第四章

第11話

 どうしたの? 最近、圭介変だよ?

 急にそう言われ、高橋はハッと顔を上げた。見ると化粧直しをしていたゆかりが不機嫌そうに頬を膨らませていた。

「なんか最近いつもうわの空だしさ。何かあったの?」

 首を傾げて眉をひそめるゆかりに、高橋は曖昧に笑ってごまかした。

 最近暇さえあればあのサイトのことを考えてしまう。考えすぎても仕方がないということは解っているが、それでも考えてしまうのだ。

 葛西は本当に殺しをしていたのだろうか。先日の戦闘で、坂本は遺体を「ぐちゃぐちゃ」にしたのか。それらは佐藤の戦闘を見学しても、結局解らなかった。いや、むしろあの虫も殺せないような佐藤でも裏の一面があった、と疑惑が増しただけだった。

 どうすれば己の心の折り合いをつける事が出来るのか。高橋はいくら考えても答えが出ない事くらい解っているが、ついそう考えてしまう。

「……ほらまた何か考えてる」

 ゆかりが再び不機嫌そうに覗き込んできた。

「いや、えっとな。最近仕事が大変でちょっと疲れてるんだよ」

「そうなの? 大丈夫? 今日の事、延期する?」

「いや、大丈夫だよ。それより早く準備しなよ。もう行かなきゃ」

 高橋がそう言うと、「ああ、うん」と先ほどまで行っていた化粧直しを再開させていた。軽くファンデーションをパッティングして髪をすく。

 今日は夜から坂本の家で飲み会をやることになっている。もうそろそろ家を出なければならない時間のため、出発の準備をしているのだ。先日の「ゆかりちゃんを連れてウチに来い」という坂本の言葉をゆかりに話したところ彼女も非常に乗り気で、今日実現することになったのである。

 正直なところ高橋はあまり乗り気ではなかった。今「いつもの坂本」に会ってまともに会話が出来る自信がなかった。しかしこの話に坂本夫妻も随分と乗り気で、結局数の力に勝てることなく高橋も応じることにしたのだ。

「ほら、いつまでもボーっとしてると置いていくよ?」

 ゆかりはそう言いながら立ち上がり、玄関の方へと歩き出していた。見ると既にゆかりの準備は完了していた。

「あ、ちょっと待ってよ」

 高橋は慌てて後を追おうとするが、己がまだ部屋着であることに気付いて慌てて着替える。着替え終わって再び顔を上げると、彼女はすでに外に出たようだった。

 急いで外に出て、スタスタと前を歩くゆかりに走って追いついた。

「ほんとに置いてくなよ」

「圭介が悪いんでしょ? 大体なんで私が準備終わってるのに、まだ着替えてなかったのよ」

「いや、それは」

「そういうズボラなところがダメっていつも言ってるでしょ? ちゃんと私が準備終わる前に行動しないと……」

 ゆかりのお小言はまだまだ続くが、いつものことなので「ごめん」と言いながらも聞き流していた。いつもの事だし、こんな時のゆかりは別に怒っているわけではない。

 そんないつもの何気ないやり取りに、ふと高橋は幸せを感じた。これでいいじゃないか。可もなく不可もなく、激しく上昇することもなければ激しく下降することもない。いつも通り恋人とじゃれあって、そんなささやかな幸せを悦ぶ。これでいいじゃないか。

 仇討ちなんか、する必要ないじゃないか。

「……ねえ、急にどうしたの?」

 不意にゆかりが怪訝そうな声を挙げた。

「どうしたって何が?」

「涙」

 そう言われ、高橋は己の頬を拭った。いつの間にか涙が一筋流れていたらしい。

「いや、なんかゴミが入ったんだ」

 高橋は涙を拭った。

 この涙はなぜ出たのだろうか。こんなことに巻き込まれた自分に対してなのか、妻も子供もいるのに殺人の道へと進んでいる坂本に対してなのか。

 高橋はその涙の理由が、結局解らなかった。


「よお。よく来たな」

 到着前に連絡を入れたら、坂本がマンションの下で待っていた。彼は高橋達に気付くと、笑顔で手を挙げてきた。

「ゆかりちゃん久しぶり。元気だった?」

「ええ。坂本さんも変わってないですね。東京では浮気しなかった?」

「こっちじゃ浮気していたみたいな言い方しないでくれよ。俺は歩美一筋なんだから。ま、それはそうと入ってくれ。今歩美が飯作ってるからさ」

 坂本はそう言ってマンションの中に入るようにうながした。

「よう」

「ん」

 高橋と坂本は目が合うと、二人とも少ない言葉で挨拶した。

「なに? その挨拶」

「男同士はこのくらいでいいんだよ」

 坂本は笑顔でそう言うと、マンションの中へと足を向けていた。高橋とゆかりは彼の後ろを歩いて行く。

「あ、いらっしゃいませ」

 ドアを開けると娘の由紀が出迎えに来た。一生懸命余所行きの顔でちょこんと礼をする由紀に、ゆかりが「かわいー」と頬をゆるませていた。

 しばらくして歩美も姿を現せた。「いらっしゃいませ。どうぞ中に入ってください」と、笑顔で迎え入れてくれた。

 部屋に入ると、すでに食事の準備ができていた。色とりどりの料理がリビングのテーブルに並んでいる。

「わー、すごいすごい。やっぱり歩美さん料理上手だね。すごいすごい」

 ゆかりが歓声を挙げる中、高橋は途中で買った酒類が入ったビニール袋を坂本に手渡した。食べ物は坂本達が、飲み物は高橋達が負担することになっていた。

「さ、じゃあ早速はじめようか」

 坂本は受け取った袋から缶ビールを取り出し、テーブルに並べる。由紀の席近くにはオレンジジュースのペットボトルを置き、どさくさに紛れて缶ビールを一本開けて口をつけてた。

「あ、祐司なに一人で飲んでるのよ!」

「うるせえ。毒見だよ毒見。お、すげえ冷えてる。高橋ありがとな」

 坂本は早くも缶ビールを一本飲み干し、笑顔でそう言ってきた。

「あ、うん」

「なに辛気臭い顔してんだよ。ま、早く飲もうぜ」

 坂本は高橋の背中を叩きながら、無理やり席に座らせていた。

 少し強引だが憎めない、いつもの坂本だった。悲壮感も何も感じられない。どうすればここまで普通にしていられるのだろうか。高橋には理解ができなかった。

 無理をしてこうしているのか、それとも。高橋はそれ以上考えるのをやめた。考えたところで答えが出るはずがない。そんなこと、坂本に聞かなければ解るはずがないのだ。

 由紀を囲むように坂本と歩美が座り、その向かいに高橋とゆかりが座った。皆が着席したところで飲み会が始まった。

 宴は由紀の話題を中心に盛り上がった。四歳にもなると、大分大人びた口を聞くようになるらしい。幼稚園で彼氏がいるという話で歩美と盛り上がり、坂本が「聞いてないぞ」と動揺したりしていた。

「ところで二人はまだ結婚しないの?」

 食べ終わった皿を片付けながら、ふと歩美が聞いていた。

「ご両親の挨拶済んで、後は指輪買うだけって所かな?」

「うーん。圭介が全然動いてくれないのよね。この人ほんっとにズボラで」

 ゆかりがため息混じりにそう言ってきた。

「だって。高橋君、だいぶ言われてますが」

 坂本が話しに乗り、高橋に布巾をマイク代わりに突き出してきた。

「あー、まあそうだな。今の忙しいのが一段落したらね」

「いっつもそれで、全然話が進まないじゃないの。あれからもう二ヶ月よ?」

「そんなこと言ったってさあ……」

「はいはい。喧嘩はそこまでにしてね」

 由紀がとりなすようにそう言ってきた。その言い方が歩美の言い方に似ていたため、皆が思わず笑ってしまった。由紀だけがなぜ笑っているのか解らずにきょとんとしていた。

「……今日はありがとうな。ほら」

 飲み会が終わり、女性陣が後片付けを行っている中、坂本は高橋の隣に座りビールを注いできた。

「いや、うん。こちらこそありがとう。歩美さんの料理、すごくおいしかったよ」

「そうか。そりゃよかった」

 坂本はそうつぶやいてビールを一口飲んだ。一瞬沈黙が流れた。

「一応戦闘の募集はかけているんだけど、な」

 そんなつぶやきに、高橋はフッと顔を上げた。坂本はいつもの陽気な顔から戦闘の時の顔に変えていた。

「なかなか俺の番が回ってこない。まあ、焦らず気長に待とうな」

 高橋は小さくうなずいた。あれから坂本は募集がある度に戦闘の申し込みを行っているが、なかなか三戦目が決まらなかった。あのサイトではこのようなことは珍しくないらしく、ただひたすら当選するのを待つしかないようだった。

「お前のところは何か変わったことはないのか? 佐藤とか」

「いや、なにも」

 高橋は先日行われた佐藤の戦闘の見学が頭に思い浮かんだが、言葉には出さなかった。まだ坂本に伝えるわけにはいかない。

「そうか。ま、ゆっくりいこうな」

 そんな高橋の心の流れに気づいていない坂本は、笑顔を浮かべていた。坂本の笑顔に「ぐちゃぐちゃ」という言葉を思い出したが、すぐに思い直した。

「ああ。そういや一個収穫があったんだよな」

 坂本は思い出したように手を叩いた。

「葛西の手紙にあった明日美だけど」

「明日美?」

「ああ。憶えていないか? 佐藤を倒すことが葛西と『明日美』の願いだって」

 確かにそんなことが書かれていたような気がする。葛西の手紙に出てきた登場人物の一人だ。

「それでその明日美……皆川明日美。彼女はあのサイトの会員だったみたいだ」

「会員? じゃあ今もいるのか?」

「いや、もうだいぶ昔に、な。昔から戦わずに閲覧専用の奴がいてな。そいつが憶えていたんだよ。あんまりない名前だからな。ま、葛西の手紙では名前しか書いてなかったから、サイトの皆川明日美と同一人物かどうかは解らないけどな」

「…………」

 坂本ははっきりと明言しなかったが、話の内容から推測できる。彼女はもう、この世にいないということだ。

 せめて生きていれば、加奈子以外から葛西のことが解ったかもしれないのに。

 しかしこれではっきりしたことがある。佐藤の戦闘の見学から、加奈子に辿り着かなければならない。そうしないと葛西に関する真実は闇の中のままなのだ。

「ともかく、しばらくはこの話から離れようぜ」

「……ああ」

「なに男二人で話してるのよ?」

 テーブルの食器を片付けに来た歩美が割って入ってきた。二人は急な声に、そろって身体を揺らせた。

「あやしいわね。何話してたの?」

「うるせえな。男同士の大事な話だ。女子供はすっこんでろ」

「あ、ひどーい。どうせエッチな話でもしてたんでしょ?」

「ちげーよ。大事な男と男の、いかがわしい話だ」

「おんなじじゃない。全く、いやねえ」

「いやねえ」

 後から来た由紀が、また歩美の口調に似せて言ってきた。それが先ほどまでの真剣な話と大きなギャップがあり、二人は同時に吹き出してしまった。

「はい。飲み会は終わりよ。ゆかりちゃんが片付けしてるのになにあんたはぼけっとしてるのよ。ほら立ちなさい」

 坂本の尻を叩いて彼を立たせると、洗い場の方へと連れて行った。

 一瞬坂本は高橋の方を振り返り、苦笑いをしていた。高橋はそれに応じて小さくうなずく。

「……どうしたの?」

 入れ替わりで戻ってきたゆかりに怪訝そうな顔をされたが、曖昧に笑ってごまかした。

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