第5話

 東京駅は仕事の経由地として良く通っている。そのために見慣れているはずの雑踏が、どうもその日は違って見えた。すれ違う人が全てこちらを見ているような気がして、高橋は嫌な汗を背中に感じた。

 理由は解っている。今日は高橋にとって特別な日なのだ。

 三月二八日。高橋にとって葛西の秘密を探る第一歩である初戦の日である。

 いまだにこれでよかったのかどうか、高橋の中で確固たる答えは出ていないのだが。

 不意にメールが届き、ジーンズのポケットに入れていた携帯電話がバイブした。見てみるとゆかりからだった。


 明日は11時に行けばいいんだよね? 何か緊張するね。

 本当は今日会って気持ち紛らわしたかったけど、仕事なら仕方ないね。

 仕事頑張ってね。


「…………」

 高橋は悪い方向に行きそうな考えを中断し、メールを返した。


 ああ。11時に俺の家に来てくれ。

 今日はごめんな。


 送信が完了すると携帯電話をポケットにしまい、気持ちを切り替えた。とにかく今は今夜を乗りきることに集中しなければならない。

 明日はゆかりを両親に紹介する予定なのだ。自分がいなければ、全てが始まらない。

 高橋は腕時計に目を向けた。現在午前一一時三〇分。坂本が到着するまであと一〇分ほどである。

 事前の打ち合わせで坂本とは東京駅で落ち合うことになっていた。高橋は新幹線の改札前の柱に身体を預けながら、坂本の到着を待った。

 結局、サイト内の「佐藤秋雄」と、同僚である「佐藤秋雄」の関連性については進展することはなかった。翌日以降も佐藤は相変わらず冴えないおじさんであったし、サイトからは佐藤であるという確証は見つけられなかった。どうもサイトの「佐藤」は会員との交流を活発に行う方ではないようであった。対戦者連絡用掲示板では最低限のルール作成のための書き込みしかないし、それ以外の掲示板には一切書き込みがなかった。ただ、過去の戦績を見てみると、毎月のように彼は戦闘を行っていて、そしてその全てで勝利しているのだ。

 もちろん同姓同名の別人かもしれない。そちらの可能性の方が高いだろう。全国に佐藤姓の人間など山ほどいる。「秋雄」という名前もさほど珍しくもない。そう考える方が自然であり、同一人物であると考える方がおかしいことは高橋も十分に解っている。

 しかし、坂本の言葉がどうしても高橋の心に残りつづけた。「お前に伝えたのにはちゃんと意味がある」。これ以外の「意味」が、高橋には思いつかなかった。

 坂本に訊けば全てがはっきりする。今は高橋もサイト内の人間だ。あの時は言えなかったかもしれないが、今は言ってくれるかもしれない。しかし高橋にはそれを訊くことが出来なかった。なんとなく、こんな余計な事で戦闘に集中する坂本の腰を折りたくなかった。

 それに。

「……よう」

 急に声が聞こえて、高橋は飛び上がった。坂本の声である。思考に集中して来たのに気付かなかったようである。

 彼はグレーのジャケット、ボーダーのシャツ、ジーンズといったいつも通りの服装である。荷物もボストンバッグを一つ持っているのみの軽装であった。いつもとなんら変わりはない。このままどこかに遊びに行くような、そんな雰囲気を出している。唯一異なるのはその目が少しだけ緊張の色を出しているというところだけである。

 時計を見ると午前一一時四〇分。時間通りだった。

「じゃあ行こうか」

 坂本は休むことなく歩を進めた。向かうのは恐らく中央線のホームである。高橋もそれに続いて歩き出した。

「なあ高橋、覚悟は出来たか?」

 坂本は不意に足を止めて声を挙げた。彼は前を向いたままのため、後ろを歩く高橋にはどのような表情かは解らない。

 覚悟。それが何を意味しているのか、訊かなくても解る。これから起こる事への覚悟。つまり、人を殺す覚悟だ。

「……ああ」

 高橋は表情を固めながらそう言った。

 本当はまだ覚悟どころか、現実に起こることだという実感もないのだが。

「よし」

 坂本は再び歩き出した。

 佐藤について坂本に訊かなかったもう一つの理由。それは現世に疑問を残したままにしたかったのである。

 その方が生への執着が高まりそうな気がしたのだ。


 今回の戦闘の舞台は廃病院である。東京ではあるが二三区の外、とても都会とは言い難い町の山中にある。そこは市街地からは大きく外れており、車を使わないと行くことは出来ない。

 高橋達の移動には運営が用意した車を使用する。最寄りの駅に待機しており、そこで車を一日借りる手はずになっている。

「……それにしてもずいぶん手が込んでいるな。車用意するとか」

 都心から離れるにつれ、電車の中は閑散としていた。今は六人ほどが掛けられる長椅子に高橋と坂本しか座っていない。辺りに人がいないことを確認して、高橋は小声でそう言った。

「ああ。ま、当然だよな。レンタカー借りたりタクシー使ったりしたら足がつく可能性があるからな」

「それにしてもこの運営って、どんな人達なんだ? すごく金がかかっているようだけど……」

 それはずっと高橋が疑問に思っていたことだった。会場は運営が購入した私有地で、このような会場が全国に点在しているようだ。それだけではない。軽く見ただけでも多くの人が運営に絡んでいるようだ。サイト運営、全国の会員の監視、実際の戦闘になったら見張り役と遺体処理班。それらが会員にとっては無償で動いているのだ。そのための運営資金はどこから出ているのだろうか。

「さあな。なんか金持ち集団が趣味でやってるみたいだぜ。世の中には金を使っても使い切れないヤツラもいるんだよな」

 そう言って坂本はため息をついていた。ごく一般的な収入しかない坂本には理解出来ないようであった。高橋もまた、理解は出来ない。

 やがて電車は目的地の最寄り駅についた。電車を降り、改札を抜けると同じ東京とは思えないほど静かで閑散とした町並が広がっていた。

 人の通りもまばらである。地元の人だと思われる老人が数人、腰を曲げながらちらほらと歩いているだけの、のどかな町だった。

 駅前のロータリーの片隅に二台の乗用車が停まっていることに気付いた。白いバンとシルバーのワゴン車である。高橋達がロータリーに姿を見せると、ワゴン車の運転席から一人の男が下りてきて近づいてきた。スーツ姿の男である。どこにでもいる、まじめそうな男である。彼は二人の顔を確認し、「坂本さんと高橋さん、ですか?」と訊ねてきた。

「そうですけど」

「何か身分を証明できるものを持っていますか?」

 男にそう言われ、二人は運転免許証を取り出した。

 男は二人の免許証を確認し、車のキーを坂本に預けた。

「一日使って構いません。ただ、事故だけは注意してください」

 そう言って男は白いバンに乗り込んでどこかに行ってしまった。残ったのはシルバーのワゴン車。今日はそれで移動することになるのだろう。

「じゃあ行くぞ」

 坂本はワゴン車の運転席に乗り込んだ。高橋もそれに合わせて助手席に乗り込む。

 車を走らせてしばらくすると山道に入っていった。東京都内とは思えない風景が続く。葛西の家の近くのような田園風景もあった。一五分ほど山道を走らせた先に会場となる病院跡地があった。「川端医院」という名のその病院は、山に囲まれた国道から一本外れた道の途中にあった。辺りは畑しかない。恐らく夜には真っ暗で車の往来もなくなるのだろう。

 坂本は川端医院の敷地内に車を停めた。見ると他にも二台の車が停まっている。高橋は警戒したが、坂本は「多分運営のだ」と、特に気にしないようだった。

 川端医院は中規模の総合病院のようである。五階建てでそれなりに奥行きもあるようだった。潰れてどれくらい経つのだろうか。元々白かったであろう外壁は黒くくすんで所々塗装が剥げている。正面入り口は自動ドアだったようだが、半開きのまま止まっており、蜘蛛の巣状のヒビが入っている。

「じゃあ入るぞ」

 坂本はそう言うと、半開きの正面入り口向けて歩いていった。高橋もそれに続く。

 建物の中は想像していたよりも綺麗だった。もちろん受付カウンターも崩れかけており、その前に五列に並んでいる待合用の椅子も破れて綿がはみ出している。いわゆる「廃墟」のたたずまいを見せているが、埃っぽさがない。床も綺麗とは言わないが、見たところ汚れてはないようであった。ところどころの割れている窓の近くもガラスが散乱しているようなこともない。恐らく戦場に使うということから運営委員が清掃でもしているのだろう。どことなく作られた廃墟のような感じを受けた。

 受付の隣にある施設案内板を見る。この川端医院は内科、外科、消化器科、耳鼻咽喉科からなる総合病院のようである。一階から三階までが診察を行う部屋になっており、四階以降は入院患者用の病室となっている。

 受付カウンターの横を通り過ぎ、奥にある薄暗い廊下を渡ると階段が見えてきた。案内によるとこれは「西側階段」になる。本番では渡辺が四階に上ってゆく階段である。その階段を上り、四階へと向かう。

 案内板の表示の通り、四階は入院患者用の病室が並んでいる。階段を上ってすぐのところにナースステーションがあり、口の字に廊下が広がっている。廊下の両端に病室が連なっている。建物の内側にも病室があるので、恐らく中庭が中心にはあるのだろう。廊下は窓がないせいか、昼間だというのに薄暗い。

 二人はまずその廊下を一周してみた。歩くとものの数分で元のナースステーションに戻ってきた。試しに病室の扉を一つ開けてみる。大部屋らしくベッドが六つ並んでいる。古臭さはでているが、やはり埃っぽさは感じられない。やはり中庭があるようで窓の外から陽光が差し込んでいた。

 二人はさらに歩き、スタート地点となる階段へと移動した。先ほどのナースステーションがあった階段の、対角線上にある階段である。裏口から続いている階段のようだ。

「ふむ……今回は本当に隠れるところがないな。こんなところくらいか」

 坂本は階段の脇にある自動販売機を指差した。もう使われておらず、当然電源は入っていない。商品の見本の部分はガラスが割られており、中の見本も、誰かが持っていったのか、多数が無くなっていた。その自動販売機と建物の支柱の間に小さな隙間がある。坂本が言っている「こんなところ」というのは、その隙間のようだった。

 確かに隙間はひと一人が隠れるのにちょうど良いくらいの大きさだった。ためしに坂本が中に入るとぴったり身体が収まった。一方から見れば自動販売機に完全に隠れ、坂本の姿は見えない。しかし垂直に交わるもう一方の通路から見れば完全に間に挟まる坂本の姿が確認できる。

「こっちからだと丸見えだよ」

「それは今が昼間だからだ。夜になればここら辺は真っ暗闇になるから、ライトで照らされない限り目立たないさ。相手は極力ライトを使わないだろうし、問題はない。さ、それじゃあ作戦を練ろうか」

 坂本は隙間から出て、階段を三段ほど上った。

「本番ではこの階段を使って五階から降りてくる。で、渡辺も含めて三人が音を発してから戦闘開始になる」

 坂本は階段から下りて辺りを見回す。階段は口の字の一角にあるため、垂直に廊下が伸びている。そして下りてすぐ右手側に先ほどの自動販売機がある。

「お前は始まったらすぐにこの隙間に隠れてくれ。俺が音を出しながら歩き回る。すると……」

 坂本は声のトーンを落とし、誰もいないはずだが回りを気にしながら、己が考えた作戦を話し始めた。

「…………」

 内容を聞いた高橋はわずかに顔をしかめた。悪い作戦ではないが、果たして自分はうまくできるのだろうか。そんな心配があった。

「まあ、俺達二人なら大丈夫だ。力を合わせて渡辺を倒そうぜ」

 坂本は高橋の背中を強く叩いた。軽く咳き込みながらも高橋は小さくうなずいた。

 それにしても。高橋は頭に思い浮かんだことがあったが、口にすることはなかった。

 なぜ、俺達は渡辺を殺さなければならないのだ? 現段階で言う言葉ではないことは十分解っている。そんなことよりも今は生き残ることに集中しなければならないし、そのようなことを言って坂本の気分を盛り下げるわけにはいかない。

 そのため、高橋は喉まで出かかった言葉を飲み込んで坂本に合わせた。

 今はともかく戦闘で生き残る事だけを考えなければならない。それ以外の事は、終わってからだ。

 会場の下見が終わった二人は駅前のコインパーキングに車を停め、新宿まで戻った。新宿駅前にあるネットカフェに入ると、

「夜は長いからさ、今のウチに寝ておこうぜ」

 坂本はそう言って個室の部屋を二つ取った。リクライニング式の大きな椅子とパソコンのみの小さな部屋である。高橋はとりあえず椅子をフラットの状態にして、目をつぶってみた。

「…………」

 しかし当然のことながら寝付けるはずもない。今は午後の三時である。これからのことを考えると今寝ておいた方がいいのは解っているが、いくら頑張っても眠ることができないでいた。

 隣からは早々に坂本の寝息が聞こえてきた。こんな時によく寝られるものだと関心したが、それどころではないと再び寝る努力をした。

 そのまましばらく目をつむり寝るように努めたが、一時間ほどして無理だと諦めた。フリードリンクのコーナーに行ってウーロン茶を取り、適当に漫画本を手にして部屋に戻った。

 今も隣からは寝息が聞こえてくる。高橋はなぜ彼がここまで落ち着いていられるのだろと不思議に思ったが、昔から図太い男だったことを思い、特に気にしないようにした。自分が繊細だというわけではない。彼が図太いのだ。

 それからしばらく高橋は持ってきた漫画本に目を通していたが、なかなか頭には入っていかなかった。

 頭に浮かぶのは対戦相手、渡辺のことであった。彼はなぜこんなサイトに参加して、今夜こうして殺し合いをしようとしているのだろうか。

 高橋は渡辺のプロフィールを思い出した。数日前に運営委員会から渡辺の詳細なプロフィールが送られてきたのである。対戦者には相手の詳細な情報が送られる。相手にも高橋の情報が送られているのだろう。それを考えると、相手にはどれほどの情報が行っているのかと少し気になったりもした。

 渡辺は高橋よりも一歳年上である。千葉県に生まれ、現在は千葉県内の市役所で勤務している。三二歳の妻と、四歳の娘、二歳の息子の四人でマンションで暮らしている。父は高校教師、母は看護師の長男として生まれ、中学、高校共に千葉県内の公立学校に、大学は東京の国立大学に通った。妻とは共通の趣味であるテニスサークルで知り合い、六年前に結婚した。

 経歴はいたって普通である。先日ルールを決めた時の文章を見た限りでは理性的で、変な部分は見られなかった。そんな彼が、なぜこのような世界に足を踏み入れ、今日自分達と殺し合いをするのだろうか。彼の心にはどんな闇があるのだろうか。

 妙にそこが気になった。なんとなく、それが葛西が在籍していた理由につながっているような気がした。

 そんなことを考えていると余計眠れずに、高橋はそのまま漫画本を読むことで時間を潰した。

 延々と待ち続け、七時前頃になってようやく隣の席から物音が聞こえるようになった。坂本が目を覚ましたようである。しばらくして「そろそろ出るぞ」という声が聞こえてきた。二人は支度をしてネットカフェを後にした。

 ネットカフェを出ると、すでに陽は落ちていた。しかし新宿駅前は多くのネオンで昼間と大して変わらぬ明るさを保っていた。

 二人はそのまま雑多な駅前を歩き、適当に雑居ビルの中の飲み屋に入った。地元にもあるチェーン店である。七時という割と早い時間であるが、店内は活気に満ちていた。二人は通された半個室のテーブル席に腰を掛けた。

「俺は運転があるから飲めないけど、お前は必要なら酒呑んでもいいぞ」

 坂本はそう言ってメニューを高橋に渡した。

「いや、いいよ。そんな気分じゃないし」

 結局二人はウーロン茶と、簡単な食べ物を注文した。

「あんまり食べ過ぎないようにな。夜中に動くから」

 坂本はそれだけ言うと押し黙ってしまった。

 それからしばらく二人は沈黙の中、黙々と食事を摂った。本番が近づくにつれ緊張してきた高橋はあまり食欲が湧かなかったが、少々無理をしながらお茶漬けなどを口にすることにした。

 茶碗を持ちながら、チラと坂本を見た。彼は無表情であるが、しっかりと食べ物を口に運んでいる。その動じない姿を見ると、本当にこれから殺し合いをするのかというのが疑問に思えてくる。高橋はやはり実感が湧かないでいた。

「……この前さ、実感がないって言ってたけど、今は大丈夫か?」

 急にそう言われ、高橋は身を揺らせた。図星を突かれ一瞬動揺したが、平静を装って、

「大丈夫だよ」

 高橋がそう言って大きくうなずくと、「ならいいんだ」と再び口を閉ざして食事に戻った。

 よく見ると坂本もいつもと雰囲気が違う。いつもなら酒が呑めないことに残念がり、こんな辛気臭い雰囲気もださないだろう。彼も動じてないように見せてはいるが、緊張しているのだろうか。

 そのまま二人は無言のまま飲み屋で時間を潰し、九時過ぎになってから再び最寄りの駅へと足を運んだ。二人は昼間車を駐めたコインパーキングに行き、シルバーのワゴン車に乗り込んだ。昼間と同様に坂本の運転で会場へと向かう。

 山道に入ると昼間とは打って変わって闇に包まれている。街灯はほとんどない。車のヘッドランプの明かりだけを頼りに進んでいった。

 昼間と同じ道を辿り、会場の川端病院に到着した。昼間とは異なり、病院の敷地に入る門の辺りに男が二人立っており、通れないようにしていた。

 坂本は門の前に車を止め、窓を開けた。

「高橋さんと坂本さんですね?」

 男の一人は昼間に青梅駅で会ったスーツ姿の男だった。

「また、念のため身分証を見せえてもらえますか?」

 そう言われ、二人は再び運転免許証を渡した。スーツ姿の男は昼間と同様に軽く確認し、「どうぞ」と中へとうながした。

 敷地内に入ると、右側前方で光が左右に振れているのが見えた。どうやら人がライトを振っているようである。感じからして我々を誘導しているのだろう。坂本もそう思ったようで、車をゆっくりとその光の方へと向けていった。

 案の定そこは病院の駐車場であった。辺りには数台の車が駐車してある。その数は昼間よりも多い。昼間見た白いバンも停まっていた。

「高橋さんと坂本さんですね?」

 ライトで誘導していた男が、先ほどと同じように確認してきた。彼もまた、スーツを着たまじめそうな青年であった。

「渡辺さんはすでに到着してます。では渡辺さんも含めて説明を行いますのでついてきてください」

 男にそう言われ、彼について歩き出した。しかし坂本はそこから動こうとしない。

「……坂本?」

「お前一人で行ってくれないか? 俺は一応見えない共闘になっているからさ。後で合流しよう」

「……そういうものなのか?」

「ああ。もう戦闘は始まっているんだよ」

 坂本はそう言い残すと闇に紛れてどこかに行ってしまった。

「…………」

 戦闘はもう始まっている。確かにそうなのかもしれない。男の言葉の通りならば、これから対戦相手である渡辺と顔を合わせることになるのだ。相手に与える情報は少ない方が良いのだろう。

 ついに始まるのか。そう考えたら少し身震いをした。

「……高橋さん?」

 なかなかついてこない高橋に、男が振り返って声を挙げた。

「ああ、すみません」

 高橋は慌てて男の後ろを追った。男は病院の外を大きく迂回して裏口方へと向かっていった。途中見張りらしき人物と何度かすれ違った。

 かなり大掛かりな警備である。本当に人殺しを行うのか。高橋は次第に鼓動が早くなっていった。実感が湧かないとか、そんなこと言っていられない。

 やがて男は裏口で足を止めた。正門とは異なり観音開きのドアである。そのドアのすぐそばにライトを持つスーツ姿の男が二人と、七部丈のTシャツを着た男が立っていた。渡辺だろうか。彼はこちらを見ると小さく会釈をした。

「では平成二一年三月の戦闘を執り行います」

 高橋が到着し一呼吸を置いた後に、先に着いていたスーツ姿の男の一人が向き合うように立って声を挙げた。

「なお、私は本戦闘の執行委員長である栄田です。よろしくお願いします」

 栄田と名乗る男は小さく頭を下げ、再び皆の方を向き直した。

「それでは最終確認を行います。本対戦は新入会員特別対戦となります。高橋圭介対、渡辺裕也。会場はこの病院跡地となります。本戦闘のルールは……」

 それから栄田は先日取り決めたルールについて一つ一つ読み上げていった。

「……以上です。何か変更点、質問等はありませんか?」

 渡辺は間髪入れず「大丈夫です」と言った。高橋も遅れてそれに続いた。

「はい。それでは今回は二人とも初戦ですので、大前提であるルールを伝えます。まず、本対戦の勝敗は、死によって決まります。つまり、相手側陣営を全員殺害したら勝ちですし、自分側陣営が全て死ねば負けになります。その際、見えない共闘に関しては生死を問いません。例え見えない共闘の相手が生きていても、対戦相手として名前が挙がっている人を全て殺せば勝ちとなります。なお、午前四時を超えても決着がつかない場合は引き分けとなります。死傷者が出たとしても、双方の陣営に生存者が残ってる場合は引き分けとなります。ここまではよろしいでしょうか?」

 二人は揃ってうなずいた。高橋は急に「死ぬ」や「殺す」という単語が出てきて驚いてしまったが、対戦相手がいる今は、あまり動揺しているところを見せてはいけないような気がした。

「続いて勝敗が決まったあとの手続きについてです。相手側陣営を全て殺害し、勝利が確定した場合はこの場所、病院の裏口に来てください。私を含む運営委員が待機しておりますので、勝利し終戦した旨伝えてください。その後は遺体処理のために遺体の場所などを運営委員に伝えて、対戦終了となります。

 最後に緊急事態が起こった場合です。警察や第三者に発見されたなどの不測事態により運営委員が戦闘中止を決めた場合、サイレンが鳴るようになっております。その場合は速やかに戦闘を中止し、逃走を図ってください。以上です。何か質問はありますでしょうか?」

 栄田は二人を見回した。二人とも、首を横に振った。

「了解しました。それでは戦闘開始は午前〇時です。開始一〇分前には所定の階に待機しておいてください」

 栄田は一礼をすると、その場から離れていった。いつの間にかここまで連れてきた男達もいなくなっている。残ったのは高橋と渡辺の二人である。

「えっと、高橋さんですね? はじめまして。渡辺です」

 運営委員がいなくなって一呼吸置いて、渡辺は控えめな調子でそう言ってきた。

 改めて渡辺の姿を確認した。彼はさっぱりとした印象である。黒髪を短くカットし、無造作に固めている。爽やかな笑顔を浮かべる彼は、市役所職員というよりは、体育の教師の方がイメージとして合っているような気がした。

「今日はよろしくお願いします。お互い頑張りましょうね。今日は負けませんよ」

 渡辺は爽やかな笑顔のまま握手を求めてきた。

「え、ええ……」

 高橋は面を喰らいながらも握手を返した。

「それじゃあ、私は先に行ってますね。今日は頑張りましょう」

 渡辺はその言葉を残して建物の中へと入っていった。その足取りは軽い。彼は室内に入るとライトを点け、走っていった。


 坂本とは先ほど別れた駐車場で合流した。

「渡辺はどんなヤツだった?」

 坂本は会うなりそう言ってきた。坂本も渡辺のプロフィールは見ているのでどんな人物かは解っている。その情報と乖離がないかを確認したいのだろう。

「なんというか……変な感じだったよ」

「変? 何か事前情報と違う所があったのか?」

「いや、確かにプロフィール通りだけど、なんというか……本当にこれから戦うのか? って感じだったな。お互い頑張りましょう、なんて言われたよ」

 高橋がそう言うと、「ああ、そういうことか」と納得した顔をした。

「まあ、このサイトの一番の特徴だよな。みんなスポーツみたいなもんだと思っているんだよ」

 スポーツ。それは以前このサイトの掲示板を見ているときに高橋も感じた。勝った負けたという言葉が軽いのだ。「負け」が「死」につながっていないような、そんな感じなのだ。

 だからこそ、高橋は今でもこれから殺し合いを行うという実感が湧かないのである。

「なんだかんだ言ってみんな怖いんだよ。死ぬのがな。でも止められないから、ああやって死ぬかもしれないって現実から逃避しているんだよ」

「…………」

 高橋はふと、葛西はどうだったのだろうかと思いついたが、口には出さなかった。今はこれからの戦闘の事を考えなければならない。それこそ、逃避になってしまう。

 やがて二人は先ほど戦闘の説明を受けた病院裏口に着いた。今は人影はない。渡辺は既に院内に入っているようであった。

 病院の内部は昼間とは全く違う。月明かりも届かなくて、手元すら見えないほどの暗さだった。すぐ目の前が壁であっても見ることができない。坂本が用意したライトがなければ一歩も進めない状態である。

「用意がいいな」

「当たり前だ。夜やるんだから」

 二人はそんなやり取りをしながら、裏口から入って右手側にある階段を上り、五階へと足を運んだ。

 初めて踏み入れる階だったが、構造は四階と同じようだった。二人は階段を上ってすぐのところで腰を下ろし、戦闘開始の時間まで待つことにした。

「ほら、これ」

 坂本は持ってきたボストンバッグからジャケットを取り出して高橋に渡した。暗くて色までは解らないが、襟付きのジャケットであった。前にジッパーが付いている。見た目よりも重い。高橋はジャケットを持った手にズシリと重量を感じた。

「これは?」

「防刃ジャケット。これと前面にアルミ板を入れれば刺されても大丈夫だ。あとこれ……」

 坂本はもう一つ、ボストンバッグから手のひらの収まる「なにか」を取りだした。これは最初なんなのか解らなかったが、坂本に光で照らされてようやく解った。

 折りたたみナイフである。柄の部分がちょうど手のひらに収まるぐらいの大きさである。金属製の柄が冷たく感じた。

 ブレイドは爪で引っかけて開くようになっている。試しに開いてみた。坂本が照らすライトで、銀色のブレイドが怪しく光っている。自分の顔が映り込み、高橋は慌ててナイフから顔を離した。

「…………」

 ブレイドが刃に向かってカーブしているからだろうか。自分の瞳が酷く歪んでいるように感じたのだ。

 これをこれから使わなければならないのか。そう思うと高橋は急に震えが止まらなくなった。動悸が激しくなり、少し息苦しくなってきた。これを使って、自分達か相手が死ぬのだ。これから一時間後に。

 殺し合い。その言葉が頭を過ぎる。これは殺し合いなのだ。でもなぜこんな事を?

「高橋」

 不意に高橋の左の頬が熱くなった。次に痛みが走る。どうやら坂本に叩かれたようだった。

「落ち着け。今は深く物事を考えるな。大丈夫だ。これは今回は使わないだろうから。お守りみたいなモノさ」

 坂本はそう言いながら高橋の手からナイフを奪い、折りたたんで高橋のズボンのポケットにねじ込んだ。そして高橋の肩を掴んで正面から見据えた。

「大丈夫。お前は俺の言ったとおりに動くだけでいいんだ。絶対にうまくいく。大丈夫だから、な?」

 坂本の手に力が入る。

「俺に任せておけばいいから、な?」

「……うん。もう大丈夫だ。大丈夫だから、手を離してくれ。肩が痛い」

 高橋は顔を歪めながら自分の両肩をあごで指し示した。熱気を帯びた坂本の手が深く食い込んでいる。

「あ、ああ。ごめんごめん」

 坂本は慌てて手を離す。痛みから解放された高橋は深く息をついた。肩はまだ鈍く痛むが、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。いつもの坂本の反応に、少しだけホッとしたようだった。

「……で、大丈夫か?」

「多分。まあとりあえず深くは考えないようにする」

「ああ。葛西の仇だけ考えていようや。これが第一歩になるんだからさ」

 本当にこれが第一歩なのだろうか。高橋はふとそんな疑問が頭をかすめたが、口には出さなかった。

 それからしばらく二人は沈黙の中ジッと時が過ぎるのを待った。先ほど時計を確認したら午後一一時三〇分だった。あと三〇分である。

 待っている間、ライトは点けなかった。坂本曰く「戦闘が始まったらライトは極力点けないようにしたい。今のウチから闇に慣れなければならん」そうだ。

 闇に慣れると、ぼんやりとだが辺りが見えるようになってきた。どこかから月明かりが差しているのだろうか。

 坂本の姿もシルエットだけは確認できる。彼は高橋の隣で、微動だにせずに座っている。一瞬眠っているのかと思ったが、どうやらそうでもなさそうである。静かに時が経つのを待っているのである。

 しばらくして坂本が動き出した。腕時計を確認しているようである。腕時計の小さなライトをつけて確認し、「あと一〇分か」とつぶやいていた。

「……すまんな。明日ゆかりちゃんとお前の実家に行くんだろ?」

 急に坂本が改まったように口を開いた。高橋は一瞬驚いたが、なぜ知っているのか、と聞くことはなかった。

 そういえばゆかりと歩美は、高橋達が疎遠の間も交流が合ったのだ。お互いの男衆を通さなくとも仲良くやっている。ゆかりが歩美に大事なイベントを話さない方がおかしいのだ。

「すまんな。こんなことに巻き込んでしまって」

「いや、いいよ。勝てばいいんだろ? ま、ちょっと寝不足で行くことになるだろうけどな」

「ま、帰りの新幹線の中でぐっすり寝てくれ。じゃ、そろそろ行くかな」

 坂本はスッと腰を上げた。高橋も合わせて立ち上がる。

「ま、心配することはないさ。大丈夫」

 坂本はそう言って高橋の背中を強く叩いた。高橋は咳き込んで一瞬息ができなくなったが、笑顔でそれに応えた。

 お互いの表情などほとんど見えていないのだが。


 四階に下り、階段の踊り場からフィールドの中に足を踏み入れると、坂本は廊下に落ちている先のない壊れたモップを拾った。それは昼間探索している中で見つけたものである。彼はその壊れたモップを使って音を発することにしたのだ。

 坂本は最後に時計を確認した。一一時五九分。あと五秒、四、三、二、一。

 〇時となり、しばらく経った後に、遠く離れた場所から乾いた音が聞こえてきた。渡辺側の合図である。

 「・定刻となったらそれぞれ階段を使用して四階に移動、四階に到着したところで双方音を発して戦闘開始とする。」

 坂本は一呼吸を置き、高橋の肩に手を添えながら、モップの柄で廊下を思い切り叩いた。乾いた音が鳴り響く。

 それを合図に戦闘が開始された。

 モップの柄で床を叩きながら、左に続く廊下をゆっくりとした足取りで歩いていった。高橋はその音を聞きながら、坂本に言われたとおりに自動販売機と柱の隙間に身体を入れ、身を潜めた。

 高橋の目の先に坂本の後姿がうっすらと確認できる。坂本は昼間に「こっちからだと丸見えだよ」と言った方向に歩いていったのである。彼は臆することなくゆっくりと歩いていって、突き当りまで行くと右に曲がって高橋からは見えなくなった。

 それからしばらく沈黙が続いた。坂本の発するモップで床を叩く音しか聞こえてこない中、高橋はただジッと、息をするのにも神経を使って闇と同化していた。

 何も考えずにただひたすら時を待つ。高橋は心の中で繰り返しそう唱えたが、心の中に湧き出る恐怖感に、心が折れそうになっていった。

 心を紛らわせるために別のことを考える。渡辺はなんでこんなことをしているのだろう。高橋は先ほど見た渡辺の姿を思い出した。

 とても爽やかな人であった。快活で、恐らく友達も少なくないだろう。市役所勤めで妻子がいて。何一つ不満となる要素は感じられない。もちろんつい先ほど会ったばかりで、渡辺の全てが解るわけではない。それでも高橋が抱いた印象では、彼が殺しに手を染める人間とは思えなかった。

 ふと佐藤を思い出した。もしこのサイトの「佐藤」と、あの「佐藤」が同一人物だとしたら。殺しをしているようには見えないという点では彼も同じである。表面上は虫一匹殺せないような顔をしている。しかしそれはあくまで表面上の話であって、心の中には暗く深い闇が広がっているのだろうか。この渡辺も。

 それでは葛西は? 葛西も穏やかな顔の裏に闇を抱えていたのだろうか。

 そんなことを考えていたためか、高橋は反応が遅れてしまった。

 腕を掴まれた。高橋が驚いている間に外へ引きずり出された。暗闇の中ぼんやりと見える。渡辺だ。そう思った時には全てが手遅れとなっていた。足を引っ掛けられ、廊下に倒された。

 高橋は必死にもがくが、渡辺に馬乗りにされて身動きが取れない。

「おっと、声出しちゃだめですよ?」

 首筋に冷たいものを当てられた。高橋は喉を鳴らす。何となく、見なくても解る。ナイフだ。

「そう。静かにしていれば苦しまずに殺してあげます」

 高橋は身震いした。ようやく確認できた高橋の顔は、先ほどと全く別人だった。目も口も奇妙に歪んでいる。もしかしたら笑っているのかもしれないが、高橋にはそうは見えなかった。

 これがあの爽やかな渡辺なのか。そう考えると高橋の震えは次第に大きくなっていった。

「ハッ、ハッ、ハッ……」

 心臓が張り裂けそうなくらい波打っている。高橋は息苦しくなり、口で息をするようになった。

「そんなに怖がらなくてもいいですよ。せっかくだから楽しみましょう。……それにしても見えない共闘の人がいるのかと思ったら高橋さんでしたか。ダメですよ? こういうのは積極的に行って楽しまないと」

 渡辺はそう言って再び口元を歪ませた。やはり快活な渡辺は仮面だった。こちらがホンモノだったのだ。高橋の呼吸はさらに強くなっていった。

「ま、あんまり痛みがないようにしますよ」

 渡辺はそう言ってナイフを逆手に持ち、高橋の心臓辺りに近づけた。何度か狙いを定め、一度振りかぶると、一気にナイフを突き下ろした。高橋は恐怖に目をつぶった。

 カンッと、乾いた音が響いた。坂本から借りた防刃ジャケットと、内部のアルミ板がナイフの貫通を防いでいた。

「ハッ、ハッ……」

 高橋は気が遠くなるくらいの恐怖を感じた。坂本から何度も大丈夫だと説明を受けていたが、それでも怖いものは怖い。

 渡辺はすぐに防刃ジャケットに気付いたようである。強く舌打ちをしてナイフを順手に持ち変えた。

「防刃ジャケットですか。興が冷めますね。仕方ない。少し痛いですが我慢してください」

 そう言って、渡辺はナイフを高橋の首筋に這わせていた。ナイフの冷えた感触が高橋の背筋を凍らせる。まだかまだか。

 高橋がそう念じていると、渡辺の背後に人影が見えた。人影は渡辺の身体に覆いかぶさり、渡辺が驚いている間にナイフを取り上げた。

 坂本である。彼は渡辺からナイフを取り上げると、渡辺の横腹に拳をめり込ませた。

「グッ……」

 渡辺の顔が苦痛で大きく歪む。苦しんでいる間に坂本は渡辺の身体を引きずっていった。高橋から引き離すと、渡辺を後ろ手に手錠をかけていた。

 ようやく開放された高橋は立ち上がり、坂本のそばへと向かう。

 相変わらず遠く離れたところから音が聞こえる。それは坂本が持ってきた携帯型スピーカーから聞こえる音だった。

 高橋は昼間聞いた作戦を思い出した。

 高橋は始まったらすぐにこの隙間に隠れてくれ。俺が音を出しながら歩き回る。するとヤツはまず間違いなくここに来る。隠れる場所はここしかなくて、音を発するヤツはは一人で歩いているんだからな。誰かもう一人は隠れていると読むだろう。

 渡辺はお前を見つけても、恐らくすぐには殺さないだろう。お前が怖がっている所を見たいだろうし。恐らくその時俺はここからちょうど対角線上にいるはずだ。渡辺もその頃を見計らってお前を急襲するだろう。

 で、お前はヤツが楽しんでいる間に俺に電話をかけてくれ。あらかじめ俺を選んでおいて、通話ボタンを押すだけでかかるようにしておいてくれ。

 俺はその着信を受けて、これをセットする。携帯型のスピーカーだ。あとで本番の時に発する音を録音して、その音を鳴らせる。渡辺はまだ俺が対角線上にいると思い込んでいる間にお前の所に行く。で、ヤツを後ろから襲う。この作戦で行こう。

 でも、それでは……。

「……卑怯だぞ。ルール違反だ。音を出していないじゃないか」

 渡辺は呻きながらか細くそう言った。あの時高橋が訊ねたのと全く同じことである。でも、それでは坂本は途中から音を出していないことになる。それではルール違反ではないか?

「音? 出しているよ。聞こえないのか?」

 坂本は小さく笑いながら高橋を指差した。

「ハッ、ハッ、ハッ……」

 高橋は荒く口で息をしていた。わざと、はっきりと聞こえるように強く。

「俺が音を出さなくなる前からこいつは音を発していた。ルール違反じゃない。さ、観念するんだな」

 坂本のその言葉に、渡辺は唸り声を上げた。負けを認めたのだろう。

 高橋は口での呼吸をやめ、大きく息を吐いた。緊張から開放され、一気に力が抜けてしまった。腰砕けとなり、その場に崩れ落ちてしまった。

「……さて、と」

 坂本は手錠で身動きが取れなくなっている渡辺を立たせた。

「高橋はちょっとここにいてくれ」

「……どうするんだ?」

「まあ、いいから」

 坂本の口調は硬かった。いつもとは違う。彼は渡辺を連れて真っ暗な廊下を歩いていった。

 なんとなく、何をするのかは解っていた。この戦闘の勝敗はどうなれば決着がつくのか。戦闘が始まる前の説明ではどう言っていたのか。

 解っていたが、高橋は身動きが取れないでいた。緊張から解けたせいか、身体に力が入らなかったのだ。

 いや、本当は動けたのかもしれない。いくらなんでも全身の力が抜けるとは考えにくい。高橋は後にこのときのことを思い出すと、そう考えてしまう。もしかしたら動けたのに、動かなかったのではないか。しかし、このときは確かに全身の筋肉が弛緩し、ただジッと闇に消えてゆく坂本と渡辺を無言で見つめていたのだ。

 坂本が帰ってきたのはそれから一〇分後のことだった。

 渡辺は帰ってこなかった。

「終わった。帰ろうか」

 そう言う坂本は、表情が少し険しい以外に特に変わったところはないように見えた。返り血もなにもない。そのため本当に殺したのかどうなのか、よく解らなかった。

「ああ」

 しかし高橋はそのことが聞けなかった。ただ黙って階段を下りる坂本についていった。

 こうして渡辺との戦闘は高橋達の勝利で幕を閉じたのである。

 高橋にはいまいち勝利の実感はなかったが。


 病院裏口に行くと、最初の説明どおり、栄田を含む運営委員が三人待機していた。

「終わりました」

 坂本がそう言うと。栄田は無言で小さく礼をした。

「解りました。それではこれから遺体の確認を行いますので、殺害場所を教えていただけませんか?」

「廊下に転がってる。見れば解る」

「了解しました。では確認に向かわせます」

 栄田はそう言うと、無線機のようなもので連絡を取っていた。中に待機している運営委員に連絡を取ったのだろう。それからしばらく待つと、栄田の無線機に連絡が入った。二、三言確認し、

「確認が取れました。この戦闘は坂本さん、高橋さんの勝利です。おめでとうございます」

 そう言って笑顔で拍手をした。栄田に続き、二人の運営委員も続いて拍手をする。

「遺体処理等はこちらで行っておきますので、お二人は我々の車で駅まで送ります」

 小さく礼をして栄田はその場から離れた。残った二人の男にうながされ、入り口近くの駐車場に連れて行かれた。

「どこの駅までお送りしましょうか?」

「新宿駅」

 坂本が短くそう答えると、白のバンは発進した。坂本と高橋が後部座席に座りながら、バンは深夜の都内を走っていった。

「とりあえず、始発まではネットカフェで時間を潰そう。六時くらいには新幹線動くだろうから」

 途中坂本がポツリとそうつぶやいた。高橋は小さく「ああ」とだけ返す。

 新宿は午前二時という時間にも関わらず、活気にあふれていた。駅から少し離れた路地で降ろされた二人は、昼間に入ったネットカフェで朝まで時間を潰すことになった。

「…………」

 早々に寝息を立てている坂本の隣の個室で、高橋はリクライニングシートに深く腰を掛けながら、物思いに耽っていた。

 果たして渡辺は本当に死んだのだろうか? どうしてもそこに疑問を感じてしまう。そこに現実感が感じられないのだ。

 渡辺は先ほどまで生きていた。「お互い頑張りましょう」と自分に笑いかけていたのだ。その渡辺が死んだ? そして殺したのは隣で寝ている坂本? とても現実味がなかった。

 皆が自分を担いでいて、実は生きているのではないか? あくまで「死んだ」と言うのはネット上での話で。

 そう頭に浮かんだが、葛西が現実に姿を消した事を思い出して、考えを改めた。そんな甘い考えではない。これは現実なのだ。いや、しかし。

 高橋は考えれば考えるほど、深みにはまっていった。殺害シーンを目の当りにしていなかったのも原因としてあるようだ。どうも現実の話として受け止められない。

 もう一つ原因がある。なぜ坂本はあんなに平気な顔をしていられるのだろうか。坂本は少し顔をしかめているが、普通に運営委員と受け答えをし、今は普通に眠っている。人を殺してすぐにこんなことができるだろうか。

 高橋はそんな鬱屈とした気持ちのまま、朝まで眠れずに過ごした。

 午前五時を過ぎ、隣の個室からゴソゴソと物音が聞こえ始めた。その後、「そろそろ出るぞ」という坂本の声がして、ネットカフェを後にした。

 新宿駅から中央線に乗り、東京駅経由で始発の新幹線に乗る。新幹線の車内では三人掛けのシートに並んで座ったが、二人は一言もしゃべらなかった。本当に殺したのか。高橋はそれを確認したかったが、目を瞑り、眠っているのかどうなのか解らない坂本に、結局聞くことができずに地元に着いてしまった。

「……お疲れ。じゃあ家族面談、頑張ってな」

「ああ」

 そんな短い言葉で二人は駅前で別れた。

 高橋はアパートに帰り熱めのシャワーを浴びると、すぐに出発の準備をした。少し倦怠感はあるが、目は冴えている。大丈夫そうだった。

 それからすぐゆかりが訪ねてきた。

「……どうしたの? その顔」

 ゆかりは会うなり眉をひそめてそう言ってきた。ゆかりにうながされて洗面所で己の顔を見た。顔色が悪く、目元は深い隈ができており、肌にも艶が感じられない。明らかに疲れた顔をしていた。さすがに昨日から一睡もしていないだけある。身体は正直なようだった。

「ああ。昨日ちょっと仕事が立て込んでね。まあ、大丈夫だよ」

「そう? でもこのまま行ったら心配するかもしれないし……」

 ゆかりは洗面所下の物置き場から自分のスキンケア用品を取り出した。彼女が家に泊まりに来た時の為に常備している物である。ゆかりはその中からチューブ式のクリームを取り出し、高橋の顔に塗り付けていった。

「これは肌に艶が出るクリームなの。これで少しはマシでしょう」

 高橋はゆかりにされがままに顔にクリームを塗られ、「ほら」と鏡を再度見させられると、確かに先ほどよりは顔色が良くなったような気がした。

「よし。じゃあ行きましょ?」

「ああ」

 それから高橋は淡々とこなしていった。高橋の車に乗り込み、実家までの道中に着てきた服についての感想を訊かれた。実家に着くと、両親とゆかりの双方緊張しているので、その間を取り持って話題を提供したりして、何とか無難に過ごすことができた。

 昼食はゆかりを入れて四人で食べることになった。これは両親からの提案である。夕食会となると改まった感じで嫌だから、昼食会にしよう。形式張ったことが嫌いな両親らしかった。母親とゆかりが並んで料理をしていた。

 家族との面談は昼過ぎに終わった。ゆかりと一緒に高橋のアパートへと帰った。

「なかなか良さそうなご両親だったね」

 アパートに着いたゆかりは大きく息をついてそう言ってきた。どうやら高橋の両親を気に入ってくれたようだった。

「そうか? うるさいだけじゃなかった?」

「ううん。楽しそうな家庭でよかったよ。私もうまくやっていけそうでホッとした」

「そうか……」

 高橋はそう言って深く息をついた。

「なによ。何か不満なことでもあったの?」

「いや、疲れただけだよ。仕事が大変でね」

 その日は早めの夕飯を摂ってゆかりを帰した。

 どうも気持ちがフワフワとして定まらなかった。ゆかりと家族の面談も、昨日の夜の出来事も、全てが他人事のように思えて仕方がなかった。とても現実であったとは思えない、夢の出来事のように思えた。

 しかし部屋着に着替えるためにズボンを脱いだ時、ポケットから落ちた折りたたみナイフを見て、やはりあれは現実なのだと思い直した。

 その折りたたみナイフは戦闘の時に坂本に無理やりポケットに入れられたものだ。ナイフは蛍光灯の光を反射して少し眩しく感じた。あの時の気持ちが思い出されて嫌になって、高橋はそのナイフを押入れの中に隠すように仕舞った。

「…………」

 それでも、これで少しは葛西に近づけたのだろうか。高橋は窓の外に広がる夕暮れを眺めながら、そんなことを考えた。

 葛西はいつも穏やかに微笑んでいたが、結局何を考えていたのか理解してあげることができなかった。この一勝が葛西の気持ちを解ってあげる一歩になり得たのだろうか。

 解ったからどうなるのか。それは考えないようにした。

 その日は緊張の糸が切れたのか、夜になる前に意識を失うように眠ってしまった。そして翌朝まで一回も起きることはなかった。


 一晩眠り朝を迎えると、昨日の出来事が余計に現実味を失っていった。いつものように部屋に差し込む朝日。暖房を点けなくても良くなった寝室。テレビをつけると、いつものように政治経済の話題からどこで桜が見頃かという情報。全てがいつも通りでなにも変わることがない。それに比べて一昨日の東京での出来事は、日常から逸脱しすぎている。頭では解っているのだが、心のどこかに「夢だったのではないか」という気持ちが残っていた。

 いつものように朝食にトーストをかじり、朝の支度をするためにリビングに足を運んだ。

「…………」

 リビングの押入れに身だしなみを整える道具一式があるのだが、押入れを開ける気持ちにならなかった。そこには坂本のナイフを押し込んでいる。今はその「現実」を直視したくなかったのだ。

 仕方なく洗面所にあるものだけで何とか身だしなみを整えて、会社へと向かった。

 外はすっきりと晴れ渡っていた。ここ数日は気候が安定している。高橋の住む所は比較的寒い地域なので、ようやく上着を着なくて良くなったところである。桜の開花はもう少し先のようだ。駅までの通り道にある桜並木は、まだ四分咲きといったところか。

 そんな薄く花が開きかけている桜を見て、ふと葛西を思い出した。最近は思い出す回数が増えているような気がする。

 いくら自分が現実から逃避したところで、葛西がいなくなった事実は変わらないのだ。そんななか、自分ひとりだけが現実から逃げていて、良いのだろうか。自分は葛西の仇を討つと誓ったのではないか。

 しかし、こんなことをして、本当に葛西の為になるのだろうか。葛西はこんなことを望んでいるのだろうか。

 高橋はそれ以上考えても答えが出ないので、考えないことにした。最近このように考えすぎてしまう。もしかしたら坂本のように、これだと決めたらそれ以上は考えずに突き進んだ方が良いのかもしれない。

 高橋は気持ちを取り直して、会社へと急いだ。

 今日は少し早めに着いてしまったようである。会社にはまだ佐藤の姿しかなかった。

「あ、高橋さん。おはようございます」

 佐藤は高橋の出社に気づくと、立ち上がって頭を下げてきた。その顔はいつものように卑屈な笑みを貼り付けている。

「おはようございます」

 高橋は挨拶を返して上着を脱ぐと、パソコンの電源スイッチを入れた。軽くストレッチをして起動を待った。佐藤は既に先週末にやり残していた仕事に取りかかろうとしていた。

 なかなか高橋のパソコンが起動しない。日々酷使しているせいか、最近様々な動作に時間がかかるようになった。もうそろそろ新しいパソコンに替えたい所だが、まだリースアップまで半年残っているんだよな。そんなことをぼんやりと考えながら過ごしていると、

「おめでとうございます」

 不意に佐藤がそう言ってきた。最初空耳かと思って聞き流したが、「あのこと」を思い出してハッと顔を上げて佐藤を見た。

 佐藤はいつもとは異なる、鋭い笑みを一瞬だけ浮かべて、すぐにいつもの笑みに戻っていた。

「高橋さん、どうしました? そんな険しい顔をして」

「佐藤さん……今おめでとうございますって……」

「はて、そんなこと言いましたかね。最近物忘れがひどくて」

 佐藤はそう言って頭を掻いていた。いつもの佐藤である。でも、先ほどの佐藤は別人のようだった。

 高橋は思い出した。あのサイトで見た「佐藤秋雄」という名前。今の「おめでとう」は、もしかしたら初戦に勝ったことに対する言葉ではないか。

「おはようございます」

 高橋がそんなことを考えているうちに若林が出社してきた。程なくして他の席も次々と埋まってゆく。始業の時間となった。

 それからの佐藤はいつも通り、簡単な仕事にくだらないミスをしていた。いつも通りのできないおじさんであった。

 そのため高橋もいつも通りに仕事をするしかなかった。

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