第14話

「高橋主任は独身だと思いますが、一人暮らしでしたでしょうか?」

 一週間後の夜、高橋はその質問の意図が解った。

「夜分遅くすみません。自動車保険の件でおうかがいに来ました」

 仕事が終わり、高橋が一人で家でくつろいでいると、不意に外から女性の声が聞こえてきて、高橋は首を傾げた。「自動車保険の件」というのが高橋には全く心当たりがない。もちろん自動車を所有しているので全く無関係ではないが、別に更新が近いわけでもないし、今までも家まで来たことはない。何かの間違いかと思いながら魚眼レンズを見たときに、先の佐藤の言葉の意味が解ったのである。

 加奈子だ。紺のスーツを身に着けてドアの前に立つ女性は、確かに佐藤の娘である加奈子である。恐らく戦闘についての打ち合わせか何かをするのだろう。一人暮らしかどうかを訊いたのは、女性が訪ねてくる事に影響がないかどうかという確認だろう。保険のセールスレディの恰好をしているのは、周辺の住人へのカムフラージュと、もしも高橋が女性と一緒だったときのためなのだろう。恐らく「うちは違いますよ」とでも言えばすんなりと帰ってゆくのだろう。

「はい」

 高橋は解錠し、ドアを開けた。そこには見た通り加奈子の姿があった。彼女は目が合うと、「夜分遅くすみません。先日の自動車保険の件ですが」と笑みを浮かべてきた。普段の感情を表さない凛とした表情とは違う。こう見ると、年頃の可愛らしい女の子といった感じだった。

「ああ……どうぞ」

 高橋は少々面食らいながらも部屋の中へとうながした。加奈子は部屋の中へと入り、ドアが閉められると同時に笑顔を消した。どうやら先ほどの笑みはお愛想だったようである。以前見た、鋭い表情で高橋を見ている。こうなると、着慣れていなさそうな紺のスーツが、妙に浮いて見えた。

「父の戦闘について、お話にうかがいました。中に入ってもよろしいでしょうか」

「え、あ、ああ」

 高橋は加奈子をリビングへと通した。彼女も一人暮らしの男性の家だというのに気にもせず高橋に続く。加奈子をソファに座らせ、コーヒーでも淹れようと席を立とうとしたが、「結構です。今日はすぐ帰りますので」と止められた。高橋は仕方なくソファとテーブル越しに、向き合うように向かいの床に座った。さすがに彼女の横に腰かけるのは抵抗があった。

 そんな高橋の気持ちなど毛ほども感じていない加奈子は、無表情のまま「パソコンはありますか?」と訊いてきた。

「ああ、ちょっと待って……」

 高橋は押入れの中からいつもサイトに接続しているパソコンを取り出した。今は午後一〇時をまわった所だ。彼女の言っている「パソコン」はサイトに接続するパソコンのことなのだろう。

 パソコンを立ち上げ、サイトに接続した。「現在の戦況」の項目には通常対戦と特別対戦の二つの対戦カードが記されている。


 坂本祐司(2勝0敗0引き分け) - 中村新一(1勝0敗0引き分け)


 佐藤秋雄(69勝0敗0引き分け) - 斉藤健二(6勝0敗0引き分け)


 坂本の名前を見て、高橋はドキリと胸が鳴った。先日の喧嘩別れを思い出す。仕方ないこととはいえ考えると胸が痛くなった。

「今回はこの斉藤という男と父が戦います」

 加奈子は坂本の表記など気にも止めずに口を開いた。

「それでこの斉藤は、まず間違いなく緒方という男を見えない共闘として使います。私達はその緒方を倒します。そこまではよろしいでしょうか」

 加奈子の言葉に、高橋は小さくうなずいた。佐藤は正式に戦いを挑んできた相手には自分一人で応じる。加奈子が相手するのは見えない共闘がいる場合のみである。

「そして今回は高橋さんの要望通り、私はあくまで補佐、緒方を殺す役は高橋さんにやってもらいます。よろしいでしょうか?」

 加奈子に正面から見据えられ、高橋は言葉に詰まった。今回は見学でも戦闘の補佐でもない、自分がこの緒方を殺すのだ。

 果たして自分は躊躇せずに殺すことが出来るのだろうか。今回は相手が拳銃を所持している。一瞬でも隙を見せれば、そこには死が待っているのだ。

 死。高橋は初戦の渡辺との戦闘を思い出した。もう随分と時が経っているにもかかわらず、あの日の事は今でも鮮明に思い出される。あの時、高橋は死を実感した。あの時感じた恐怖は、今でも高橋の心に深く突き刺さっていた。またあの思いをしなければならない。高橋は小さく身震いをした。

「今回は止めておきますか? まあ、まだ時間の余裕はありますので、無理に今回結論を出さなくてもよいのですが」

 加奈子にそう言われ、高橋は回答を保留させようとしたが、すぐに考えを改めた。考えすぎるのをやめたのではないか。こんな事はいくら考えたところで結論が出るはずがない。高橋はそう己を奮い立たせ、加奈子を強く見つめ返した。

「いや、やります。殺す役でもなんでも」

「……そうですか。わかりました。でも、口だけだとこちらも困りますので、試させてもらえませんか?」

 加奈子はその場で立ち上がり、傍らに置いていた彼女の革製の手提げカバンから、何かを取り出して、その一つを高橋の足元に放り投げた。

 ナイフである。今押入れの深くに追いやってある坂本の折り畳みナイフとは異なる、鞘付きの、いわゆるシースナイフである。見ると彼女の手にも同様のナイフが握られている。異なるのは、彼女のそれは鞘から引き抜かれ、銀色のブレイドが姿を現しているというところだ。

「……え?」

 高橋が呆気に取られている間に、加奈子は首目がけて横凪の一撃を繰り出してきた。高橋はとっさに後ろに飛んでそれを避けた。ソファを飛び越え、高橋はフローリングの床に身体を打ちつけた。鈍い痛みが身体中に走る。高橋は苦痛に顔を歪めながらも加奈子を見返した。

 彼女はソファ越しにナイフを構えながら静かに高橋を見ている。そのままの姿勢で身体を屈め、先ほど高橋に放り投げたナイフを拾って再び高橋の方に投げた。

「…………」

 高橋はひとまずナイフを拾った。しかしまだ鞘を抜く勇気はない。鞘に収まったナイフで見よう見真似で構えを作った。

 加奈子はナイフを逆手に持ち、ソファに足をかけていた。来るのか。高橋は前傾になりいつでも動けるように準備した。

 と、加奈子がソファを蹴り、飛び越えてきた。大きく振りかぶり、逆手に持ったナイフを高橋の鎖骨辺りに振り下ろしてきた。

 高橋は寸前で後ろに避ける。着地した加奈子は瞬時に順手に持ち替え、流れるようにナイフで彼の腕を撫でた。

 高橋の左腕に衝撃が走った。手の甲に血が滴ってきた。痛い。高橋は左腕を抑えながら後ろに下がった。

 彼女は静かにナイフを構えながら高橋を見ていた。その目には一切の感情はない。

 この痛みはリアルだ。彼女は本気で自分を殺そうとしているんだ。高橋はそう思うと全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。

 再び彼女は間合いを詰めてくる。高橋も後ろに下がるが、壁に阻まれ後ろに下がれない。

 加奈子は床を蹴って飛び込んできたナイフで高橋の腹を突いてくる。もうダメだ。高橋の心は死を実感したが、身体は瞬間的に彼女の軌道を身を翻して避け、鞘からナイフを抜き、彼女の背中に突き立てていた。

「あっ!」

 一瞬の出来事だった。我に返った高橋は最初何が起こったのか、理解ができなかった。ただ、うつ伏せに倒れる加奈子を見て、自分が何をしてしまったのかを悟った。

「大丈夫か!」

 高橋は駆け寄って加奈子の身体を仰向けにして抱いた。彼女は低く唸りながらゆっくりと目を開いた。

 よかった。生きてる。高橋は胸を撫で下ろした。

「……大丈夫か?」

「ええ。少し痛かったですけど」

 加奈子は高橋の手を振り払い、自力で身体を起こした。彼女の言葉の通り、辺りには一滴の血も流れていない。しかし確かに自分は加奈子の背中を刺した。感触はまだ彼の手に残っている。しかし彼女に傷はない。事態の把握ができないでいる高橋に、加奈子は黙って床に転がっているナイフを差し出した。それは先ほどまで高橋が手にしていたナイフである。柄は金属製だが、鞘で隠れていたブレイドはゴムでできていた。肉厚なゴムだが、鋭利さはない。

「なんだ? これは」

「トレーニング用のナイフです。これなら刺しても怪我はしません。まあ、痛みはありますが」

 加奈子は背中を押さえながら眉をひそめていた。確かに鋭利ではないとはいえ、硬いゴムの塊である。相当な痛みはあるのだろう。そこまで考えて、高橋は疑問に思った。

「……なんでこんなことをしたんだ?」

 高橋がそう訊くと、加奈子は背中を押さえながらも静かに高橋を見返した。

「本当に殺す気があるかどうかを試したかったんです。でも、さすがに本物を使うわけにないきませんから」

「でも、君のナイフは本物だったじゃないか」

 確かに高橋の左腕は着ていたシャツごと切れている。彼女が持っていたナイフは本物だったようだ。

「血を見ないと本気にならないかと思いまして。まあ、深くないのですぐに治りますよ。それより、手に感触、残っていますか?」

 そう言われ、高橋は自分の手を見た。彼女の背中を刺したときの感触は、まだ生々しく高橋の手のひらの残っている。高橋は無言でうなずいた。

「その感触、当日まで覚えておいてください。詳細が決まりましたらまた来ますのでよろしくお願いします」

 加奈子は手短にそう言うと、荷物をまとめて帰っていった。

「…………」

 まるで嵐のように去っていった加奈子に、高橋はしばらくその場で立ち尽くしていた。

 手のひらの感触だけがいつまでも残りつづけていた。


「いや、高橋さんは普段は良くしていただいているので非常に言いにくいんですけどね……」

 翌日、高橋が会社から戻ると大家が訪ねてきて、非常に歯切れの悪い言い方で切り出してきた。曰く、昨日の夜非常にうるさかったと階下の住人から苦情があったようである。気弱で人が良い大家はこのような苦情処理があまり得意ではないらしい。要約するとそのように階下からの苦情だというのだが、高橋がそこまで理解するのに随分と時間がかかった。そのくらい遠回しな言い方だったのである。

「あ、わかりました。すみません。昨日はいとこが子供連れできたもんですから」

「あ、そうだったんですか。それなら仕方ないですね。わかりました。下の人にはそう伝えておきますので、今後はできれば、その、ねえ」

「ええ。音を出さないように気をつけます。すみませんでしたとお伝えください」

「いえいえ、高橋さんが謝ることではないです。子供は大きな音を立ててしまうものですし。先方もそんなに怒っているというわけではないですので。まあ、そういうわけでこれからもよろしくお願いしますね」

 大家は何度も何度も頭を下げて、帰っていった。

「…………」

 この件に関しては階下の住人の苦情は正当である。高橋は間に立った大家とまだ見ぬ階下の住人に心の中で詫びながら、リビングへと移った。

 コンビニで買った夕食を食べながら、高橋は昨日の出来事を思い出した。

 加奈子の背中を突いた瞬間は、実の所よく覚えてはいない。死ぬのかと思った次の瞬間には加奈子は床に倒れていた。あの時何が起こったのだろうか。

 ふと坂本の顔を思い出した。ああ。確か昔坂本からナイフを持った相手の対処法を教わった気がする。あれはまだ彼が空手をやっていた高校時代だっただろうか。坂本は嬉々としてその日に教わったであろう技を高橋にレクチャーした。ナイフを持って突進してきた時は半身になって相手の動線からそらして、ガラ空きになった背中に一撃を加えるのだっただろうか。なにしろ大昔のことなので正確ではないかもしれないが、そんな感じのことを教わったような気がした。それが火事場の馬鹿力のようにとっさに出たのだろうか。

 いや、それよりも、果たしてあれは空手の技だったのだろうか。あの時から坂本は戦闘方法を学んでいたのではないか。あの時から坂本は、準備を行っていたのではないか。他人と闘争しなければならなくなった時のために。

 高橋はそこまで考えて苦笑した。考えすぎだ。今は目の前の戦闘に集中しなければならないのだ。余計な事を考えている暇はない。

 風呂に入り、気分転換をすることにした。熱い湯に浸かり、一日の疲れを洗い流すと先ほどの妙な考えが消え、スッキリとすることができた。

 髪を乾かし一息つくと、既に午後一〇時を過ぎていることに気づいた。高橋は慌ててパソコンを立ち上げ、サイトに接続した。

 黒い背景の画面はもう見慣れたものである。高橋はサイトのトップページを見ながら、「殺すのか」と心の中でつぶやいた。昨日、加奈子は高橋に殺す役をやってもらうと言っていた。当然高橋もそれは覚悟している。葛西の気持ちを理解し、共に戦うかどうかを決めるための戦闘であるから、自分が相手を殺さなければならないことは高橋も理解している。そうでないと今までと何も変わらない事も、十分解っている。

 しかし心の中から湧き上がる不安だけはどうしても払拭できないでいた。果たして自分に殺しができるのだろうか。寸前で躊躇してしまわないだろうか。加奈子は昨日、背中にナイフを刺した時の感触を忘れるなと言っていた。しかしあれと同じ事をもう一度、果たしてできるのだろうか。見知らぬ相手に。

 高橋はそんな不安を振り払うように画面に向き合った。どうも昨日から余計なことを考えてしまう。それもこれも殺さなければいけない「緒方」という男がどんな人物かが解らないからだと思い、「緒方」なる人物を調べることにした。

 このサイトには会員のプロフィールを検索する機能が備わっている。右上の個人プロフィールの中にテキストボックスがあり、そこに名前を入力すれば検索できるようだ。高橋はそこに「緒方」と入力した。

 検索結果はすぐに返ってきた。「緒方」姓の会員は一人しかいないようである。


 緒方徹平

 戦績:1勝0敗0引き分け

 生年月日:1984年6月7日

 職業:中学教師


 検索で出てきたプロフィールにはそれしか出てこなかった。一応プロフィールは自由に編集できるようになっているのだが、必要最低限のものしか記載されていない。

 まあ、それは特に珍しいことではない。プロフィールは入会する際に設定するが、普段は目に入らないため、ほとんどの人が初期に設定したまま放置しているようだ。高橋自身自分のプロフィールに何が書いてあるのか、開いてみないと解らない。

 プロフィールは簡素だが、唯一自動に更新される項目がある。戦績である。緒方は一勝しかしていない。つまり現在の高橋と同じ、初戦しかしていないということなのだろうか。いや、斉藤と見えない共闘をしていると加奈子は言っていた。実際の戦績はもっと上なのだろう。

 この緒方はどんな人物なのだろうか。高橋はそう思って色々と調べていった。様々な掲示板を覗いてみるが、緒方の名前はどこにも出てこない。彼はサイト内ではほとんど活動を行っていないようである。

 その代わりに「斉藤健二」の名前がよく目についた。今回佐藤と戦う相手である。彼は随分と熱心に殺人に関する意見交換を行っている。技術的な話を積極的に行い、佐藤とも交流があるようだった。掲示板での文調は理性的で、礼儀正しいようであった。このサイトでは良くある「まともな人」のようである。

 いくら掲示板を見ても「緒方」の書き込みはない。どんな人物なのかがまったく解らず、少し不気味だった。

 次に高橋は「対戦者連絡用掲示板」を覗いた。「2009年9月」の題名のスレッドが二つできている。片方はそのままの名前、もう片方は後ろに「特別対戦」と付けられてある。それぞれ坂本と佐藤の戦闘に関する掲示板になっている。

 まだどちらも細かいルールなどは決まっていないようだった。しかし双方とも日付だけは決まっている。一番大きい部分なので、先に決める事になっているのだろう。

 日時:2009年9月26日(土)

 示し合わせたわけではなさそうだが、二つの戦闘は九月二六日に行われる事になっていた。

 高橋は少し胸が痛んだ。双方の戦闘が同日に行われる。つまり佐藤の戦闘に参加する高橋は、自動的に坂本の戦闘には参加できないということである。

 大丈夫だろうか。坂本は無事生きて帰ってこれるのだろうか。高橋はよぎる不安を必死で振り払った。今は自分のことだけを考えなければならない。自分だって、生き残れるのか解らないのだ。

 双方の戦闘ルールはその日も少しずつ決まっていっていた。佐藤も坂本も、相手方との意見のすり合わせを行っている。坂本の書き込みを見ていると胸がさらに痛くなり、高橋は対戦者連絡用掲示板を閉じた。

 あれから坂本とは一切連絡を取っていない。坂本が何を考えているのかは解らない。彼は淡々と相手とルールについて詰めている。

 自分もきちんと戦闘に向き合わなければならない。高橋は立ち上がり、押し入れを開けた。様々な物がそれなりに整理されて収納してある高橋は整理棚の奥に手を突っ込む

整理棚と壁の間にわずかな隙間があり、その隙間に手を入れると、硬い物にぶつかった。手のひらに収まる大きさである。その塊を隙間から取り出した。

 坂本のナイフである。折りたたみ式のそのナイフは、初戦が終わってからずっとこの押入れの隙間に押し込んでいた。あれ以来初めて掘り出したのである。

 高橋はナイフのブレイドを開いた。ブレイドは蛍光灯の光を反射し、鈍く光っている。半年前に見たときから何も変わらない。不気味な光である。

 これで緒方を殺さなければならないのだ。出来るかどうか関係ない。やらなければならないのだ。

 ブレイドに自分の顔が写った。表情もなにもない、能面のような顔だった。

 人を殺すときもこんな表情になるのだろうか。高橋はそう思ってナイフをしまった。


 サイト内には緒方の書き込みが一切ない。それが高橋にとっては性格が解らずに不気味だったのだが、その理由は至極簡単なことであった。

「緒方はあまり、というか全然殺しを好きではないのです」

 さらに一週間が経った水曜日、相変わらず保険会社に扮して高橋の家を訪ねてきた加奈子が、高橋の疑問に対してそう答えた。

「どちらかといえば嫌々参加しているので、必要最低限だけ協力して、サイトへの書き込みなど能動的な活動はしていないようです」

「……そんな人がなんで戦闘に参加しているんだ?」

「斉藤という人が死んで欲しくないからじゃないですかね」

 加奈子は高橋が淹れた紅茶を飲みながら、表情を変えずにそう言った。

「なぜ?」

 高橋がそう訊くと、加奈子は解らないといった感じで首を傾げた。

「さあ。ただこの二人は古い付き合いのようですので、死んで欲しくないとかそういうこともあるのではないですかね」

 「私には理解できませんけど」口には出さなかったが、加奈子はそう心で付け足したような顔をしていた。

 書き込みを見る限り、相方の斉藤は殺人を好んでいるようである。緒方はそんな斉藤に死んで欲しくないから、好きでもないのに見えない共闘で協力している。

 ふと坂本の話を思い出した。彼は葛西の戦闘を目撃して入会してから、見えない共闘でしばらく戦っていたと言っていた。その理由は「葛西が死んで欲しくないから」である。気持ちは解らないでもない。しかし果たして自分はそこまでの事ができるだろうか。友達だから。相手が死んで欲しくないからという理由で自らの手を汚すことができるのだろうか。高橋はその結論は出せないでいたが、唯一はっきりしていることがあった。それは、次の坂本の戦闘に、自分は共闘しないということである。

「……どうしました?」

 急に黙った高橋に、加奈子はいぶかしそうな目で見た。

「いや、なんでもない。ところで緒方って人については調べたりしているの?」

「ええ。サイトではほとんど活動していないので難しかったのですが……」

 加奈子はそう言って持ってきたカバンから一枚の写真を取りだして高橋に見せた。

 勤務先の中学校で撮影されたスナップ写真のようである。生徒に撮られたのだろうか。黒縁の眼鏡を掛けたスーツ姿の彼は笑顔でピースサインをしていた。笑顔がよく似合う、気弱で優しそうな男である。

「結構生徒からは慕われているようですね。優しくていい先生だと」

 加奈子は無表情のままそう言った。確かに写真から見ても優しそうだというのは解る。

「それから、こちらが斉藤です」

 加奈子はもう一枚写真を取りだした。こちらは証明写真である。スーツ姿の男がバストアップで映っている。緒方とは対照的で快活そうな青年である。少しだけ茶色に染めた髪をオールバックに固めた彼は、爽やかだがどこか軽薄そうな印象を与えている。

「二人は幼い頃からの友人です。二年前に斉藤がこの世界に入り、緒方を誘ったようです。緒方はこういった世界には興味がないようですが、斉藤を助けるためということで斉藤の戦闘に見えない共闘として参加していたようです。一応今のところ斉藤の初戦を除いた五戦、緒方は戦闘経験があります。ちなみに緒方の初戦は斉藤と共闘で行っているので、先の五戦に含まれております」

 高橋はもう一度緒方の写真に手をかけた。何となく雰囲気が葛西に似ているような気がした。物静かで優しくて、常に自分よりも友達のことを想っていた葛西。彼もこの写真の緒方のような穏やかな笑顔をしていたのだ。

「……よろしいでしょうか」

 思考に没頭しそうになった高橋に、加奈子は控えめにそう訊いてきた。

「あ、ああ。ごめん。どうぞ」

「とにかく、この緒方は戦闘経験は高橋さんよりもずっと上ですが、本人はかなり消極的でして、参加内容も斉藤のサポートに徹していたようです。なのでまだ一人も殺したことがない。実力は高橋さんと五分だと私は思っております。なので、適切な訓練をすれば高橋さんでも十分に殺せる相手だと思います」

 「だから」と言葉を続けると、加奈子は立ち上がり高橋と向き合った。

「これから確実に殺せるように、適切な殺し方をお伝えします。はい、立ってください」

 加奈子はそう言ってこの前と同じようにナイフのようなものを高橋に放り投げた。それは柄も含めてすべてがゴムで出来ている。以前見たものは柄は金属であり鞘がついていたが、今回はすべてがゴムでナイフを形作っていた。

「……これは?」

「トレーニング用のラバーナイフです。さ、持ってください」

 加奈子は既に高橋のそばに落ちているものと同型のラバーナイフを手にしている。これから戦闘方法を教えるとのことか。

「いや、ちょっと待ってくれ」

 高橋は恐縮していた大家の顔を思い出した。先日怒られたばかりである。できればこれ以上トラブルを起こしたくはない。

「なにかありました?」

「いや、前うるさいって怒られたんだ。集合住宅だし、あまり大きな音を出したくないんだけど」

「死ぬのと、怒られるのとどちらがいいですか? 私からの訓練を受けないと、高橋さんは確実に死にますよ?」

 加奈子にそう言われ、高橋は黙るしかなかった。黙ってナイフを手に取り、立ち上がった。確かに自分は人の殺し方を知らない。坂本から教わったのは精神論のみで、適切な技術は自分にはない。

「……まあ、あまりうるさくならないようにしましょう。回りに不審に思われたくもありませんので」

 加奈子はソファとテーブルを部屋の隅に置くように指示をし、リビングに広いスペースを作った。

「ではまずナイフの握り方から……」

 そうして加奈子による人の殺し方の講座が始まった。


 加奈子の講義は深夜まで及んだ。ナイフの基本的な握り方からどこを刺せば相手が声を出さずに一撃で人を殺せるのかまで、彼女は一つ一つ懇切丁寧に教えていった。

 彼女の講義は非常にわかりやすかった。人の殺し方に関しては全くの素人の高橋であるが、理論立てがしっかりしているからか、すんなりと理解することができた。

「飲み込みが早いですね」

 加奈子はそう言っていたが、明らかに彼女の教え方が上手いためであり、高橋の資質はさほど関係がなさそうだった。

 彼女の説明は理論的でわかりやすい。つまりそれだけ彼女は人殺しの経験を積んでいるということ。それが高橋には理解ができなかった。

「……こんな事に意味があるのかな」

 講義が終わり、帰ろうとしている加奈子に、高橋はふとそうつぶやいた。

「意味?」

「ああ。こんなことしなくても楽しい事なんか山ほどあると思うんだ。なんでこんな生産性のないことをみんなやってるんだろう……」

 高橋はそこまで言って、少し言い過ぎだったことに気付いた。戦闘に参加しておいて、人殺しの方法を教えてもらって、こんな言い方はない。怒らせてしまっただろうか。高橋は己の言動を悔いながら、うかがうように加奈子を見た。

 しかし加奈子は表情を変えず、あくまで冷静だった。

「所詮生きていること自体に大きな意味なんて無いんですから、なんでもいいんじゃないですか?」

「そうなのかな。俺には理解ができないよ」

「理解ができないからこそ、今回の戦闘に参加したんじゃないのですか?」

 そう言われ、高橋は言い返すことができなかった。

 確かにそうだ。理解ができないからこそその壁を突き破るために佐藤の戦闘に参加したのだ。だから、今理解ができなくてもそれは当然のことだ。

 しかし、突き抜けたとして、果たしてその先に意味などあるのだろうか。意味のある人殺しなど、存在するのだろうか。

 加奈子が帰った後もそのことについて考えたが、結局明確な答など出るはずもなかった。

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