第28話

 坂本との戦闘当日の朝を、高橋は二日酔いで迎えた。

 いや、正確には朝ではない。時計を見ると既に午前一一時を過ぎている。一般的には昼の時間である。高橋は這うようにベッドを抜け、キッチンに足を運んで水を大量に飲むが、吐き気が治まらない。高橋はキッチンの流しに向かって吐いた。何度も吐いて水を飲んでを繰り替えして、ようやく落ち着くことができた。

 高橋は波打つように痛む頭を抱えながら、昨夜のことを思い出した。昨日は若林と「いさや」で飲んだのだ。そしてその店が一二時で閉店するということで、近くのおでん屋に入った所までは覚えている。それからいつまで呑んだのか、どうやって帰ったのかも覚えていない。

 自宅のベッドで寝ていたことが奇跡かもしれない。高橋はここでようやく自分がクシャクシャのスーツ姿だということに気づいた。

 なにか落としたり忘れたりしていないだろうか。高橋は頭を押さえながら壁づたいに寝室に戻り、ベッドの傍らに投げ捨ててあった仕事用カバンを手にした。財布、携帯電話、手帳。一応なくなった物はなさそうで、高橋は安堵の息を吐いた。

 と、携帯電話が光っている事に気付いた。メールを着信したようである。見てみると、ゆかりからだった。


 いいよ。じゃあ来週土曜会おうね。私は昼の二時くらいからなら空くけど、それでもいい?


 その内容に、高橋は首を捻った。どういう意味だろうか。しばらく考えていると、ある情景が思い浮かんで慌てて送信済みのメールボックスを見た。案の定昨日の夜中に自分かゆかりにメールを送っている。内容は、「会って話がしたい。来週土曜に会えないか?」である。

 高橋は頭痛とは別に、頭を抱えた。完全に思い出した。若林にそそのかされたのだ。そんなに好きなら今メール送っちゃってくださいよ。「会いたい」って。そう言われてその気になって本当に送ってしまったのだ。

 自分は何をやっているのだ。こんな大事なことを酒の勢いでやってしまうなんて。いや、それよりも今日は戦闘当日なのだ。敗北したときのためにできる限りその後の予定を組まない。それがサイトの鉄則だというのに。

 高橋はしばらく頭を抱えながら呻いていたが、やがて腹をくくった。こうなったら絶対に無事に生還する。三人合わせて。

 高橋はゆかりに「昼の二時でいいよ。家に行くよ」と送って、再びベッドに横になった。まだ調子が戻らない。高橋は眠りにつこうと目を閉じたとき、携帯電話が鳴り響いた。

 誰だよ。高橋は舌打ちをしながら携帯電話を掴むと、「佐藤加奈子」の文字があった。

「あ……」

 加奈子との約束を思いだした。加奈子とは一一時頃に大学近くのカラオケ店で待ち合わせて、高橋の車で戦場に向かうことになっていた。高橋はその場で飛び起きて携帯電話を掴んだ。

「予定時間を過ぎましたが、今どこですか?」

「ああ、ごめん。今起きたところなんだ」

「……では、いつこちらに来られそうですか?」

「いや、それが二日酔いがひどくて運転出来そうにないんだ」

「…………」

 加奈子はしばらく黙っていた。高橋は受話器越しにも彼女の怒りが伝わってきて、「ごめん」とつぶやいた。

「……まあ、いいです。幸い時間に余裕はありますので。これからそちらに向かいますので、準備をしておいてください」

 加奈子はあくまで冷静な口調でそう言って電話を切った。

 それから高橋は大慌てで準備をした。まずシャワーを浴びて酒の匂いを少しでも抜き、服を着替えて身なりを整えた。まだ頭痛と吐き気は残っているが、一応なんとか形にはなった。

 それから持ち物の準備に取りかかった。財布と携帯電話、ライトを手にしてカバンに突っ込んだ。

 ナイフをどうしよう。高橋は部屋の隅にあるダンボールに目を向けた。それはゆかりと同棲した部屋から持ってきた私物をまとめているダンボールである。どうせ長居するわけではないからとそのままにしてあるのだ。ダンボールの底の方に、佐藤を刺したナイフが眠っている。それを持っていくべきか。高橋は悩んだ末に持っていかない事にした。今日は誰も傷つけない。だから必要ないのだ。

 持ち物の整理が済んだ所で加奈子から着信があった。

「家の前でチャイムを鳴らしているのですが、出てきてもらえないでしょうか?」

 その言葉に高橋は入り口の方へと向かう。チャイムの音など聴こえてはこない。

「あ」

 高橋は加奈子が知っている「ウチ」は、ゆかりと同棲する前の家であったことに気付いた。

「ごめん。あれから二回引っ越したんだ」

 そして今大体の場所を加奈子に告げ、近所のパチンコ屋の駐車場で待ち合わせることにした。

 高橋が外に出てパチンコ屋に行くと、それから一〇分後に加奈子の車が到着した。

「…………」

 加奈子は高橋の近くに車を停め、そのまま無言で運転席に座っていた。高橋が控えめに助手席のドアを開けても、加奈子は振り向くことはない。

「……なんか色々ごめん」

 高橋が頭を下げるが、彼女は前を向いたままである。表情こそはいつもと変わらないが、彼女が怒っている事は明白だった。高橋が助手席に乗り込むと車は発進した。加奈子の車は国道に出て戦場となる廃工場へと向かっていった。今日は午後四時から高橋達の会場下見の予定となっている。今からでも余裕で間に合う時間である。

 しかし加奈子の機嫌は治っていないようだった。彼女は無言のまま車を運転し、重苦しい空気を作っていた。

「……ごめん」

 沈黙に耐えきれなくなって、高橋が小さく頭を下げた。すると加奈子がため息をついてからようやく口を開いた。

「……普段何をしようと高橋さんの自由ですが、戦闘当日に二日酔いで来るのはいかがなものかと思います」

「そうだね。君の言う通り。何も反論出来ないよ」

「それで、具合は大丈夫ですか? 見たところ顔色は良くないみたいですが」

 ここでようやく加奈子は高橋の方を向いた。彼女は一応心配そうな顔をしている。

「ああ。まあ今は本調子じゃないけど、夜までには何とかするよ」

「それならいいですけど。戦闘中もそんな状態でしたら、後ろから刺しますよ?」

 低くそう言う加奈子は当然のことながら笑っているわけでもなく、高橋はゾッと背筋に寒気を感じた。

 予定では途中昼食を摂ることになっていたが、時間的余裕もそんなにないということで、コンビニに寄って車内で食べることになった。二日酔いで食欲のない高橋はゼリー飲料と水だけ購入して、胃に流し込んだ。

 廃工場には四時少し前に到着した。いつものように入り口で運営委員に身分証を提示して中の駐車場に車を駐めた。

 車から降りると気温は高いはずなのに、なぜか涼しく感じた。高橋の目の前には右側のシャッターが少し壊れている搬入路が見える。半年前に来たときと何一つ変わなく見えた。

 ここで佐藤さんを殺したのだ。高橋はそう思い浮かぶと複雑な気分になった。遠い昔の出来事のようにも思えるし、ついこの前の事のようにも思い出せる。現実感はないがあの時感じた血の匂いが、嫌なほど蘇ってくる。高橋は小さく眉をひそめた。

 ふと隣を見ると、加奈子も同じように表情を固めている。彼女も、当然のように思うことがある場所なのだろう。坂本との戦闘にこの場所を選んだのも、彼女なりに大きな意味があるのだろう。

「さ、行きましょう」

 加奈子はつぶやくようにそう言って、正面玄関の方へと歩いていった。その時には既にいつもの無表情の彼女に戻っていた。

 正面玄関は相変わらず以前と変わらぬ形で存在していた。中に入ると、左に事務所右に食堂の、やはり見覚えのある光景が目に入ってきた。

 右の食堂で佐藤は命を落とした。そのことを思い出して高橋は一瞬動きを止めてしまったが、加奈子は表情一つ変えずに加工室の方へと足を向けている。高橋は慌てて彼女の後を追った。

「さて。それでは今回の作戦の確認です」

 加工室に到着し、ざっと見渡した後に加奈子は高橋の方を振り返って口を開いた。

「今回のポイントは二点。高橋さんと坂本さんが出会った瞬間から戦闘開始ということと、加工室内では持ち込んだ武器が使用できないということです。その点はよろしいですね?」

 高橋はうなずいた。自分と坂本で決めたルールである。問題はない。

「私は高橋さんと一緒にフィールドに入って、途中どこかに武器を置いていきます。そして高橋さんに合流して加工室前で再び別れます。高橋さんは直進して、私は高橋さんの側面につけるように回り込んで身を隠します。そしてこの位置」

 加奈子は加工室入り口から五歩ほど歩いた位置で立ち止まった。そこには左側にベルトコンベアのような機械が配置され、右側が通路のようになっている。

「ここで止まってください。私はこの右側に身を潜めるので、そこで坂本さんを呼んで戦闘開始としましょう」

「了解」

 そこまでは前日までの打ち合わせで概要を聞いている。加奈子が隠れる位置にはこの加工室にあった鉄パイプが隠されており、彼女はそれをひとまず武器として使用するようである。

「あとはご自由に。ただ坂本さんが、例え真意がどうであろうと、父を殺した事に仇討ち以外の理由があると言ってきた場合、私は容赦なく坂本さんを攻撃します。よろしいでしょうか?」

 高橋は小さくうなずいた。これは呑まなければならない。なんとしてでも坂本の真意を聞き出さなければならないのだ。高橋は一層気を引き締めた。

 それからしばらく二人は戦場の中を歩き回った。しかし特に変わった所はなく、別段収穫もなく見学の時間が終わった。

 加奈子の車に戻り、二人はこれからどうしようかと思案に暮れた。今から家に戻るとなると片道三時間、往復で六時間もかかる。何よりも戦闘前の加奈子を六時間の運転で疲れさせるわけにはいかない。二人は話し合って、戦場近くの今は使われていない道の駅の駐車場に車を駐め、そこで夜まで時間を潰すことにした。その前にふもとのコンビニで買い物を済ませて道の駅へと向かう。

「それでは私は本を読んでいますので、高橋さんは後ろで横になっていてください」

 加奈子は助手席を後ろに倒し、後部座席とフラットにさせて簡易ベッドのようにした。高橋は加奈子から膝掛けを借りてシートに横になった。少し凹凸があるが、特に気になるほどではない。高橋は目を閉じて寝るようにと努めた。

 しかしなかなか眠れない。朝に比べればだいぶましになったとはいえ、まだ頭痛と吐き気は残っている。眠りに集中できず、しばらくは横になったまま瞳を閉じていた。

 ほのかに甘い香りがしてきた。加奈子が飴でも取り出したのだろう。ブルーベリーの香りを鼻腔に感じながら、高橋はこれからの戦闘のことを考えた。

 とにかく、加奈子が坂本を殺すような、そんな結末だけは避けなければならない。高橋は何よりもそれを強く思った。例え坂本を殺したとしても、加奈子の気持ちに整理がつくわけはない。ではどうすべきなのか。高橋はそれをしばらく考えたが、明確な答えは思いつかなかった。

 ともかくまずは坂本の真意を探らなければならない。そのためにはどうするべきか。

 そんなことを考えているうちに、高橋は次第にまどろんでいった。


 気がつくと既に辺りは暗くなっていた。高橋は身体を起こし、センターパネル内にあるデジタル時計に目を向けた。現在午後七時半。二時間近くは眠っていたようである。

「おはようございます」

 運転席で文庫本を読んでいた加奈子は、本を閉じて高橋の方を向いた。

「具合はどうでしょうか?」

 加奈子に言われ、高橋は己の身体に意識を向けた。吐き気も頭痛もだいぶ良くなったようである。ドリンクホルダーのペットボトルの水を口に含んで「大丈夫」と答えた。

「ひとまずご飯でも食べに行きましょう」

 加奈子は車を走らせ、少し離れたところにあるファミリーレストランに入った。奥の目立たない席に腰を下ろす。

 ここで高橋はようやく空腹を感じた。食欲が戻ってきたようである。念のため消化に良い雑炊を注文した。加奈子も注文を終え、しばらくの間無言で待った。

「……あのさ」

 高橋が口を開くと、加奈子は無表情のまま顔を上げた。

「これが終わったら、どうするの?」

「どうする、とは?」

「完全にあの世界から足を洗うの?」

 高橋の質問に、加奈子はしばらく考えた後に小さくうなずいた。

「出来るかどうか解りませんが、普通の大学生に戻りますよ」

「出来ればさ、終わってからも連絡を取り合おうよ。ちゃんと幸せに暮らしているのか、多分気になるだろうし。前も言ったけど、俺の彼女を紹介するから、これからは三人で会ったりしてさ。……もちろん昔のことを知っている俺が疎ましかったら、無理にとは言わないけど……」

 そう言っているうちに注文の品が運ばれてきた。会話は中断してしまい、二人はしばらく食事に専念することにした。

「……いいですよ」

 食事も終わり、食後にドリンクバーのコーヒーを飲んでいる時に加奈子が口を開いた。高橋は最初何のことだか解らなかったが、すぐに先ほどの問いの答えだと気付いた。

「そうか。じゃあ前も言ったけど、終わったら紹介するよ。ま、その前に仲直りしなきゃだけどね」

「喧嘩でもしているんですか?」

「うん。まあね」

 高橋は言葉を濁して曖昧にさせた。果たしてゆかりがまだ自分を恋人として見てくれているのか。そこは高橋にも解らないところだが、こうして後に予定を作ってあったほうが、生きる糧になる。

 なんとしても生き残らないと。もちろん坂本も含めて三人で。

 二人はそのままファミリーレストランでしばらく時間を潰し、ゆっくりと戦場に戻るとちょうど開戦手続きをする時間になっていた。運営委員にうながされ、駐車場の片隅に設営された本部に足を向けた。

 本部にはまだ坂本の姿はなかった。いつものように椅子に座ってパソコンに向かう男と、机を挟んで指示をする男の姿があった。どちらもスーツ姿で、運営委員である。指示をしていた男が高橋達の姿に気付き、姿勢を正して小さく礼をしてきた。

「お待ちしておりました。坂本さんもまもなく到着すると思いますので、しばらくお待ちください」

 そう言われ、二人はテントの中で坂本の到着を待った。

 待っている間、高橋は少し複雑な気分になった。今回は対戦相手として坂本と対峙することになる。どんな顔をすれば良いのだろうか。その答えが出せないでいる間に坂本が現れた。

「よう」

 坂本はいつもどおり長袖Tシャツとジーンズという、ラフな格好だった。表情もいつもと変わらぬ笑みを浮かべている。しかしまとっている空気が違うように感じた。具体的に何が違うのかというのは高橋には解らなかったが、少なくとも普段の坂本とは違うように思えた。

「では平成二二年五月の特別戦闘を執り行います。なお、私は本戦闘の執行委員長である……」

 先ほど指示をしていた男が三人の方を向き、開戦手続きに入った。いつものように対戦カードと今日のルールが読み上げられ、三人はそれに同意をした。

 そして運営委員はその場を離れて、三人だけが残された。

「…………」

 辺りに沈黙が流れる。高橋はかける言葉が見つからずに、ジッと静かに坂本を見ていた。当の坂本は高橋と目を合わせることもなく、どこか遠いところを見つめていた。

「……じゃあ、そろそろ行くな」

 坂本は頭を掻きながらそう言うと、軽く手を挙げてテントから離れていった。

 結局、坂本は一度も高橋と目を合わせることはなかった。

「私達も行きましょう」

 加奈子にそう言われ、高橋達もテントを後にした。

 正面玄関付近で足を止め、静かに時が経つのを待った。気がつくとすでに戦闘開始三〇分前になっていた。

 正直なところまだ高橋の頭の中は整理ができていなかった。なぜ坂本がこんな風になったのか。戦闘で坂本の真意を知ったとして、その後どうすればよいのか。どうすれば加奈子の気持ちに区切りをつけさせることができるのか。そして、坂本が攻撃してきた場合、どうすればよいのか。その全てに明確な指標が見出せず、高橋は一人思い悩んでいた。

 しかし気持ちの整理がつかないままに時だけが無常にも過ぎてゆく。高橋は気持ちだけが焦っていった。

「……高橋さん」

 不意に加奈子が口を開いた。高橋が振り向くと、彼女は相変わらずの無表情を高橋に向けていた。

「あまり、悩まないでください。戦闘中の迷いは死につながりますよ」

「……まあ、そうだね」

「あと、例え友人とはいえ、刃を向けてきたら、こちらも応戦すべきです。それは仕方のないことなのです」

「…………」

 彼女の言葉に高橋は、返事をすることができなかった。果たしてそれが正しいことなのか、高橋には判断がつかなかったのだ。もちろん正しい正しくないで判断できるような話ではないのは高橋も解っているのだが。

 そして時が流れ、午前〇時を回った。

 フィールドに入る時間である。高橋は考えがまとまらないままに戦場へと足を向けなければならなかった。

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