第27話
少し考える時間をくれ。
高橋はそう加奈子に言ってみたものの、考えれば考えるほど思考は深みに、泥沼にはまっていった。
加奈子の言葉に反論できない。どんなに視点を変えてみても、坂本を擁護出来るような考えが思いつかなかった。
葛西からの思考のバトンは加奈子で完結してしまった。
葛西は佐藤との戦闘の際に、坂本を説得しようとしていた。戦闘開始後五分間手出ししないように佐藤に依頼していた。しかしその後に坂本に刺されて、葛西は「なにか」を思ったのか、佐藤に「坂本を殺してくれ」と依頼した。
佐藤はその「なにか」について考え、坂本を、人間を壊すことに悦びを得る人間だと分析した。そしてこの先には高橋に危害が及ぶであろうと娘である加奈子に託した。
加奈子はそこから、父を殺す戦闘は葛西の仇討ちだけではなく、私欲がからんでいたのではないかと推測した。そして坂本を殺そうと立ち上がる。
ここのまでの思考の流れに、おかしい部分は見当たらない。先日の坂本の様子からしても、恐らく間違いないのだろう。そうなってしまうとさすがに高橋も庇うことが出来ない。あの戦闘が葛西の仇だけではないとしたら、高橋も彼を許すことはできない。死んでほしいとは思わないが、殺したいという加奈子を止める理由がなくなってしまう。あの戦闘が仇討ちだけではなかったのならば。
しかし、坂本がどうしてもそこまで酷い男だとは思えなかった。何かの間違いだ。根拠などはどこにもなかったが、高橋はどうしても考えずにはいられなかった。
もしかしたら願望なのかもしれない。長い付き合いで甘く考えてしまうのかもしれない。いずれにせよ、まだ高橋にとって坂本はれっきとした「友達」なのだ。
そして高橋は昼夜を問わず考え続けた。あの戦闘は仇討ちだったのかそうではないのか。しかし、当然の事ながらその答えを坂本が持っている以上、高橋がいくら考えたところで結論などは出るはずがなかった。
どうすべきなのか。週が明けて水曜にもなると次第に焦りを感じてきた。あと二日である。三日後には月が変わってしまい、対戦の募集を行う事になる。加奈子は募集が始まったら坂本を指名すると言っていた。もう時間がないのだ。
「…………」
高橋は家にいるときもずっとそのことを考えていた。最近会話が少なくなった気がするが、ゆかりは特に何も言ってこなかった。二人はリビングのソファに並んで座り、無言でバラエティ番組を見ていた。こんな時バラエティ番組はいい。沈黙をいい感じでごまかしてくれ、言葉を交わさずとも何となく間が保っているように錯覚できる。隣で渇いた笑いを挙げるゆかりをよそに、高橋はずっとどうすべきなのかを考えていた。なにか切り口があれば良いのだが。
そんなとき、不意に高橋の携帯電話が着信した。音からしてメールであろう。ゆかりがテレビ画面を見ながら「鳴ったよ」と言ってきた。高橋は返事をしてテーブルに置いてあった携帯電話を手にした。ゆかりに見られないように内容を確認する。加奈子からだった。「いかがでしょうか?」と書かれている。約束の日が間近に迫っている。催促のメールだ。
高橋は返信を書かずに携帯電話を戻した。あとでゆかりが風呂に入っている間に返せば良い。
「誰からだったの?」
ゆかりがテレビ画面から目を話さずにそう言った。
「坂本からだよ」
「加奈子、って人じゃないの?」
そう言われ、高橋は「え?」と声を挙げた。なぜその名前を? 高橋が慌てて隣を向くと、ゆかりは目に涙を浮かべていた。
ゆかりは加奈子の事を知っている。どういうことだ? あのサイトの事も知っているのか? 高橋はどう切り返せばよいのか解らず、黙ってゆかりの言葉を待った。
「先週の土曜日、圭介が会社に行くって言った日、紀子があなたを見たのよ。ファミレスで他の女と一緒にいるのを。前から少し怪しいって思ってたんだけど……」
高橋はその言葉を訊いて、わずかに安堵した。彼女はサイトのことを知っているわけではない。浮気を疑っているのだ。それはそれで問題はあるのだが、それでもまだマシだった。
「……それで、どうすることもできなくて、圭介の携帯見たの。そうしたら加奈子って人の名前が出てきて」
高橋は小さくため息をついた。安心したら腹が立ってきた。こちらが親友の生き死にについて真剣に悩んでいる時に浮気がどうという瑣末な事を。
「なによ。携帯見たのが悪いの? 逆ギレなんかやめてよ。それよりも浮気してる圭介の方が悪いんだから」
ゆかりは高橋の沈黙を怒っていると勘違いしているのだろう。そう言って睨んできた。
「いや、別に悪いなんて言ってないじゃん」
「顔にそう出てるのよ。なによ、悪いのは圭介なのに」
ああ。面倒くさい。疲れた。それならばいっそのこと……。ふと浮かんだ思いに、高橋はハッと我に返った。今自分は何を考えようとした?
急に身体が熱くなってきた。熱いはずなのに背筋に寒気が走り身体が震えてくる。いっそのこと。この後に続けようとした言葉は。
殺そう、だ。
「…………」
落ち着け。高橋は己を身体を押さえつけて深呼吸をした。大丈夫。本気じゃない。ただ少しイライラして比喩表現として頭に思いついただけだ。そうだ。果たしてそうか? 相反する気持ちが次々と浮かんだくる。先ほど、自分は一瞬押入れに目を向けなかっただろうか。押入れ。あの佐藤を刺したナイフが隠されている。
「……ねえ。どうしたの?」
急に黙り込んだ高橋に、ゆかりが心配そうな声を挙げた。ダメだ。今はそんな事を考えている場合ではない。ええと。加奈子って人は佐藤さんの娘で、失踪した事について……。そう言い訳を頭の中で作っていったが、それを説明することがとても面倒に感じた。高橋は大きくため息をついて席を立った。
「ちょっと、どこに行くのよ」
リビングから出ようとする高橋に、ゆかりが制した。彼女は怒りを全面に出して高橋を睨んでいた。
「ちゃんと答えなさいよ」
「ちょっと頭を冷やしたいんだ。少し外を散歩してくる」
「……その加奈子って人に連絡するんでしょ?」
まだ浮気だと疑っているのか。高橋は出そうになったため息をなんとかこらえた。ここでため息をついたら余計こじれてしまう。
「携帯は置いていくよ。それでいいだろう?」
高橋は返事を聞かずにリビングから出ていった。上着を羽織り、外に出る。
春とはいえ、夜になると外は肌寒い風が吹いてくる。冷たい風が火照った頭にちょうど良かった。そのまま高橋は近所をしばらく宛てもなく歩いていった。
先ほど、自分はゆかりを殺そうと考えた。冷静になってくると、それが紛れもない事実だと実感する。あの時の自分は確かにナイフの位置を確認した。こんな非常時に浮気などといった瑣末な事で騒いでいるゆかりに腹が立ったのだ。
いったい自分はどうしてしまったのだろうか。今までこんなことを思ったことはない。
だれかを死んでほしいと思ったことはある。人を殺したこともある。しかし明確に殺そうと考えて、そのためにナイフの位置を確認したのは、生まれて初めての事である。
どうしてそんなことを思った? 生き死にが身近にあるから慣れてしまったのか? それとも、自分も「向こう側」の人間になってしまったのだろうか。
案外、「向こう側」はそう離れていないのかもしれない。高橋はふとそう思い浮かんだ。「向こう側」と「こちら側」には明確な壁が存在するが、その壁は案外薄くて脆い、ベニヤ板のようなものなのかもしれない。ふとしたきっかけですぐに壊れて境界がなくなるものなのかもしれない。もしかしたら自分も、その壁が壊れてしまったのかもしれない。もう元には戻れないのかもしれない。
そんな時に浮気か。高橋は苦笑した。生きるか死ぬかの世界に比べればとても瑣末なことだ。だが当人にとっては最重要な悩みなのだ。恐らく一年前の平和だった頃の高橋だったら、同じようにこの世の終わりのように悩んだのだろう。今の高橋にはとてもどうでも良いことだった。
それにしても。高橋は先日ファミリーレストランで加奈子と休んだことを思い出した。ゆかりが言っていた「紀子」は、ゆかりの友人である。まさか街外れのファミリーレストラン。それも深夜三時に見られるとは思わなかった。今まではカラオケボックスで会っていたので、うかつといえばうかつであった。
そういえば葛西も佐藤さんと一度だけ外で会っているんだよな。確か二人は偶然を装って喫茶店で話をしたんだ。
「あ……」
その時、何かが閃いた。それが具体的に何かは解らない。高橋はその場で立ち止まった。何かに気付いた気がした。何か、大切なことだ。例えば二人の密会風景を坂本が目撃したとしたら……。
高橋はその閃きに身震いした。密会を見た坂本は、恐らく葛西が裏切ったと勘違いするだろう。敵である佐藤となにやら話をしているのだから。そして勘違いして葛西の背中を刺したとしたら。
そして佐藤との会合現場を見られたことを葛西が知らなかったら。
身体が熱くなった。今考えたのはあくまで仮説である。二人の密会現場を坂本が見たという大きな偶然がなければ成立しない。しかしそうなると話が少し変わってくる。葛西の思考のバトンに勘違いが含まれるとなると、それを受け取った佐藤の考えも、最終的な加奈子の核心も揺らいでくるのではないか?
しかし、確かに先日の戦闘の見学をした時、坂本は自分を殺そうとした。加奈子が入ってこなかったら危なかっただろう。いや、それも思い過ごしではないのか?
高橋は頭が混乱してきた。どう考えれば良いのか解らない。ただ一つ言えることは、坂本に事実関係を聞く必要があるということだ。しかしここまで関係がこじれてしまった中、まともな話し合いに応じてくれるとは思えない。
それではどうすればよいか。高橋はしばらくの間そのまま考えたが、最良の方法は思いつかなかった。
寒さを覚え、高橋はひとまずアパートに戻ることにした。ゆかりをいつまでも一人にしておくわけにもいかない。
アパートの中にはゆかりの姿はなかった。まず彼女を説得しなければならない。そう身構えていた高橋は肩透かしを喰らった。どこにいるのだろうか。高橋は探しにいこうかとも思ったが、テーブルに置いてあった携帯電話が光っている事に気づき、ひとまず携帯電話を手にした。
メールが着信していた。ゆかりからだ。
「今日は紀子のところに行きます」
短くそう書かれていた携帯電話を放り投げ、高橋はソファに勢いよく寝転んだ。
ふと思い立って押入れから葛西の手紙を取り出した。
二枚目の手紙には、わざと坂本の内容を転写したのだろう。明らかに不自然である。筆圧が強かったのであれば自分の一枚目の内容が写っているはずであるし、そもそもほとんどが余白である二枚目が存在する意義を考えると、それしか思いつかない。
ではなぜ葛西はこの手紙を転写させたのか。今となっては正確なところは解らないが、それでもなんとなくは解った気がした。
僕は坂本を信じきる事が出来なかった。だから頼む。坂本を救ってくれ。
高橋には、葛西がそう言っているような気がした。
ため息を一つついて高橋は床に投げ捨てられた携帯電話を拾い、操作した。メールを打ち込む。送り先は加奈子である。
あの件、申し込んでいいよ。ただ、俺も参加するから。
彼女からの返信はすぐに届いた。
わかりました。詳しくはメッセージで。
メールを確認した高橋は、再びため息をついた。葛西は坂本と本音の対話をするために戦場を使った。高橋も、その方法しか思いつかなかった。
本当にこれで良いのだろうか。高橋は不安もあったが、ここまで来たら覚悟を決めるしかなかった。
葛西の顔を思い出した。このサイトに関わって、自分は変わってしまったのかもしれない。昔の自分なら、戦場で坂本と対話しようなどとは思わなかったかもしれない。
だけど変わらないこともある。坂本と葛西への友情だ。
坂本を救わなければならない。結果、殺さなければならない事になるかもしれないが。
高橋はそう考えて、少し顔を歪ませた。
翌日、高橋とゆかりは話し合った結果、同棲を解消する事になった。
浮気の誤解は解けたが、ゆかり曰く「圭介のことが解らなくなった」らしい。別人のように見えるときもあって、ずっと戸惑いを感じていたようだ。
無理もないだろう。ここのところ色々ありすぎた。その「色々」を説明できない限り、ゆかりに解ってもらえることはない。
ともかく二人は話し合い、別れるのではなく距離を置こうということになった。一ヶ月間お互い一人でゆっくり考えて、その後に結論を出す。そのために一旦同棲を解消することとなった。
アパートは高橋が出ることにした。もとより働いている場所からすると、高橋が出る方が妥当であるし、何よりも元凶は高橋の方にあるのだ。高橋は私物を車に詰み、ゆかりと共に住んでいたアパートを後にした。
「じゃあ、ね」
ゆかりは顔を伏せて辛そうに唇を噛みながらそう言った。ゆかりも距離を置くことを望んではいないようだ。しかし仕方のないことなのだろう。彼女の顔がそれを表していた。
「じゃあな」
高橋も小さくつぶやく。そして高橋は己の車に乗り込んだ。車を走らせながら、高橋はこの先のことを考えた。まずは住むところを決めなければ。短期で借りられるアパートを探して、すぐにインターネットの契約をしなければならない。そのためには明日会社を休んで……。
不思議と高橋は心が動かなかった。ゆかりとこのような事になって、少しは哀しむかと高橋も思っていたが、全く心が揺れなかった。それが逆に高橋はショックだった。自分は人間として最低限の感情をどこかに捨ててきてしまったのだろうか。
高橋はそんな考えを振り払い、今後の事を考えた。むしろ坂本との戦闘のために一人になったことが都合が良いのだ。これで戦闘に集中出来る。
とりあえず高橋はその日の宿泊場を探すことにした。ひとまず会社の最寄り駅近くまで出て、駅前にあるビジネスホテルに入った。地下駐車場に車を駐め、一階フロントで空き部屋を訊いた。
幸いシングルで一部屋空いていた。高橋は前金を支払い、チェックインを済ませた。
「ふぅ……」
部屋に入り、ベッドに腰を掛けると小さくため息をついた。帰る家がないということは思った以上に疲れるものだ。高橋は仕事の県外出張などで宿泊することは少なくないが、今日は格別に疲れを感じた。
そのまま横になりたい誘惑に駆られたが、高橋は寸前で思い直し、カバンからノートパソコンを取り出した。今は午後一〇時三〇分である。加奈子に連絡を取らなければならない。パソコンを立ち上げ、ホテルのLANを使ってインターネットに接続した。
サイトにログインすると、加奈子からメッセージが届いていた。
では、坂本さんに特別対戦の申し込みをします。よろしいですか?
高橋は考える間もなくキーボードをタイプした。文面は既に考えてある。
うん。申し込んでください。俺も連名でお願いします。
あと、ルールは俺に決めさせてほしいし、俺の言うことに従ってほしい。勝手な要求で申し訳ないけど、出来ればお願いしたい。
しばらくして加奈子から返信が届いた。
わかりました。ただ、戦闘が始まる前に会って話がしたいです。
それから二人は会う日程を詰めた。今週末は部屋の契約などでバタバタするかもしれないので、翌週月曜に会うことになった。
高橋は加奈子との日程調整が終るとすぐにサイトからログアウトした。掲示板では坂本が楽しそうに発言をしている。佐藤を討ち取ってから彼はサイト内で随分と人気が出ている。そんな彼を見たくはなかった。
やはり加奈子や佐藤の言っていたことが正しいのだろうか。ふと湧き出た疑念を振り払う。いや、葛西は思い違いをしていたのだ。そこに戻らなければならないのだ。
高橋はOSを再インストール後にパソコンをシャットダウンさせ、ベッドに横になった。間接照明のため薄暗い天井を眺めていると、次第に眠気が襲ってきた。風呂に入らないと。高橋はそう思ったが、うねる波のように突然やってきた眠気に、抗うことは出来なかった。そのまま意識を失うように眠りに入った。
翌日、会社を休んで部屋探しをすることになった。休むにあたって部下の若林には一応概略を説明した。彼は言葉を失ったように黙った後に、「高橋さんの仕事もやっておきますので、存分に部屋探してください」と言われた。
車を駅近くの上限設定されている駐車場に駐め、高橋は駅前にある不動産屋を回った。
幸い部屋はすぐに見つかった。不況だからか、空き部屋は比較的多い。選り好みしなければいくらでもあるようだった。前住んでいたところより遠くて、さらに家賃は高い部屋だったが、一ヶ月単位で借りられる部屋があったのでそこにした。今日からでも入居できるということなので、すぐに契約して案内してもらった。
部屋はワンルームのフローリング敷きであった。手狭な感じは否めなかったが、元より長居する気もない。どうせ一ヶ月後に死ぬかもしれないのだ。そう考えると部屋などどうでもよく感じた。
車に積んであった私物を部屋に運ぶと、一応それなりに住みやすそうな部屋になった。家具付きの部屋なので、その点は良かった。
すぐに電気ガス水道とインターネットの手続きをすると、高橋はすることがなくなってしまった。
そのまま家にいても仕方がないので、車で出かけることにした。しばらく宛てもなく車を走らせていたが、それも飽きたので郊外のショッピングモールに行くことにした。平日昼間のショッピングモールはさほど混んでいない。高橋は思い立って食料品店に足を向けた。今夜食べるものを考えなければならない。
「あれ? 高橋さん」
急に後ろからそう声を掛けられ、高橋は慌てて振り返った。
そこには歩美が首を傾げて立っていた。
「どうしたんですか? こんなところで一人で」
「ああ。まあ、色々あってね……」
高橋が言葉を濁すと、歩美はさらに首を傾げた。
「ゆかりちゃんと何かあったんですか?」
「うん……まあね。それよりそっちも変わりはない? 由紀ちゃんとか……坂本とか」
「ええ。何も変わりないですよ。ウチの旦那もうるさいくらい元気でやってます」
歩美は笑顔でそう言ってきた。ひとまず坂本は家族に手を掛ける気はないようだ。高橋は少し安心した。
「またウチにご飯食べに来てくださいよ。ウチの旦那はいっつも高橋さんの話するんですよ。よっぽど会いたいみたいで」
歩美は口に手を当て、クスクスと笑い始めた。高橋は複雑な気分になったが、表には出さずにうなずいてその場を離れた。
その日は一日歩美の言葉が頭から離れなかった。ウチの旦那はいっつも高橋さんの話するんですよ。それが本心なのか、それとも家族を欺くためのカムフラージュなのか、今の高橋には解らなかった。
だからこそ、対戦をする必要があるのだ。
翌月曜日、高橋は仕事終わりの夕方に彼女の大学へと向かった。会う場所はいつものカラオケ店。彼女はいつものように入り口脇に立っていた。
「どうも」
加奈子は相変わらず感情のない顔をしている。二人は挨拶もそこそこにカラオケ店の中へと入っていった。
「さて」
割と明るいカラオケボックスの部屋で、ソファに座ると加奈子が早速口を開いてきた。
「急に坂本さんとの戦闘を了承されましたが、何かあったのでしょうか?」
前置きもなく本題に入られ面を喰らったが、高橋はひるむことなく加奈子を見返し、先日思い付いた葛西の誤解について語り始めた。
「……なるほど」
加奈子は表情を変えずに相槌を打つ。彼女の目はその真偽を探るようにジッと高橋を見つめていた。
「……ともかく、そう言うわけで坂本の本心を知りたいんだけど、とても普通にやっても教えてくれそうにないから、対戦することにしたんだ」
高橋は先日の戦闘を思い出した。彼があの惨状を高橋に見せたのは、本心を知ってもらいたかったからではないかと思った。もちろん、おびき寄せて高橋を殺そうとしたのかもしれないが。
「……それで、本心が解ったら、どうするのですか?」
「…………」
加奈子の言葉に、返す言葉が思い付かなかった。坂本の本心を知ったとして、どうするのか。高橋はそこまではまだ考えていなかった。
「……とりあえず、佐藤さんを殺したのが完全な仇討ちだったら、もう坂本を殺すとかどうとかは、やめよう。こんな恨みの連鎖は虚しいだけだよ」
「…………」
「俺もなんとか加奈子さんの気持ちに折り合いがつくように頑張るからさ。坂本も、そんなに悪いヤツじゃないんだ。あいつと三人、残ったメンバーで葛西とか皆川さんとか、佐藤さんを弔っていこうよ」
加奈子は黙ったまま、静かに高橋を見つめてきた。そのまま長い間沈黙が続いた後に、加奈子は小さく頷いた。
「わかりました。ただ、坂本さんの返答次第では殺します。私達に危害が加わるときも、です」
「ああ。ありがとう。できる限りそうならないように努力する」
「まあ、どんな結果になっても最後の戦闘です。悔いの残らないようにやりましょう」
「解った」
そして加奈子は腰を上げた。既に話が終わったということだろう。
「ああ。あともう一つ」
部屋を出ようとする加奈子に、高橋は引き止めた。彼女は振り返って無言で座り直した。
「この戦闘が終わったら、俺の彼女に会ってもらえないかな?」
「……なぜですか?」
加奈子の眉がほんのわずか寄ったような気がしたが、高橋は気にせず続けた。
「君と会っていることを浮気だと勘違いしてね。一応誤解は晴れたんだけど、きちんと紹介したいんだ。そうすれば今後は公で会えるしね」
「……戦闘さえ終われば、無理に会わなくてもいいんじゃないですか?」
「いや、それもそうなんだけど、言っただろ? 気持ちの折り合いをつけるために努力するって。多分加奈子さんも、こういう内情を知っている人がそばにいる方がいいと思うんだ」
加奈子はしばらく顔を伏せ、顔を上げたときには元の無表情に戻っていた。今はもう眉は寄っていない。
「いいですよ。浮気なんて思われるのも嫌ですし」
「ありがとう。明るい彼女なんだ。多分気に入ってもらえると思うよ」
高橋は頭を下げて話を終えると、二人でカラオケ店を後にした。
その途中、高橋は加奈子に対して申し訳ない気持ちになったが、それを口に出すことはなかった。
一週間後、五月の対戦カードが決定した。
坂本祐司(10勝0敗0引き分け) - 佐藤加奈子(4勝0敗0引き分け)
高橋圭介(1勝0敗0引き分け)
宣言通り坂本は加奈子の指名を受けたようだった。ともかくこれで坂本と対戦することになった。
次に行うことは戦闘の日程とルールの作成である。対戦者連絡用掲示板を見ると、加奈子の名前で「ルールに関しては高橋さんに一任しております。私は全面的に同意しますので、どうぞ高橋さんと坂本さんで詰めてください」と書かれてあった。
高橋は一発目の発言をどう書こうか悩んだが、素直に「よう」と書き込んだ。
しばらくして更新すると、同じように坂本の「よう」という書き込みが表示された。何だか妙な気分だった。
まずは日程と会場の調整を行うことになった。これには加奈子も参加し、三者が都合のよい条件を付け合せていった。
日程はすぐに決まった。高橋はなんでも良かったし、加奈子もさほどこだわりがなかったので、坂本の発言通りに決まった。五月二二日、土曜日である。
会場は加奈子が提案してきた。先日、佐藤との戦闘に使用された工場跡地である。加奈子なりの考えがあるのだろう。高橋は特に発言をせずに坂本の返答を待った。
坂本は短く「了解」とだけ書き込んできた。これで日程と会場が決定した。次は戦闘のルールである。
高橋はひとまず「俺が提案していいか?」と書き込んだ。しばらくすると坂本が「いいよ」と書き込んでくる。その後高橋は一拍置いてからキーボードを叩いた。
俺の提案するルールはただ一つだ。
・戦場に武器を持ち込まない。
高橋にとって、今回の戦闘はあくまで「話し合いの場」である。話し合いの場に武器は必要ない。
坂本の返答は随分と間があった後に表示された。
そのルールは呑めない。戦場に武器を持ち込まないなんて話にならないし、まず武器の定義が曖昧で判断が難しい。(ベルトや拳などはどうするのか?)あと無手の体術勝負となると俺が圧倒的有利になる。そんな戦闘面白くも何ともない。
受け入れられるとしたらこれだな。
・加工室には持ち込んだ武器を使用できない。
(拳など肉体の一部は除く)
なるほど。高橋は坂本の書き込みを見て、小さくうなった。つまり加工室以外の部屋に連れ込まれた場合は武器が使用できるということだ。それではほとんど意味をなさない。
しかし坂本の言っていることももっともである。武器を持ち込まないという縛りは空手有段者の坂本に有利ではある。ではどうすべきか。高橋はしばらく手を止めて考えたて、ようやく出た考えを打ち込んだ。
了解。じゃあそれでいいよ。さらに追加ルールだ。
・戦闘は高橋と坂本が出会った時点から開始とする。
こうすれば少なくとも加工室で待っていれば坂本は武器が使用できない。話し合える時間も出来るだろう。
これには割と早く返答があった。
いいよ。じゃあそうしよう。
それから二人は細部を決めていき、最終的に以下のように決まった。
2011年5月対戦要綱
○日時:2011年5月22日(土)24:00~
○場所:工場跡地(○○県××市・・・)
○主なルール:
・戦闘のフィールドは工場の建物全域。
・定刻前に坂本は正門に、佐藤側は裏口に待機する。
・定刻となったらそれぞれ工場内部に移動。坂本と佐藤側の高橋が出会った時点から戦闘開始とする。
○制約事項:
・加工室には持ち込んだ武器を使用できない。
(拳など肉体の一部は除く)
そこまで決めた所で時間切れとなった。高橋はサイトからログオフして深くため息をついた。
ふと、加奈子の言葉を思い出した。本心が解ったらどうするのですか? その答えはまだ、高橋は出せないでいた。例えばお前を殺さなければ満足できないと言われたら、どうすべきなのだろうか。
高橋は頭を振って後ろに倒れこんだ。固いフローリングに後頭部を打ち、高橋は顔を歪めた。ゆかりと住んでいた家ではカーペットが敷かれていた。その時の癖が抜けていないようだった。
「…………」
高橋は頭をさすりながら身体を起こした。ゆかりと離れてから一週間。一人暮らしに戻ったことには慣れたが、こういった小さいことでゆかりを思い出してしまう。やはりゆかりは欠かせない存在なのだ。
そして、また一緒になるためにも、坂本との事に決着をつけなければいけないのだ。高橋はそう考えてなんとか気持ちを持ち直そうとするが、どう考えても楽観的になれず、再び深いため息をついた。
戦闘までの間、高橋は深く考えずに過ごした。それまでやってきたように、考えても答えが出ないことを深く考えることはしなかった。淡々と仕事をこなし、粛々と戦闘の準備を進める。深く考えずにそうしていると、次第に悲観的な気持ちが薄れ、やるしかないと思えるようになっていった。
そして時は流れ、戦闘前日の朝を迎えた。
「…………」
高橋は窓を開け、外の風景を眺めた。二階の角部屋に位置する高橋の部屋からは、向かいの高級そうなマンションしか見ることができない。このアパートに引っ越してから既に一ヶ月。いい加減このつまらない風景にも慣れてしまった。
戦闘前日だというのに、あまり心が動かなかった。これは戦闘に慣れてしまったからなのか、対戦相手が坂本だからなのか、高橋には解らなかった。ともかく、普段通りに起きて、普段通りに食事が喉に通る。いつも通りの朝を迎えることができた。
高橋は手早く準備をして会社に足を向けた。最後の仕事になるのかもしれない。そう考えてみても不思議と心が動かなかった。不思議な感覚だった。
「おはようございます」
若林の挨拶を受けて、高橋はしばらくいつも通りに仕事をこなしていった。
仕事は順調だったが、若林の表情が少し暗く、時折何か話したそうな顔をしていた。
「高橋さん。ちょっとよろしいでしょうか」
若林にそう声を掛けられたのは、夕方に差し掛かる少し前であった。おそらく彼は朝から何かを言いたかったのだろう。ようやく自分の中でタイミングが取れたという感じであった。
「なんだ?」
「ちょっと今日夜飲みに行きませんか?」
「……いいよ。二人でか?」
「ええ。できれば」
単純に酒を呑みたいというわけではないのだろう。高橋は一瞬戦闘の事ではないかと思ったが、まさかありえないと否定した。
「解った。じゃあ今日はさっさと仕事をあげないとな」
若林の表情が和らぎ、仕事に戻った。今までにないくらいのスピードで仕事をあげ、見事に定時前には今日の作業がすべて完了し、定時のチャイムと共に会社を出ることができた。
飲み屋の選定は若林に任せた。若林は「同期とよく呑みにいく所があるんですよ」と駅の方へと歩いていった。
「ここなんですけど、いいですか?」
そう言って若林が指差した所は、若者が利用するカジュアルな居酒屋チェーン店、「いさや」だった。
「あ……」
一年前、坂本と来たときのことを思い出した。ここであのサイトについて打ち明けられた。全てはここから始まったのである。
「……あれ、こういう所嫌ですか?」
高橋の沈黙を拒否の意味に捉えたのだろう。若林は上目遣いにそう訊いてきた。
「いや、ちょっとここで色々あってね。ここにしようか」
若林が心配そうな顔をするなか、高橋は暖簾をくぐって店内へと入っていった。
店内はまだ夕方の時間帯だからか、人はまばらだった。若い店員が元気よく「いらっしゃいませ」と声を出しながら近づいてきた。高橋は二人と告げ、奥のテーブル席に案内してもらった。簡単な仕切りがついている半個室である。悩み相談するには少々仕切りが甘いような気がしたが、若林は気にしていないようだった。
二人は向かい合うように座り、「まずは」と生ビールを注文した。最初は電化製品やニュースなど当たり障りのない話で盛り上がり、周囲の席が賑やかになった辺りから若林はポツポツと話しだした。
「……最近何やってもつまらないんですよ。なんか、虚しいというか」
「ほう。例えばどんなときにだ?」
高橋はお互いのジョッキが空になったのを確認し、店員に「生二つ」と頼んだ。するとすかさず若林が「生一つとモスコミュール一つ」と訂正した。
「最近ルーティンワークみたいになっているんですよね。朝仕事にでて夜帰って、月曜と水曜にジム行って、土日は彼女と遊ぶ。なんかこのまま死ぬまでこれを続けるのかなあって思ってしまうんですよね。ああ、もちろん完全にこれを続けるっていう風には思ってないですよ。なんというか、例えば結婚したとしても少し生活スタイルが変わるだけで、本質はなにも変わらないんじゃないかなって。それでなんか彼女ともあんまりうまくいかなくなっていましてね」
若林は新たに運ばれてきたモスコミュールに口をつけながら、重いため息をついた。
なんとなく、高橋は彼が何を悩んでいるのか解った。一年前の自分と同じだ。一直線で先が見えたレールに疑問を持っているのだろう。とても贅沢な悩みである。
「高橋さんはそういうことを考えたことはないですか?」
「俺か? まあ、昔はそう思ったこともあったかもな」
「どうやったらこの気持ちを解消できますか?」
「…………」
高橋は少し悩んだ。まさかサイトのことを言うわけにはいかない。
「そうだな……毎日感動することだな。例えばこうやってうまい酒を呑めるのは、日中つまんない仕事をやっているからこそ味わえるって思えば感動するぐらいうまく感じるぞ」
「……なんですか? それは」
「つまり、気の持ちようだ。今若林君が当たり前でつまらなく感じていることだって、本当はすごく貴重でかけがえのないものなんだぞ。手の中にある内は解らないだけでな」
「そんなもんですかねえ」
若林はまだ要領の得ない顔をしている。無理もない。手の中にある内は気づかないものだ。高橋のように、失ってから大切だったと気づくものだ。
「まあ、だからといってその場に留まり続けるのも違うかもだけどな。一度しかない人生なんだから、後悔はしないようにしないとな」
「……どっちですか」
「そんなの俺にも解らんよ。ただまあ俺に言えることは、考えて答えが出ないことをいつまでも考えることは精神衛生上よろしくない。あんまり深く考えないことも重要だ」
「そんなんもんですかねえ」
若林はまだ納得できていないような顔をしている。
「まあ、いずれ解るさ」
「……佐藤さんも、人生に後悔したくないからどこかに行っちゃったんですかね」
若林は顔を伏せながら小さくつぶやいた。半年ぶりに若林の口から「佐藤さん」という単語を聞いたような気がする。今や彼の話題が社内で上がることはほとんどない。やはり失踪者ということで皆話題から避けている節がある。
「佐藤さんか……どうなんだろうな。そういう道もあるのかもしれないけど、俺は賛成しないな。やっぱり普通が一番だよ」
「はあ」
「まあ、今日は俺が奢るから、肝臓壊れるまで呑もうぜ。大体若林君は節制しすぎなんだよ。もっと自分に甘く生きなきゃ」
「いや、自分高橋さんみたいに腹まわりが年々増えていくのはちょっと勘弁したいので」
「バカ最近はそんなでもないぞ」
「いやー、僕が入社したときはもっとスリムでしたよ」
若林はそう言って小さく笑った。どうやら少しでも気持ちが持ち直したようだった。高橋は調子を合わせて軽口を叩きながら、酒を呑み進めていった。
「……高橋さん。ありがとうございます」
酒を浴びるようにのみ、高橋も意識が朦朧としてきたときに、若林はテーブルに突っ伏しながらそう言った。
「結構悩んでいたんですよ。こうやって話聞いてもらえて嬉しいです」
「…………」
高橋はそれに応えずにビールを傾けた。高橋こそ感謝したいと思っている。戦闘前夜、慣れたとはいえ何かと落ち着けなかっただろう。そんな時をこうして紛らわすことができたのだ。心の中では感謝したが、高橋はそれを口に出すことはしなかった。
「……彼女さんとは、どうなんですか?」
ふと、若林がそう訊いてきた。彼は顔を上げてまっすぐな目で高橋を見据えている。酔っているかもしれないが、その目は真剣だった。
「どう……って、ここ一ヶ月は会ってないよ」
「これからどうするんですかか? いや、自分も最近彼女とうまくいっていないから、ちょっと他人事には思えないんですよね」
「そうだなあ。とりあえず一ヶ月距離を置くことにしたから、もう少ししたら連絡取ってちゃんと話するよ。君もきちんと話し合った方がいいぞ。後悔しないようにね」
「今もやっぱり彼女さん一筋ですか?」
若林のその問いに、高橋は言葉を溜めて、
「まあ、な」
照れくさそうにそう言ってビールを空けた。
二人の宴は朝方まで続いた。最後の方は、正直なところあまり記憶になかった。
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