナイフにも手をかける。折りたたみナイフの方は爪で引っ掛けるタイプなので片手では難しかったが、少し開き、ポケットの縁に少し開いたブレイドの先端を挟み、引き出せば開くようにした。

「……ではそろそろ苦しんでいる姿を見るのにも飽きましたので、この辺で終わりにしましょう」

 佐藤は十字を切り、逆手に持ったナイフを振りかぶった。坂本は既に諦めたように目を閉じている。

 その瞬間、加奈子が動いた。彼女はジャケットの裾に隠していたナイフを取り出し、佐藤の背中に突き立てた。

「なっ……」

 突然の出来事に佐藤がよろめいた。今だ。

「坂本!」

 高橋は腰に吊っていたナイフを抜き、坂本に投げた。坂本が受け取っている間にポケットから折りたたみナイフを引き抜き、佐藤の横腹に突き刺した。佐藤の態勢がさらに崩れる。

 そして雄叫びとともに坂本が佐藤の身体から逃れ、逆に佐藤に飛びついて彼の胸に受け取ったナイフを突き立てた。

 全てが一瞬の間に起こり、その瞬間に全てがひっくり返った。佐藤は目を見開き、己の胸に刺さったナイフを見つめている。

「なぜ……」

 佐藤は静かに見下ろす加奈子に向かって、呻くように言った。

「なぜだ……」

「こうでもしないと、あなたを騙せないと思いまして」

 加奈子は冷めた口調でそう言った。

「ははっ……さすがは我が娘だ」

 佐藤の胸から止めどなく血が溢れ出てくる。もう長くはないことは、高橋にも解った。

 何か言ってやりたかった。葛西の仇、明日美や加奈子の人生をねじ曲げたこと。罵って悔い改めさせたかったが、高橋は何も言えなかった。

 そっと加奈子がつぶやいた。

「お父さん。私は明日美さんが大好きでした」

 しかし佐藤は力なく瞳を閉じていた。その言葉を聞いたのかどうか解らないまま、静かに息を引き取ったのだ。

 佐藤の死は、なんともあっけなかった。


 空には星が、不気味なくらい綺麗に光り輝いていた。高橋は空を見上げながら、何度も何度もため息をついたが、心に重く残る虚しさはいつまで経っても消えることはなかった。

 戦闘は坂本の勝利という形で終了した。現在坂本は傷の手当てするために、運営が管理している傷の手当てができる施設に搬送された。高橋は知らなかったが、戦場の近くには必ずそのように応急処置ができる施設が用意されているらしい。そして闇の医者が無料で傷の手当てをしてくれるのだ。

 勝者の坂本が不在なため、戦闘経験が一番長い加奈子が戦闘終了の手続きをしている。高橋も手と肩を負傷したが、さほど傷は深くなくすぐに開放された。そしてやることがなくなり、搬入路近くで呆然と時間を潰しているのだった。

 ようやく葛西の仇である佐藤を討つことが出来た。これでようやく元の平和な生活に戻ることが出来る。加奈子もこれで殺人などという無意味な世界から抜け出すことが出来るだろう。これがベストとは言えないが、極めて理想的な結末に収束したと言っても良いだろう。

 しかし高橋の心にあるのは、底知れぬ虚しさ。結局こんなことをして、何になったのだろう。

 再び空を仰ぎ見てため息をつく。葛西、俺達のやったことは正しかったのだろうか。佐藤さんを殺す以外に道はなかったのだろうか。

 高橋は次に己の手を見た。包帯が巻かれている右手には、佐藤を刺したときの感触がまだ残っている。そして浴びた返り血の感触も。

 こんなことをして、何になるのだろうか。殺された仕返しに殺したとしても、憎しみの連鎖を絶つどころか逆に次に連鎖をつなげているのではないか。

「こんな所にいましたか」

 加奈子の静かな声が聞こえてきた。彼女は相変わらず感情を示さない顔で、高橋の元へと近づいてきた。

「手続きは全部終わりました。一応、これで帰っても大丈夫です」

「ああ。ありがとう。すまないね、君にやらせちゃって」

「いえ、私は無傷ですので」

 加奈子は高橋の隣に達と、同じように無言で空を見上げ始めた。

 高橋は気の利いた言葉が見つからなかった。彼女にとって父親を殺すことは、外から見れば最善のことなのだろうが、心情としてどう捉えているのか解らない。だから気軽に「よかったですね」とも言えない。かといってそれ以外のどんな言葉が今の彼女にとって最適なのかは、高橋には解らなかった。

 そんな風に悩み、言葉を探していると、加奈子の方から口を開いてきた。

「先ほどはすみませんでした。ああでもしないと勘の鋭い父を欺くことは出来ないと思いまして」

「……ああ。さっきのやつ?」

「ええ。恐らく作戦通りの行動では父に気付かれて先手を打たれたでしょう。前回の葛西さんの時みたいに。だからああやって、直前まで父の味方のフリをしなければなりませんでした。おかげで高橋さんも坂本さんも、怪我を負ってしまいました」

「まあ、仕方ないよ。死ぬよりもマシだし、結果オーライだよ。多分坂本も解ってるよ」

「それなら良いのですが」

 それから再び沈黙が流れた。しばらく彼女が時計を見て帰るような仕草をしてきた。ここで別れたらもう会うことはないのかもしれない。高橋はそう考えると自然と言葉が出てきた。

「これから、どうするの?」

「解りません。とりあえず母にバレないように気をつけます。それからのことは、まだ解りませんね。正直な所まだ父が死んだことに実感はありませんから」

「……本当にこれで良かったのかな」

 高橋のそんな弱気な言葉にも、加奈子は眉一つ動かさなかった。

「いいかどうかは解りませんが、もう私達は後戻りはできません。前を見て進むしかないのです。父は死にました。私は一生その事実を背負っていきますし、高橋さんも、出来れば父のことを忘れないでください。あんな人でしたが、いい所もあったんです」

「ああ……」

 やはり殺すべきではなかったのだろうか。高橋がそう考えていると、

「高橋さんがそんなに悩むことはありませんよ」

 加奈子はそう言ってフッと小さく笑顔を見せた。その笑顔はそれまで見た外面の笑みではない、本当の笑い顔のように思えた。それほど光り輝いて、美しい笑顔だった。

「…………」

 不思議と高橋の心は少しだけ晴れてきた。今まで虚しさしかなかったのが、彼女の笑顔を見て、少しは良かったのだと思えるようになってきた。

「ではこれで失礼しますね」

 加奈子は無表情の顔に戻り、小さく頭を下げて帰ろうとした。

「あ……また、会えるかな?」

 高橋は思わずそう口から出てしまった。何となく、短い時間だったが深く関わりを持った加奈子と、このまままったく接点のない人生を歩むことが嫌だった。

 彼女はしばらく考えた後に、

「機会があれば」

 そう言葉を残して去っていった。


 坂本が戻ってきたのは、それから二時間後のことだった。

 彼は高橋が思っている以上に頑健な肉体をしているようで、先ほどまで息も絶え絶えの状態だったのに、今は何事もなかったかのように走ってきた。

「お待たせ。すまんなあ。もうこんな時間になってしまって」

 坂本は時計を見ながらすまなそうに言った。今は既に午前三時を回っている。運営委員達は遺体処理などを済ませ、もう引き払っている。今は坂本と高橋しかいないのである。

「いいけど、怪我の具合はどうだ?」

 高橋がそう聞くと、坂本は「ほら」とシャツをめくってきた。腹部に分厚く包帯が巻かれている。見た目は痛々しいんだが、坂本は平気そうな顔をしている。

「まあ出血はひどかったけど、傷自体はそんなに深くなくてな。まあ、一ヶ月もすれば治るって」

「歩美さんにはどう説明するんだよ」

「まあなんとかごまかすよ。とりあえず明日の祝勝会はナシかな。お互いこんな状態だと。お前の方の傷は大丈夫なのか?」

「ああ。お前に比べればな」

「そうか。それならいいだ。まあお疲れさん。やっと葛西の仇が討てたな」

 坂本は息をついて高橋に握手を求めてきた。それまで坂本の怪我に目が行っていた高橋は、ここでようやく彼の顔を見た。

 何かが違うように高橋は感じた。なにか。高橋自身それが何なのかは解らないが、どこか違和感を感じた。

「ん? どうした?」

「いや……なんでもない」

 高橋がそう言って目を逸らすと、坂本は「変なの」とつぶやいた。

 そして二人で帰ることになった。今回は比較的怪我が浅い高橋が運転して帰ることになった。

 さすがに疲れたのか、助手席に座りしばらくしたら坂本は寝息を立てた。そんな坂本の寝顔を横目で見ながら、高橋はずっと先ほど感じた違和感について考えていた。

 あの時一瞬だけ、坂本が違う人のように見えたのだ。

 何が違ったのだろう。あの時の坂本をしばらく思い描いた。

 目、だ。高橋は思いついた。目が坂本ではなかった気がする。では何だったのか。

 その時、加奈子の言葉を思い出した。

 坂本の目の奥には深い闇があります。

 加奈子は確かにそんなことを言っていた。

「…………」

 高橋は再び坂本の顔を見た。彼は眠りながらも眉をひそめて苦しそうな表情をしている。

 この戦闘は果たして正しかったのだろうか。

 高橋はそう思いながらも、車を二人の住む街へと走らせていった。


 車に揺られながら、坂本は瞳を閉じて先ほどの情景を思い出していた。

 馬乗りになっている佐藤を跳ねのけ、態勢を崩した佐藤に飛び掛り、心臓にナイフを突き立てる。その一つ一つの動作が鮮明に坂本の脳裏に映し出された。

 ようやく佐藤を討つことが出来た。手にはまだその時の感触が残っている。

 それなのに。

 坂本は己の右手首にそっと触れて小さく眉をひそめた。

 まだなのだろうか。

 坂本は半分だけ目を開けて、横目で高橋を見た。彼は坂本が眠っていると思っているのだろう。浮かない顔で運転に集中していた。

 やはり、高橋なのだろうか。

 坂本はそう思って窓の方へと寝返りを打った。

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