第9話

「高橋主任、文書の修正終わりました」

 佐藤は自信溢れる声で高橋にそう言ってきた。朝お願いした単純な文書作成が、昼過ぎに今ようやく終わったようである。確認してみると相変わらずありえない誤字が至る所に散りばめられてある。

「……佐藤さん、こことこことこれ、字間違ってますよ。あとこれも」

「あれ? おかしいな」

 佐藤は困ったように頭を掻き、再び文書作成に戻った。佐藤の会社での仕事ぶりは相変わらずであった。相変わらずくだらないミスを繰り返し、いつものように卑屈な笑みを浮かべている。しかしこれは偽りの姿で、本当の彼はあのサイトで殺人を繰り返しているのだ。

 サイト内での佐藤との交流は順調に進んでいた。あれから二日、まだ表面的な会話のみだが、それでも会話は途切れずに進んでいた。

 メッセージでの佐藤の文章は、理性的にまとめられていた。もちろん仕事で見られるような誤字は一つもない。正直な所、サイト内での「佐藤秋雄」と、隣で一生懸命誤字を潰している「佐藤秋雄」が同一人物だということが今でも信じられない。メッセージの内容では会社の事や彼のパーソナルな部分も話題に出ているので別人だということはありえないのだが、それでも受ける人物像が違いすぎるのだ。

 そしてこのように会社では何事も無かったかのようにいつも通り接してくる。高橋には、どちらの「佐藤秋雄」が本物なのか解らなくなっていた。

 間違いなく向こうの「佐藤秋雄」が本物なのだろうが。

「高橋主任、誤字直しました」

 再び自信溢れる声で佐藤が申し出てきた。佐藤が直した文書を開き、確認する。

「……あと、こことここだけですね」

 高橋が再度間違いを指摘すると、また困ったように頭を掻いて修正に戻った。

 その後高橋は粛々と仕事を進めた。定時ちょうどに帰る佐藤とは異なり、高橋は九時過ぎに仕事を終わらせた。 

「高橋君、ちょっといいかな」

 帰り支度をしていると斜向かいの席の佐々木に声を掛けられた。周りには高橋と佐々木しか残っていない。

「主任になってまだ一ヶ月経っていないけど、どうだい?」

 佐々木は自分の肩を揉みながらそう言ってきた。仕事に疲れて雑談でもしたくなったのだろう。帰ってサイトに接続しなければならないということが頭によぎったが、表情には出さずに答えることにした。

「正直まだ解りません。やってることも変わらないですし、あ、残業代は出なくなるんですよね?」

「ああ。だから効率よくやらないとな。ところで佐藤のことだけど」

 佐々木は軽く周囲を確認してからそう切り出してきた。どうやらただの雑談ではなかったようだ。

「佐藤の相手してもらって、すごく助かってるよ。すまんね。面倒な仕事押し付けてしまって」

「いえ、大丈夫ですよ」

 高橋は本心からそう言った。確かに一ヶ月前の高橋だったら皮肉混じりに言ったであろう。しかし、葛西との一件を知った今では、こうして彼とのつながりを持たせてもらった事に感謝している。世の中どうつながるのか解らないものである。

「そう言ってもらえると助かるよ。それにしても佐藤も昔はバリバリ仕事出来るヤツだったんだよなあ」

 ため息まじりのその言葉に、高橋は反応した。

「……昔は違ったんですか?」

 高橋がそう聞き直すと、佐々木は「あんまり言いふらさないで欲しいんだけど」と前置きをした後に声のトーンを落として口を開いた。

「佐藤は俺なんかよりもずっと仕事ができる人でな。頭も良くて同期の中でも出世が早くてみんな憧れていたんだ。でも……」

 佐々木は昔を懐かしむように宙を見ていた。

「仕事できるもんだからどんどん仕事任されてな。連日徹夜で仕事した挙句に体調壊したんだよ。精神的にきたみたいでな。一年くらい休んだ後に復帰したけど、それからは今の状態だった。会社も責任感じて、ヒラに落としてできる範囲のことをしてもらうことになったんだ。あの人はあの人で辛いと思うんだよな」

「そうですか……」

 以前の高橋なら受け入れられなかっただろうが、今なら理解出来る。佐藤は仕事が出来ないわけではない。意図的に無能のフリをしているのだ。その理由は佐々木の言う通り仕事の負荷を増やしたくないからなのか、それとも裏の顔を隠す為なのかは解らないが。

「……あんまり驚かないんだな」

 佐々木は高橋のリアクションが薄いことが不満だったようだ。

「いや、多分そうじゃないかって思ってました。一回仕事で助けてもらいましたし」

 高橋は先日の仕事をやり忘れて佐藤に助けてもらった件を佐々木に話した。

「そうか。あの佐藤がねえ……」

 佐々木は意外そうな顔をした。

「佐藤は高橋君の事を気に入っているみたいだからな。そういうこともあるかもな」

「……気に入られているんですかね?」

「ああ。高橋君の下についてから随分と楽しそうにするようになったからね。ま、高橋君にとっては好ましくないかもしれないけど」

「……そんなことないですよ」

「ま、これもいい勉強だと思ってほしい。部下は必ずしも優秀とは限らないからね。色んなタイプの人をうまく使っていかなきゃならないんだ。今の佐藤よりも仕事できない人なんてそうそういないからな」

 佐々木はそう言って腕時計に視線を向けた。

「ああ、帰る前に引き止めて悪いね。とりあえず今の話は他の人には内緒でよろしくな」

 佐々木は口に人差し指を当ててそう言った。

「ええ。解りました」

 高橋も笑顔で応えた。恐らく今日はこのことを言うために佐々木は残っていたのだろう。部下想いの上司である。

「あ、そう言えば佐藤さんってお子さんいましたよね?」

「ああ。確か一人娘がいたかな」

「お名前はなんていうか解ります?」

 高橋の問いに一瞬怪訝そうな顔をしたが、さほど気にも留めずに首を捻った。

「昔聞いた気がするけど、さすがに覚えてないなあ。……ああ、でももしかしたら解るかも」

 佐々木は何かを思い出したように机の引き出しを開けた。高橋の位置からは引き出し中身は解らないが、その奥から冊子の束を取り出していた。

「それは?」

「昔の社内報だ。前はこうやって月イチで発行していたんだよな」

 佐々木は懐かしむようにいくつかを手に取りパラパラとめくっていた。

「えーっとな。あいつの娘はウチのの二ヶ月前だから……これだな」

 佐々木は冊子の束から一冊を高橋に手渡した。一九八九年六月の社内報である。白黒のコピー誌で、表紙は高橋が知らないビルが写っている。

「それは昔の社屋だな。その後ろの方のページに確か出生の一覧があるはずだ」

 見ると確かに一番後ろのページの上段に社員のその月の出生一覧が「おめでとう」の言葉と共に載っている。


 加奈子ちゃん(佐藤秋雄)


 その月の出生者は佐藤のみ。娘の名前は確かに「加奈子」と書かれていた。

「…………」

 高橋は眉を寄せた。そこに書かれていた名前は、確かに葛西の手紙に書かれてあった「佐藤の娘」の名前と一致した。

「……それにしても佐藤の娘がどうしたんだ?」

「いえ、どんな人か解りますか?」

「いやー、産まれたときに見に行ったけど、もう二〇年くらい前だからなあ」

「そうですか。いや、ちょっと気になったもので。私がお子さんのことを訊いたことは内緒でお願いします」

 高橋は先ほどの佐々木と同じように口元に人差し指を添えた。

「ん? あ、ああ」

 佐々木は要領を得ない顔をしたが、ひとまずうなずいていた。

 それから二、三、言葉を交わして会社を後にした。

 家に着くとちょうど一〇時となっていた。高橋は風呂に入るのを後回しにしてパソコンを起動させた。

 先ほど見た昔の社内報には、佐藤の娘の名は「加奈子」と記されていた。そして佐藤が仕事が出来ないのは、あくまでフリであって真の姿ではない。

 いくら高橋が心の中で受け入れられなくても、会社の「佐藤秋雄」と、このサイトの「佐藤秋雄」が同一人物であるという事実は、知れば知るほど詰み上がってゆく。ここまで来たら高橋も認めるしかない。「佐藤秋雄」は、葛西を殺した「仇」なのだ。

 では葛西は? 高橋は悪い方向に進みそうな思考を止めた。葛西がどうだったのかは、これから自分の目で確かめれば良いのだ。間違いなくこの進む先にその真実が待っているのだ。ただ淡々とそれを確かめて、受け入れればいいのだ。

 どうあれ、葛西が親友であったという事実は変わりないのだから。

 高橋はそう思うと少し気が楽になった。そうだ。事実が何であろうと、自分は葛西の親友なのだ。親友として、事実を受け止めるのだ。そう心を鼓舞しながらサイトに接続した。

 サイトの右上、個人情報を示す窓に、「新着メッセージがあります」と表示されていた。開いてみると高橋の予想通り、佐藤のメッセージが届いていた。

 佐藤とのメッセージはまだ手探り状態である。お互いがなぜこの様なサイトに関わっているのか、なぜ佐藤がコンタクトを取ってきた理由などは話題としては挙がってきていない。ただの世間話である。それでも佐藤の文章ではとても理性的で歳相応であることが解る。受け答えも人生の先輩としての落ち着きを出している。そのため高橋は会社とは違った感じで接している。今回も昨日高橋が送った些細な話題に対する返答から文章が始まったが、末尾に書かれた文章に目が止まった。


 ところで、高橋主任はどういう経緯でこのサイトに入会したのですか?


 高橋はこの文章にどう返信すべきかをしばらく悩んだ。もちろん本当の事は言うわけにはいかない。あなたを殺すためです。これからどのような作戦で討つのかは解らないが、今宣言すべきではない。そうなると。

 しばらく考えた上で高橋はキーボードを叩いた。冒頭は些細な話題への返答を書き、末尾になんでもないようにこう付け加えた。


 このサイトには友達から誘われて入りました。こちらの世界に興味がありまして。


 二、三度見直した上で佐藤に送った。しばらく待ち、再読み込みボタンを押すと、佐藤からのメッセージが届いていた。

 冒頭は相変わらずどうでも良い話題で、最後に先ほどのメッセージへの返信が書かれている。


 なるほど。高橋さんにこのような趣味があるとは驚きました。

 実際に戦ってみて、いかがでした?


 初戦は何がなんだか解らない内に終わりました。

 少し残念ですね。


 初戦はそんなものですよ。でもせっかくの戦闘なのに残念でしたね。

 もし差し支えなかったら、次の私の戦闘を見学してみませんか?

 見えない共闘で参加して、フィールド外にいれば安全です。

 もちろん強制はしませんが、いかがでしょうか?


 妙な流れになってきたな。どうすべきか。高橋は深く息を吐いて考えた。

 正直な所戦闘の見学はやってみたい。はっきりとこの目で見れば、あの「佐藤秋雄」が仇だと判断できる。それに今以上に懐に入ることができ、仇討ちにも一歩近づけるような気がする。

 しかし、これ以上坂本に黙って行動することが、果たして良いことと言えるのだろうか。やはり坂本に相談してからの方が良いのではないか。

 高橋が判断に迷っていると、不意に携帯電話が鳴った。坂本からだった。

「もしもし?」

「ああ、高橋か? 俺だ。例の件、連絡が取れて、会うことになった。お前、明日の夕方とか空いてる?」

 坂本は幾分声のトーンを落としている。恐らくあの狭い部屋で、家族に知られないように電話をかけているのだろう。内容も家族のためにぼかしているようだが、加奈子についてだということはすぐに解った。

「……明日なんて、急だな」

「いいから、大丈夫かそうでないかだけでも教えてくれ。時間がない」

 坂本の言葉に、パソコンの時計に目を向けた。後一〇分で接続可能時間が終わる。今のところサイトのメッセージ機能でしか連絡が取れないから、一刻も争うのだろう。

 高橋は仕事用のカバンからスケジュール帳を取り出し、明日の予定を確認した。明日は特に急ぎの用事はない。大丈夫そうだ。

「ああ。大丈夫だよ」

「そうか。細かいことは追って連絡する。とりあえず明日の定時後は空けておいてくれな。じゃあな」

 手早くそう言われて電話が切れた。

「…………」

 急な話で心の整理がついていないが、ともかく明日葛西の手紙に出てきた「加奈子」なる人物と会うことになった。

 とりあえず、佐藤への返信は明日の会合を待ってからにしよう。何ならその時にでも坂本に相談すれば良い。

 高橋はそう考えて、その日はそれ以上メッセージのやり取りを行わないことにした。


 翌日、高橋は定時ちょうどに会社を出て、坂本と合流した。

 加奈子とは駅前のカラオケ店で会うこととなった。まず坂本の名義で部屋を借り、後から直接その部屋に加奈子が来るということになっているらしい。

「……それにしても、こういう会合はカラオケでやるのが決まりなのか?」

 部屋について適当に飲み物をドリンクバーから持ってきたところで、高橋はふと坂本に訊いてみた。先日から、こういった話は必ずカラオケ店で行われている。今回のこの場所は加奈子が指定してきたようだが。

「秘密の話し合いにはちょうどいいからな。防音がしっかりしていて多人数で入っても怪しまれない。それにここもそうだけど、部屋に防犯カメラがついていない店ってのは結構あるからな」

 坂本はそう言って自分で持ってきたホットコーヒーをすすっていた。今日はいつも頼んでいる生ビールを控えていた。初めて会う加奈子を警戒しているのだろう。幾分いつもより顔が強張っているような気がした。

「それで、何時くらいに来る予定なんだ?」

「ええっとな、一応予定では六時半くらいっていう話なんだけどな……」

 坂本はそう言って己の腕時計に目を向けていた。高橋も腕時計を見る。現在六時四〇分。多少遅れているということなのか。

「それにしても、この加奈子と葛西はどんな関係なんだ?」

「さあな。ああ。俺と葛西は戦場以外ではこういう話はしなかったからな。あいつが戦場以外でなにやっていたかは全然解らん」

「…………」

 高橋にとって、その点が不思議でならなかった。親友が殺しという正常ではない世界に身を置いているというのに、なぜその事情を知ろうとしなかったのか。なぜ一緒に戦闘をしていたのに、葛西のサイト内の交友関係や始めたきっかけを知らないのか。

 しかしそんなことは訊けるはずもない。もしかしたら坂本もそのことで後悔しているのかもしれない。いくら坂本が親友だとしても、言ってはいけないこともあるのだ。

「あ……」

 坂本が小さく声を漏らした。顔を上げると入り口のドアがゆっくりと開かれた。

 入ってきたのは一人の女性である。年の頃は大学生くらいだろうか。痩身で整った顔立ちをしているが、その相貌には表情がない。冷たい氷のような雰囲気をまとっている。

 佐藤加奈子だ。高橋は瞬時にそう思った。父親である佐藤秋雄にはまったく似ていないが、なんとなく確信できた。

「高橋さんと坂本さん、ですか?」

 加奈子らしき女性はそう聞いてきた。

「ああ。俺が坂本で、こっちは高橋だ。あんたが佐藤加奈子さん?」

 坂本の言葉に加奈子は小さくうなずいた。

「はじめまして。佐藤秋雄の娘の佐藤加奈子です」

「こちらこそよろしく。とりあえず奢るから、何でも頼んでいいよ」

「いえ、結構です。それより本題に入りましょう」

 加奈子は冷たくそう言い、空いている席に座った。

 そんな加奈子に坂本は面を喰らいながらも、気を取り直して席に座った。

「……じゃあ本題に入ろうか。佐藤さんは葛西の事を知っているよね? この前葛西の部屋を整理したら、あの戦闘前に書いた手紙が出てきたんだ」

 坂本はそう言いながらカバンを探り、薄紅色の封筒を取り出した。封筒の中から一枚だけ便箋を取り出し、それを加奈子に渡す。恐らく加奈子の事が書かれている二枚目のみを手渡したのだろう。

 加奈子は無表情で文面を追ってゆく。坂本はしばらく彼女が読み終わるまで待ち、彼女の視線が文面から離れたところで口を開いた。

「とりあえず、訊きたいことが色々あるんだけど。まず、この手紙にある『あの時』ってなんなんだ? あんたと葛西は共闘していたのか?」

 坂本はそう言って手紙の中の文面を指さした。

 「多分加奈子さんは坂本に協力してくれると思う。あの時みたいにね。」手紙にはそう書かれている。葛西の手紙が正しければ、加奈子は過去に坂本達に協力したことがあるということなのだ。

「ええ。一度だけ、葛西さんからの共闘の依頼に乗りました。普段から共闘していたわけではありませんが」

 加奈子は無表情のまま小さくうなずいてそう言った。

「それはいつの戦闘の時だ? 俺はあいつの戦闘に毎回参加していたけど、解らなかったぞ?」

「葛西さんの最後の戦闘、私の父との戦闘です。結局私は参加出来なかったのですが」

「……え?」

 高橋は声を挙げて坂本を見た。先日聞いた話には加奈子の名前は出てこなかった。どういうことだろうか。

 そんな高橋の考えが伝わったのか、坂本は困惑した表情で首を振り、加奈子の方を向いた。

「あの時俺も葛西側で参加していたけど、あんたの名前は聞いていなかった」

「坂本さんには戦場で伝えると言っておりました。聞いていませんか?」

「……ああ。聞いていないな」

 坂本の表情が一瞬曇ったような気がした。

「そうですか。あの日、私は葛西さんに協力を依頼されました。見えない共闘で参加して、父が葛西さん達に気を取られている間に後ろから刺すつもりでした。結局あの日は父から参加を拒否されたので、作戦通りにはいかなかったのですが」

 加奈子は淡々とそう言った。父親を殺すという話なのに、彼女の表情には感情が一切見られない。人間の当たり前の感情が完全に切り取られてしまったような、そんな感じを受けた。

「……えっと、とりあえずなんで佐藤さんはお父さんの佐藤さんを殺す作戦に協力したの?」

 高橋の横槍に、加奈子は感情のない顔のまま、フッと高橋の方を向いた。ガラスのように透き通った瞳に、高橋は背筋が震えた。綺麗だが、どこまでも広がる闇のようである。

「あと葛西と佐藤さん……紛らわしいから加奈子さんって呼ぶね? 二人はどういう関係なの?」

 彼女の瞳に呑み込まれそうになりながらも高橋はそう付け加えた。

「…………」

 加奈子は高橋の問いに、しばらく無言で受けた後に、

「これ以上は答えたくありません。あと、手紙に書いてあったような協力はするつもりはありませんので」

「……なぜだ?」

「まず、高橋さんは実力不足です。人を殺すことに慣れていないため、直前で怖気づく可能性があります。戦場では命取りです。そんな方と組むわけにはいきません。あと坂本さん」

 加奈子は坂本の方を向き直した。

「あなたは信用できません」

「……は? なんだよそれ」

「そのままの意味です。あなたの目は、あまり信用できません。最後の詰めで裏切られたくありませんので……」

 坂本が急に立ち上がり、テーブル越しに加奈子の胸ぐらを掴んだ。しかし加奈子はかすかも表情を動かさない。

「意味解んねえよ。撤回しろよ」

「それは出来ません」

 怯える様子もなく無表情の加奈子に、坂本は大きく舌打ちをして手を離した。

「今日の話はなかったことにしてくれ。俺達は会わなかった。何も言わなかった。何も聞かなかった」

「よろしいですよ。もちろん父にも言いません」

「敵の娘に声を掛けたのが間違いだったな」

 坂本はそう吐き捨てて立ち上がった。乱暴にドアを開けて、勢いよく閉めた。

 そして部屋には高橋と加奈子が残された。

「……あなたは行かないのですか?」

 急な出来事に呆然としていいた高橋は、加奈子にそう言われて我に返った。

「あ、ああ。そうだね。でもここの会計済ませないとだし」

「あなたは怒らないのですか?」

「まあ、俺に関しては間違っていないからね。でも坂本はいいヤツだよ? 突っ走るフシはあるけど、他人を裏切るような男じゃないよ」

「高橋さんは父とメッセージのやりとりをされてますよね?」

 急にそう言われ、高橋は身体を揺らした。一瞬どう返すべきか迷ったが、素直にうなずくことにした。

「坂本さんには言わずにそのまま続けた方がいいですよ。信用云々は別にしても、色んな視点で物事を見るのは悪いことではありません」

 加奈子はそう言いながら立ち上がった。

「私の父は、思っているほど悪い人ではありませんので」

 加奈子は「失礼します」と小さく頭を下げて部屋を出て行った。

 そして部屋の中には高橋一人が残された。


 アパートに帰り、高橋は先ほどのことを考えた。

 結局加奈子を仲間に引き入れることは失敗に終わった。やはりそんなにうまくことが進むはずがない。第一彼女は「向こう側」の人間なのだ。いくら葛西の友達の頼みだからと簡単に協力するはずがない。

 彼女の言葉が思い出される。実力不足。確かにそうだ。今のままでは戦場で怖気づいてしまうかもしれない。前回の初戦ではうまくいったが、それが次も続くとは限らない。ましてや相手はサイトで一番強い佐藤なのだ。そんな男に命を預けられないということは良く解る。

 では、坂本は? 彼は「信用できない」と言っていた。目。坂本の目なんて、気にしたことはない。どんな目をしていただろうか。

 高橋はしばらく考えたが、坂本の目なんて思い出せるはずもなく、仕方なく考えるのをやめた。

 午後一〇時を回り、高橋はサイトに接続した。すると坂本からメッセージが届いていることに気づいた。


 さっきは取り乱してごめんな。変なことを言われてついカッとなってしまった。俺の悪いクセだよな。ごめん。

 加奈子のことは忘れて、俺達二人だけでやろう。

 まあ、大丈夫だ。俺にも一応考えがある。また時間があるときに集まろう。


「…………」

 高橋はその文面を二度ほど読んで、眉を寄せた。坂本の性格から、こうなるだろう事は予想できた。加奈子と喧嘩別れしても仇を討つという大前提は変えない。全く勝ち目のない戦いでも。

 今の状態では高橋達にどの程度勝ち目があるのかは解らない。しかし今の佐藤の戦績を見れば、今の状態で勝てるとは到底思えない。坂本がいくら強くとも、自分が足を引っ張ってしまう。なにせ、実力不足なのだから。

 ではどうすればよいか。高橋はしばらく考えた後に、パソコンの画面に目を向けた。

 方法は一つしかない。高橋はゆっくりとキーボードを叩く。まずは坂本のメッセージの返信。


 解ったよ。また作戦を練り直そう。


 まずは坂本の考えに沿わなければならない。ここでいくら正論を言ったところで坂本は聞く耳を持たない。まずは坂本の考えを肯定する。そして。

 高橋はマウスを操作する。昨日の佐藤のメッセージを開いた。佐藤は戦闘の見学を申し込んでいた。そのメッセージに対して返信を書く。


 見学の件、ぜひお願いします。


 加奈子の協力を得るかどうかはともかく、まず実力不足を解消しなければならない。見学に効果があるかどうかは解らないが、何もしないよりはましだ。

 高橋はパソコンを閉じて床に寝転んだ。

 そしてもう一つ。やはり加奈子にはもっと色々訊かなければならないことがあった。もう前回と同じ方法では会ってくれないだろう。彼女に近づくには佐藤と接触する必要があるのだ。

 恐らく、自分と坂本では「仇討ち」の定義が異なるのだろう。高橋はふとそう思った。恐らく坂本にとっての「仇討ち」は、「葛西の意思を継いで佐藤を殺すこと」なのだろう。

 しかし高橋にとっての「仇討ち」は少し違った。葛西の意思を継ぐのはもちろんなのだが、その前に四年前に起こったことの全てを知りたかった。

 葛西がどんな葛藤を持ち、何に苦しんでいたのか、それを知った上で行動を起こしたかった。

 加奈子はあの時の葛西を知っている。佐藤に近づくのは、葛西を知るための第一歩でもあるのだ。

「よし」

 高橋は掛け声とともに身体を起こし、パソコンのOSの再インストールにかかった。

 少しだけ、気持ちが晴れたような気がした。

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