第26話

 土曜の夜に出かけなければならない。そのうまい言い訳がなかなか見つからなかった。高橋は悩んだ挙句、「土曜の夜中に本番稼働を迎えるシステムの立会いをしなければならない」とゆかりに伝えた。

「ふうん。大変ね」

 ゆかりは信じているのか信じていないのか、曖昧な返事で話を聞いていた。

「ああ。大変だけど、仕事だからね。ごめんな」

「うん。それより無理しないでね。なんか最近疲れてるみたいだし」

「ああ……」

 ゆかりの心配そうな顔に、高橋は少し胸が痛んだ。仕方ないこととはいえ、ゆかりを騙しているのだ。早めに決着をつけないとな。高橋はそう心の中でつぶやいてアパートから出ていった。

 今は午後八時。戦場は高橋の家から車で三時間ほどかかる。ゆかりには既に「終電で帰れなさそうだから車で行く」と伝えてある。高橋は己の車に乗り込み、静かに発進させた。

 車はアパートの前の小路を抜け、大通りに出た。道路はさほど混んではいない。高橋は順調に車を走らせていった。

 またこの世界に戻らなければならないのか。既に幾度となく考えていることだが、やはりそのことが頭から抜けない。どうしても大きなため息が出てしまう。

 坂本は何を考えているのだろうか。あれがいい区切りだったはずだ。佐藤を殺して、葛西の仇討ちが出来た時点で、もう戦う意味がなくなったはずだ。それなのに、なぜまだこうして戦闘を続けているのだろうか。

 やはり佐藤さんの手紙に書いてあったことは本当なのだろうか。そうなると、やはりこれから自分が戦場に行くことは間違っているのだろうか。高橋は一瞬引き返したい衝動に駆られたが、何とか持ちこたえて車を前に進ませた。それでは何も解決にならないのだ。坂本は今悩んでいる。長い付き合いでそれは解る。彼は素直じゃないからそれを表に出さないが、悩んでいるのだ。そして高橋に何かをしてほしくてこうして呼び出しているのだ。でも、もし違ったら?

 高橋は思考が絡まり、どうすれば良いのか解らなくなっていった。それでも車は前に進む。戦場へと一歩一歩近づいていった。

 ふと葛西の顔が浮かんだ。彼は坂本を殺さなければならないという結論に達した。

 やはり、殺さなければならないのだろうか。

 思考が定まらず、高橋は一回車を止めた。既に繁華街を越え、閑散な通りに入っていた。辺りには街灯がほとんどなく、車の通りも少ない。道路の中央で急停車させた高橋は慌てててルームミラーで後ろを確認したが、幸い追走する車はいなかった。

 ひとまず側道に車を停車して深呼吸をした。落ち着け。今そんなに考えすぎても仕方がない。とにかく今は戦場に行かなければ話は進まないのだ。

 よし、と気合を一つ入れて再び車を発進させる。途中、高橋は自分が武器と呼べるものを何一つ持ってきていないことに気付いた。既に引き返せるような時間ではない。高橋は悩んだが、先に進むことにした。今回は見学なのだ。武器など必要ない。坂本が自分を裏切るということなど、ないはずなのだから。

 高橋の車は山を二つほど越えて、戦場となる病院跡地に着いた。比較的に規模の大きい総合病院のようだ。こうして考えると、車で行ける範囲にも多くの廃墟があるのだと実感させられる。そしてそんな廃墟で、見知らぬ人同士で殺し合いが行われているのだ。なんの意味もなく、である。

 高橋は渋面の表情を浮かべながら、病院跡地の敷地内へと入っていった。現在午後一一時半。すでに坂本達はフォールド入り口に待機しているだろう。

 高橋が敷地内に入ると、運営委員がさりげなく近寄ってきて、車を停めるように促してきた。眼鏡を掛けたスーツ姿の男である。少し線の細いが、隙がなさそうな男であった。

 高橋は言われる前に運転免許証を提示した。運営委員は免許証と高橋の顔をしばらく見比べて、

「高橋さんですね。お待ちしておりました」

 と、破顔して小さく頭を下げてきた。

 その運営委員に先導され、車を病院脇にある駐車場に駐めた。

「改めて、私は坂田と申します。高橋さんの事は坂本さんから聞いております。ひとまずどこでお待ちいただいても構いませんが、いかがいたしましょう?」

「どこで待っているのが適当なのでしょうか?」

「そうですね。できれば我々の目の届く範囲にいていただきたいので、本部にいるか、この車の中にいてほしいのですが」

 高橋は少し考えて本部で待つことにした。一人では色々と余計な事を考えてしまう。

 本部は病院裏口の付近に設営されていた。長テーブルが一つとその上にパソコンが二台、付近を照らすライトが一つ設置してある。本部にいるのは、簡易椅子に座りパソコンの操作をしている男と、テーブル越しにパソコンの男と話をしている男。どちらもスーツ姿である。後者の男は見覚えがあった。が、どこで見たのかは覚えていない。高橋が記憶を辿っていると、向こう側の方が気付いたようで、小さく会釈をしてきた。

「高橋さんですね。お久しぶりです……と言っても覚えていないかもしれませんね。栄田です」

 栄田。その名前を聞いてようやく思い出した。高橋の初戦の時に運営委員長として同じように本部にいた男である。高橋が気付いた顔をすると、笑みを浮かべて再び礼をしてきた。とても礼儀正しい男である。彼だけではない。運営委員は皆、礼儀正しく統制が取れている。軽率な行動をする者はいない。この「運営委員」という組織はどのようなものなのだろうか。高橋はふとそんな疑問が生まれた。それまではただ生き延びることで精一杯で思いつかなかったことだ。彼らはどんな組織で、何のために行っているのだろうか。恐らくそんなことが思いつくのも、自分が目の前の問題から逃げているからだろうと解っていたが、高橋は思考を止めることはなかった。少なくとも先ほどのように答えが出ないことを悶々と考えているよりは精神衛生上良さそうだ。

「とりあえず、この近くにいていただければ、好きなようにしていただいて構いませんので」

 栄田はそう言うとパソコンを操作する男との会話に戻った。どうやら周辺の警備の位置の調整を行っているようである。話を聞く限りこの建物の周辺だけではなく広域に見張りを配置しているようである。高橋がそんな風に聞き耳を立てていることに気付いたのか、栄田は曖昧に笑って指示をするのを止めてしまった。

「あ、すみません。どこか別の所に行っていましょうか?」

「いえいえ。もう確認作業は終わりましたので、別に構いませんよ」

 それから栄田は静かにその場で立っていた。パソコンを操作する男は相変わらず黙ってパソコンの画面を凝視している。特に問題がなければこのままの状態が続くのだろう。時計を確認すると、一一時四五分。あと一五分である。少しずつ緊張してきた。坂本が死ぬということはないのだろうか。大丈夫だろうか。

「あ、椅子でも用意しましょうか?」

 栄田にそう言われ、高橋は丁重に断った。座っているのもどうも落ち着かない。

「あ、そういえば」

 高橋は先ほど浮かんだ運営委員についてを思い出した。余計なことを考えそうだったので、気を紛らわしたい。

「この運営委員というのは、どんな組織なんですか?」

「どんな……」

 高橋は自分の質問がひどく漠然としていることに気付いた。栄田が困っているのが顔で解った。

「あ、すみません。ええと……まずこの運営委員にはどうやったらなれるんですか? ……ああ、なりたいとかそう言うわけではなく、純粋に好奇心で訊いているのですが」

 栄田は少し考える仕草をした後に口を開いた。

「まず、運営委員は当サイトの会員から選出されます。我々はサイトの書き込みや戦闘の内容等を常に監視しており、必要な人材などがあった場合に、いわゆる『スカウト』をいたします。ちなみに現在は優秀な人材が揃っておりますので、スカウトの予定はございません」

「では、どのような人材をスカウトするんですか?」

「それはその時によって異なりますね。例えばパソコンの操作に精通している人が足りない場合はそういった人を探しますし。……そうですねえ。第一条件としては、死体を見ても動じない人ですかね。我々の一番の仕事は、死体処理ですので」

 死体処理。その言葉を聞いて高橋は思い付いたことがあった。

「では、その死体処理は、どこにどんな風に行われるのですか?」

 つまり、葛西と佐藤は、どのような手順でどこに「処理」されたのか。もちろん墓標も何もないだろうし、骨も残らない処理の仕方かもしれない。しかし、「処理」された場所さえ解れば、そこに手を合わせることも出来るかもしれない。高橋はそんな期待があった。しかし、

「申し訳ありませんが、死体処理方法と場所についてはお伝えすることはできない規則になっております。組織存続のため、もうしわけありませんが」

「……そうですか」

 何となく予想はしていたので、高橋は食い下がることなく受け入れた。

「そろそろ開始ですね。少し失礼します」

 栄田は小さく礼をして、パソコンの男に小声で何かを伝え始めた。高橋には何を行っているのか聞こえない。

 確かに時計は〇時を指している。戦闘開始である。この瞬間から、病院の中では坂本が殺し合いを始めている。高橋は鼓動が激しくなっていった。

 まだ何も聴こえない。どうなっているのだろうか。坂本は大丈夫だろうか。

「お待たせしました」

 栄田は指示が終わったのか、高橋の元へと戻ってきた。

「訊きたいことは以上でしょうか?」

「……なんでこんなことをしているのですか?」

 高橋は栄田の目を見てそう訊いた。もはやそんな場合ではないのは解っている。しかし、訊かずにはいられなかった。なぜこんなサイトが存在するのか。こんなものがなければ、少なくとも高橋の周りの人は平和に暮らせたはずである。

「……それは私個人のことでしょうか? それともこの組織全体?」

「組織全体です」

「それは、サイトの冒頭に書かれておりますが。人を殺したいという衝動を内に秘めている人は、日本国民全体から見ればごく少数ですが、確実に存在します。彼らはその衝動をなんとか押さえつけて生活するか、解き放って罪のない善良な市民を傷つけるか、その二つしか選択肢がありませんでした。そんな人達を集めて、殺し合いをするのが我々の基本理念です。そうすれば少なくとも善良な一般市民が被害に合うことはありません。それに殺し合いをするだけではなく、同じ悩みを抱えた者同士で情報交換をするだけでも、よい捌け口になるみたいですよ。それだけでもこのサイトの存在意義がある私は思っております」

「ではもし、そんな衝動がない人が紛れ込んでしまったら?」

「それは非常に悲しいことですね。ただ、会員の人達はそのような悲劇が起こらないように、新規会員の選定には慎重にしていただいております。ですので、そのようなことはないと私は信じております」

「…………」

 高橋は何かを言い返そうと口を開きかけたその時、高橋の携帯電話がバイブした。高橋は心臓が飛び出しそうなくらい驚いて、慌ててポケットから携帯電話を取り出した。

 坂本である。高橋は喉を鳴らし、一瞬間を開けた後に電話に出た。

「もしもし」

「俺だ。坂本、だ」

 坂本は息を切らしていた。荒い呼吸で短くそう言っていた。

「終わったのか?」

「ああ。一応な。……今どこにいる?」

「裏口にある本部だ」

「じゃあ、そのまま三階まで上がってきてくれ。来たら携帯まで連絡してくれ。あ、運営委員には終戦の宣言はするなよな」

 坂本は一方的に電話を切ってきた。高橋は電話をポケットのしまい、栄田を見た。彼は特に反応を示さない。坂本の言う「終戦の宣言」が行われない限りは戦闘は終わらないのだろう。

 高橋は無言で裏口から病院の中へと入っていった。その間も栄田は特に何も言ってこなかった。


 病院の中は完全な闇に包まれていた。戦場ではいつものことだが、この先に死体があることを考えると少し身体が震えてきた。

 坂本が生き残った事への安堵感よりも、恐怖心の方が強く感じる。高橋は引き返したくなる衝動を必死で抑えつけ、一歩ずつ前へと進んでいった。

 幸いライトは持ってきていた。高橋は手のひらに収まるほどの大きさのライトから放たれる光に、少しだけ落ち着きを取り戻した。

 裏口から入ってしばらく廊下を歩くと、左側に階段が見えてきた。これがいわゆる「裏口の階段」だろう。

 この先に何が待っているのだろう。高橋は深く考えないようにして階段をゆっくりと登っていった。

 途中、二階の踊り場に運営委員の姿が見えた。二階部分の見張りのようである。彼は栄田同様、高橋の姿を確認しても特に意に介することはなかった。

 二階の踊り場を超えて三階へと着いた。三階は病室のようである。延々と続く廊下の両側に、病室へと続くドアが連なっている。

 辺りには何の音も聴こえてこない。シンと静まり返っているが、それまでとは違う妙な空気を感じる。この先に死体と坂本がいるのだ。背中に冷たい汗が伝った。

 高橋はしばらくその場で立ち尽くしてたが、思い出したように携帯電話を操作した。携帯電話のバックライトが妙にまぶしく感じる。電話帳から坂本を選び、通話ボタンを押した。

 手が震える。耳元で聴こえる呼び出し音がとてつもなく大きな音に聴こえた。

 しばらく呼び出し音が続き、坂本につながった。

「おう。着いたか?」

「ああ」

「じゃあそのまま先に進んでくれ。突き当りを左に曲がるとナースステーションが見えるはずだ。その奥にいる」

「……解った」

 高橋は電話を切って廊下を進んだ。しばらく同じような風景が続いた後に坂本が言うとおり、突き当たりにぶつかった。廊下は左へと続いている。高橋は左を向き、用心深くゆっくりと進んでいった。

 少し進むと、左側にカウンターが見えた。ここか。ナースステーションに近づくと、かすかに物音が聴こえてきた。奥の方だ。恐らく坂本がいるところ。聴こえてきたのは、人間の呻き声だ。

 高橋は震える足を何とか動かし、ナースステーションの中へと入っていった。内部は事務用机が並べられ、奥に大きな棚が設置されている。その奥にも空間があるようで、恐らくその奥に坂本はいると思われる。高橋は荒くなってしまう鼻息を何とか落ち着かせ、棚の裏側へと足を向けた。

 外周を回り込み、棚の裏側を目指す。少しずつ向こう側が見えてくる。光が漏れているのが見えた。坂本のライトだろうか。そのままゆっくりと棚の端につき、一回深呼吸をしてから棚の裏側に足を踏み入れた。

 急にまぶしさを覚えた。向こうから照らされているのだろう。高橋は目を細めながらどうなっているのかを確認しようとした。しかしまぶしくて何も見えない。

「高橋だな」

 光の先から坂本の声が聴こえてきた。それと同時に弱々しいうめき声が聴こえてくる。そこで何が行われているのか。高橋は気が急いたが、坂本の光が邪魔をして見ることが出来ない。

「坂本、まぶしい」

 高橋がそう言うと、坂本は「ああ。ごめん」とライトを消した。急に辺りが暗くなる。高橋は目の奥に光の残像を感じながらも己のライトで辺りを照らしていった。

 割と広い空間である。右側に棚、左側に壁があるその空間は、昔は長机でも置かれていたのだろうか。今はなにもない空間となっていた。ライトの先を少し上げると、坂本の姿が見えた。彼はいつになく険しい表情をしている。手にはナイフが握られ、服に大量の返り血を浴びていた。

 またうめき声が聴こえてきた。左の壁側から聴こえてくる。高橋の考えを察したのか、坂本は険しい表情のまま、左側を顎でしゃくった。高橋は震える手を反対の手で抑えながら、ライトを壁側に向けた。

「うう……」

 うめき声が聴こえた。

 そこには二人の男が壁に磔にされていた。両手を上で交差し、左側の壁に杭のようなもので打ち付けられいる。猿轡を噛まされているので、大きな声は出せないようだ。うめき声は手前の男から聴こえている。彼は顔を腫らしているのと磔にされた手以外は外傷はなさそうだ。奥の男はぐったりと頭を下げている。胸の周りから下が大きく血で染まっている。既に死んでいるのだろうか。

「なんだよこれ……」

 その異様な状況に、高橋は言葉を失った。急に生臭い匂いもするようになってきた。辺りに充満する匂いに、高橋は吐き気を催した。

「……戦闘は勝者が終戦の宣言をするまで続けられる。だから、こんなことも出来るんだ」

 坂本は手前の男の腹部にナイフを突き刺した。男は目を見開き声を挙げそうになっていたが、猿轡が邪魔をして唸り声しか出なかった。

 男はまだ生きている。坂本は再び腹部を突き刺す。また唸り声を挙げる。坂本は何度も何度もそれを繰り返した。

「おい、やめろよ……」

 見かねた高橋が声を挙げるが、坂本は止めなかった。何度も何度も男の腹に突き刺してゆく。次第に男の声も弱くなっていった。

 狂ってる。

「おい、やめろって!」

 高橋は坂本の身体を後ろから羽交い締めにした。ようやく坂本は刺すのをやめたが、男はうめき声を挙げる気力もなくなったのか、無言で頭を垂れていた。肩は大きく上下しているので辛うじて生きているようだった。

「どうしたんだよ。お前、おかしいよ」

「ああ。まあ、おかしいかもな」

 坂本は高橋を後方に突き倒した。高橋は身体を床に強打して、苦しそうに顔を歪めた。ライトを離してしまったので再び辺りが闇に戻る。

 その内に坂本は男の胸にナイフを突き立てた。男は今までとは明らかに異なる断末魔を挙げて、急にスイッチが切れたように静かになった。何が起こったのかは、暗くて見えない高橋でも解った。

 高橋は手探りでライトを探す。幸い手元の近くに転がっていたようだ。ライトを拾い男を照らした。男は予想通り、頭を下げたままわずかも動かなかった。

 そしてその前に立っている坂本は、先ほどよりも返り血の量が増えている。その顔は奇妙に歪んでいる。笑っているような苦しんでいるような、そんな表情だった。

「なんだよこれ……」

「手、だよ」

 坂本は己の右手を指差してそう言った。

「手?」

「ああ。こうしていないとな……」

 坂本がゆっくりと歩み寄ってきた。高橋は尻をついた状態のまま後ずさる。佐藤の手紙を思い出した。次の標的は高橋。そんなことないと坂本を信じてやりたいが、彼の手にはまだナイフが握られている。状況を楽観視できる状況ではなかった。

 高橋は腰を上げて逃げようと前傾姿勢になった。しかし高橋が床を蹴る前に坂本に押され、高橋は再び床に叩きつけられた。

 坂本が近づいてくる。その顔に表情はない。ナイフを逆手に持ち替え、振り上げてきた。もう終わりだ。高橋はきつく目を閉じた。しかし、

「くっ……」

 坂本の苦悶の声が聴こえた。目を開くと、そこには苦しそうに手首を押さえる坂本が見えた。手首からは血が滴ってきた。彼は高橋の上方を憎々しそうに睨んでいる。

 顔を上げると、そこには加奈子が立っていた。

「加奈子さん……」

 加奈子は坂本から目を離さずに高橋の襟を掴み、後方に引きずった。高橋の前に立ち、静かに持っていたナイフを構えた。

「おい、どけよ。お前は関係ないだろ?」

 坂本は一歩踏み込んで加奈子を睨みつけるが、彼女は微動だにしない。

「なあ、どけよ。これは俺と高橋の話なんだ。部外者は引っ込んで……」

「以前の戦闘ですが」

 加奈子は坂本の言葉を遮り、無表情のまま口を開いた。

「あれは坂本さんにとって、仇討ち以外の理由はありませんか?」

「……あるとしたら、どうなるんだ?」

「私はあなたを殺そうと思います」

 加奈子のその言葉に、坂本は鼻で笑った。

「……なにがおかしいのですか?」

「どんな理由だろうと、実の父親に手を掛けたことに代わりはないんだよ。俺で折り合いをつけようとするなよ」

「…………」

 高橋の位置からは加奈子がどんな表情をしているのか解らない。恐らく表情には変化はないのだろう。しかし彼女の背中には、内に怒りが灯っていた。

 まずい。高橋は二人の間に漂う冷えた空気に、焦りを感じた。このままでは二人が刃を重ねることになる。どうすればいい? 高橋は必死で頭をフル回転させた。自分が割って入った所で止まるとは思えない。どうすれば。

 その時高橋はあることを閃いた。先ほどの坂本の言葉だ。高橋は身を起こし、大地を蹴って走り始めた。突き飛ばされた時に身体を打ったようだ。身体中が痛むが、高橋は構わずナースステーションの入り口の方へと走っていった。

「おい、待て!」

 坂本の声を背中で感じながら、ナースステーションから出る。ライトを忘れてしまったので、辺りは真っ暗である。一歩先も見えない状況だが、高橋は手探りで先ほど来た道を戻っていった。

 階段まで戻ると、そのまま二階まで駆け下りた。二階の踊り場には運営委員が辺りを見張っている。彼は高橋の姿を見ても、特に反応はなかった。

「終戦です! 相手が死にました。戦闘は終わりにします」

 高橋が早口でそう言うと、運営委員は笑顔で「おめでとうございます」と拍手をしてきた。普段ならそのような返しで良いのだろうが、今は違う。高橋は舌打ちをしそうになるのを堪えた。

「緊急事態なので、急いでフィールドに行って終戦を伝えてください」

「わかりました」

 運営委員は特に慌てることなく、素早く三階に登っていった。高橋も後に続く。

「こっちです」

 高橋は運営委員を追い越し、力の限り走った。ほんの少しの距離がとても長く感じた。ようやく突き当たりに辿り着き、左折してナースステーションを目指す。なにもなければよいが。

「坂本、加奈子さん。終戦だ! 終わりだ!」

 高橋はナースステーションに着くと、大きな声でそう叫んだ。二人の姿は棚に隠れて見えない。高橋は不安を感じながら棚の向こう側に移動した。

「余計なことを……」

 坂本は舌打ちをしながら毒づいていた。二人は先ほどと同じ状態で睨み合っていた。

 よかった。高橋は心の底から安堵した。

 ほどなくして運営委員が追いついてきた。


「余計なことしやがって……」

 坂本は大きく舌打ちをした。高橋は何かを思いついたように走っていった。恐らく終戦の手続きをしているのだろう。加奈子の目からも坂本の身体から緊張が解けてくるのが解った。

 加奈子は構えは解いたが気は張ったままにした。これが油断を誘う作戦なのかもしれない。それは父から教わったことだった。最後まで気を抜くな。

「……高橋に伝えといてくれ。これが本当の俺だってな」

 坂本はため息をつくようにそう言った。彼の顔は醜く歪んでいる。前会ったときはこんなではなかった。

 加奈子には解った。今まで彼は、偽りの彼なのだ。自分が人当たりの良い顔を周囲に見せているように。父が愚鈍な顔を周囲に見せていたように。

「なぜこんなことをするのですか?」

 加奈子は壁に磔となっている男達を指差した。この行為は異常である。加奈子には理解が出来ない。やはり父が言う通り、人間を壊すことに悦びを得る異常者なのだろうか。

 加奈子が黙って坂本を見据えると、彼は吐き捨てるようにいった。

「……右手が疼くんだ。どうしようもないくらいな」

 坂本は己の右手首をさすった。

 どういうことか。もう一歩先を訊こうとした所で、高橋の声が聴こえた。

「坂本、加奈子さん。終戦だ! 終わりだ!」

 それからすぐに高橋が来た。彼はこの場の状況に変化がないことに大きく息を吐いた。

「余計なことを……」

 坂本は舌打ちとともにそうつぶやいていた。

 それからすぐに運営委員がやってきた。そこでようやく加奈子は緊張を解いた。

「戦闘は、終わったようですね」

 運営委員はライトで磔となっている男達を確認して、事務的にそう言った。死体の状態には慣れているようで、眉一つ動かさなかった。

「ああ。とりあえず、部外者が紛れ込んでいるようなんだけど、運営としてまずいんじゃないか?」

「部外者?」

「ああ。そこに」

 坂本が加奈子を指差した。

「ああ。佐藤加奈子さんですね。部外者ではありませんよ。吉田さん側の見えない共闘ですので」

 運営委員の言葉に坂本は驚いた顔を見せ、その後小さく笑った。

「……抜かりないな。ま、戦いたくなったらいつでも相手してやるからな」

 坂本はその言葉を残してその場を去っていった。

「…………」

 高橋はその場で立ち尽くしている。坂本のあまりの急変に、ショックを受けているようだった。

 こんな時、加奈子はどんな言葉を掛ければ良いのか解らなかった。こればかりは父は教えてくれなかった。

 慰めの言葉が浮かばず、加奈子は高橋の肩を軽く叩き、

「私達も行きましょう」

 そう言って高橋の手を引いて戦場を後にした。

 せめて、この惨状から一刻も早く抜けた方が良い。それが加奈子が出来る唯一の慰めだった。


 高橋と加奈子の車は、加奈子の車を先頭に、連なって夜の国道を走っていった。坂本が手続きを行っている間に二人は帰ることにしたのだ。

 高橋は加奈子の車のテールランプを見ながら、先ほどの出来事を思い出していた。今日の坂本はまるで別人のようだった。彼の歪んだ笑顔と、深い闇のような瞳を思い出し、身震いをした。

 何かの間違いでいてほしかった。佐藤との戦闘は仇討ちで、今戦闘を行っているのには何か深い理由がある。その理由を口で説明できないから、戦闘を見てほしい。そんな理由でいてほしかった。

 しかし起こったことを一つ一つ思い起こすと、それがとても楽観的で馬鹿らしいことだと思えてしまう。どう考えても、佐藤の手紙に書いてあった事が正しいとしか思えなかった。

 やはり殺すしかないのか?

 高橋がそんな事を考えていると、急に加奈子の車が近づいてきた。どうやら減速しているようだ。高橋もそれに合わせてブレーキを軽く踏んだ。

 彼女の車は右折の方向指示を出した後に窓を空け、腕を車外に出して右側を指差した。見ると真っ暗な街中で唯一の明かりのようなファミリーレストランが少し先に見えた。そこに入るということなのだろう。高橋の予想通り、加奈子の車はファミリーレストラン付近で再び右折の方向指示を出して、駐車場に入っていった。高橋もそれに続いて駐車場に進入した。

 駐車場の隅に並んで車を駐め、車から出ると、ちょうど加奈子も出てきた。

「ここで少し話しませんか?」

 加奈子にそう言われ、高橋は頷いた。元よりこのまま帰りたくはなかった。

 深夜三時のファミリーレストランは思ったよりも混雑しており、半分以上のテーブルが埋まっていた。比較的若い層が多い。やり場のないエネルギーを開放するように騒いでいる。

 高橋達は比較的落ち着いている店の角の席に腰を下ろした。隣のテーブルに客はいない。この喧騒なのでさほど会話に気を遣わなくても大丈夫そうだ。

 席に着くと若い女性の店員がオーダーを聞きに来た。

「高橋さんは何か食べますか?」

「いや……」

 高橋は食欲がまったく湧いてこなかった。まだ先ほど嗅いだ血の匂いが鼻腔から抜けない。ドリンクバーのみ頼むことにした。加奈子は同じくドリンクバーと、チョコレートパフェを頼んだ。

 席を立ち、バーカウンターで適当に飲み物を取ると、チョコレートパフェが来るまでの間二人は無言で飲み物を飲んだ。

 しばらくしてチョコレートパフェが届くと、加奈子はそっと口を開いた。

「坂本さんからの伝言です。『これが本当の俺だ』だそうです」

「…………」

 高橋は無言で加奈子の手元を見つめた。彼女はパフェを食べることなく、細長いスプーンでアイスクリームをかき混ぜていた。

 なんとなく、そうではないかと思った。今日の坂本がおかしいのではなくて、今日の坂本こそが本当の彼ではないか、と。特に根拠はなかったが、坂本と接して、なんとなく高橋はそんな風に思ったのだ。加奈子のように普段高橋が接していた彼は「表の顔」であって、本当は深い闇を抱えていたのではないか。しかしそうなると、彼はいつから己を偽っているのだろうか。彼の性格は高校のころからさほど変わってはいない。あの頃はどうだったのだろうか。

「あ、あと『右手が疼く』と言っておりました」

「右手?」

「ええ。『なぜそんなことをするのか』と訊いたところ、『右手が疼く』と」

「…………」

 右手が疼く。その言葉に心当たりがあるかと記憶を辿ったが、特に思い当たる節はない。別に右手に古傷があるような過去もない。となると、サイトでの出来事で何かあったのだろうか。

「……なにか、心当たりはありますか?」

 ようやくパフェに手をつけ始めた加奈子がそう訊いてきた。

「いや、解らないな。……それでさ、これからどうする?」

「そうですね……」

 加奈子はパフェを半分くらい食べたところで手を止め、口元を紙ナプキンで拭った。ゆっくりと紅茶を口に含み、ふっと息を吐いたところで口を開いた。

「来月の特別対戦で、坂本さんを指名しようと思います」

「…………」

 加奈子の返答は、なんとなく高橋が予想していたことだった。なんとなく解っていたが、高橋はあえてその理由を訊く。

「……なんで?」

「彼は私に嘘を吐き、自らの利益のために私を利用しました。その行為は死を以て償うべきだと思います」

 静かに、彼女はそう言った。相変わらず表情の読めない顔をしているが、高橋に解った。彼女は怒っているのだ。

「つまり、あれは仇討ちではなかったと?」

「ええ。サイトで一番人気になって不自由なくああいったことが出来るようにするのがまず第一の目的だったのではないかと思います。そしてそうしていれば高橋さんが止めようと近づいてくるでしょう。そこで手を掛けるというのが第二の目的です。今日はなんとか阻止することができましたが」

「…………」

 高橋は言い返すことができなかった。確かに状況からすれば彼女の言っていることが正しいのかもしれない。しかし高橋は心情的にそれを受け入れることが出来なかった。

「だからって、なにも対戦することはないんじゃないか? 俺はほら、これ以上関わらなければ危険はないんだしさ。戦場に行かなければ狙われることもないでしょ?」

 果たしてこの言葉も正しいかどうかは解らない。それはすなわち友達として彼を救わずに、関わりを止めるということだ。間違っているのかもしれない。しかし、加奈子と坂本が殺し合いをするよりはマシだと思った。

「確かに坂本さんはそれでいいと思いますが、私の気持ちが治まりません。……坂本さんに言われたとおり、父の件の折り合いをつけたいだけなのかもしれませんが。それでも、私はこの件を解決しないまま、幸せな日々を送るなんてことはできません。一応、これを最後にあのサイトからは関わりを絶とうと思っています」

 彼女はまっすぐな目で高橋を見ていた。その目は今までとは少し異なり、とても人間味溢れる「怒り」を一切隠すことなく表していた。

「……少し考える時間をくれ。君のその気持ちを否定する気はないけど、坂本は俺にとって大切な友達なんだ。少し頭を整理させてほしい」

 加奈子は一拍考え、小さくうなずいた。

「わかりました。ではそうですね……一週間待ちます。来月頭の募集開始まで、ゆっくり考えてください。特に連絡がなければ、坂本さんを指名しようと思います」

「解ったよ……」

 そして二人はファミリーレストランを後にした。

 駐車場で二人は別れ、高橋は自宅に向けて車を走らせていった。既に午前三時半を越えているが、妙に頭が冴えていた。疲れもほとんど感じられない。

 やはり葛西が最後に佐藤に頼んだとおり、殺さなければいけないのだろうか。

 坂本がサイト内で満足している内はまだ良い。高橋自身が狙われることも、まだ許容できる。だが、それが歩美や由紀に及ぶようなことがあったのなら。

 高橋はそう考えて眉をひそめた。どうしてもネガティブに考えてしまう。ともかく一度落ち着いて考えなければ。

 そして高橋の車はゆかりと共に住むアパートへと到着した。まだ辺りは暗い。日の出にはまだ早いようであるが、新聞配達らしきバイクの音が遠くから聴こえてきた。

 高橋は駐車場に車を駐め、近所迷惑にならないようにそっと足を忍ばせながらアパートの中に入っていった。

 ゆかりは寝ているだろうと踏んでいたが、なぜか部屋の中は明るかった。リビングに行くと、ゆかりがソファに持たれながらうとうとと船を漕いでいた。

「……ゆかり?」

 高橋が声を掛けると、ゆかりはハッと身体を起こし、高橋の方を向いた。目をこすり時計を見ると、「おかえり」とあくび混じりの声で言ってきた。

「早かったね。どうしたの?」

「いや、思いのほかうまくいってね。問題なさそうだったから早めに帰ってきた。ゆかりこそ、なんで起きてたの? 寝てていいのに」

「……別に。なんとなく、よ」

「なんだよそれ」

 高橋は眉をひそめてそう言ったが、内心はありがたかった。先ほどまで感じていたざらついた気持ちが、ゆかりと会話をすることで幾分落ち着いてきた。

「お腹空いてる? 夜食でも作ろうか?」

 ゆかりが立ち上がり台所を指差したが、高橋は「いや、いいよ」と断った。彼女の顔を見ることで息をつくことが出来たが、まだ血の匂いが鼻腔から抜けない。食欲は全く起きなかった。

 それよりも。

「……ごめん。もう寝ていいかな」

 安心した途端に一気に疲れが出てきた。高橋は寝室に行く余裕もなく、ソファに突っ伏した。

「もう、こんなところで寝ないでよ。後が大変なんだから」

 ゆかりのそんな抗議も高橋の頭には入らなかった。一気に眠りの世界に入ってしまった。

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