第10話
佐藤と戦闘を行うためには最低でも三勝しなければならない。もちろん三勝未満でも出来ないことはないのだが、その確率は極めて低い。
このサイトにとって「三勝」はとても重要な意味があるのだ。
サイト内の会員は全て三通りに分類される。AランクからCランク。それぞれ戦勝数でカテゴリ分けされている。
まずCランクはまだ一戦も行っていない新規入会者。このランクの者は戦闘を拒否することが出来ず、同じCランク同士で戦闘を行うことになる。先日高橋と渡辺が行った新入会員特別対戦がそれに当たる。
新入会員特別対戦で勝ち上がり、一勝するとBランクに属し、それから三勝するとAランクに昇格する。先日の戦闘で一勝した高橋と、二勝の坂本はBランクである。
AランクとBランクで異なる点はただ一つ。Aランクの会員は「特別対戦」ができるということ。通常会員は対戦の立候補はできるが、対戦カードを決めるのは運営側である。いくら手を挙げても、選ばれなければいつまで経っても戦闘を行うことはできない。もちろん公平に戦闘ができるように運営側も考慮していると記されているが。
しかしAランクの会員同士であれば、好きな時に対戦を行うことができる。これが「特別対戦」である。特別対戦は通常の対戦とは別枠で扱われるため、ある月では通常の対戦と特別対戦が行われ、ある月では通常対戦のみ、といった具合になる。
基本的にAランクに昇格した会員は、この特別対戦を利用し、通常の戦闘は行わなくなる。特別対戦では両者の合意さえあれば好きな時に好きな相手と殺し合いができるわけで、わざわざ対戦の立候補してお呼びがかかるまで待って……といった面倒な通常の対戦はしなくなるのだ。
それは佐藤も例外ではなく、現状でサイトに保存されている彼の対戦は、全て特別対戦によるものであった。そのため、坂本か高橋のどちらかが三勝しないと、佐藤との対戦の土俵に上ることも出来ないのだ。
逆を言うと、三勝すればとりあえず佐藤と同じ土俵に上れる。どんな作戦を使うにせよ、この三勝を達成しない限りは先に進めない。坂本との会合の際、彼はそのことをまず強調していた。
「今のところ三勝しないと佐藤と戦う権利がないんだ。あいつは通常の対戦には名乗り出ないからな。ま、その点は心配しなくていいよ。俺があと一戦するから。ま、抽選だからいつになるかは解らないけどな」
坂本はそう言ってビールのジョッキを傾けた。加奈子の一件があってから初めての会合である。結局加奈子とは喧嘩別れをしてしまったため、現在佐藤との戦闘を実現させるためには正攻法、正面から戦闘を申し込んで戦うことしか残されていないのである。
そのためにも、坂本があと一勝する必要があるのだ。
「ところでなんで三勝なんだ?」
確かサイト内には「私怨を排除するため、三勝を区切りとさせていただきます」と書いてあった。
「ああ、それはな」
坂本はわずかに渋い顔をしていた。それがビールの苦味からなのか、それとも他の理由からなのかは高橋には解らなかった。
「例えば元々このサイト内に恨みある人物がいたとして、入会してその人物だけ殺して退会する。そのようなことをさせないためだろ。例え恨みがあって入会したとしても、三回無関係の人を殺さなければならない。そこまでモチベーションは続かないだろうといったところだ」
じゃあお前は? と訊こうとして、やめた。現在坂本は二勝している。あと一回勝てば三勝でAランクになれる。サイトが「私怨はそこまで続かないだろう」としている三勝まで、あと一勝なのだ。果たして「親友の仇討ちのため」とはいえ、二回も全く関係のない人を殺せるのだろうか。
「……どうした?」
坂本が怪訝そうな顔で覗き込んできた。急に黙ったので不審に思ったのだろう。高橋は誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。
加奈子との一件以来、どうしても変なことを考えてしまう。坂本の目。別に変な風には見えないが、加奈子にはどう見えていたのだろうか。もちろん坂本は親友である。坂本のことは最大限信じているつもりだったが、どうしてもそんなことが頭をよぎってしまう。
「……とりあえず、こないだはすまねえな。俺がカッとしてしまったことで、加奈子と会えたのに意味がなくなってしまったな」
坂本は少しうつむき加減でポツリとそう言った。彼なりに悪いと反省しているのだろう。高橋は妙な考えで坂本を疑ってしまう自分に罪悪感を感じた。
「まあ、過ぎたことは仕方ないし、先のことを考えようぜ」
「そう言ってもらえると助かる。ありがとな。じゃあ先の事考えようぜ。……といっても具体的な作戦なんかまだ思いつかねえしな」
坂本はそう言いながらチビチビと鳥のから揚げをあてにビールを飲んでいた。ふと思いついて、高橋は訊いてみた。
「ところでこのサイトでは佐藤さんはどんな人なんだ? 会社では本当に普通のおじさんなんだけど」
「佐藤か? そうだなあ……言ってしまえばこのサイトでのヒーローだよ。今のところ六〇勝くらいしてるんだっけ? 殺し方も美しいらしくてな。ヤツのファンは結構多いよ」
佐藤は吐き捨てるように言った。佐藤を褒めることが気に入らないようだった。顔も渋い表情をしている。
「俺には理解できないけど佐藤殺されたいって人も結構いるみたいなんだよな。……もうこの話はやめようぜ」
坂本は残っているビールを一気に飲み干し、今日の会合をお開きにした。
四月も中頃になってくると、さすがに肌寒くは感じなくなる。辺りにはすでに満開を超え、散りかけている桜が、最後の一仕事とばかりに紅色の花びらを舞わせていた。
「……とりあえず俺も戦闘を申し込むから、俺の戦闘が決まったらまた会おうか。また今度ウチ来いよ。次はゆかりちゃん連れてきてさ」
駅までの道を見送ってくれた坂本が、改まったようにそう言ってきた。見るといつもの笑みを浮かべている。久しぶりに見た気がする。いつも通りの少し疎ましいが心地よい笑顔だった。
「……解ったよ」
「なんか、本当にすまないな。こんなことに巻き込ませちゃって」
「もういいよ」
「本当、ごめんな」
「いいって」
そんなやり取りが続きながら、二人は駅まで向かっていった。
桜並木はまだ続く。
「なあ、坂本」
高橋は繁華街に近づく直前で口を開いた。前もここら辺で話を切り出した気がする。そんなどうでもいいことを考えながらも、まっすぐと坂本の目を見た。
「こないだの戦闘で、渡辺は……死んだのか?」
殺した、という表現を出す寸前で、切り替えた。さすがに直接的な表現は避けたかった。
高橋がそう聞くと、坂本はわずかに顔を伏せたまま、
「ああ」
ポツリとそうつぶやいた。その顔は今までに見たことないほど苦しそうだった。
「そうか。ごめんな。変なこと訊いて」
そのまま二人は、別れるまでそれ以上は何も言葉を発しなかった。
坂本と別れると、ちょうどよく電車が来てきた。高橋はそれに駆け乗った。
車内にはほんの数人しか乗っていない。高橋は空いている席に座って車窓に広がる暗い街並みを見つめた。
先ほどの坂本の顔が忘れられなかった。辛そうに眉間に力を込めて、渡辺を殺してしまった事実を受け止めていた。あれが人を殺してしまった人の顔なのだろうか。
しかし、あんな表情をしてまで、全く関係のない人を殺してまでやらなければならないことなのだろうか。
今更そんなことを考えるのは愚かだということは解っているが、どうしても考えてしまう。それはやはり、高橋自身が殺しの現場を見ていないからか。それがどれだけのエネルギーを要するのかが解らないからこそ考えてしまうのかもしれない。そういう意味では今回の見学は意義のあるものだった。
案外、大したことないのかもしれないのだ。仇討ちを遂行しようと思い続けられるほどしか心が動かないのかもしれないのだ。
そこはやはり、実際にこの目で見なければ解らない。
高橋は最寄り駅で電車を降りてアパートへと足を向けた。妙に身体が高揚してきた。早く帰ってサイトを確認したくなった。
アパートに帰り、パソコンを開いてサイトにアクセスすると、佐藤からのメッセージが来ていた。
来週の件について、軽くお話をしたいと思います。
できれば明日の定時後、私と一緒にお酒でも飲みませんか?
佐藤の特別対戦は来週末に行われる。「来週の件」とはこの特別対戦についてのことだろう。高橋は正式にこの対戦を見学することになった。といってもルール上見学などというものは存在しないため、見えない共闘として参加して、定められたフィールドの外にいることになる。
高橋は仕事の状況を考えた後に了承のメッセージを送った。
メッセージを送り終えた高橋は、「現在の戦況」の画面に移った。
今月の戦況には二戦書いてある。一つは通常の戦闘で知らない名前が書かれている。その下に「特別対戦」ということでこう記されていた。
佐藤秋雄(65勝0敗0引き分け) - 高村修吾(4勝0敗0引き分け)
石井健一(3勝0敗0引き分け)
瀬口圭子(3勝0敗0引き分け)
今回は三対一の変則マッチとなっている。基本的に共闘は二人までしか認められていない。しかし、二〇勝以上の相手……現在は佐藤しかいないが……と対戦する場合にのみこの上限を解除し、何人でも共闘できるようになっている。今回は相手側は三人。果たして佐藤はどのように戦うのだろうか?
ふと、この戦闘で佐藤が負けたら? という疑問が浮かんだ。もしこの戦闘で佐藤が死んだら、自分や坂本は納得するのだろうか? 葛西を殺した人物が死んで、「せいせいした」と思えるだろうか?
いや、と高橋は心の中で否定した。多分坂本はそう思わないだろうし、自分もこんな何も解らない状態で終わったら、納得がいくわけがない。そう思うと、佐藤にはなんとしてでも勝ってもらわなければならない。
妙なものだと高橋は眉を寄せた。殺さなければならない相手が生き残ることを望むなんて、おかしな話だ。
高橋は息をついてログアウトした。今日は少しアルコールが入っているせいか、眠くてたまらなかった。OSの再インストールを忘れずに行い、その日は早めに寝ることにした。
翌朝、高橋はいつも通りに仕事をこなした。佐藤もいつものように卑屈な笑みを浮かべながら、わざとらしい誤字を潜ませた文書を提出し、高橋に指摘されていた。その様子には全くの変化はない。あまりにもいつも通り過ぎて、高橋は拍子抜けをした。
しかし。
「高橋主任。書類まとめましたのでチェックをお願いします」
そう言って渡された紙の束の先頭に、小さな付箋が貼り付けられていた。
18時半 亮(ラーメン正雄の左にある路地の奥)
はっとして佐藤を見たが、彼はすでに別の作業に取りかかっていた。もう一度付箋に目を向ける。昨日メッセージであった「お話」をするということだろう。高橋は内容を記憶し、付箋をビリビリに破って捨てた。
佐藤は定時を過ぎると早々と支度をし、「お先に失礼します」と帰ってしまった。高橋も時間差で帰り支度を始める。
「お、高橋さん早いっすね」
若林にそう言われながら会社を後にした。
駅に続く道を歩いていくと、次第に賑やかになっていった。一般的な企業はこの夕方に時間に仕事が終わるようで、駅前には学生達と高橋と同じスーツ姿の男達が辺りを占めていた。高橋は賑やかな駅前を横切り、会社とは反対側の道に出た。しばらく歩くとその通り沿いに「ラーメン正雄」があった。古びた店構えであまり衛生的とは思えない店である。まだ早い時間だからか、客は一人もいないようだった。
そのラーメン屋の脇に、確かに一本小道があった。ひと一人通るのがやっとくらいの、とても細い道である。ラーメン正雄には何度か入ったことがあるが、こんな道があることは知らなかった。
とても狭いその小道を抜けると、ぽっかりと空間が空いていた。建物の隙間にできた空間のようで、薄暗く、少しジメッとしたている。居酒屋「亮」はその空間の先にあった。
外観はどこにでもある、少し落ち着いた感じの居酒屋である。スライド式の戸の上部には「亮」と書かれたのれんが掛かっている。高橋はこんなところにお店があることを知らなかったが、見たところ「知る人ぞ知る」といった店なのだろう。表の通りから見えないだけで、その辺にある居酒屋と大差はなかった。
戸を開けると、左側に奥まで続くカウンター席があった。右側には小上がりの座敷がある。まだ早い時間だというのに、サラリーマン風の男でちらほらと席は埋まっていた。しかし佐藤の姿は見られない。
「いらっしゃいませ」
カウンターで接客していた和服に身を包んだ女性が、高橋を見るなり笑顔を向けてきた。この店の女将だろうか。年の頃は高橋よりも一回りは上だろうが、上品で綺麗な女性だった。
「お一人様でいらっしゃいますか?」
続いてそう訊いてくるので、慌てて「いえ、連れが中にいるようなのですが……」と言った。
「あ、佐藤さんのお連れ様ですね。お待ちしておりました。お二階の方へどうぞ」
女将は小さく礼をして、脇に控える従業員に案内するように伝えた。「どうぞこちらへ」と従業員にうながされて、靴を脱いで二階へと上がった。
二階は大部屋が一つと、個室が数部屋あるようだった。全ては障子戸で仕切られている。二階には佐藤以外の客はいないのか、シンと静まり返っていた。
通されたのは一番奥の個室だった。障子戸を開けると、佐藤が和室の部屋に一人日本酒のお猪口を傾けていた。
「ああ、高橋主任。どうぞ」
佐藤にうながされ。テーブルの向かいに腰を下ろした。高橋の前のお猪口に日本酒を注ぎながら、「若い人にはビールとかの方がいいですかね」と言ってきた。
「いえ、なんでもいいですよ」
「ここは魚がおいしいですので、適当に頼んでおきました。料理が来たら話をしましょう」
「ええ」
それからしばらくして、先ほどの従業員が料理を運んできた。
「それではごゆっくり」
従業員が障子戸を閉めると急に静かになった。
「ここは私の馴染みの店でして、今日はしばらくこの二階には人が来ないようにお願いしてます。お店の人も給仕以外は来ないようにお願いしておりますので、どんな話をしても大丈夫です」
佐藤はそう言って小さく笑いながら高橋を見据えた。冷たく射抜くような目。高橋は背筋が震えた。その表情は明らかに普段とは違った。恐らく、これが人殺しの目なのだ。
高橋は六五勝という戦績を思い出した。少なく、本当に少なく見積もったとしても六五人。もちろん実際にはそれ以上の人を殺している。今の佐藤の目なら、それもうなずける。
果たしてこんな目をする人に、自分達が打ち勝つことなど出来るのだろうか。高橋はふと浮かんだそんな言葉を呑み込み、佐藤を見返した。まだ何も始まっていないのだ。こんな所でくじけていられない。
「さて、来週末の話をしましょうか。戦闘の要綱は確認されましたか?」
急にそう言われ高橋は言葉に詰まったが、すぐに気を取り直して「いいえ」と首を振った。
「そうですか。まあ、まだ本決まりではないのですがね。まず、今週末の戦闘は、富山との県境にある埠頭で行われます。時間は午前〇時から。細かいルールはありません。ただ、戦闘のフィールドは決まっておりますので、高橋主任は事前にそのフィールド外にいてください。当日は私が車を出しますので、戦闘前までは一緒に行動しましょう。ここから会場までは四時間くらいでしょうから、高橋主任の家には午後七時前くらいに着くようにします。先に夕食は済ませて、時間前にはアパートの前の通りにいてください。何か質問はありますか?」
そこまで一気に言われ、高橋はとりあえずうなずいてから先ほどの佐藤の言葉を心の中で復唱した。大丈夫だ。でも。
「今の話は解りましたが、一つ質問があります。……三人も相手をして、大丈夫なんですか?」
それは高橋が純粋に感じていた疑問だった。先日の自分の戦闘だって、相手の渡辺はハンディを与えられても二対一という人数差には勝てなかった。それが今回は三対一なのである。どう考えても佐藤が不利な状況なのだ。
高橋のそんな心配を、佐藤は笑い飛ばした。
「心配していただいてありがとうございます。でも、私はあんな若造が何人集まろうと、負けませんよ」
「……すごい自信ですね」
「ええ。他の事でしたら別ですが、『これ』に関しては私は誰にも負けませんよ」
そう言って佐藤は薄く笑った。その瞳の奥に底知れない闇があるような気がして、高橋は寒気がした。高橋と同じ「人間」という感じがしない。どこか人間にとって大切な回路が切断されているような、そんな気がした。
「ところで、何を使って戦うんですか? やはりナイフとかですか?」
高橋は相手に呑まれている自分を悟られないように、小さく咳払いをして言った。せっかく討つべき仇と対峙しているのだ。少しでも情報を集めた方が良い。
「得物ですか?」
佐藤は短くそう言うと、上着のポケットを探ってテーブルの上に紐の束を放り投げた。緑色の細い紐である。手にとってみると細かく編みこんであるのが解る。普通の紐ではない。
「これは?」
「パラシュートコードと言います。別に特別な物ではなくて、登山用品店に行けば売っていますよ。名前の通りパラシュートのワイヤーとして使われる紐で、こんなに細いですが、二〇〇キロくらいの過重に耐えられるものです」
佐藤は束になっているパラシュートコードから一本だけ手に取り、両手に紐の端を絡ませた。
「これで……」
紐の中心に輪を作り、両手を外側に引いた。輪は一気に縮まり、やがて元の一本の直線に戻った。
その動作だけでなにをするのかが解った。恐らく首を絞めるのだろう。
「これなら血で汚れることもない。相手も痛みを感じる暇もない。安くて調達も処分も簡単。こんなにいい物は他にありませんよ」
佐藤はそう言ってパラシュートコードを仕舞った。
「……なんでこんなことをやってるんですか?」
ふと高橋の口からその言葉が出てしまった。思いがけず出たその言葉に、高橋はハッと佐藤を見た。彼はいぶかしそうに高橋を見つめている。無理もない。佐藤に「なぜこんなサイトに参加したのか?」と聞かれた際に、「興味があるから」と返したのだ。それなのに「こんなこと」と侮蔑するように訊くのはおかしい。矛盾している。
「あ……いや、訊き方を間違えました。なぜ『それ』をやってるんですか?」
高橋は先ほど佐藤がやっていたコードで締めるゼスチャーをした。表現を変えただけの付け焼刃だった。しかし佐藤はそのことを指摘することなく静かな顔で答えた。
「……好きだから、ですかね。あまり深く考えたことはないですが。では、高橋主任はなぜこれをやろうと思ったのですか?」
「え? それは前に言った通り……」
「経験上ですが、高橋主任はそういったことを好きな風には見えません。私には嘘をついているようにしか見えないのですが」
高橋は身体を揺らせた。佐藤に見つめられ、高橋は背中に汗が伝った。怖い。佐藤の目の奥の闇に吸い込まれそうな錯覚を感じた。圧倒的な迫力である。今まで「あの」佐藤が殺しをしているなど半信半疑だったのだが、今実感した。会社での彼はやはり演技だ。これが本当の「佐藤」なんだ。高橋は己の身体を強く抱いた。そうしないと身体の奥から湧き出る恐怖心が抑えられなかった。
「まあ、わかりました」
そんな高橋をよそに、佐藤は小さく息をつきながらそう言って、興味の対象を日本酒に移していた。すでに銚子は空になったようで、インタホンで従業員を呼び、酒を注文していた。
女将が「ごめんなさい。一階がいっぱいになっちゃって」と侘びを入れてきた。この二階にも客を入れたいようだった。佐藤が了承すると、先ほどまで静まり返っていたこの二階部分にもかすかに活気付いてきた。高橋が知らないだけで、この店もそれなりに人気があるようである。
それからしばらく関係のない話が続いた。佐藤はいつもの調子に戻って最近の天気の話や、職場の話など他愛のない話で時折訪れる沈黙を埋めていた。
「それではそろそろ帰りましょうか。明日もあることですし」
佐藤は腕時計に目を移し、そう言って従業員を呼んだ。店内は一層活気が増したようで、女将が伝票を持ってくるまでしばらく時間が掛かった。
「すみませんねえ。なんだか今日はお客様が多くいらしてまして」
「いえいえ。また来ますので」
佐藤はそう言って伝票に書かれた金額を全額支払った。高橋は「あの……」と財布を出しかけたが、佐藤に止められた。
「いつもご贔屓ありがとうございます。そちらの方も、初めまして。会社の後輩の方ですか?」
女将が高橋の方を向き、三つ指をついた。高橋が、「そうです」と言う前に、
「私の上司なんですよ」
佐藤は照れ笑いしながらそう言った。
「あら、佐藤さんの上司ですか。随分と若い上司さんなんですね」
「そうなんですよ。最近の若い人は優秀でして」
「なに言ってますの。佐藤さんもまだまだこれからですよ」
二人はテンポよく会話を続けていた。大分気安い仲なのだろう。歳の離れた上司だということを聞いても、気にすることなく話を続けている。
ひとしきり話した後、再び三つ指をついて女将が去っていった。
「ところで高橋主任」
立ち上がり、上着を着ようとした時、思いついたように佐藤が口を開いた。
「高橋主任は誰の紹介で入会したんですか?」
その言葉に、高橋の動きが止まった。現段階では坂本とのつながりは出来る限り隠しておいたほうが良い。今後どのような作戦を行うか解らないのだ。それなのにこの様な質問をされた場合の対処法を考えていなかった。
「……なぜそれを?」
「いえ、先日の戦闘では高橋主任は見えない共闘をしていますよね? 恐らく戦闘結果を見る限りではその共闘相手が殺したと思うんですよ」
「…………」
高橋は佐藤の言葉に肯定も否定もしなかった。
「私は運営とも仲良くやってましてね。今回負けた相手……渡辺君でしたっけ? がどんな状態で死んでいたのかを訊いたんですよ。どうなっていたと思いますか?」
「……解りません」
「原型を留めていなかったみたいですよ。もう、ぐちゃぐちゃで」
ぐちゃぐちゃ。その言葉に高橋は先ほど食べた物が一気に逆流しそうになって、顔を歪めて身体を屈めた。
「ああ、すみません。ちょっと刺激が強かったですかね。ともかく、運営の方々は随分と処理に手間取ったそうです。一体誰がそんな事をするのかと思いましてね。いや、特に言いたくなければそれでいいです」
佐藤は早々に会話を切り上げて部屋を後にした。そしてそのまま高橋が言葉を掛ける間もなく去っていった。
「…………」
高橋はしばらくなにも考えられずに呆けていたが、部屋を片付けようとした店員に声を掛けられ、慌てて店を後にした。
ぐちゃぐちゃ。家へと帰る途中、その言葉がずっと高橋の心の中に残り続けた。
その言葉がどの程度の損壊を表しているのかは解らないが、ただ一つ言えることは、そんなことをしなくても人は殺せるはずだ。葛西の仇を討つための戦闘なら、そんな事をしなくても良いはずなのだ。
だとしたら、坂本は、なんのために戦っているのだ?
家に着いてもその言葉が高橋の心から離れなかった。この戦いは、本当に仇討ちなのだろうか。
高橋はそこまで考えて、乱暴に頭を振った。バカらしい。坂本は親友で、佐藤は仇なのだ。どちらを信じるべきなのか、考えなくても解る。
佐藤が訊いた話が間違っているのかもしれない。第一、あの時坂本の服は全く汚れていなかった。「ぐちゃぐちゃ」にするのに返り血を一切浴びていないということはありえないのではないか。
それに、あの坂本に限ってそんなことはありえない。彼は友達思いの気の良い男なのだ。「ぐちゃぐちゃ」に出来るような奴ではない。
高橋はそう自分に言い聞かせてソファに寝転んだ。
まだサイトに接続可能な時間であったが、その日はパソコンを開く気にならなかった。
坂本はそんな男ではない。だが、同じように考えていた葛西は殺しをやっていたのだ。それを考えてしまうと、先ほどまでの確固たる信念が揺らいでしまった。
高橋は天井を見上げながら深くため息をついた。先に進めば謎が解けてくると思っていた。しかし実際にはさらに謎が深まるばかりである。
それを越えるには、さらに先に進むしかないのか。
高橋はそう心の中でつぶやくと、ゆっくりと瞳を閉じた。
眠れるかどうかは解らなかったが、これ以上余計な事は考えたくなかった。
一週間後の土曜日、佐藤は当初の打ち合わせ通り、午後七時ちょうどに高橋のアパートを訪れた。高橋は彼に言われた通り、早めに夕食を済ませて五分前には表に出ていた。
佐藤はシルバーのセダンの車に乗っていた。以前見た佐藤の家の車とは違う。恐らく自分達の時と同じように運営が用意したものだろう。佐藤は高橋の姿を確認し、すぐそばでハザードランプを焚いて停車した。
車内には運転席の佐藤の姿しか見られない。加奈子の姿はどこにもない。
佐藤にうながされ、高橋は助手席に乗り込んだ。扉が閉まるのを確認すると、佐藤はゆっくりと車を発進させた。
「あ、眠くなったら寝てもいいですからね。道中長いですので」
前を向きながら、佐藤は短くそう言ってきた。声には抑揚が感じられない。戦闘前だからと高揚しているようにも見えない。落ち着いているようだった。
車は大通りに出ると、国道に接続した。高橋自身車にはよく乗るので、佐藤がどのルートで向かおうとしているのかは何となく解った。
「高速は使わないんですね」
先週聞いたときから解っていたことだが、佐藤に訊いてみた。ここから四時間ということは、全て下道を使うということだ。高速道路を使えばもっと早く着く。
「ええ。高速は何かとリスクが高いですからね」
車は法定速度よりもほんの少し早い速度で国道を走ってゆく。二人はその会話を最後にしばらくの間黙り込んでしまった。
街灯の少ない道を走りながら、高橋はチラと佐藤の横顔を見た。彼は先日と同じ静かな顔で運転に集中している。やはり緊張や高揚は見られなかった。
「……なんか、落ち着いてますね」
沈黙を破って高橋がそう言うと、佐藤は運転しながら小さく笑った。
「さすがに私くらいになると緊張なんかしませんよ」
「そういうもんなのでしょうか」
「ええ。もう、何年もやってますからねえ」
そう言って佐藤は遠くを眺めていた。今までの歴史を振り返っているのだろうか。
葛西と対戦する前も、こんな風に感情のない顔で向かっていたのだろうか。そして、葛西自身はどんな表情をしていたのだろうか。高橋は葛西の顔を想像してみたが、どうしても納得のいく表情は思い浮かばなかった。やはり葛西にこんな血生臭いことは似合わない。
高橋がそう考えているうちにも車は夜の道を突き進んでゆく。だんだん高橋も見たことのない風景になってきた。県境など、地図上では知っているが実際に来たことはない。ずっと海の近くを通っているようだが、閑散としていて車の通りも少ない。高橋は東京での戦闘を思い出した。あの時も確かこのように薄暗く、車の通りが少ない場所だった。
「もうすぐ着きますよ」
佐藤にそう言われ、高橋は妙に緊張してきた。それが態度に出たのだろう。「高橋主任が緊張しなくてもいいじゃないですか」と笑われてしまった。相変わらず佐藤はリラックスしている。
「高橋主任、これ」
と、佐藤は信号待ちの間に後部座席を探り、双眼鏡のような物を手にして高橋に渡した。
「これは?」
「暗視スコープです。これを使えば暗闇でも鮮明に見ることができます」
暗視スコープ。漫画やドラマの世界では見聞きした事があったが、実物を見たのは初めてだった。一見するとただの双眼鏡のようだが、右側にいくつかのスイッチのようなものがついていた。
試しに覗いてみたが、それだけではただの双眼鏡と変わりはなかった。相変わらず暗い外は暗いままだった。
「右手のところにあるボタンを押してください」
言われるままにボタンを押してみると、テレビでよく見る緑かかった映像が見えるようになった。なるほど。先ほどまで何も見えなかった外が、鮮明に見えるようになった。
佐藤が運転する車が大きく右折した。どうやら目的地に着いたようだった。大きな門をくぐると、少しひらけた空間となっている。所々に運営委員が持っているらしい光があるが、それ以外はどこを見渡しても真っ暗な闇が広がっている。
車は運営委員に停められ、乗員の確認をされた。すでに高橋のことは連絡済みのようで、特に何も言われずに駐車スペースに誘導された。
車を降り、高橋は辺りを見回した。佐藤は「埠頭」と言っていたが、どうやらコンテナターミナルのようだ。辺りには大型トラックの荷台ほどの大きさのコンテナが所々に打ち捨てられてあった。暗視スコープ越しに見ると解る。敷地の中央に建物があり、その先にはコンテナヤード、コンテナを置くためのスペースが設けられてある。さらに先は見えないが、恐らく海が広がっているのだろう。
「今回のフィールドは、あのコンテナで囲っている中になります」
佐藤はそう言って建物の先、コンテナヤードを指差した。確かにコンテナで囲ってあるように見える。今回はそこが戦闘のフィールドということか。
「高橋主任はあの建物……管理棟から見学してください。運営には連絡済みですので、案内してもらってください。では私は準備がありますので」
佐藤はそう言って駐車するときに誘導していた運営委員と共に闇の中へと消えていった。
「高橋さん、こちらです」
もう一人いた運営委員の男にうながされ、管理棟と呼ばれる建物に足を向けた。
管理棟の内部は完全な闇に覆われている。運営委員のライトの光がなければ何も見えない状態だった。暗視スコープを使えば見えるのだろうが、バッテリー式らしいので、無駄使いはしないことにした。
運営委員について行き、五階まで上った。そこは一面ガラス張りで展望台のようになっており、コンテナヤードが一望できる形になっている。そこには数人の運営委員が外の監視を行っていた。
「それではごゆっくり」
案内してくれた運営委員は小さく礼をして去って行った。
高橋は居心地の悪さを感じながらも、運営委員が監視している横でコンテナヤードを見下ろした。外も暗く、裸眼では詳細は解らないが、フィールドの全容は見ることができた。コンテナで巨大な四角形を作っており、その四方の角の部分が空いており、そこから四角形の内部に入れるようになっている。そこ四角形の中がフィールドなのだろう。四角形の内部はコンテナが不規則的に並べられており、身を隠したりできるようになっていた。高橋が先日戦った病院跡地とは違う、人工的な戦闘フィールドであった。
高橋は暗視スコープを使って外を見た。倍率を上げてフィールドの隅々まで見る。フィールドにはまだ誰もいないようだった。
暗視スコープから目を外した。小さく息をついてそのままジッと時が経つのを待った。現在一一時半。あと三〇分だ。あと三〇分経ったらあの場所で、あの佐藤が殺し合いをするのだ。高橋は小さく身震いをした。まだ信じられない。あの、佐藤なのだ。
しばらく経つと、左奥の角に人影が見えた。慌てて暗視スコープ越しに外を見る。人影は四つ。一つは女性で残り三つは男性のようだ。皆若そうな格好をしている。まだ二〇代なのだろう。相手側だろうか。それにしては一人多い。その後右手前に佐藤の姿が見えた。やはり奥の四人は相手側だろう。となると残り一人は「見えない共闘」か。
四対一。しかも佐藤は三対一だと思っている。それで勝つことができるのだろうか。高橋は他人事ながら不安になってきた。今佐藤に死なれては困る。こんなところで殺されていいわけがないのだ。加勢した方が良いだろうか。一瞬そう考えたが、すぐに打ち消した。自分が行った所で役に立つわけがない。それどころか足手まといになるだけだろう。
しばらくすると、まず佐藤がフィールドに入っていった。その後相手側四人も入ってゆく。そのまましばらくフィールドの五人は入り口付近でジッと時を待っていた。
遠く離れた高橋にまで緊張が伝わってくる。高橋は息を呑んだ。
左隣の運営委員が無線を受信した。運営委員は内容を確認し、「はい。戦闘開始」と短く言った。その声とほぼ同時にフィールドの五人が動き出した。戦闘開始だ。
相手側四人は戦闘開始と共に二手に分かれた。見えない共闘らしき一人は壁沿いに外周を回り、残りの三人が中心に向かってコンテナに身を隠しながら進んでいる。対する佐藤はスタート直後にあるコンテナから辺りをうかがっている。
相手側は闇の中で辺りが見えていないのか、手探りで中心部分に向かって進んでいる。彼らの手にはナイフが握られている。
そんな三人を静かに佐藤は見つめていた。佐藤も見えない条件は同じはずなのだが、その視線は三人を的確に捉えていた。
佐藤はそっと動き出した。大きく迂回をして三人の背後へと回りこむ。その間に三人のうち一人がはぐれてしまったようで、一人取り残されていった。佐藤はその男の背後についた。
男は頼りなさげに仲間を探している。すぐ先も見えない状態なのだろう。さほど離れていない場所に仲間がいるのだが、彼には見えていないようだった。
と、佐藤が動いた。彼は地面を蹴り、男のすぐ後ろにつくと、そっと腕を動かした。男は何かに気付き首元を押さえるが、そのときにはすでに遅かったようだ。パラシュートコードが深く首に食い込んでいる。
佐藤が全体重をかけて後ろに引く。男の身体が後ろにのけぞる。目を飛び出しそうに見開いて、苦しそうに口をパクパクさせていた。
高橋は反射的に暗視スコープから視線を外した。見ていられない。人間のあんな表情は、高橋自身初めて見る。これが「殺す」ということなのか。ガラスで隔たれた向こう、そう離れていないところで今、殺人が行われているのだ。身体中から汗が噴き出してきた。苦しい。
高橋は頭を振り、自分を鼓舞して再び暗視スコープを覗いた。こんなところでくじけるわけにはいかない。自分には葛西の気持ちを理解する使命があるのだ。
フィールドに目を移す。先ほどの場所には佐藤の姿はなかった。男が仰向けに倒れているのみだった。高橋は目の前に移る死体にひるみながらも、佐藤の姿を探した。念のため倍率を下げ、はっきりと見えないようにした。
佐藤はフィールドの中心辺りで女と対面していた。その傍らには男がうつぶせに倒れている。すでに絶命しているのだろうか。
女は腰が引けながらナイフを構えていた。佐藤が悠然と近づくと、それに合わせて後ずさりをしていた。しばらくそのまま小さな硬直状態が続いていたが、佐藤が飛び掛ることで硬直が破られた。女は目を閉じてナイフを突き出す。佐藤は軽々とそれを避け、彼女の首にパラシュートコードを掛けた。
彼女はキャっと悲鳴を挙げそうになり、必死で自分の口を押さえていた。これが最低限のルールなのだろうか。サイトに書かれていた言葉を思い出した。敗北が決まった場合、少しでも後の処理が円滑にできるように暴れたりはしないようお願いします。
佐藤は女が落ち着くまで、首にコードを掛けたまま待っていた。しばらく経ち、女が力なくうなずいた後にコードを持つ手に力を込めていた。女の顔が苦悶に歪む。一人目の男と同様に目を見開きながら、コードが食い込む喉を掻きむしっていた。やはり見ていられない。高橋は顔を伏せた。
ふと、もう一人の男を思い出した。最初に二手に分かれた彼は今何をしているのだろうか。高橋はフィールドの右奥、男が走っていった方に目を向けた。
「…………」
彼らがどのような作戦を練っていたのかは解らないが、その作戦は無駄足に終わったようだ。右奥に配置されているコンテナの傍らで、見えない共闘らしき男が、背中から血を流して倒れていた。
高橋は周囲を見回すが、人影は見当たらない。ただ、男が血を流して倒れている。それだけだった。
佐藤の方に目を移す。彼もまた、女を殺害し終えた後であった。仰向けに倒れる女から離れて、その場に立ち尽くしていた。
しばらく経ってから佐藤はパラシュートコードをポケットにしまい、フィールドを後にしていた。
その後しばらくした後に左隣の運営委員が、「はい、〇時七分。佐藤秋雄の勝利」と無線機につぶやいていた。
たった七分。たったの七分で全てが終わったのだ。
「…………」
帰りの車内に重苦しい空気が流れる。佐藤と合流した高橋は、無言のまま佐藤の運転する車に乗り込んだ。すでに一時間ほど経過したが、二人はまだ一言も言葉を交わしていなかった。
先程の光景が頭から離れなかった。目を見開いて首元を掻きむしる女。苦しそうな表情のまま表情が固まった男達。彼らはつい先程までは生きていたのだ。しかし今はこの世にいない。
この前まで感じていた、「もしかしたら渡辺は生きているのではないか」という甘えは、今は完全に吹き飛んでいた。あれは現実だ。佐藤は確かに三人の人間を絞殺したのだ。
「……ちょっと、高橋主任には刺激が強すぎましたでしょうか」
佐藤が沈黙に耐えかねたのか、頭を掻きながらそう言ってきた。
「いえ、大丈夫です」
「まあ、いずれ慣れますよ」
佐藤はそう言って小さく笑っていた。先程殺人を犯した人間とは思えないほどの落ち着き振りであった。
果たして彼に勝つことができるのだろうか。高橋はこの佐藤に勝ち、仇を討っている自分を想像することができなかった。人間として根本から違っているような気がした。佐藤は自分とは違う世界を生きているのだ。高橋はそう考えるしかなかった。そうでないと、全てにおいて理解することができない。
そんな事を考えながら車は夜の国道をひた走っていた。やがて高橋も見覚えのある道になってゆく。三時間が過ぎ、すでに折り返し地点を通過した頃にはようやく高橋も落ち着きを取り戻してきた。相変わらず対戦相手が死んだことに折り合いが付いていないが、それでも心が乱れることはなくなっていった。
落ち着いてくると、先程感じた疑問が頭に浮かんできた。戦闘では見えない共闘の男が一人いたのだ。その男がいつの間にか死んでいた。
もしかしたら、あれをやったのは加奈子だろうか。感情のない無機質な表情の彼女は、恐らく人を殺すときも同じように眉一つ動かさずに人を殺せるのだろう。なんとなくそんな気がした。
「……あの、先程の戦闘では見えない共闘の人が一人いたみたいなんですが、ご存じでした?」
高橋が控えめにそう聞くと、佐藤は「ええ」と小さく答えた。
「その人が気付いたら……あの……亡くなっていたんですよ。あれはどうやったんですか?」
高橋は「亡くなる」という言葉に一瞬躊躇してしまったが、なんとか訊くことができた。そのまま佐藤の出方を待つ。
佐藤は一瞬の沈黙の後、小さく笑って「それは答えられません」と言った。
「なぜ?」
「いきなり全部教えるのもつまらないじゃないですか。何事も焦ってはいけませんよ」
「…………」
高橋は舌打ちをしそうになり、寸前で自制した。
やがて佐藤の車は高橋の家の前に着いた。そこまで一言も言葉を交わさなかった。
「それではまた来週会いましょう」
高橋が車から降りるとき、佐藤がそう声を掛けてきた。
「あと、これからも見学したい場合は言ってください。いつでも歓迎しますよ」
佐藤はその言葉を残して去っていった。
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