第一章
第1話
昨日までの陽気が嘘のように肌寒い日だった。高橋圭介は待ち合わせ場所に到着してから半袖で来てしまったことに後悔した。
チラと腕時計に目を移す。現在午後二時四〇分。既に待ち合わせ時間から一〇分経過している。彼が時間にルーズなのはいつも通りだが、今回は相手がいる用事である。
彼の遅刻時間も考慮して先方に到着時間を伝えておいて本当に良かった。高橋は時計を見ながらそう心の中でつぶやいた。彼とは二年ほど会っていなかったが、少なくとも時間にルーズであるという所は変わっていなかったようである。彼は仕事と飲み会の時以外で時間通りに来たためしがないのだ。
冷たい風が吹いてきた。高橋は軽く身震いしながら車の中に避難しようかと思い悩んだ。
高橋は今スーパーの駐車場にいる。葛西高志の家の近くで唯一大きな駐車場がある場所であり、今回の葛西の家への訪問の集合場所として決めた所である。田園風景の中にぽっかりと存在するそのスーパーは、日曜の昼時だというのに人の入りが少なく閑散としている。とても静かで虫の鳴き声と鳥のさえずり、後は木々の擦れる音しか聞こえてこない。高橋が住む街からそんなに離れていないのに、まるで別世界のように感じられた。
高橋はそれら自然が奏でる音に耳を向けながら、先日突然来た葛西の母親である葛西ゆきこからの電話を思い出した。
「ほら、あの子がいなくなってもう四年になるでしょ? 本当ならまだ早いのかもしれないけど、私達もこれ以上待っているのも辛いのよ。だから一区切りつけたくて……ね?」
急の電話でそんな風にいきなり切り出されて最初は何を言っているのか解らなかったが、すぐにそれが失踪した彼女の息子、葛西高志のことを言っているのだと解った。
彼女曰く、それまでいつ葛西が帰ってきてもいいように彼の部屋を失踪当初からずっと保存していたようである。しかし埃が溜まらないように掃除をする度に彼のことを思い出し、辛い気持ちになってしまう。そろそろ気持ちに区切りをつけて前を向くためにも、彼の部屋の物を綺麗にすることを決意したようであった。
「……もちろん整理が終わった後に高橋君と坂本君にも来てもらって、形見分けじゃないけど、あの子の使っていたものを持って行ってもらおうと思っていたの。それで机の中の物とかを出したりしていたんだけど、その中から出てきたのよ」
それは少し大きめな茶封筒だったらしい。「母へ」と表に書かれたその封筒の中には三通の小さな封筒が入っていたらしい。
「その中の二通が高橋君と坂本君宛てだったのよ。だから、もし迷惑じゃなかったら取りにきてほしいのよ」
そうゆきこから電話があったのが二週間前である。高橋はもちろん、共通の友人である坂本祐司も快諾したが、現在坂本は東京に単身赴任中の身である。なかなかすぐには動くことが出来ず、調整までに二週間かかってしまった。そして実に四年ぶりに葛西の実家に足を向けることとなったのである。
彼の手紙には何が書いてあるのだろうか。高橋はこの二週間そればかりを考えていた。四年前に忽然と姿を消した葛西。書き置きも何もなくて、何を考えてそんな行動に至ったのかは結局解らず終いであった。もしかしたらその一端でも解るかもしれない。そう思うと高橋はいてもたってもいられなくなった。
それからほどなくして駐車場に見慣れた車が入ってきた。坂本の車である。もう二時四五分を回っていた。
「いやー悪い悪い。ちょっと道が混んでてな」
坂本は車を駐めるなり頭を掻きながらそう言ってきた。相変わらずさほど申し訳なさそうな顔である。
「……あのさあ。こんな時ぐらい時間通りに来いよ。相手がいる待ち合わせなんだからさ」
「ああ、そうだな。でもちゃんと遅れるの見越して時間設定しているんだろ?」
図星を突かれて高橋が一瞬言葉に詰まっていると、坂本は「いい友達を持って幸せだよ」と高橋の背中を強く叩いた。
「……お前全然変わらないな」
「あたりめえじゃん。この歳になってコロコロ性格が変わるかよ」
そう言って豪快に笑う坂本を見て、高橋はフッと笑みを漏らした。
坂本とは二年会ってなかったが、時間にルーズだということ以外も概ね変わっていなかった。自己中心的で強引だが、豪快で人情深いためにどこか憎めない。おそらく東京でもこんな感じで少し嫌がられながらも概ね好かれて過ごしていたのだろう。
「それにしても本当久しぶりだな俺ら。今まで連絡しなくてすまんな。いやー、仕事がメチャクチャ大変でなあ。私生活まで頭が回らなかったんだよ」
「ああ。俺も忙しくてな」
二人はそう言って小さく笑いあった。その笑い顔が少しぎこちなく、高橋は白々しい嘘だと苦笑した。
確かに二人はずいぶんと連絡を取っていなかった。しかしそれは忙しかったからではないことは二人共解っていた。
葛西がいなくなってしばらくした後に坂本は東京に転勤になってしまった。それでも昔からの友情は変わらず連絡を取り合って、坂本が帰省する折には酒を酌み交わしていた。
しかしどうも二人で飲んでいると葛西のことを思い出してしまう。話す内容もついつい葛西の話になってしまう。その度に高橋は辛く感じてしまった。
それは坂本も感じていたのだろう。二人は次第に疎遠になっていって、ここ二年ほどは全く連絡を取らない状況が続いていた。
しかしそれはそれでよかったのかもしれないと高橋は思った。今こうして坂本と会って、葛西のことを考えても当時のように辛い気持ちにはならない。自分の中では葛西の出来事は過去の事として受け入れることができたようだった。
「なに遠い目してんだよ。忙しくて連絡できなかったのは悪かったから、ほら行くぞ」
坂本は高橋の背中を叩き、そのまま肩を抱いて歩き出した。
感傷的な気分をぶち壊しにするところは昔から変わっていない。高橋はそう思いながら小さく笑った。
二人はスーパーでギフト用の菓子折りを購入し、坂本の車に乗りあって葛西の実家に向かった。
「それにしてもこうしてゆっくり話すのも久しぶりだな。最近仕事の調子はどうだ? まだ同じ所で働いているよな?」
坂本は運転しながらそう訊いてきた。
「ああ。まあ、変わらず働いてるよ」
「調子はどうだ?」
「……まあ、俺はそれなりなんだけどな」
高橋はそう言ってため息をついた。日々の仕事を思い出した。
「何かあるのか?」
「俺の下についた人があんまり仕事出来なくてな。佐藤さんって言うんだけど、俺よりもだいぶ年上で、扱いに困るんだよな」
「へえ。ちなみに佐藤何さん?」
「え? 佐藤秋雄さんだけど、なんでそんなこと訊くんだ?」
「いや、俺の知り合いに佐藤って姓が多くてな混同してしまうからさ」
坂本はハハッと笑いながら運転を続けた。
葛西の実家までの道のりは、延々と田園風景が広がる。もうすぐ収穫の時期のため、辺りは黄金色の稲が生い茂っていた。
米はゴールデンウィーク辺りの五月に植えられ、九月の終わりほどに収穫される。田植えの時期になると農家では年頃の息子だろうと関係なく手伝いに駆り出される。そういえば葛西もゴールデンウィークは「田植えがあるから」と誘いをことごとく断っていたな。高橋はふと困ったような顔をする葛西の顔を思い出し、小さく笑った。葛西は友達想いで、すぐ他人の言うことを真に受ける。坂本がかなり強引に遊びに誘って、それが家の用事でどうしてもそれが叶えられなかった時など、随分と後まで気にしていたものだ。彼はとても優しく友達想いの男だった。
葛西と坂本と三人で過ごした日々が思い出された。失われた今考えると、それら当たり前のように過ごしてきた日々が、どれだけ貴重で素晴らしいものであったか解る。
出来ればまたあの日々に戻りたい。そんな気持ちから高橋は何の気なしに運転中の坂本に訊いてみた。
「坂本はさ、葛西は生きていると思う?」
出来れば生きていてまたいつもの三人に戻りたい。坂本も同じ想いを抱いているであろうという気持ちからの質問だった。四年も音信不通で楽観的な考えであるのは高橋も十分に承知しているが、坂本の口から「もちろん生きていればいいな」。そんな言葉が返ってくることを期待していた。
しかし。
「さあな」
坂本は短くそう言い切ると、そのまま口をを閉ざしてしまった。その横顔は少し険しくなっていた。
なにか機嫌を損ねるような事を言ってしまったのだろうか。高橋はそれまでの会話を思い起こしたが、特に思い当たる節はなかった。
「よし、着いたぞ」
いつの間にか車は葛西の実家前に着いていた。坂本の横顔をチラと確認したが、いつも通りの表情に戻っていた。
葛西の実家は兼業農家である。開け放たれた倉庫には大型のトラクターと軽トラックが停まっている。
車庫の隣に母屋がある。高橋達が高校生の時に建て替えたらしいその家は、高床式三階建ての近代的な家である。一階部分は車庫になっていて、玄関は階段を上がって二階にある。豪雪地帯によくある形式の住宅である。とても綺麗で倉庫にある使い込まれたトラクターとはいささか不釣合いの家である。高校時代に初めてお邪魔させてもらった時と同じ印象を高橋は感じた。
車を家の前の路上に駐め、インタホンを鳴らした。
「はい、ちょっと待ってくださいね」
レンズつきのインタホンからそんな声が聞こえてきた。しばらくするとドアが開き、小柄な女性が姿を現した。葛西の母親のゆきこである。
「わざわざこんな田舎まですみませんね。どうぞ中に入ってください」
ゆきこは小さく頭を下げると、そう言って家の中へと促していった。リビングに通されてお茶を出されたので、高橋達も買っておいた菓子折りをゆきこに渡した。
「本当、すみませんね。何から何まで」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ」
坂本のその言葉に合わせて高橋もかぶりを振った。
「本当にありがとうございます。……この前あの子がいなくなってからちょうど四年が経ちまして。もちろんどこかで元気でいて欲しいのですが、いつかは気持ちの中で区切りをつなくちゃって思ってましてね。それで部屋を整理しようと思ったら、これが出てきたんです」
ゆきこはテーブルにA4サイズの茶封筒を置いた。表面には葛西の丁寧な字で「母へ」と書かれている。電話で聞いた通りである。
ゆきこの言葉では、この封筒は本棚の本の間に挟まっていたらしい。失踪当時も書き置きなどがないかと部屋の中を調べたが、事件性がないこともあってさほど念入りには調べなかった事を記憶している。何よりもゆきこが「高志が帰ってきたときに違和感がないように」ということで失踪当時のままで余り物を動かしたくなかったということもあるようだ。
ともかく、葛西が遺した気持ちが四年という歳月を経て今このテーブルに置かれている。高橋ははやる気持ちを抑えながら、「確認してもよろしいでしょうか?」と断りを入れてから茶封筒に手を掛けた。
茶封筒の中からは薄紅色の封筒が三通入っていた。それぞれ「父さん母さんへ」「高橋へ」「坂本へ」と表書きされている。裏には「葛西高志より」と共通で書かれている。「父さん母さんへ」と書かれた封筒は封が切られているが、高橋達に宛てられた手紙はまだ封切りされていない。
「私たちへの手紙には、自分の部屋の私物を整理するときは二人を呼んでほしいことと、二人宛ての手紙は確実に二人に届けてほしいこと、その際に私たちは内容を確認してはいけないということ。あとは失踪しなきゃいけなくなってごめんって書いてありました。……あとは失踪した理由は書けない、と」
ゆきこは涙が溜まった瞳をハンカチでそっと押さえた。
「なので、その手紙はお二人にお渡しします。高志の言葉通り特に内容を伝える必要はありませんので、どうぞそのまま持っていってください」
「…………」
高橋は坂本宛ての封筒を彼に手渡し、自分宛ての封筒を手にして少し悩んだ。恐らく口ではそう言っているが、ゆきこも手紙の内容を知りたいだろう。ここで開けて内容を伝えるべきかどうか。
「……では、中身を確認して、問題なさそうならお見せしますね」
高橋はそう言って封筒を開けることにした。なによりも早く葛西の遺した言葉を確認したかった。
封筒はきっちりと糊付けされていて簡単には開けることができない。ゆきこからハサミを借りて封筒を開けた。坂本も同じように封筒を開けていた。
薄紅色の封筒の中には同じく薄紅色の手紙が二つ折りで入っていた。手紙は二枚。葛西の丁寧な字で書かれている。
高橋へ
これを見ているということは、僕は既に君の前からいないと思う。
まず、ごめん。こんな形になってしまったのは非常に申し訳なく思っている。
君は「なぜ葛西は失踪したのか?」って疑問に思っていると思う。君はとても聡明で、分析とか理由を考えるのが得意だったからね。
答えが出ないことで悩ませてしまってごめん。この手紙ではその理由は書けないんだ。
ごめん。ただ、僕はこの人生に後悔はしていないし、高橋と坂本は僕の中では一番の友達だと思っている。
僕は君と坂本に出会えて、本当に良かったと思っている。
高橋も解っているだろうけど、坂本は無鉄砲に突き進む癖がある。
今までは僕が止めることが出来ていたけど、もうそれも出来ないから、高橋がストッパー役になってね。
二人共欠けることなく、後悔のないように生きてほしい。
頼むよ。
その手紙は「葛西高志」の署名で締められていた。さほど長くない文面が、文章の間隔を多めに取って二枚に渡って書かれていた。特に二枚目は最後の「頼むよ。」という一文と、彼の署名が書かれているだけで、その下は大きな余白になっている。
なんだかバランスが悪い。葛西は几帳面な性格だから、この様なアンバランスな手紙になってしまったら書き直すだろう。よほど急いでいたのだろうか……。
「あの……」
高橋の思考はゆきこの遠慮がちな声で遮られた。彼女は「内容を伝える必要はない」と言ったものの、書かれている内容が気になる。そんな表情をしていた。
「ああ、どうぞ」
高橋は手紙をゆきこに手渡した。彼女は文面をゆっくりと読み返し、深く息をついていた。友達である高橋と坂本には真実を伝えるかもしれない。ゆきこはそんな想いがあったのだろう。しかし結局書いてあったことに真新しいことはない。高橋はゆきこ同様多少の落胆を感じたが、それでも四年越しに葛西の気持ちに触れることが出来て嬉しくも感じた。葛西にとっても自分と坂本は特別な友人であったのだ。
「坂本は? どんな事が書いてあった?」
坂本に目を移すと、彼は既に手紙を封筒の中にしまっていた。彼は高橋の手紙に目を通し、
「俺か? えーっとな……お前のとほとんど変わらないよ。『すぐ突っ走る癖があるけど、時々は立ち止まって考えろ』って書いてあったけどな。図星過ぎて困っちゃいますよ」
坂本のため息混じりの声に、高橋とゆきこは声を合わせて笑った。
「ところで葛西君の部屋はどれくらい整理しました? 出来れば友達として形……いや、葛西君の思い出の品とかをいただきたいのですが」
坂本は一瞬口を止めて言い直していた。坂本が何を言いそうになったのか、高橋は直感的に解った。ゆきこを刺激しないように言葉を選んだのだろう。
坂本は「形見分け」と言いそうになったのだ。
「ええ。いいですよ。基本的に全部処分しようと思っていましたので、好きに持っていってください。その方が高志も喜ぶと思いますし」
ゆきこは坂本の申し出に笑顔で応じて立ち上がると、葛西の部屋へと促していった。
葛西の部屋は三階にある。高橋達は葛西が失踪直後に何か手がかりがないかと部屋の中の物を確認した時に見た以来である。当然であるが木目調のドアは四年前から変わりはない。
「すこし散らかっておりますが……」
ドアを開け、ゆきこは部屋の中を指し示した。
葛西の部屋はとてもシンプルである。部屋の右側に大きな本棚がある他は机とベッド、部屋のクローゼットがあるだけである。
四年前に見た状態とほとんど変わっていない。本棚の本が下に置かれている所から、まず本棚から整理しようと思った所で手紙を見つけ、そこで作業を中断したようだった。
「では私は下にいますので、ゆっくりしていってください」
ゆきこは小さく頭を下げて階下へと降りていった。
「……さて、と」
ドアが閉まり、部屋に高橋と坂本の二人きりになったところで坂本がニヤリと笑った。
「じゃあ探そうぜ。俺はそっちの机の方を探すから、お前は押し入れな」
「探すって、何を?」
高橋がそう訊くと、坂本は再び小さく笑った。
「お母さん宛ての手紙には、部屋を整理するときには俺たちを呼べって書いてあったんだろ? そこからアイツの気持ちを読み取ってやらないとさ」
「葛西の気持ち?」
「ああ。解んねえか? エロ本だよエロ本。処分しようにも時間がなかったから俺達に託したんだろ?」
そう言って早速机の中を漁り始めた坂本に、高橋は飽きれたようにため息をついた。
「……お前にしては気の利いたことを言ったと思ったら、そんなことかよ」
「いやいや。マジでさ。そういうのも親友の役目だろ? まあエロ本に限らずさ。親に見られちゃまずいものがあるかもしれないじゃないか。とりあえずあんまり時間かけたらお母さんに不審に思われるかもしれないし、パッとやろうぜ」
「…………」
高橋は反論しようと思ったが、確かに余り時間をかけるのもよろしくはない。高橋はあくまで形見分けとしていただく物の選定という基準で見ていくことにした。
葛西の私物のと言っても彼の部屋の物は極めて少ない。東京の大学に進学する際に不要な物は処分したようだった。本棚に高橋達には理解できない専門書、クローゼットに彼の服とダンボールが一つ。これしかない。
高橋はダンボールを空けて中を確認した。ダンボールの中には小中高の卒業アルバム、と二冊のA五サイズのフォトアルバムが入っていた。二冊のフォトアルバムは、それぞれ高校時代で一冊、大学時代、東京の会社で働いていた時代の写真で一冊のようであった。
「おお」
高橋は作業の手を止めて、高校時代のアルバムをめくった。
どれも高橋が見覚えのある写真である。恐らく高橋の実家の部屋を漁ってみれば同じ写真が出てくるかもしれない。三人が出会って同じ時間を共有した、今思えば一番輝いていいた時代である。
高橋は写真とはいえ久しぶりに見る葛西の笑顔に、少し暖かい気持ちになった。
高校時代に比べて大学と社会人の頃の写真は少ない。大学時代はそれでもイベント毎に写真を残していたようだが、社会人になってからは入社当初の懇親会らしきスナップ写真が数枚あるだけである。立食パーティらしき会場で、葛西は同期らしき数人の青年たちと一緒に写真に収まっている。その笑顔は高校時代の写真に比べ、どこかぎこちなかった。
やはりなにかを抱えていたのだろうか。高橋は小さくため息をついた。
葛西は非常に頭が良く、同時に繊細な男だった。高校を優秀な成績で卒業した葛西は、東京の、日本ではトップクラスの大学に進学した。その大学でも優秀な成績で卒業し、聞けば誰でも知っている証券会社に就職した。
正確なところは教えてくれなかったが、地元企業に就職した高橋達とは比べものにならないほどの高給取りだったらしい。都内の、目眩がするくらい家賃が高いマンションに住み、順風満帆な人生を歩んでいた。
その頃の葛西はほとんど地元には戻ってこなかった。定期的に連絡は取っていたが、東京での生活に追われているのか、返信のペースもかなり遅かった。高橋も坂本もお互いの仕事で忙しくて、それはそれで仕方ないと思っていた。
そうして入社してから数年が経ち、高橋も今の仕事にようやく慣れてきた頃に、葛西はある日突然実家に帰ってきたのだ。「他人を蹴落とす生活が嫌になった」とのことだった。その時すでに会社を辞め、マンションも引き払っていた。
突然帰ってきたことに葛西の両親と高橋達は驚いたが、すぐに受け入れた。元々繊細で競争することが苦手な男だったのだ。それまで根をあげなかったことの方を評価するべきなのだ。
しばらくして葛西は地元の小さな印刷会社で働くこととなった。地元の家庭に配るフリーペーパーを作る会社で、給料は今までとは比較にならないほど少ないが、アットホームで気に入ったと笑いながら葛西が言っていたことを覚えている。
その時は葛西と高橋、坂本は三人でよく遊んでいた。ちょうど坂本も子供ができて忙しい時期であったが、そんなことお構いなしに遊んでいた。まるで高校時代の戻ったように高橋は感じていた。
そして東京での生活を葛西が忘れかけたと思われた四年前の秋、葛西は唐突に忽然と姿を消したのである。
今も失踪の原因は解らない。だが、やはり原因は東京にいた頃にあったのだろうか。全てを捨てて帰ってきても、それを引きずっていたのだろうか。高橋は社会人時代の写真の、どこか憂いの色がある笑顔を見てふとそう思った。
高橋は感傷に浸りそうになる自分に気付き、気持ちを切り替えた。今はそんな事を考えている時ではない。
「おい坂本、写真が出てきたぞ」
努めて明るくそう言って振り返ると、坂本は机の一番下の引き出しから何かを取り出している最中だった。高橋の声に驚き、慌てて手にしていたものをカバンにしまっていた。
「……何してるんだ?」
その不審な動作に高橋は眉をひそめた。
「いや、なんでもないよ」
何かを隠すようにカバンを後ろに回していたので、高橋は近づいてカバンを取り上げた。何か、坂本が盗みを働いているとしたら許せない。高橋はそんな気持ちで坂本を睨んだ。
「……別に隠すつもりはなかったんだけどさ。中見ていいよ」
坂本は観念したようにカバンを指差した。
カバンの中には坂本が愛用している財布と先ほどの葛西からの手紙の他に一つある物が入っていた。
「……なんだこれ?」
高橋はそれを取り出して首を捻った。それが何かは高橋にも解っている。問題はなぜそれが葛西の部屋にあったのか、である。
それは手のひらに収まるほどの大きさのナイフだった。折りたためないタイプで、強化プラスチック製の鞘に収まっている。スーパーで売っている果物ナイフとは明らかに異なるものである。どちらかというとサスペンスドラマで犯人が使うような、そんなナイフである。鞘から引き抜くと、使い込んだ感じがあった。刃は研いだ跡がある。
「……多分鉛筆削りにでも使ったんだと思うけどさ、こんなのをお母さんが見たらなんか誤解するかもしれないと思ってな」
「…………」
確かに葛西の部屋からこんなナイフが出てきたということを知ったら、ゆきこは何かしら邪推するかもしれない。せっかく「優等生な葛西」で通してきているのだ。今更波風を立てることもない。
「……確かにそうだな。伏せておこうか」
「そうそう。余計な波風は立てないに尽きる。それよりお前、いい物見つけたな。うわ、懐かし。修学旅行じゃん。これ、写真屋に持っていけばコピーしてもらえるよな? いやー結婚のドサクサで高校の時の写真無くしたんだよな。ラッキー」
パッと表情を変えて写真に飛びつく坂本に若干の違和感を感じたが、口には出さないことにした。
結局高橋達は葛西がよく聞いていたCDと、高校時代以降の彼の写真、彼が愛用していた筆記用具などをいただくことにして、葛西の実家を後にした。
結局、ナイフの事は伏せておくことにした。
「……結構早く終わったな」
最初に待ち合わせたスーパーまでの道中、高橋が時計を見ながらそう言った。現在午後四時である。
「これからどうする? 久しぶりだし呑むか?」
高橋がそう言うと、坂本は唸りながら頭を掻いた。
「うーん。すっげえ呑みたいけど、今日は家族サービスしないと。歩美達に会うのも久しぶりでなあ」
「そっか、そうだな。家族サービスは大切だからな」
「ああ。マジですまんな。この埋め合わせは絶対するから」
「まあいいって。それよりも歩美さんと由紀ちゃんによろしくな」
「おお。今度ウチ来いよ。ま、俺も今日久しぶりなんだけどな」
坂本はそう言ってガハハと笑った。
しばらくして最初に待ち合わせたスーパーに着いた。
「じゃあまた今度な。多分来年度からこっちに戻れると思うから、そうしたら呑もうな」
「了解。その時は連絡くれな」
高橋は車から降り、自分の車へと向かった。
車に乗り込み、昼に来た道を戻ってゆく。一人になると先ほど感じた様々な出来事が思い出された。
なぜ坂本は「葛西は生きていると思うか?」という問いに答えなかったのだろうか。
葛西の部屋から出てきたナイフは何なのだろうか。
そしてそのナイフを、なぜ驚く訳でもなく坂本は隠そうと思ったのだろうか。
結局、なぜ葛西は失踪しなければならなかったのだろうか。
今日葛西からの手紙を読めば、少しは疑問が解消されるかと思っていた。
しかし蓋を開けてみれば疑問はさらに増え、悶々とした気持ちだけが残った。
せめて坂本に関する事はあの場で訊いておけば良かった。
高橋はそう思いながらいつもの代わり映えのしない日常に戻っていった。
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