第2話

 葛西の部屋で感じたいくつかの違和感が再び高橋の意識に上ったのは、それから半年経った日のことであった。

 その日は夜に坂本と呑む約束をしていた。あの時に坂本が言っていた「来年度はこっちに戻るかもだから」という言葉が実現したようだった。まだ三月で正式には年度が切り替わっていないが、坂本は「新たな職場での準備」ということで早めに単身赴任の任務を終えて地元に帰ってくることになったのだ。

 あの時、なぜ葛西の部屋からナイフが出てきたのだろうか。そしてそのナイフをなぜ自分にすら内緒で処分しようとしたのだろうか。考えれば考えるほど疑惑が膨らむ。あの時坂本はお母さんだけじゃなくて自分にも内緒にしようとしていた。あの時偶然後ろを振り返ったから解ったものの、それがなければあのナイフの存在自体知らない内に処分されただろう。

 今思えばあのナイフは明らかに鉛筆を削るための物とは思えない。では自傷用? それにしてはよく使い込まれていたきがする。ではなんのために?

「……橋君、高橋君」

 急に声が聞こえてきて、高橋は驚きに身を揺らした。顔を上げると斜向かいの席に座っている上司の佐々木が、身を乗り出して声を掛けているのが解った。

 そう言えば仕事中だった。高橋は最初仕事に集中していない事を注意されたのだと思って姿勢を正したが、

「ちょっと話があるんだけどいいかな?」

 そう言ってミーティングルームを指差しているのを見て、別に個別で話があるのだと解った。今の仕事のサボリを注意するくらいで個別に呼び出されることはない。しかし呼ばれて何か言われるような用件が思いつかない。高橋は首を傾げながらもひとまずペンとノートを掴んで佐々木の後ろをついて行った。

 ミーティングルームはフロアの一番奥にある。高橋は佐々木の背中を追いながら、ずらりと並んだ机の島を横切って行った。皆パソコンに向かって作業を行っている。

 高橋の会社はシステム開発を主な業務として行っている。扱っているシステムは多種多様で、高橋はその中で携帯電話用のミニゲームの設計、製造を担当している。国や企業が使用する大規模システムを担当している部署に比べれば花形とは言えないが、それでもそれなりにやりがいがあり、不満も特になかった。自分の業績も今のところ可もなく不可もなく、どう考えても呼び出されて個人的に話をしなければならない用事が思いつかなかった。

 ミーティングルームは長テーブルが一つと椅子が四つの狭い部屋である。フロアとはパーティションで区切られているが、簡易的な物なのですぐそばで別の部署の人達が仕事をしている音が聞こえる。

「忙しいところすまないな」

 佐々木は腰を下ろすなりため息混じりにそう言ってきた。

「いえ、大丈夫です」

 高橋も佐々木の向かいに腰を下ろす。それからしばらく今抱えている仕事の進捗状況を話した。

「……そうか。まあ引き続き頑張ってくれな。……それで高橋君、君は今年で三〇だっけ? ついこの前入社したと思ったのにもう三〇だもんな。歳取ると時間が経つのが早くて困るよ」

 佐々木はそう言ってため息をつきながら自分の肩を揉み始めた。佐々木はもう五〇に届きそうな歳であろうか。上等なスーツを着て身奇麗で若々しいように見えるが、一瞬見せたくたびれた表情が、歳相応に見えた。

「いや、まあそれはいいや。どうも最近話が脱線してしまってダメだな」

 佐々木は苦笑していつものはつらつとした表情に戻ると、高橋を見据えてきた。ようやく本題か。高橋も背筋を伸ばして話を聞く姿勢になった。

「高橋君も三〇の大台に乗って、最近はリーダーみたいな役割でやってもらってるでしょ? 俺も結構君の事を買っていて、そろそろかなと思って上に推薦してみたんだ……」

 佐々木の言葉は若干回りくどかったが、その口ぶりで何を言おうとしているか高橋は察知できた。

「昇進、でしょうか?」

「ああ。まだ正式には決まっていないけど、来年度から主任に昇格だ。まあ今まで以上に大変になるだろうが、頑張ってな」

 そう言いながら佐々木は高橋の肩を軽く叩いた。

 ああ、そのことか。高橋は高橋はさして驚くこともなくその言葉を受け入れた。確かに高橋は去年の年末に昇格の希望を出していた。佐々木が言うとおり「そろそろ」かとも思ったし、自分の今の仕事の内容からして昇格すべきだとも思っていたのだ。

「なんだ。あんまり嬉しくいないのか?」

 佐々木は眉を寄せてそう訊いてきた。佐々木にとっては全ての社員が昇格を嬉しいものだと思っており、内示を伝えたときは感激を身体で表現するものだと思っているらしい。高橋は少々考えたが、本音を言っても仕方がないので、

「いえ、嬉しいです。これからも頑張ります」

「そうか。それならいいが。高橋君には期待しているんだから、頼むよ」

 再び高橋の肩を叩き、佐々木は立ち上がった。

「あ、そうそう。佐藤の件だけど、引き続き高橋君の下でよろしく頼むよ。大変だと思うけど、これも勉強だと思って、さ」

 佐々木はそう言い残してミーティングルームを後にした。

「…………」

 高橋は小さくため息をついてから自席へと戻った。

 やはり佐藤さんは外してもらえないのか。高橋はそう思いながら止まっていた作業を再開させた。これもなんとなく予想はしていたが、なにも昇格の報告と同時にしなくても良いではないか。これで喜べと言うのはあまりにもおかしくはないか。

 高橋がそう心の中で愚痴っていると、不意に「高橋さん」と背後から声を掛けられた。声の主は解っている。高橋は思わず出そうになるため息をかみ殺しながら振り返った。そこには予想通り佐藤秋雄が頭を掻きながら笑っていた。

 佐藤は高橋の部下である。部下といっても役職の付いていない高橋と佐藤は正式には上下関係はない。あくまで高橋の作業の手伝いをするという「実質上の部下」である。

 佐藤は高橋よりもずっと年上である。佐々木と同期らしいから、彼も五〇に届きそうな歳なのだろう。若々しくて女性から人気が高い佐々木と比べると、佐藤は実に歳相応の姿をしている。髪は白髪が大半を占めており、目尻や頬にはしわが目立つ。歳の割には痩せているが、逆にそれがしょぼくれた雰囲気を出している。

「言われていた作業、終わりました。確認お願いします」

 佐藤は照れ笑いをしながらそう言ってきた。彼には社内で使用するプロジェクトの品質管理関連の文書を作成してもらっていた。それも概要を高橋が作り、その通りに作ってもらえれば良いという単純作業である。

 高橋は己のパソコンに向かい、サーバに格納してある文書に目を向けた。なにかあるとは思っていたが、早速誤字や体裁が整っていない部分が見つかった。

「……佐藤さん、これ、誤字がいっぱいありますよ」

「あれ? そうですか?」

「前も言いましたが、ちゃんと一回目を通して、最低限誤字脱字がないかをチェックしてくださいよ」

 高橋がそう毒づくと、佐藤は「おかしいな」と頭を掻きながら照れ笑いをしていた。終始この調子なのである。単純作業もままならず、何度注意しても同じ過ちを繰り返す。要は絶望的に仕事ができないのである。それでいて反省する様子もない。

 正直なところ、なぜこのような人材を会社が放っておくのか、高橋は理解ができなかった。幾度となく佐々木には佐藤を外してもらうように頼んでいるのだが、いつもはぐらかされて終わりである。

「ええと、どうしましょうか。私がチェックしても誤字が完全にチェックしきれないと思いますが……」

 佐藤は照れ笑いをしながらそう言ってきた。どこまでも緊張感のないその顔に高橋は苛立ちを覚えたが、言っても意味がないのはもう学習済みである。小さくため息を漏らして、

「じゃあ最終的に私が見ますから、とりあえず佐藤さんだけで潰せるところを潰してください」

 そう言うと佐藤は自席に帰り、再び作業に取り掛かった。終始この調子であり、なかなか高橋自身の作業が進まないのである。

 それでも今までは「実質上の部下」であり、佐藤の業績は自分には関係なかったのだが、主任に昇格したら正式な上下関係となってしまう。そうなると彼の業績も自分に降りかかってくるのだ。

 果たして上司は本当に自分に期待しているのだろうか。高橋は深いため息をついて仕事に戻った。

 結局その日の予定していた作業はあまり進まなかったが、高橋は定時で仕事を切り上げることにした。坂本は飲みの用事には時間よりも早く来る。ほんのわずかな遅れも許されないのだ。高橋は早々に仕事を切り上げて帰る準備に取りかかった。

 これからノートパソコンをシャットダウンしようとした所でメールが届いた。急な仕事の依頼だったら嫌だな。そう思いながらメールを開くと、案の定以前納品したゲームの仕様変更依頼のメールだった。しかし幸いな事に期限は来週末で、さほど難しくない改造である。ひとまず出来るかどうかを返信してほしいとのことだったので、可能だという内容で返信した。

 今度こそ終わらせられる。高橋はノートパソコンを閉じて帰り支度をし始めた。

「あれ? 高橋さん。今日は早いですね」

 見ると佐藤も帰る準備をしていた。

「どうです? 途中まで一緒に帰りませんか?」

 笑顔で誘う佐藤に対し、高橋は「予定があるので」と断った。仕事終わってまで佐藤の顔を見たくはなかった。

 佐藤が帰ってからしばらく経った後に高橋は会社を後にした。外はまだ明るい。いつも夜中まで仕事をしている高橋にとって、久しぶりに見る光景だった。

 主任か。坂本と約束している飲み屋までの道のりを歩きながら、高橋はふと思い、なぜかため息が出た。

 昇格自体は嬉しくないわけではない。再三昇格させて欲しいと言っていたし、昇格すれば給料が上がる。同期も少しずつ主任に昇格しだしてきたし、タイミングとしては今上がるべきなのだ。

 ただ、こんなものなのか、と思うときがある。このまま主任に昇格して、今付き合っている彼女と結婚して、いずれまた昇格して、子供産んで、家建てるかマンション買って。住宅ローンを返し終えることには定年である。恐らくそんな感じで現代の日本人の概ね平均的な人生を送ることになるのだろう。

 そんなものか。そう思ったら自然にため息が出た。高橋は気が滅入ってきたのでそれ以上は考えないことにした。

 坂本との約束の居酒屋「いさや」は駅前にある。全国展開している大手チェーン店である。洒落ている割に値段がリーズナブルなその店は、若者に人気の店で、あまり静かとはいえない。

 お互いいい大人なんだからと高橋は落ち着いた場所を提案したのだが、坂本は却下した。どうも所帯持ちはできるだけ費用を安く抑えたいらしい。奢るからもっと落ち着いた所で飲もうと高橋が提案したが、それも却下された。奢られるのは好きじゃないし、あんまり静かなところは落ち着かないんだ。と、坂本は笑いながら言っていた。

 まだ開店してまもなくだからか、店内はひっそりと静まり返っていた。まだ客はまばらにしかおらず、フロアの店員は暇を持て余していた。

「らっしゃいませえ」

 店員の中の一人が高橋の姿を確認し、独特の挨拶を大きな声で言いながら近づいてきた。そのすぐ後に他の店員も一斉に「らっしゃいませえ」と声を張り上げた。静かな店内には不釣合いな声である。高橋はあまりに大きな声に一瞬ひるんだが、表に出さずに「予約している高橋ですが」と近づいてきた若い男の店員に言った。

「高橋様ですね。お待ちしておりました。どうぞー」

 店員は軽い口調でそう言って高橋を店内へと促した。薄暗い廊下を通り、半個室のテーブルへ通された。

「おお高橋、おせえぞ!」

 高橋の予想通り、予定時間よりも早くついたにもかかわらず、坂本はジョッキを半分開けて気持よさそうにしていた。相変わらず仕事と飲み会の予定には遅れることはないようだ。

「お前があんまりにも遅いからもう始めてたぞ」

「何度も言うけどお前が早いんだよ。ここ、六時からだろ? まだ開店してから一〇分しか経ってないじゃないか」

「まあ細かいことはいいじゃねえか。それより早く座れよ。生でいいだろ? おおい、おねえちゃん、生二つ、大至急で」

 坂本はそう一気にまくし立て、高橋を向かいの席に強引に座らせた。

 生ビールのジョッキはすぐに来た。女の店員は少し泡をこぼしながらジョッキをテーブルに置いた。坂本は残っていたビールを飲み干し、店員に手渡す。

「さ、じゃあ改めて乾杯しようか。俺おかえりということで」

「自分で言うなよ。まあ、おかえり」

 二人はグラスを勢いよくぶつけ合った。乾いた音がした後に高橋は喉を鳴らせてビールを飲んだ。冷えたビールが乾いた喉を滑り落ちてゆく。半分ほど飲み干して軽く息をつくと、向かいの坂本はすでにグラスを空にさせていた。

「……早いな」

「いやー、せっかくのワリカンだし、飲まなきゃ損だからさ。おおい、おねえちゃん。生もう一つ」

「なんだよ。奢られるのは嫌だけど、ワリカン勝ちならいいのかよ」

「あったりめえだろ。ダチの金で存分に飲めるかよ」

 そう言って坂本は豪快に笑っていた。その姿はやはり昔から何一つ変わっていない。その姿に高橋は少しホッとした。やはりあの時感じた違和感は気のせいだろう。こいつはなにも変わってなんかいない。

「いやー、それにしてもお前何も変わってないなー」

 坂本はため息混じりに高橋の気持ちを読んだように図ったタイミングで言ってきた。

「お前こそ、そのデリカシーのない所は昔のままだな」

「なに言ってんだ。俺は繊細な男だぜ? ああ、お前変わった所が一個だけあったな」

 坂本はニヤリと笑って身を乗り出して高橋の腹の肉をつまみ出した。確かに最近不摂生が続き、腹の肉が気になり始めた所である。

「うっさいな。肥満はお前の方が凄いだろ? こんなナリじゃ奥さんに逃げられるぞ」

 高橋も負けじと坂本の腹の肉を掴んで上下に揺らした。その肉は高橋の比ではない。高校時代は空手に青春を捧げていてダビデ像のような体型であったが、今やその面影はほとんどない。たるみきった腹とふっくらとしいた頬。大きな熊のようである。

「残念でした。歩美はこんな俺に惚れているんだぜ? やっぱ男は包容力よ」

「由紀ちゃんが大人になったら、きっと嫌がると思うぜ」

 高橋がそう言うと、坂本は途端に不安そうに顔を歪めた。

「……やっぱ嫌がるかなあ」

「ああ。『こんなお腹のたるんだお父さん嫌い』とか言われるぜ。きっと」

「あーマジかよ。明日からダイエットしよ」

 坂本は頭を抱えながらも店員が運んできた鳥の唐揚げを口に含んでいた。この調子では明日からのダイエットは数日で挫折するだろう。

「それで、由紀ちゃんは元気か?」

 高橋がそう言うと、坂本の表情が一気に丸くなった。「由紀ちゃん」は坂本の一人娘である。葛西が失踪する少し前に生まれたので、今は四歳くらいになる。

「もう、メチャクチャ可愛いぜ。今度見にこいよ。もう骨抜きになるぞ」

「そうだな。由紀ちゃん可愛いからな。お前に似なくて」

「……なんだ引っかかるがまあいいや。お前こそ、ゆかりちゃんとはどうなんだよ」

 坂本はそう言いながらニヤリと笑った。「ゆかりちゃん」は高橋が今付き合っている女性である。恐らく結婚まで行くのだろうが、なんとなく今は言いたくなかった。

「どうって、普通に付き合ってるよ」

「いつまで独身続けてるんだよ。早く結婚して子供持てよ。最高だぜ子供は」

「はいはい」

 高橋は適当に受け流してグラスを空けた。ビールと共に適当に食べるものを頼んだ。

 結婚に関しては高橋も考えてないわけではない。恋人のゆかりとも、なんとなく今後の将来の話が会話の端々で出てきたりはしている。しかしまだ高橋は具体的には考えたくなかった。先ほどのように「ただ、これで良いのか?」と思うときがあり、その度に考えないようにしているのである。

 それではダメであり、そろそろ本当に自分も身の振り方を考えなければならないのだろうが。

「なに急に黙ってるんだよ。ほら乾杯するぞ」

 高橋の二杯目のビールが来たので改めて乾杯した。

 次第に周囲が騒々しくなってきた。いつの間にか客が入ってきたのか、店に活気が湧いてきた。やはり客層は若者中心らしい。まだ早い時間にも関わらず辺りは無秩序な喧騒に変わっていった。

 二人も声のトーンを上げていかないと聞こえなくなっていったが、酔うにつれあまり気にならなくなっていった。

「あーやっぱり酒はいいなあ」

 もはや二人とも何杯目か解らないくらい呑んだ頃、坂本がため息混じりにそう言ってきた。

「何だよ急に」

「いや、マジで。嫌なことは全部忘れられるからなあ」

「なんだそれ。お前にも嫌だって感じることはあるのか?」

「そりゃああるよ。色々とあるからなあ」

 坂本はため息を小さくついて、グラスを傾けた。

 一瞬沈黙があった。いいかげん酔ってきた高橋は気に留めなかったが、その沈黙は坂本にとってとても意味があるものだったようだ。

「なあ、高橋」

 改まって坂本が口を開いてきた。

「お前この前訊いたよな?」

「何を?」

「葛西が生きているかどうかって」

 坂本のその言葉で、場の空気が変わった。

 高橋の酔いは一瞬にして醒めた。感じた違和感はやはり意味のあるものだったのだ。

「ああ。訊いたけど、どうした?」

 高橋は平静を装いながらそれだけ言った。確信はないが、坂本は何かを知っている。そうだ。少なくとも生死を知っているのだ。

「手がかりでも見つかったのか?」

「手がかり、じゃないけどな」

 坂本は小さくつぶやくと、店員を呼んで生ビールと水割りを頼んだ。話を途中で中断されたくなかったのだろう。店員が来るまではこれ以上話を進めるつもりはないようだ。

 高橋は焦る気持ちを坂本に向けた。彼は表情を強張らせて沈黙を守っている。彼もまた、酔いはどこかに行ったようだ。店員が飲み物を持ってくるまでは一言もしゃべる気がないらしい。

 ようやく女の店員が生ビールと水割りを持ってきた。坂本は氷を鳴らせながらグラスを傾かせた。高橋も合わせて生ビールを一口口に含む。二人はグラスを置き、目を合わせた。

「……先に言っておくが、今の俺は全く酔っていない。まあ、酒飲んでるから全くっていうのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも意識はしっかりしているし、シラフの時とあんまり変わらないって事は解ってくれ。俺が酒強いことは解るよな?」

 坂本の言葉に高橋は小さくうなずいた。確かに坂本は酒に強い。酒好きでよく飲むが、乱れたところは見たことがない。

「それから、まず最初に謝っておく。今まで黙っていてすまん。俺も葛西もお前を仲間外れにするつもりはなかった。それだけは解ってほしい」

「……何だよそれ」

「四年前、俺と葛西はあることをやっていたんだ。その結果が今にあるんだけどな……」

 坂本は己のグラスに目を落とし、ポツリポツリと言い出した。歯切れが悪いが、もったいぶっているわけではなく、言いづらいようであった。高橋は早く結論が知りたく少し苛立ってきたが、黙って坂本が口を開くのを待った。

 坂本の顔が次第に歪んでくる。その表情だけで、もう話の結論は概ね解っていた。

「葛西はな……」

 おそらくもう、この世にいないのだろう。高橋は坂本の言葉をそう予想し、顔を伏せた。

 しかし。

「あいつは……戦死したんだ」

「……え?」

 坂本の声はとても小さくて周りの喧騒にかき消されそうだったが、高橋の耳にははっきりと届いていた。


 もう葛西はこの世にはいない。

 高橋もなんとなくはそのことを覚悟していた。

 もちろん生きていてほしいと思っているが、この四年間ほんのわずかな手がかりすら出ていないのである。生きてどこかで幸せに暮らしていると思えるほど高橋は楽観主義ではない。「首を吊って死んだ」、「交通事故に巻き込まれて死んだ」。それはとても悲しいことであるが、納得はできる。だが、坂本が発した言葉は「戦死した」である。

 戦って死ぬ? 高橋はその言葉が何を意味するのか、真意が解らなかった。何か抽象的な意味で、例えば社会や団体と戦って死んだのか、それとも直接的に誰かと戦って死んだのか。

 ともかくそのような事は日常生活を営む上でまずありえないことである。ましてや相手はあの葛西である。争うことが嫌になって東京から戻ってきた男が、なぜ「戦死した」のだろうか。

 高橋はそんな疑問を胸に抱えながら、坂本と二人で夜の駅前通りを歩いていた。それら疑問を高橋が伝える前に、「これ以降は俺の家で話そう」と遮られてしまったのである。それから二人は無言で夜道を歩いていた。

 秋の夜風は少し冷たかった。高橋は軽く身震いをしながら葛西の穏やかな笑顔を思い出した。やはり何度考えても彼の笑顔と「戦死」という言葉が結びつかない。

 坂本のマンションは駅から歩いて一〇分のところの、閑静な住宅街にある。購入当初は何度か足を運んでいたが、彼が東京に行ってから訪れていない。かすかな記憶ではまだ物が少なく生活感のない感じであったが、今は入り口から物で溢れている。整頓はされているが、子供用品が家の中の多数を占めているようだった。

「こっちだ」

 坂本に促されて、彼が個人的に使っている部屋に入った。ほんの四畳ほどの小さな部屋である。小さな空間に簡易机と、その上に薄型のノートパソコンと数冊の雑誌が置かれているだけのシンプルな部屋であった。購入当初、「ここが俺の城だ」と狭い中でも喜んでいる坂本を思い出した。が、高橋は軽口を叩くことなく黙って坂本が他の部屋から持ってきた折りたたみ椅子に腰を下ろした。

「狭くてすまんな。なにか呑むか? 持ってくるよ」

 高橋が遠慮する前に坂本は部屋を出て行った。そして缶ビールを二本持ってきて高橋に差し出した。

「ああ、ありがとう」

 二人は軽く乾杯をして、ビールを口に含んだ。苦味が口いっぱいに広がる。よく冷えていて普段ならおいしく感じられるのだろうが、その時は違った。

「なあ、そろそろ教えてくれ。なんで葛西は殺されたんだ?」

「ああ……」

 坂本は口元を歪めながら返事をすると、ノートパソコンの電源を立ち上げた。

「まず、最初に言っておくが、これから言うことは全て真実だ。とても現実離れしているかもしれないが、全て実際にに起こっている本当のことだ。俺はいいかげんな男だが、親友に対してこんな真剣な場で嘘は言わない。それだけ、まず解ってくれ」

「なんだよ。解ったから早く教えてくれよ」

「…………」

 坂本は応えずにノートパソコンに目を向けた。すでに立ち上がっていた。標準の壁紙で、デスクトップも綺麗だった。

「これからあるサイトに接続する。そこは毎日午後一〇時から一一時の一時間しか接続できない完全な会員制のサイトなんだ」

 そう言ってパソコンの傍らにある置時計を指差した。現在午後一〇時一〇分を指し示していた。

 坂本はインターネットエクスプローラーを起動させた。白紙のページが表示している中、アドレスの欄にIPアドレスを直接入力した。

 http://xxx.xxx.xxx.xxx/

 すると中央に入力項目とボタンがあるだけの白いページが表示された。そこで坂本はキーを叩いて文字列を入力した。項目には「*」で埋められる。パスワード入力のようだった。入力を終えてボタンを押すと、入力項目の上にIPアドレスが表示された。先ほどとは異なるアドレスである。

 表示されたIPアドレスをアドレス欄に入力した。すると入力項目が上下二つとボタンだけの画面になり、そこでIDとパスワードを入力すると、背景が黒いページが表示された。ようやくユーザ認証が終わったようである。いやに回りくどく解り辛い認証だ。コンピュータ関連の仕事に就いている高橋には、少し異様な光景だった。

「ここだ」

 坂本は表情を固め、液晶の画面を指差した。黒い背景に白字で以下の注意書きが記されていた。

 本サイトは理解ある会員の方専用のサイトです。あなたは会員ですか?

 注意書きの下に「はい」「いいえ」の文字があった。坂本は「はい」の文字をクリックした。すると画面が変わった。

 先程と同じ黒背景のサイトである。全体的に簡素な作りになっている。本来サイトのトップページに書かれているだろうサイトの名前が書かれていない。坂本が画面をスクロールする。「雑談用掲示板」「情報交換用掲示板」と書かれている。どうやら会員同士が交流をすることがこのサイトの目的らしい。しかしさらにスクロールさせると、「現在の戦況」「過去の戦績」というリンクがあった。

「結論から言っておく」

 高橋はそれがどんな意味を持つのかが解らず、いぶかしげに坂本を見た。坂本は顔を強ばらせている。

 坂本の言葉に無言でうなずいた。

「このサイトは会員同士が殺し合いをするんだ。お互い合意の元でな。葛西はここで戦って、殺された」

「……は?」

 高橋は突然の言葉にうまく頭の中で対応できなかった。坂本は一言一句たがわずに同じ言葉を発したが、それでもまだ高橋は坂本の言葉が理解できなかった。

「……悪いけど、意味が解らない。葛西はここでどうしたんだ?」

「葛西はこのサイトの会員だったんだ。まずはここまでは解るな?」

 坂本の言葉に、高橋は無言でうなずいた。

「で、ここは……」

 坂本はサイト内の「このサイトは?」という文字をクリックした。すると画面が変わる。同じように黒背景のシンプルな画面に白文字でこう書かれていた。


・   ・   ・


 このサイトは


 本サイト(事情により呼称できる名前を用意しておりません)は完全会員制、非営利のサイトです。会員の皆様のご協力のおかげで、会員の方以外のアクセスの形跡はありません。そのため安心して本サイトをご利用ください。

 本サイトは会員の皆様に「健全に」人殺しを楽しんでいただくための場所です。

 あくまで「健全に」です。しがらみや私怨などは一切切り離された、純粋な「殺しのための殺し」を楽しんでいただけます。


 本サイトの基本理念:

 「殺人」という一般社会では認められない行為に悦びを抱く者同士に、健全なる殺し合いの場を提供いたします。

 閉鎖された空間で愛好者同士による殺し合いを行うことで、一般社会での無差別殺人を軽減いたします。


 全体の流れ:

 ・毎月第一週最終日に対戦相手を本サイトにて発表します。

  ※私怨を排除するため、特別対戦を除き、対戦相手は志願者の中からランダムに決定します。

  ※対戦相手は前週までに本サイトに寄せられる対戦志願者の中から決定します。

   発表前に両者には本サイト運営委員会より連絡が行きます。両者合意がなされない場合のみ発表という流れとなっております。

 ・対戦が決まった両者は運営委員会が決めた場所にて戦闘を行っていただきます。

  ※日時は両者で話し合い、都合の良い日を決めます。

  ※場所は全国にある運営委員会が所有している建物の中から、両者の居住地にできる限り近い場所にします。

 ・両者が到着次第戦闘開始となり、殺し合いを行ってもらいます。

  ※その際当然ですが、外部に漏れないようご注意ください。

 ・どちらかの死亡が確認された時点で対戦終了です。対戦終了後は本サイト実行委員は迅速に対応いたします。

 ・夜が明けても勝敗がつかなかった場合は引き分けとし、対戦は終了とします。

  ※戦闘は原則的に夜に行います。

 ・警察やその他漏洩の危険が接近した場合、運営委員会が危険と判断した場合は戦闘を中止します。

 (その際は無効試合とし、後日改めて対戦を行います)

 ・対戦終了翌日に対戦結果を本サイトに掲載します。

 ・毎月第一週の間に当月の対戦志望者を募ります。

 ・当月対戦は第一週最終日(日曜日)に発表いたします。


 サイト内でのルール:

 ・入会は会員からの推薦のみに限らせてもらいます。

 ・新規会員は最初の対戦の辞退を禁じます。

  入会のみで戦闘に一度も参加しないというケースを作らないため、必ず一度は対戦していただきます。

  その際、推薦人が共闘(共闘に関しては下記参照)を行っても可とします。

 ・外部への漏洩を禁止します。

  本サイトはその隠匿性によって成り立っております。くれぐれも外部に漏れることがないようお願いいたします。また、新規会員も十分に吟味した後に推薦願います。

 ・対戦の際には本サイトの隠匿性を十分に考慮した行動をお願いします。

  殺害は対戦会場敷地内で行い(できる限り両者で融通を利かせてください)、敗北が決まった場合、少しでも後の処理が円滑にできるように暴れたりはしないようお願いします。


 共闘について:

 対戦の際に本サイトの会員の助力を借りることを許可いたします。

 その際は以下の2つの対応が可能です。

 ・非公認の協力(見えない共闘)

  本サイト内に協力者の氏名は公表されません。

  ※そのため対戦相手には協力していることは、明言しない限り明かされません。

  協力者は戦績に反映されません。

  対戦相手は協力者の殺害は任意といたします。

 ・公認の協力(共闘)

  本サイトに協力者の氏名が公表されます。その際被協力者と協力者に主従関係はなく、連名での対戦となります。

  例:AさんとBさんが対戦中にCさんがBさんと共闘する場合、

  A - B

      C

  という表記になります。

  この場合は協力者ではなく共闘者となり、戦績にも反映されます。

  対戦相手は相手の共闘者も殺害して勝利となります。

  ※対戦相手が増え戦闘が複雑になることを避けるため、共闘はそれぞれ二人ずつ、三対三を上限とします。(圧倒的な力量の差がある場合は上限解除される場合もあります)


 よくある質問:

 Q1:殺した後の遺体はどうなりますか?

 A1:本サイト実行委員が責任を持って処分いたします。遺体は特殊な方法で処分し、2009年4月現在まで当局に発見された事例は一度もありません。

 Q2:会員以外の人にこのサイトのことがバレてしまいました。

 A2:本サイトは完全会員制、その隠匿性によって保たれております。大変お手数ですが、見つかった方ご自身の責任で「処理」をお願いします。遺体の処分、その他「処理」に関する助力が必要な場合は下記に記されるメールアドレスにご連絡ください。

 ※ここで記す「処理」とは、殺害を指します。

 Q3:戦闘中に警察に逮捕された!

 A3:非常に残念ですが、その場合は本サイトの隠匿性を守るため、自決していただくようお願いいたします。

 Q4:・・・


・   ・   ・


 以下延々と続く注意書きに、高橋は「もういい」と坂本が画面をスクロールさせる手を止めさせた。頭が痛くなってきた。頭を軽く押さえて、少しぬるくなった缶ビールを一口あおった。記されている事柄の真意はともかく、高橋はなんとかこのサイトの存在意義を理解することができた。理解することができたが。

「……ここに葛西がいたのか?」

 その点が理解できなかった。高橋が知る葛西はとても優しい男だった。このサイトに書いてある「殺害」や「自決」などが当てはまる男ではない。何かの間違いだ。

 坂本には否定してほしかった。ごめん冗談だよ。こんなジョークサイトを見つけたんだ。笑いながらそんな風に言ってほしかった。

 しかし現実は違った。坂本は真顔でうなずいた。

「ああ。確かにここにいた。ちょっと待ってな……」

 坂本はそう言って席を外した。しばらく経って席に戻ると、彼は小型のプラスドライバーを持っていた。ノートパソコンに接続していたマウスを裏返し、分解した。すると中からマイクロSDカードが出てきた。マウスを元に戻してマイクロSDカードをアダプタに挿してパソコンに挿入する。中には数枚の画像が入っているようだった。

「ここはある程度年数が経つとログを削除するからもうサイトには残っていないんだ。だから当時の画面になるけど……」

 坂本は中のファイルをダブルクリックした。すると先ほどと同じ黒背景に白文字のサイトのスナップショットが表示された。


 葛西高志

 戦績:4勝1敗1引き分け

 生年月日:1978年6月20日

 職業:会社員


 会員の名簿らしき画面だった。そこに書かれている氏名と生年月日は確かに葛西のものである。

「いや、同姓同名で生年月日も同じ人かもしれないし……」

「確かにこれは葛西だよ。断言できる」

 坂本は強い口調で高橋の言葉を遮った。その顔は苦々しく歪んでいる。

 そのとき高橋は、坂本が言っていることが理解出来なかった。なぜ坂本はそこまで断定できるのか。同姓同名で生年月日が同じ人物が日本のどこかにいてもおかしくない。これだけでは断定できないはずだ。そう。これだけでは断定できないのに、坂本は葛西だと断定している。それはつまり。

「……お前もここに参加していたのか?」

 高橋がそう言うと、坂本がパソコンを操作し始めた。

 葛西の名簿画面を閉じ、サイトの画面に戻った。トップに戻り、名簿の画面に移った。それは葛西の時とは違う、現在のサイトの画面である。


 坂本祐司

 戦績:2勝0敗0引き分け

 生年月日:1978年4月15日

 職業:会社員


「……え?」

 画面には確かに黒背景の白地で坂本の名前が記されている。慌てて坂本を見ると、彼は険しい表情で画面を凝視していた。

「今まで黙っていて本当にすまないと思っている。俺はこのサイトで葛西と一緒に殺し合いをしていたんだ」

「……なあ、冗談はもうやめてくれよ。しまいには怒るぞ」

「信じてくれないんなら、冗談だってことにしてもいいぜ」

 坂本は真顔で見据えてきた。

「…………」

 長い付き合いで、坂本の言っていることが嘘か本当かは解るつもりである。今の坂本にはふざけた空気は微塵も感じられない。彼はこのような状況で、真顔で嘘を吐くような男ではなかった。

「……マジなのか?」

「ああ。今まで黙っていてすまなかった」

 頭を下げる坂本に、高橋は深くため息をついた。これ以上疑っていても話しは前には進まない。高橋は坂本の言うことを信じることにした。

 とても信じられるような話ではないのだが。

「それで、四年前にはなにがあったんだ?」

「シンプルな話だよ。このサイトで一番強い奴との戦闘で、負けたんだ。俺は何とか逃げて生き残ることができたけど、葛西は駄目だったんだ」

 坂本は口惜しそうに唇を噛んだ。

「……なんでその一番強い奴と戦うことになったんだ?」

「さあな。葛西の提案だから」

「じゃあ、なんで葛西はこんなサイトに関わっていたんだ?」

 坂本は首を振った。

「悪いけど、解らないんだ。俺は一緒にやっていたって言っても途中から巻き込まれたクチで、そこら辺のことは訊いても答えてくれなかったんだ。まあ、その経緯は後で話す。ともかく葛西が殺されてからこのサイトから離れていたんだ。どうしても思い出したくなくてな。ちょうど東京への単身赴任の話もあったし、しばらくは仕事に専念していたんだ。それで四年経ってなんとか葛西の事を思い出しても普通でいられるようになったんだけど……あの手紙が出てきたんだよな」

「手紙?」

 高橋は半年前に葛西の実家から出てきた手紙を思い出した。自分宛ての手紙には特におかしなところはなかったように記憶している。坂本の文面はどうだっただろうか。高橋はあのときのことを思い浮かべ、そこで気付いた。

 坂本は「似たような内容」だとは言っていたが、実際の文面は開示していない。

「ちょっと待っててくれな」

 坂本は腰を上げて再び席を外した。しばらくして戻ってきた彼の手には、あの時例の薄紅色の封筒があった。葛西の手紙である。

 「ほら」と封筒を手渡された。高橋は一瞬躊躇したが、坂本に促されて中身を取り出した。中には二枚の手紙が入っている。高橋は大きく息を吐いた後に内容に目を落とした。


坂本へ

 この手紙を見ているということは、つまりそういうことなんだね。

 とても残念だよ。

 坂本はすぐ突っ走る癖があるけど、時々は立ち止まって考えるのもいいと思うよ。

 出会えて良かった。本当に良かった。


 手紙の一枚目はそこで終わる。高橋は手紙をめくって二枚目に目を移した。


 坂本には随分と迷惑をかけてしまったね。あんなことに巻き込んでしまって申し訳ないと思っている。自分がこうなってしまったのは仕方ないと諦めがつくけど、君を巻き込んでしまったことは、これを書いている今でも後悔している。

 本当にごめんな。

 まず、一つお願いがある。

 僕の机の、一番下の引き出しにナイフが入っている。

 申し訳ないけどこれは坂本の方で処分してほしい。

 変なことを頼んで申し訳ないけど。


 僕は自分の人生に後悔はしていない。こんな結末で終わってしまうことも含めてね。

 でも、もし佐藤を倒せずにこんな結末になってしまっているんだったら、それはとても悲しいことだ。

 そこで君にもう一つ、お願いがある。これはやりたくなかったらやらなくていいんだけど。

 佐藤を倒してほしい。彼は倒さなければならないんだ。

 それが僕の、最後の願いなんだ。


 もし佐藤を倒すために動いてくれるのだったら。

 佐藤の娘の、佐藤加奈子さんに会ってほしい。

 多分加奈子さんは坂本に協力してくれると思う。あの時みたいにね。

 彼女の協力を得られれば、きっと佐藤を倒せる。

 無理にとは言わないけど、できれば頼むよ。

 僕と明日美の願いなんだ。


「…………」

 高橋は手紙を封筒に戻し、坂本に返した。

 葛西の手紙には、高橋の知らない名前がほとんどだった。文章の流れから「佐藤」は葛西が最後に闘った相手の事だろう。葛西は「明日美」との願いで、「佐藤」と闘い、敗れて死んだのだろう。しかしこの「明日美」というのは、どういう人物なのか。そして、「加奈子」は。

「……俺にもここに書いてあることはほとんど解らねえんだ。『あの時』って書いてあるけど、何のことだかさっぱり解らん。明日美も加奈子も心当たりはない」

 高橋の気持ちを読み取ったのか、坂本は頭を掻きながらそう言った。

「一緒にやっていたんじゃないのか?」

「あいつは細かい事情とか全然言わなかったからな。ここに書かれていることは俺も初耳だ。正直全然解っていない。でも、一個だけ、俺でも解ることがあるんだ」

「……『佐藤を倒してほしい』」

 高橋は恐る恐るそう言った。葛西の手紙の一節である。この表現はぼかしているが、つまりこれは……。

「ああ。俺はこの『佐藤』を殺す。葛西の仇討ちだ」

 坂本は眉間に皺を寄せ、憎しみを込めるようにそう言い放った。

「…………」

 高橋は頭を押さえた。酔いが醒めているはずなのだがひどく頭が痛い。ほんの数時間前までごく普通になんてことない話をしていたはずなのに。高橋はそう頭の片隅で思いながらも必死で次に言うべき言葉を探した。友が死んだ親友のためとはいえ殺人をしようとしているのだ。このようなときに、自分はどのような声を掛けるべきなのか。高橋は考え抜いた末に搾り出すように口を開いた。

「なあ、そんなことして何の意味があるんだよ。由紀ちゃんだってまだ小さいんだし、これからの事をもっと考えていかなきゃダメじゃないか」

「……まあお前の言いたいことも解るが、俺はもう先に進むしかないんだよ」

 坂本は渋い顔のまま、パソコンの画面を指差した。そこには先ほど見ていた坂本のプロフィールがまだ表示されている。坂本はその中の「戦績:2勝0敗0引き分け」という所を指差している。

 高橋は最初意味が解らなかったが、「あること」に気付いて反射的に身を引いた。そして坂本に目を向けると、彼は相変わらず笑っていた。

 そうだ。このサイトで「勝利する」という事は、つまり……。

「……殺したのか?」

 高橋のそんなつぶやきに、坂本は小さくうなずいた。

 一瞬、沈黙が流れた。重苦しい空気の中、高橋は息を呑んだ。部屋が狭いせいだろうか。身体が熱くなってきた。背中に汗が伝ってくるのが解った。

「佐藤と戦うには三勝しなければならないんだ。俺は去年の葛西の家に行った時点では一勝しかしていなかったから、去年の暮れにもう一人、殺した」

「…………」

 高橋は無言でビールをあおった。もはや、苦いという味すらも高橋には感じられなかった。

「……それで、俺はどうすればいい?」

「好きにすればいい。この話を訊いて一緒に仇討ちをしたくなったって言うんなら歓迎するし、嫌なら忘れてもらってもいい。ただ、二つだけ守ってほしい事がある」

「なんだ?」

「今日の話は絶対に他言無用で頼む。誰にも言わないでくれ。俺の命に関わる事だから。いいな?」

 高橋は小さくうなずいた。

「ありがとう。あともう一つ。もし俺が葛西と同じ道を辿ることになった場合に、歩美達の面倒を見てほしい」

「……なんだよ、それ」

 高橋は眉を寄せて坂本を見た。彼はまっすぐとした目で高橋を見返している。その目には迷いは感じられなかった。

「言葉のとおりだ。俺は命を掛けて葛西の仇を討つ。この話に乗る乗らないはお前の自由だが、仇討ちの結果俺が死ぬような事があったら、歩美と由紀のフォローを頼む」

 そう言う坂本の表情に、高橋はさらに深く眉を寄せた。こうなった坂本は頑として己の主張を曲げない。こんな時は葛西がやんわりと坂本を軌道修正させるのだが、今は葛西はいないどころか、その葛西の問題でこうなっているのだ。自分一人で何とかしなければならない。どうすれば良いのだろうか。

 高橋は頭を抱えながら考えたが、結局答えは出なかった。


 高橋は寒空の中歩いて自宅を目指していた。

 坂本には「今日は誰も来ないし、泊まっていけよ」と勧められたが、丁重に断った。

 今は一人で考える時間が欲しかった。

 空を見上げると少し欠けた月がこうこうと辺りを照らしていた。春とはいえまだ冷たい空気が、火照った身体にちょうどよかった。

 ゆっくりと閑散とした夜道を歩きながら、高橋は先程の坂本とのやりとりを思い出した。とても現実味のない話である。あの優しい葛西が殺し合いの末亡くなっていて、朗らかで裏表のない坂本が仇討ちを考えている。

 とても納得できるような現実的な話ではない。しかし坂本が言っていることが真実であったら、葛西の家で感じた疑問は全て説明付くのだ。

 なぜ坂本は「葛西は生きていると思うか?」という問いに答えなかったのか。

 葛西の部屋から出てきたナイフは何か。

 そしてそのナイフを、なぜ驚く訳でもなく坂本は隠そうと思ったのだろうか。

 結局、なぜ葛西は失踪しなければならなかったのだろうか。

 あのサイトが現実にあるのだったら、全てが説明付くのだ。

 葛西の部屋からナイフが出てきたのは、それを殺しに使っていたから。

 坂本がそれを隠していたのは、その事実を知っていたから。

 そして葛西が姿を消した理由。戦闘の末に敗北して死亡。あのサイトに書かれていた文面からすると、遺体は隠蔽されるために行方不明扱いになる。その為にこの四年間手がかりも全く出てこなくて失踪扱いになった。

 全てが説明付く。全く荒唐無稽な事実、「殺人を容認するサイトが存在し、葛西がそれに参加していた」ということを容認すれば。

 高橋は信号で足を止め、深く溜息をついた。荒唐無稽だが、高橋には完全に否定することはできなかった。

 では、自分はどうすればいいのだろうか。

 正直な所高橋には仇討ちの是非は解らない。もちろん人を殺すことがいけないことだということは解っている。

 しかし、もし殺されたのが自分の大切な親友で、それを法律で裁けないとしたら。

 同じ方法を使えば自分達には同じように罪を問われないとしたら。

 いつの間にか信号は青に変わっていた。高橋は再び歩を進めた。

 身体が熱くなってきた。一体自分は何を考えているのだろうか。

 高橋はそのまま一つ駅分を歩き、自宅に到着した。

 高橋の自宅はワンルームのアパートである。アスファルトの階段を上り、部屋の中へと入っていった。

 郵便受けに入っていたダイレクトメールを引き抜いて明かりを点ける。玄関開けてすぐのところにキッチンがある。高橋は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に呑み干した。少し頭がすっきりしたような気がした。

 扉を開け、部屋に入る。部屋着に着替えて高橋は部屋の隅にあるテーブルの前にあぐらをかき、目の前に置いてあるノートパソコンの電源を入れた。しばらくどうするか考えた後にインターネットエクスプローラーを起動させた。

 http://xxx.xxx.xxx.xxx/

 先程坂本の家で見た、サイトに行くためのアドレスを叩いた。しかし、画面には「ページが見つかりません」と表示されるだけであった。

 坂本の言葉を思い出す。「毎日午後一〇時~一一時の一時間しか接続できない完全な会員制のサイトなんだ」。今は日付が代わった午前一時半である。高橋はインターネットエクスプローラーを落とし、カーペット敷きの床に寝転がった。

 自分に与えられた選択肢は三つある。坂本の話に乗り一緒に仇討ちをする。坂本の話に乗らず、訊かなかった事にして忘れる。そして何らかの方法を使って坂本の仇討ちを止める。しかし今の所坂本の暴走を止める方法は見つからない。とすれば二択。やるかやらないか。

 一つだけ言えることは、やらなければ葛西の事はこれ以上解らないということだ。結局何であんなサイトに参加していたのか。なぜ殺しをしていたのか。それは恐らく一生解らないまま終わってしまうだろう。

 では、やらなければならないのか。

「…………」

 高橋はパソコンをシャットダウンさせ、そのまま部屋の片隅にあるベッドに身体を預けた。ともかく今日は疲れた。風呂に入る気力もなかった。

 明かりを消して目を閉じた。

 しかしその日は妙に頭が冴え、一睡もすることができなかった。

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