第29話

 工場の中は真っ暗であった。高橋は手持ちのライトで辺りを照らしながらゆっくりとエントランスに入っていった。

 右手に食堂、左手に事務所。そして中央に受付があるエントランスは既に何度も見ている光景であるが、暗闇の中では初めてである。高橋は不安感を覚えて一瞬足を止めた。

「……高橋さん?」

 後ろから加奈子の声が聞こえてきた。彼女は急に足を止めた高橋の心の変化に気付いたのだろう。気遣うような声色だった。

「大丈夫ですか?」

「ああ。ごめん」

 高橋は再び歩を進めた。彼女の声を聞いて多少は楽になった。

 受付をすり抜け、加工室の方へと足を運んだ。加奈子は途中食堂に向かい、持っていた荷物を置いてきた。加工室の前で再び合流し、二人で中へ入ってゆく。

 加工室の中は天井近くにある窓から差し込んでくる月明かりのおかげで、かすかだが辺りが見える。高橋は反射的にライトを消したが、すぐに考え直してライトを点けなおした。相手は坂本である。ライトを消すという行為は、彼を信用していないということである。この光は消してはならない。

 高橋が中に入ると同時に加奈子は右側へと走っていった。作戦通りである。高橋は加奈子と打ち合わせした地点まで歩き、そこで足を止めた。

 周囲を見渡すが、かすかな物音も坂本が発しているであろう光も確認出来なかった。果たして坂本は本当にフィールドの中にいるのだろうか。高橋は一瞬不安になった。

「坂本!」

 高橋は大きく息を吸い、腹の底から声を出した。

「話がある。ここまで来いよ!」

 高橋の声が密閉された室内に響き渡った。これで高橋の位置が特定された。もう後戻りはできない。高橋はジッと坂本の出方を待った。

 しばらく沈黙が続いた。坂本からのリアクションは一切ない。どこからも彼の存在を示す光も音も感じられなかった。本当に大丈夫なのだろうか。一瞬高橋の心に不安が過ぎった。もし坂本がルールを無視して後ろから刺してきたら。高橋は身震いをしたが、すぐにそんな思いを拭い去った。彼を信用しなければならない。

 しばらくそのまま待っていると、前方でライトらしき光が照らされた。坂本だろうか。ライトの光は己の位置を顕示するかのように左右に振られている。

「ここだ」

 高橋もそれに合わせてライトを左右に振った。すると前方のライトが次第に近づいてきた。高橋はライトを振るのをやめ、その場で相手が近づいてくるのを待った。

 次第に鼓動が高鳴ってくる。本当にライトの主は坂本だろうか。別の、坂本側の見えない共闘ではないのだろうか。逃げたくなる自分を何とか奮い立たせて、高橋はその場で静かに待った。

 ライトが近づいてくる。高橋のライトが届く距離まで近づいてきた。そこには高橋が良く知る坂本の顔があった。

「よう」

 彼の少し間延びした声に高橋は一瞬気を緩みかけたが、すぐに考えを改めた。今は気を抜いて良い瞬間などないのだ。目の前にいる坂本こそが今回の対戦相手なのだから。

「まさかこんなところで対峙することになるとはな」

 坂本は吐き捨てるようにそう言って高橋を正面に見据えていた。

「…………」

 坂本と対峙した高橋は、妙な気分を感じていた。佐藤や、その他の人と戦闘で対峙したときとはまったく異なる感じである。なんだろう。確かに坂本が背負っている空気は殺気に満ち溢れているが、彼の目は高橋に何かを伝えるようにジッと見つめている。

 あの目を高橋はどこかで見た気がした。遠い昔に坂本は確かあんな目をしていたような気がした。どこだろう。高橋は考えるが思い出せない。

「……戦闘中に気を抜くなよ」

 坂本の声にハッと我に返った。彼は一歩前に踏み込み、高橋の頭を掴もうとしていた。高橋は慌てて後ろに下がる。

「それより早く本題に入ろうぜ。どこかで加奈子が様子を見てるんだろ?」

「ああ。そうだな……」

 高橋は気持ちを切り替えて、これまで考えていたことを言うことにした。何を訊くかはすでに考えてある。訊いた結果、どうするのかはまだ結論が出ていないが。

「まず、一つ約束をしてくれ。これからお互い嘘はつかないようにしよう。正直に嘘偽りなく正しいことだけを言い合おう」

「それは追加ルールか?」

「いや、友達としての約束だ」

 高橋がそう言うと、坂本は少し考えた後に頷いた。

「いいよ。じゃあ嘘偽りなく真実を答える。ただ、言いたくない時は拒否するからな」

 その言葉に高橋は頷いた。一呼吸あけて高橋は口を開いた。

「じゃあまず一つ目。半年前の佐藤さんとの戦闘は、葛西の仇討ち以外の理由はあったのか?」

 その問いに坂本はしばらく言葉を溜めた後に、

「そういう問いなら、『あった』だな」

 坂本の答えに、高橋は一気に血の気が引いた。ある程度予想はしていたが、出来ることならあってほしくない答えだった。

「……なんで? どんな理由があるんだ?」

「それは言えないな。ごく私的な理由だからな」

 坂本の言葉の途中で高橋の右方向から物音がした。金属がぶつかる音である。加奈子だろう。彼女が不用意に音を出すとは思えない。彼女の静かな心に火が点いているのだろう。

 まずいな。高橋は焦りながら坂本を見据えた。彼は加奈子の隠れている方向を一瞥して、薄く笑っていた。

「……話を変えよう。五年前の事だ。佐藤さんが戦場で葛西に会った時、既に葛西は背中を負傷していたらしい。これをやったのは、坂本か?」

「…………」

 坂本は顔を歪ませながらも小さくうなずいた。

「ああ。俺がやった」

 覚悟はしていたが、実際に坂本の口から聞くのは辛い。胸が苦しい。

「……なんでなんだよ。なんで葛西を刺したんだよ」

「色々あったんだ。俺達の間でな」

 色々。やはり葛西と坂本の間で行き違いがあったのだ。葛西と佐藤が会っている所を見てしまって……。

 高橋がそう思考を進めていると、「なあ高橋」と声を掛けられた。

「……なんだよ、それ」

 高橋の言葉が止まった。今まで何も持っていなかった彼の右手に、光るものが現れたのである。それは細長い鉄片である、先端は刃のようになっており、細長い包丁のような形をしている。

「これ、なんの機械か解るか?」

 坂本はそう言って傍らにあるベルトコンベアのような機械を指差した。

「これは食品をある一定の長さで切断する機械でな。中にこんな刃物が内蔵されているんだ。これは持ち込んだものじゃないからルール違反ではないぜ」

 坂本は薄く笑って近づいてきた。

「ちょっと待てよ。まだ訊きたいことが……」

 高橋が説得しようとするが、坂本はそれを無視し笑ったまま鉄片を振り上げた。

「高橋さん」

 その時、そんな声とともに加奈子が飛び出してきた。彼女は手にした鉄パイプを坂本の頭部目掛けて振り下ろした。

 金属の衝突音が鳴り響いた。坂本はそれに反応し、鉄片で彼女の鉄パイプを防いでいたのだ。

「加奈子」

「私はあなたを許しません。父との戦闘を私的利用しました」

「はっ、今の話を聞いていなかったのかよ」

「関係ない。あなたを殺さなければ、私の気が収まりません」

 加奈子は今まで見たことないような強い光を坂本に向けていた。坂本は彼女の気持ちを正面から受け止めながら、静かに構えを作っていた。

「言っておくけど、俺は強いぞ。女子供に遅れを取るような鍛え方はしていないからな……」

 坂本は言葉の途中で一歩踏み込み、加奈子の肩口に袈裟斬りを仕掛けてきた。加奈子はそれを鉄パイプで受け止め、顔に突いてゆく。そうして加奈子と坂本の戦闘が始まった。

 二人の戦闘は互角であった。加奈子が軽い身のこなしで攻撃を繰り出し、坂本は腕力でそれを防ぐ。そんな攻防が繰り広げられた。

「…………」

 高橋は二人の攻防を間近で見ながら、どうすべきなのかを考えた。このままでは駄目だ。まだなにも解っていない段階で二人のどちらかが死んでしまうなんて、そんな結末だけは何とか阻止しなければならない。かといって自分が間に入ったところで、彼らが攻撃をやめるとも思えない。どうすればよいか。高橋は何かいい手がないかと考えたその時、あることを思い出した。

 高橋は二人に気付かれないように後方に後ずさった。そのまま入り口付近まで移動し、ドアのすぐ隣に目を向けた。そこには高橋が思ったとおり、消火器が設置されてあった。使えるかどうかは解らないが、この際そんなことを行っている暇はなかった。高橋は消火器を手にして、二人の下へと駆け寄ると、坂本の顔目掛けて消火器を噴射させた。

「くっ……」

 辺りに白い粉が漂い、直撃を受けた坂本は顔を押さえて怯んでいた。見ると加奈子も苦しそうに顔を押さえている。高橋はそんな加奈子の腕を掴み、ドアの方へと走っていった。彼女は依然顔を押さえているが、それでも高橋の走る速度に合わせて足を動かしている。二人はそのまま加工室を出てエントランスへと向かった。

 事務所と食堂、どちらに行くべきかと一瞬悩んだが、すぐに加奈子が「食堂へ」とつぶやいたので食堂の中へと入っていった。

 高橋は大きく息を吐き、食堂の中央付近まで足を向けるとその場でへたりこんでしまった。一か八かであったが何とかなった。

「急になんてことをするんですか」

 加奈子はハンカチで顔を拭いながら高橋を睨んだ。彼女は髪や服に白い粉がかかっており、彼女は丹念にそれを振り払っていた。

「こうでもしないと二人がやめそうになかったから……」

「約束したはずですよ。『父を殺した事に仇討ち以外の理由があったら殺す』と。忘れたわけではないですよね?」

「ああ。ただ、利己的な理由じゃないんじゃないかと思うんだ」

「でも、あそこで私が出ていなかったら、高橋さんは死んでいましたよ?」

「それを言ったら加奈子さんだって、俺がああして止めなければ……やめよう。今はそんなことを言い合っている場合じゃない」

 高橋は加工室の方に目を向けた。坂本のうめき声が聞こえる。目にでも入ったのだろう。しかしいずれそれが収まれば、ここにやってくるだろう。そしてここはもう加工室ではない。彼も武装してやってくるはずだ。

「……確かに、あのままやっていたら、体力のない私の方が劣勢になっていたかもしれませんね」

 加奈子はそう言いながらカウンターの中へ入り、テーブルにおいてある寸胴の中に手を入れた。彼女のカバンはそこに隠されてあったようだ。引き上げた手にはスタート時点で持っていた手提げカバンが握られていた。

 彼女はカバンを持って高橋の元へ向かい、ジッパーを開けた。暗くて中身までは見えない。加奈子はカバンの中に手を入れ、手探りで取り出したものを高橋に差し出した。

「これを使いましょう」

「これ……」

 それは佐藤の遺品である拳銃であった。元は緒方が持っていた鉛が銃口を塞いでいた拳銃。それを佐藤が直し、加奈子に託したものだ。

「これはあなたを守るために使えと父が言っておりました。今ここで使うべきです」

「…………」

 高橋は黙って拳銃を受け取った。次第に坂本のうめき声がしなくなってきた。回復したのか、武器を持ってくるためにその場を離れたのか。いずれにせよ、ここに来るのは時間の問題である。

 しかし、まだ何も解ってはいない。まだ坂本がなぜこんなことをしているのかの理由も解らない。そんな状態でこの拳銃を彼に向けて、良いのだろうか。

 どうすればよいか。高橋は頭を抱えてフル回転させた。どうすればよいのか。どうすれば。

「……やる気がないのでしたら返してください。私がやります」

 加奈子が冷たい声を挙げてきた。今決断しなければならないのだ。

「…………」

 ふと、先ほど坂本と対峙した時の彼の目を思い出した。なんで今そんなことを思い出すのだろうか。高橋は焦って考えを戻そうとしたが、そんな表層意識から逆らうように高橋はあの時の坂本の目について考えを進めた。

 あの目をどこかで見たんだ。坂本があんな風に自分を見ながら、「別に、どうでもいいよ」と言ってきた。何がどうでも良かったのか。

 その時、全身に衝撃が走った。思い出した。あの目は、大学時代に見たのだ。そうなると……。

「高橋さん」

 加奈子が急かすように声を挙げる。次第に靴音が聴こえてきた。坂本がゆっくりと食堂に近づいてきているのだろう。加奈子は高橋の手から拳銃をもぎ取ろうと手を伸ばしてきた。

「加奈子さんごめん」

 高橋はその手を振り払い、立ち上がった。

「もう一度チャンスをくれないか? 多分、坂本はまだ何か打ち明けていないことがある。それを知りたいんだ」

「…………」

「加奈子さんの気持ちも良く解る。でも、今この状態で坂本を殺したとして、お互い嫌な気持ちを引きずったままこれからの人生を送ることになる。全部知った結果、救いようもないヤツだったら、この銃で撃つよ」

「……解りました。でも、坂本さんが高橋さんに危害を加えるようなことがあった場合、私は自己防衛のためにも彼を攻撃します」

 加奈子も立ち上がった。彼女の両手にはナイフが握られている。高橋は小さく頷いて拳銃を尻ポケットに突き刺した。

 食堂の外の靴音は一度離れた後に食堂の前で止まった。ゆっくりドアが開かれる。高橋はドアの付近をライトで照らした。そこには坂本の姿があった。

 彼は上半身に粉を被ったように白くなっていた。一応顔は拭ったようになっているが、髪や首の下はまだ粉がかかっていた。

 坂本は冷めた目で高橋を見つめている。彼の手には、いつか使用したボウガンが握られていた。

 坂本はボウガンを向けながら、ゆっくりと高橋に近づいてきた。しかしその目は、先ほどと同じ何かを訴えているようである。高橋の心に恐怖心はなくなっていた。

「……坂本さ。お前歩美さんと付き合うとき、大変だったよな。お前は全然好きだって認めなくて、最終的に俺と葛西で引き合わせたんだよな」

 高橋がそう言うと、坂本は眉をひそめて「急になんだよ」と言ってきた。

「今のお前の目がさ、歩美さんの事を好きじゃないって言ってたときの目と一緒なんだよな。……なあ、何を一人で抱え込んでいるんだよ」

「…………」

 高橋は坂本に歩み寄っていく。途中、尻ポケットに刺していた拳銃を取り出し、床に投げ捨てた。乾いた音が食堂内に鳴り響く。加奈子の「あ」という声が聞こえた。

「なあ、お前は悪気があって葛西を刺したんじゃないんだろ? 葛西が……裏切ったと思ったから刺したんだろ?」

 高橋の言葉に、坂本の表情が変わった。目を見開き、驚いたように顔を歪ませた。

「お前、何でそれを……」

「佐藤さんと葛西が密会しているのを見たんだろ? 多分、誤解だ。お前が勘違いをしてるよ」

「…………」

 坂本は無言でボウガンを高橋に向けている。次第に高橋と坂本の距離が狭まってくる。そして坂本のすぐ目の前まで来ると、しばらく二人は睨み合った。物陰から今にも飛び出してきそうな加奈子を、高橋は手で制する。辺りに緊張を含んだ沈黙が流れた。

 随分と長い間続いたその沈黙は、坂本によって破られた。

「……お前は佐藤と葛西が何を話していたのか知っているのか?」

「ああ。加奈子さんの話と、佐藤さんが加奈子さんに遺した手紙でね」

「そうか」

 坂本は考えるそぶりをした後にボウガンを下げた。

「一時休戦だ。話を訊きたい。ああ、加奈子も出てきなよ。全部、決着をつけよう」

 坂本はそう言って加奈子が隠れている食券販売機の陰に目を向けた。一拍の間があった後に加奈子がナイフを持ち警戒しながら二人の元へとやってきた。加奈子は高橋の斜め後ろで足を止め、坂本と対峙した。

「まず、お互いの武装を解除しようか。休戦だ。和平には武装解除が基本だからな」

 坂本はボウガンと、腰に吊っていたナイフを投げ捨てて、武装解除したというように両手を挙げた。しかし加奈子はナイフを捨てようとしない。

「それは出来ません。あなたが何を隠し持っているのか解りませんからね」

 加奈子の声に坂本は苦笑した。

「……まあなんでもいいや。じゃあ始めようか。高橋、教えてくれ。葛西と佐藤はどんな話をしていたんだ?」

「その前に、お前は二人の密会を見たのか?」

「……ああ、間違いない。あの日街中を歩いていたら葛西と佐藤が喫茶店で会っているところを見たんだ。俺は店の外にいたからどんな話をしたのかは解らなかったけどな。でも、戦闘前に俺に内緒で対戦相手と会う理由を俺の中で考えたが、どうしても裏切ったとしか思えなかったんだ。だから……」

「……刺したのか?」

 高橋の言葉に坂本は小さくうなずいた。

「当時俺は後ろめたいこと……って隠しても仕方ないか。葛西に内緒で戦闘をしていてな、そのことで葛西が怒ったのかと思ったんだ。俺は怖くなってな。葛西が背中を見せている間に、刺したんだ」

「…………」

 高橋は心の中でため息をついて加奈子に目を向けた。彼女も高橋と同じ考えなのだろう。複雑な表情をしていた。

 勘違いだ。葛西が話し合いのために設けた五分間を、坂本は自分を始末するための時間だと思ったのだ。確かにそう考えるのも無理もない。葛西と佐藤が密会している光景を見て、戦場でもいつもと雰囲気が違ったのだ。不信感で衝動的に葛西を刺してしまい、その後逃げてしまった坂本を責めることは出来ない。

 しかし、ではどうすればよいのだろうか。

「まあ、これが俺と葛西の間であったことだ。今まで隠していて悪かったな。それじゃこっちも聞かせてくれ。あの時、葛西と佐藤はどんな話をしていたんだ? 俺の考えは間違っていたのか?」

「…………」

 高橋は言葉が見つからなかった。どう伝えれば良いのだろうか。お前は勘違いで親友の背中にナイフを刺したのだ。

「……なあ、どうなんだ?」

 急かされた高橋は助けを求めるように加奈子を見た。しかし彼女は無表情のまま首を振っている。自分で言えということなのだろう。

「あの時の葛西はな……」

 高橋は佐藤と葛西の会合を、解る限りで伝えた。あの時葛西が見えない共闘で加奈子を参戦させるために、坂本にわざと殺害現場を見せるように仕組んだこと、それをきっかけで坂本が戦闘にのめりこむようになったのを申し訳なく思っていること。戦闘の開始五分を非戦闘時間として、そこで坂本を説得しようとしていたこと。

 そして見えない共闘である坂本に危害を加えないように佐藤に依頼したこと。

 しかし坂本に刺され、彼の目の奥に狂気を感じ、佐藤に坂本を殺すように依頼した。

 葛西のその考えも、結局のところ間違いだったのだ。坂本は葛西に裏切られたと思って刺した。葛西は密会を見られたことを知らなかったため、自分に向けられたナイフを、誤った方向に考えてしまった。

 高橋は佐藤の考えを織り交ぜながら、淡々とそれを伝えていった。

「そうか……」

 坂本は少しだけ表情を落としてそうつぶやいた。 

「まあ、何となく想像はついたけどな。あの手紙で」

「そうか。……なあ坂本、教えてくれ。佐藤さんとの戦闘に、仇討ち以外のどんな理由があったんだ?」

「あの日、葛西とどんな約束をしたのかを知りたかったんだ。葛西の手紙を見てから俺の勘違いだったのかも知れないって気付いて、佐藤にメッセージを送ったんだ。あの時何があったのかって。でも、佐藤は教えてくれなくてな。『私を倒せたら教える』って言ってきたんだ」

「…………」

 その言葉に高橋は少しホッとした。少なくともあの時の戦闘では利己的なものはなかったのだ。これで加奈子が坂本を殺さなければならない理由はなくなる。行き違いによって葛西が亡くなってしまったのはとても悲しいことだが、この三人で償っていけば良いのだ。

 何とか三人で生き残ることが出来るかもしれない。そんな淡い期待が芽生え始めた。最初は無理かもしれないと思っていたが、なんとか最高の形で終わるかもしれない。

 しかし。

「なあ高橋。親友としての最後の頼みだ。これから切腹をするから、介錯してくれないか?」

 坂本ははっきりとした口調でそう言ってきた。


「……切腹?」

 高橋は震える声でそう言った。「切腹」などという単語を、遠い昔に歴史の授業以外で発したのは生まれて初めてで、どうしても現実感が伴わなかった。

 しかしその現実感の全くない言葉に、坂本は力強く頷いた。

「切腹はどうにも苦痛だけがあって死ぬまでにかなり苦しむらしいからな。……ああ、さっきの拳銃を使ってくれればいいからさ」

 自分のナイフと、高橋が落とした拳銃を拾い、さっさと準備を始める坂本を、高橋は

「ちょっと待て」と制した。

「勝手に話を進めるなよ。何だよ急に。どうしたんだよ」

「それが一番俺の中で納得のいく決着方法なんだよ。ええっとな、どう言えばいいかな」

 坂本は頬を掻いて言葉を探していた。

「佐藤との戦闘が終わった後にな、俺はずっと戦闘を続けていた。それはなぜだと思う?」

「……え?」

 急に振られた問いに、高橋は面を喰らった。

「急にどうしたんだ。それがなんの関係があるんだよ」

「俺は葛西を刺してからな、ずっと右手にその時の感触が残りつづけているんだ。葛西の血の感触がな。東京行ってる四年間はなんとか自分を騙していたんだけど、葛西の手紙を読んでからまた再燃したんだ。ずっと、ずっと葛西の血の感触が残り続けるんだ。それを紛らわすために色んなことを試したけど、どうしてもあの時の感触が抜けないんだ。今も、な」

 坂本は顔を歪ませながら己の右腕をさすっていた。

「誰か殺してくれないかとも思ったけど、それも叶わなかった。最後の望みとしてお前達にでも殺してもらおうと思っていたんだけど、それもなんか違うって思ったんだ。ほら、結局お前達に頼むってことは、この妙な連鎖が続くってことになるじゃん。俺を殺したのがお前達だってのを知った誰かが、またお前達を狙うかもしれない。だから、俺は自分でやるんだよ。俺で終わらせるんだ」

 坂本はとても晴れ晴れとした顔をしていた。

「……なんだよそれ。勝手に話進めるなよ。お前が死んだら歩美さんと由紀ちゃんはどうするんだよ」

「……悪いけど、フォローを頼むよ。こんなことお前にしか頼めないからさ」

「そうじゃなくて、なんで死ななきゃいけないんだよ」

「しょうがないじゃないか。このままだと、その歩美や由紀にまで被害が及びそうなんだから」

「……え?」

「だから、俺がお前達を殺したくならない内に、自分を殺したいんだよ」

 坂本は再び己の右腕をさすった。

「最近、兆候があるんだ。家でくつろいでいるときとか、何気ない日常で無性に右手が疼いて、そんな時に歩美達を見てしまうんだよな。あいつらを殺したらどうなるのか、多少は楽になるんじゃないかってな。俺はまだ理性が働いているから大丈夫だけど、いつその一線を越えるか、解らないんだよな」

「だからって……」

 後ろから背中を叩かれ、高橋は振り返った。加奈子が無表情のまま、坂本を睨んでいた。

「ああ、加奈子でもいいや。お前は俺を憎んでいたよな? やってもらって構わんよ」

「死にたがっている者の命などいりません。手が汚れます」

「……ひでえ言い方だな」

「私がどうこう言うような義理はないと思いますが、死ぬことしか道はないのでしょうか? あなたが死ねば、少なくとも私と高橋さんの人生は大きく変わります。我々だけではなく、今話の出た歩美さん? 達の人生も。それでも死ぬ道しかないのでしょうか?」

「ああ。この半年考え続けた結論だ。人生が変わっても、殺されるよりはマシだろ? ……なあ、高橋。こんな馬鹿みたいなことを頼めるのはお前しかいないんだ」

 そう言って坂本は高橋の肩を掴み、まっすぐとした目で覗き込んできた。

「…………」

 高橋は唇を噛みながら、どうすべきなのかを考えた。どうすれば全員無事で帰ることが出来るのか。いくら考えてもその道が見えてこなかった。

「……なあ坂本、一つだけ答えてくれ。本当にこれしか道はないのか? 俺達が無事に生き残る、そんな道はないのか?」

 高橋の言葉に、坂本は一瞬表情を固めた。しばらく沈黙が流れた。坂本も思い悩んでいるようだった。しかし、すぐに決心した顔で高橋を見返してきた。

「……ああ。これしか道はない。これで俺も救われるんだ」

「そうか……」

 坂本の目を正面から受け止めて、高橋は一生懸命考えた。考えたが、やはり道は一つなのだろう。

 高橋はうなだれるように頭を下げ、

「……解った。やるよ」

 消え入りそうな声でそうつぶやいた。

「ありがとう。マジで感謝するよ」

 坂本の顔がパッと輝いた。安堵の息を吐いた後にこれまでで一番の笑顔を高橋に見せた。

 それから切腹の準備が粛々と進められた。高橋は銃の操作方法を加奈子から教わり、坂本は上半身裸になり床に正座した。高橋は坂本の背後に立ち、加奈子から撃つべき場所を教わる。一瞬で「事」が済み、坂本を楽にさせることが出来る場所である。

 そして全ての準備が終わった。加奈子は高橋の横に立ち、万が一高橋が引き金を引けなかった場合に代わりに坂本を殺す役をやることになった。

「……すまんな。こんなことを背負わせてしまって」

 正座し、正面を向きながら、坂本がポツリとつぶやいた。高橋の位置からは彼がどのような表情をしているのかは確認できない。

「加奈子。申し訳ないけど終わった後の高橋のフォローを頼むな」

「ええ。安心して逝ってください」

「心強いな。頼んだぞ」

 そして坂本はもう一度座り直し、ナイフを逆手に持ち替えした。ナイフの刃先を己の腹に当て、大きく息を吐いた。その状態でしばらく止まった後、ナイフを腹から一度離し、小さく笑った。

「……さすがにいざとなると怖いな」

「なあ坂本。もう一度考え直さないか? 他に方法がないかを一緒に考えよう。死ぬなんて道はまだ先に取っておけばいいじゃないか」

「いや、まあそうはいかないからな」

 坂本は再び姿勢を正し、ナイフを腹に構えた。瞳を閉じて大きく三度ほど深呼吸をし、ゆっくりと目を見開いた。

「坂本……」

 そして一回高橋の方を振り返り笑みを見せた後に。

 己の腹にナイフを突き刺した。

「坂本!」

 高橋は拳銃を放り投げ、坂本の肩を抱いた。彼は苦痛に顔を歪めながらも歯を食いしばりながら腹を横に斬っていった。坂本の腹からは、どす黒い血が止めどなく吹き出してゆく。高橋は頭が真っ白になった。

「ああ。やっぱりこれなんだな。俺は俺を殺したかったんだ」

 坂本は顔を歪めながらもかすかに清々しい表情を作っていた。

「坂本……」

「……馬鹿。銃捨てるなよ。早く拾え」

「やっぱり俺には出来ないよ……」

「じゃあ、加奈子でもいい。おい加奈子」

 坂本は痛みに耐えながら加奈子に顎を向けた。その時既に加奈子は拳銃を拾い、高橋に差し出していた。

「高橋さんがやるべきです」

 加奈子はいつもの無表情でそう言った。

「……解った。やるよ」

 高橋は加奈子から拳銃を奪い取り、坂本の後頭部に拳銃を向けた。

「ありがとな。助かるよ……」

「もうしゃべるな。楽にしてやるから」

 高橋は溢れ出す涙を乱暴に拭い、照準を定めた。せめて痛みを与えずに一瞬でやらなければならない。教わった位置に銃口を合わせる。

「歩美と由紀を頼んだからな……」

「解ったよ」

 高橋は呼吸を整えた後に息を止める。手の震えが治まり、完全に照準を合わせた所でゆっくりと引き金を引いた。

 火薬の爆ぜる乾いた音が辺りに鳴り響く。

 そして、全てが終わったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る