第15話
九月も下旬に差し掛かると、ようやく過ごしやすくなってきた。晴れの日が続くが、その日差しはさほど強くなく、時折肌を撫でる風も冷たく感じられた。
九月二六日。佐藤と斉藤の戦闘当日、高橋は加奈子と共に戦場である東京郊外にある中学校跡地に向かっていた。基本的に佐藤の戦闘は、彼に敬意を表して佐藤の家に近い場所で行われることが多いのだが、今回は坂本の戦闘と同日ということもあり、どちらも都内で行われることになったのである。もちろん両者の戦場は都内といっても遠く離れているのだが、何かあった場合に人員を集中させることができるようにとの運営側の配慮であった。
高橋は一人で始発の東京行きの新幹線に乗り、東京駅で加奈子と合流した。彼女は薄紅色のカーディガンにジーンズといった落ち着いた服装であった。彼女は新幹線改札口で高橋の姿を確認すると、無表情のまま中央線の方へと歩いていった。
高橋は彼女から四歩ほど離れた位置から彼女の後を追った。その間、二人は一言も交わさず、視線も合わせていない。あくまで同じ方向へ進む他人を演じた。
二人はそのまま接触することなく中央線快速に乗り、国分寺で青梅線に乗り換えた。今回の戦場は高橋の初戦と同じ東京の郊外の市で行われる。二人は離れた位置に座りながら空いている電車で会場の最寄り駅を目指した。
車窓からはうっすらと見覚えのある風景が広がってきた。半年前に見た風景である。高橋はふと坂本の顔を思い出した。
彼も今日この東京のどこかで戦闘を行う予定になっている。坂本は大丈夫だろうか。無事生きて帰ってこられるのだろうか。高橋はそんな気持ちを振り払って前を向いた。今は自分のことだけを考えなければならない。自分も生き残れるかどうか解らないのだ。しっかりしなければならない。
電車は最寄り駅に到着した。二人は下車し、改札を出た所でようやく視線を合わせた。
「おはようございます。調子はいかがですか?」
「おはよう。うん。大丈夫」
「では行きましょうか」
そんな短いやりとりの後に二人は駅を出た。土曜の午前中の駅前は相変わらず閑散としている。高橋は若干の懐かしさを感じながら加奈子の後ろをついていった。
以前と同じ、ロータリーの片隅に運営委員が待機していた。二人は運転免許証を提示し、青いワゴン車を借りた。加奈子が運転席に乗り込み、高橋は助手席に乗った。そのまま加奈子はゆっくりと車を発進させた。
「それでは今日の予定を確認しましょうか。この前送ったメッセージは覚えておりますか?」
そう言われ、高橋は小さくうなずいた。一週間前に加奈子から届いたメッセージを思い出して口に出した。
「今回の戦場の見学時間は、我々が昼の一時から三時、相手側は四時から六時になっている。我々は佐藤さんの見学時間前に戦場に行って作戦を練る……だよね。でも銃を持った相手にどうやって戦うの?」
それは高橋がずっと不安に思っていたことだった。一度きりの加奈子の講義では「音もなく人を殺す方法」は教わったが、拳銃を持った相手の対処法は教わっていないのだ。
「まあ、それについては会場についたら伝えます。大丈夫ですよ。相手が引き金を引く前に殺せばいいのですから」
「……簡単に言うね」
「簡単ですよ。だって……まあ後にしましょうか」
加奈子はそう言うと黙って運転を続けた。
なぜこの人は平気なのだろうか。無表情で運転を続ける加奈子の横顔を眺めながら、高橋はふとそんなことを思ってしまった。今の高橋は表情には出さないが、不安で仕方がない。拳銃を持った相手を対処できるのだろうか。ちゃんと作戦通りに動くことが出来るのだろうか。そして、「その時」に、相手を刺すことができるのだろうか。できるだけ考えないようにしているが、その内面では様々な不安が渦を巻いている。
しかし加奈子はいつもと変わらぬ表情で「簡単だ」と言ってのける。何人人を殺せば、どんな人生を歩めば拳銃を持っている相手を殺すことを「簡単だ」と言えるのだろうか。
高橋がそんなことを考えている間にも、二人の乗る車は先を進んでゆく。高橋はなるべく深く考えないようにして、見慣れぬ風景を眺めた。前と同じように山道に入ったようである。加奈子はまるで知った道のように運転してゆく。一度も地図を確認することはない。
「場所、知ってるの?」
「前に一度来たことがありますので」
そんな会話をしているうちに戦場に着いた。以前の病院に近い場所なのだろうか。同じような田園風景の中に朽ち果てた学校が建っていた。校門には学校名を記す表札は掲げられていなかった。加奈子は校門の先で車を止めた。
「身分を証明できるものを提示してください」
近くに待機していた運営委員に促され、二人は運転免許証を提示した。運営委員は二人の免許証を確認すると、「どうぞ」と中に通された。
「まだ斉藤側の人は来ていないですか?」
車を発進させる前に加奈子は運営委員にそう聞いた。
「ええ。一応今のところ定刻の四時前までは来ないことになっています」
「ありがとうございます」
加奈子は運営委員の誘導に従い校舎の脇に車を停め、正門から学校の中に入っていった。
今日の戦闘は校舎の四階で行われる。二人はサビだらけの下駄箱が並ぶ玄関を通り、階段を上っていった。
「そう言えば今回のルールは少し変だけど、どういう意味なのかな?」
高橋はふと思いついて、加奈子に訊いてみた。
先日佐藤と斉藤の合意を得て確定した今回の戦闘のルールは以下の通りである。
2009年9月特別対戦要綱
○日時:2009年9月26日(土)24:00~
○場所:中学校跡地(東京都○市・・・)
○主なルール:
・戦闘のフィールドは西校舎(正面玄関から入ってすぐの校舎)四階。トイレを除く全域をフィールドとする。
・定刻前に佐藤さんは南側3ー1側から、斉藤は北側3ー4側に待機する。
・定刻になったら両者はライトを振って両者の存在を確認する。
その後ライトを照らしながら廊下を進み、相手の姿が確認出来た時点から攻撃を開始する。
○制約事項:
・なし
お互いの姿を確認してから戦闘が開始される。そのルールは斉藤からの提案であり、佐藤が了承する形で盛り込まれたのである。
「父は闇に紛れるのが得意ですからね。それを封じるためですね加えて相手は銃を持っておりますから、遠くから撃ってくるんじゃないですかね。それで『自分は確認できた』とでも言えばルール違反でもないですし。まあ、その辺のことはまとめてお話ししましょう」
二人は四階に到着した。そこは三年生の教室のフロアのようである。右側に教室が並んでおり、左側はグラウンドを見渡せる窓になっている。一番手前の教室に「3ー1」の標識が掲げられている。
「3ー1は、相手側のスタート地点かな?」
「そうですね。斉藤はここからスタートするはずです」
加奈子は廊下をゆっくりと歩いていった。高橋もそれに続く。少し歩くとすぐに「3ー1」の教室の中が見えた。スライド式の戸は外され、教室の隅に立てかけてある。教室の中は机と椅子が後ろに乱雑に寄せてあり、教室の前の方にスペースが空けられてあった。なぜ後ろに寄せてあるのだろうか。一瞬考えたが、すぐに解った。戦場として使ったのだろう。後は一般的な教室と変わらない。黒板があり教壇があり、後ろには掲示板と、小さな黒板がある。さすがに生徒の展示物などはないが、メンテナンスしてあるからだろうか。まるでついこの前まで学校として機能していて、この戦闘のために廃墟「風」にしているのではないかという錯角を覚え、高橋は小さく身震いをした。
そのまましばらく歩いていると、「3ー2」「3ー3」と同じような教室が続き、「3ー4」を過ぎると廊下の終端、階段があった。
「ここが父のスタート地点になります。で、両方がライトを照らしながらこの廊下を歩いていって、相手の姿が見えたら攻撃開始、となります」
「うん。でも相手は遠くから撃ってくるかもしれないんでしょ?」
「そうでしょうね。『姿が見えた』というものは主観的でして、例え父が見えていなくても斉藤が『見えた』と言えばルール違反ではないんですよね。だからルールでは『お互いの姿が見えたら攻撃開始』ではなくて『相手の姿が見えたら攻撃開始』なんですよ」
「そうなると銃を持ってる相手の方が圧倒的に有利だと思うんだけど……どうするの?」
「それは父が何とかすることですので、我々は我々のやるべき事をまず考えましょう」
「やるべき事?」と高橋が言い終わる前に、加奈子は手前の教室、「3ー4」に足を向けた。高橋も続いて教室の中に入る。
「緒方はこの『3ー4』に潜伏し、父が『3ー4』を通過した時点で挟み撃ちにすると思われます。斉藤の銃撃は遠くからなので、外れたときの保険でしょう。なので我々は緒方が潜伏する前からこの教室に隠れます。そして緒方が廊下に出る前に殺します。それが我々のやるべき事になります」
加奈子は淡々と表情を変えずにそう言った。
「……なんでそんな詳細まで解るの?」
「一〇〇パーセントとは言いきれませんが。今回の戦闘には制約事項として、『定刻までにフィールドに入ってはいけない』という条約がありません。これは事前にフィールドに罠を仕掛けるか、見えない共闘を潜ませるかのどちらかを行うときによく使われます。そして今回は緒方が見えない共闘に入る可能性が高く、状況を考えると挟み撃ちしか考えられません。確実に挟み撃ちをするには、こちら側の一番手前の教室に隠れるのが一番妥当ですから」
「例えば『3ー3』に隠れて、横から撃つってのは考えられないの?」
「それだと父に気付かれる恐れがあるので考えにくいです。気付かれないように教室の端から撃つとなると命中率が下がりますし。緒方は父が通りすぎてから廊下に出てきます。そう考えるとこの教室しかありえません」
「…………」
加奈子の言葉に小さな違和感を感じた。なにかおかしい。佐藤側の作戦というよりも、斉藤側の作戦に何か妙に違和感を感じる。しかし具体的にどこがおかしいのかがつかめず、高橋はそれを表に出すことはなかった。佐藤達が考えた作戦が間違っているということはないだろうし、今はそれ以外に考えることがあるのだ。
「……で、緒方を俺が殺すのか?」
「ええ。まず斉藤側の見学時間の六時を過ぎたらこちらに戻ってきて、この教室に待機します。おそらく緒方が見学の時間からずっとここに残っているとは考えにくいですから、その流れで問題ないと思います。大分時間が空きますが我慢しましょう。一応斉藤達は父が監視して動きを探りますので、再び戻ってきたらこの教室に隠れましょう。そして開始時刻が過ぎたら、高橋さんに緒方を殺してもらいます。そしてここからが作戦の肝なのですが……」
加奈子はそう言って今回の作戦内容を語り始めた。時折身振り手振りを交えながら、佐藤と練ったのであろう高橋に伝えてゆく。それを聞いた高橋は、次第に表情が強張っていった。この作戦に対する自分の役割が思いのほか大きい点と、戦闘が始まったら間髪入れずに殺害しなければならない点、そして何よりも殺害する瞬間は加奈子はおらず、全て一人でやらなければならないのだ。自分が一瞬でも躊躇すれば全てが台無し、三人の命が危うくなるのだ。
そんな高橋の気持ちを察したのか、加奈子は言い終えた後に、
「『このくらい火がつけば高橋主任も出来ますよ』と父が言っておりました」
そう付け加えた。
「……まあ、解ったよ。結局やんなきゃいけないんだもんな。それで、どうすればいいんだ?」
高橋がため息混じりにそう訊くと、加奈子は持っていたカバンから鞘付きのナイフを取り出して高橋に手渡した。以前高橋の家で試されたときに使ったナイフに外観は似ている。しかし鞘を抜くと、そこにあったのはゴム製ではない、本物の金属製のブレイドだった。妙に細長く、左右対象に刃がついていた。
「両刃の、いわゆるダガーナイフです。片刃のナイフに比べて突き刺す際に抵抗なくい刺さります。それを使用して、ここ」
加奈子は己の胸の下を指差した。
「胸骨の下のくぼみを、上に向けて鋭角に突いてください。うまくいけば横隔膜を麻痺させて、声が出ないままに心臓を突くことができます。念のため、相手の口を押さえながらにしましょう。こんな感じに」
加奈子は後ろから相手に覆い被さるように近づき、左手で口を押さえて、順手に持ったナイフで相手の胸を突く動作をした。その動きは淀みがなく、流れるように滑らかだった。
「……そんな事、俺に出来るかな」
「出来るかどうかではなく、やるんですよ。出来なければ撃たれて死ぬだけですから」
冷たくそう言い放つ加奈子のその言葉は、妙に現実味があった。高橋は身震いをしながらも「解った」とうなずいた。
「隠れる場所は……そうですね」
加奈子は教室の中を見回した。「3ー4」も他の教室と同じように、前方に黒板と教壇、後方に小さな黒板と掲示板という造りになっている。中学生用の小さな机と椅子は、教室の左半分、窓側にバリケードのように積み重ねられている。加奈子はしばらく教室の中を歩き回り、「ここにしましょう」と前方の教壇を指差した。黒板の前の一段高い所に教壇が配置されている。加奈子はその教壇の中に足を屈めて入った。
「どうです? 入り口付近からは見えませんか?」
加奈子に言われて前後の入り口の両方に立って確認した。教壇は足元まで隠れているので、加奈子の姿は確認できない。
「うん。大丈夫みたい」
「ではここにしましょう。緒方が来る前にここに隠れてください。緒方は父から死角になるように待機しておりますので、高橋さんのいる前方は見えないはずです。時間を見て定刻になったらそこから出てきて緒方を刺してください。その後はお伝えした通りです。いいですね?」
高橋は小さくうなずいた。
「まあ、高橋さんなら出来ますよ。この前私を刺したときのようにすればいいのですから。あの時の感触は忘れていないですか?」
再びうなずいた。さすがに感触は残っていないが、意識すればあの時の感じは思い出せる。それだけで何とかなるのかは解らないが、それでも高橋の唯一の心の拠り所であった。
「わかりました。それではそろそろ出ましょうか」
加奈子はチラと己の腕時計に目を向けた。一一時半を回っていた。佐藤の見学時間まではまだ余裕があるが、それでもあまりここに長居しない方が良いのだろう。
「一度出てどこかで休みましょう」
加奈子はきびすを返し、外へと向けて歩いていった。その後ろをついていきながら、ここまでの説明で加奈子の表情はわずかも変化しなかったことに高橋は気付いた。
戦場で実際の殺害方法を聞いた高橋は、次第に緒方を殺さなければならないということを現実として感じるようになっていった。それまでは「まだ先のこと」とどこか他人事のように感じていたのだが、現実問題として高橋の心に迫ってきた。
殺さなければならない。その言葉が高橋の脳裏に浮かんでは消えてゆく。そんな高橋は完全に食欲を失っていた。
「食べないともたないですよ」
高橋達は新宿まで戻り、マクドナルドで昼食を摂ることになった。二人で適当なセットを注文し席についたが、なかなか高橋は食べる気にはならなかった。向かいで無表情にハンバーガーを食べる加奈子がいつものように抑揚のない声でそう言ってきた。
「今は食欲なくても食べておいた方がいいです。これからどうなるか解りませんし」
確かに加奈子の言うことはもっともである。この後戦闘直前にはもっと食べられなくなるだろうし、殺害後は別の意味で食べられなくなるかもしれない。そう思うと今は胃に入れておくべきだということはよく解る。高橋は腹をさすりながらも購入したハンバーガーをアイスコーヒーで流し込んだ。
「その調子です。偉いですね」
加奈子は無表情のまま手を叩いて褒めてきた。その姿が妙におかしくて、高橋は思わず笑ってしまった。
「……急にどうしました?」
「いや、全然笑わないんだなと思って」
高橋がそう言うと、加奈子は無表情を崩さずに小さく息を吐いた。
「私は、必要な時にしか笑わないようにしていますから。どうも、笑顔は疲れますので」
「必要な時、って?」
「以前、お宅に伺ったときにしたじゃないですか」
そう言われ、高橋は納得した。確か保険会社に扮して家に来たとき、笑顔で「保険会社の者だ」ということをアピールしていた。なるほど。佐藤と一緒だ。佐藤は周囲に怪しまれないようにするために「愚鈍なおじさん」を演じていたが、それと同じように、自らの本性を偽るために笑顔を使うのか。
「……じゃあさ、普段はどっちなの? 確か大学生だったよね?」
「基本的に人と接する時は明るく演じます。父から『外面は良くするように』と言われておりますので。こう見えても友達は多いんですよ? ボーイフレンドもいますし」
加奈子はそれをどうでも良いことのように言った。彼女にとって、友達との学校生活もボーイフレンドとの会話も、「どうでも良いこと」なのだろうか。そう思った高橋は、ふっとため息をするように言葉を漏らした。
「そんなんで人生楽しい?」
高橋のそんな言葉に彼女は無表情のしばらく考え込み、
「さあ?」
興味なさそうにそう言って、軽く首を傾げた。
「…………」
高橋は何かを言おうと言葉を探したが、言葉が出てこなかった。殺しばかりの人生に意味があるのだろうか。そう言おうとも思ったのだが、そもそも人生の意味など高橋にも解らない。それまで高橋が歩んでいたような可もなく不可もなく周りに合わせたような人生が良いのか? そう問われると高橋自身答えられない。主任になることが決まった夜に、同じように「そんな人生楽しい?」と問われたとしたら、果たして自分は「楽しい」と答えられただろうか。
しばらく沈黙が流れた。高橋は無言で悩み、加奈子は無表情のまま静かにシェークを吸っている。そのまま随分と長い間、無為に時間が流れた。やがて加奈子のシェークが尽きると、彼女はカバンから文庫本を取り出し、読み始めた。時間までここで過ごすつもりなのだろう。
一時間ほど会話がない状態が続き、いい加減高橋もその沈黙に耐えきれなくなったので、気分転換に外に出ようと立ち上がった。カバンを持ち、席を離れようとするところで、彼女は「あ」と声を挙げた。
「どこかに行かれるのでしょうか?」
「ちょっと気分転換に外に出ようと思ってね。すぐ帰ってくるよ」
「いえ、それなら私も出ます」
急に荷物をまとめ始めた加奈子に、「ちょっと待った」と高橋は制する。
「いや、ちょっと出歩くだけだからさ。すぐ帰ってくるよ」
「出歩くのは良いのですが、こういう場所に私のような女性一人でいるのはあまり好ましくありません。非常に目立ちますし、男性に声をかけられる可能性もあります。そのようなリスクを避けるためにも、出来るだけ一緒に行動していただきたいです。なので外を歩きたいのでしたら私も一緒に行きます」
「……いや、それならいいよ」
高橋は小さく息を吐いて座り直した。高橋は沈黙に耐えられなかったこともあって外に出たかったのだ。彼女がついてくるのならば意味がない。高橋はそのまま沈黙に耐えることにした。加奈子は「そうですか」とつぶやくと再び文庫本に目を向けるようになった。
それから、途方もないくらい時間が過ぎた。加奈子は表情を変えずに文庫本を読み続けている。高橋はいい加減沈黙には慣れてしまったが、暇つぶしの道具を一切持っていなかったので、完全に時間を持て余していた。辺りの客はもう何回変わったか解らない。こんなに長居して他の客に不審に思われないのかとも思ったが、特に自分達に関心を示す客もいない。時折男性のグループが加奈子の整った顔立ちに目を止めるが、それだけである。店員も何も言ってこない。ここら辺はさすが都会といった所だろうか。
そして待っているのにも完全に飽きて、他の場所に移動しようかと高橋が提案しようとしたとき、加奈子の携帯電話が鳴った。
「…………」
彼女は文庫本をテーブルに置き、カバンにしまってあった携帯電話を取り出した。
「もしもし……はい、はい」
彼女は電話の相手に短く返事をして電話を切った。誰からだろうか。高橋が思ったことを察知したように、加奈子は「父です」と口を開いた。
「こちらが想定している作戦通り、だそうです。あの部屋を特に念入りに調べているそうです」
気づくと既に午後五時、今は斉藤側の見学時間である。佐藤は斉藤達の行動を監視していたようである。
ともかくこれで緒方を殺す時間が近づいた。高橋はすっかりと記憶の外へ追いやっていたその事実を思いだし、身震いをした。
「では、そろそろ行きましょうか」
加奈子は手短に荷物をまとめて、席を立った。
「あ、ああ……」
高橋は次第に緊張で強ばってくる顔を伏せながら、加奈子の後をついていった。
昼間に通ったルートで最寄り駅に戻り、駅前に駐車していた車に乗り込んだ。その時六時を少し回っていた。
「では、予定通りこれから会場に入って、あの『3ー4』に隠れます。良いですね?」
高橋は小さくうなずいた。それを加奈子が確認し、車を発進させた。
しばらく法定速度内で車を走らせていっていたが、「まずいですね」と加奈子はつぶやきながら少しずつ減速していった。見ると前は渋滞が起きており、その先では警察が検問を行っていた。
高橋は身を揺らせた。自分達のやろうとしていることがバレているのだろうか。身体が熱くなり、震えが止まらなくなった。
「大丈夫です。落ち着いてください」加奈子はそう言いながら、車の後部座席に畳んであった毛布を高橋の身体に被せた。
「恐らく別件での捜査だと思います。ただ、高橋さんに預けているダガーは現在銃刀法により所持が禁じられております。所持品の検査を避けてやり過ごさなければなりません。高橋さんは病人のふりをしてください。私が何とか切り抜けますので」
手早くそう言って加奈子は高橋の肩を二度、小さく叩いた。その言葉に高橋は何とか平常心を取り戻し、小さくうなずいて寝たふりをした。
車は緩やかに前に進む。次第に加奈子達の車の番が近づいてきた。高橋は緊張が高まり、再び身体が震えてきた。
そして加奈子達の番が来る。
「はい、ちょっと止まってくださいね。警察ですが、免許証出してもらえませんか?」
警察の声が聴こえてきた。高橋は目を閉じているのでどのような顔をしているのかは解らないが、低くくくもった声であった。大丈夫だろうか、高橋は不安を感じたが、黙って目を閉じていた。
「なにかあったんですか?」
加奈子はいつもとは違う明るい声で話していた。恐らく今の彼女は今の状況にぴったりな不安そうな表情をしているのだろう。このような状況でも己を崩さない彼女に、高橋は感心を通り越して「なぜ平気なんだ?」と疑問しか浮かんでこなかった。
「昨日ここで轢き逃げ事件がありましてね。目撃者がいないかと探しているんですよ。何か知りませんか?」
「うーん。解りませんね」
「そうですか。ところでその助手席の方ですが……」
水を向けられ、高橋は心臓が破裂しそうなくらい高鳴った。足元に置いているカバンの中には加奈子曰く、銃刀法違反のダガーナイフが入っている。大丈夫だろうか。
「あ、私の兄なんですが、急に具合が悪くなって今病院に向かってるんですよ。ほら、お兄ちゃん、警察の人が轢き逃げ事件について知らないかって」
加奈子は高橋の額に浮かぶ汗をハンカチで拭きながら、彼の身体を揺り動かした。
「……知りません」
「兄も知らないそうです。すみませんが急いでますので、この辺で失礼させてもらえませんか?」
「……そうですね。わかりました。ご協力ありがとうございました。もういいですよ」
警察のその言葉の後に車は発進した。しばらく車を走らせていき、加奈子の「もう大丈夫ですよ」という言葉でようやく高橋は頭を起こした。深くため息をつき、加奈子を見た。彼女は相変わらずの無表情で車を運転している。
「病人のふり、上手でしたよ?」
彼女は前を向いたままそう言った。高橋はただ緊張と恐怖で汗をかき震えていただけである。聞きようによってはバカにしたような言い方であるが、高橋は特に気にならなかった。彼女は本心で言っているのだろうし、何よりも高橋自身そんなことを考えている余裕がなかった。なんとかやり過ごすことが出来たが、生きた心地がしなかった。
「……君はなんでそんなに平気なの?」
「こういうことも慣れておりますので。まあ、念のため運営に連絡しておきましょう」
加奈子は路肩に車を停車させ、携帯電話を操作した。「佐藤加奈子です」という言葉から始まり、検問が起こっていた場所とそれに引っかかったこと、どうやり過ごしたかを事細かに話し始めた。二、三言のやりとりの後に携帯電話を置き、
「とりあえず決行です。一応検討して、中止すべき時は連絡を入れるそうです」
そう言って車を発進させた。
それにしてもなぜ加奈子はここまで肝が座っているのだろうか。高橋はふとそんな疑問が頭に浮かんだが、あえて訊くことはしなかった。答えは決まっている。「慣れてますから」だろう。
車は途中コンビニで夕食を購入してから山道に入り、さらにしばらく走って戦場の中学校に着いた。念のため加奈子は遠回りをしながら尾行してくるパトカーなどがないかを確認していたようだが、問題はなかったようだ。
朝指定された位置に車を停めると、運営委員が近づいてきた。いつものように身分証を提示すると、「佐藤さんと高橋さんですね」と小さく礼をして道を空けた。この時間に来ることはすでに伝えているようで、特に驚いた様子はなかった。
「作戦は全部伝えるの?」
正面玄関から校舎内に入っている途中に高橋がそう訊くと、加奈子は「何を今更」といった顔をして振り返った。
「当然です。運営委員に伝えていない時間に来ても入れてくれませんよ。それは『ルール違反』ですので」
「ふうん……」
二人は階段を上り、三階、斉藤側のスタート地点に着いた。そのままゆっくりと廊下を歩いていく。恐らく佐藤が監視していて既に斉藤達がいないことは確認済みなのだろうが、高橋は通り過ぎる教室から斉藤達が飛び出してこないかと少し緊張した。
「さて」
「3ー4」の教室に着き、中を見渡して彼らがいないことを確認すると、加奈子は高橋の方を向いた。
「とりあえず、斉藤達がこの会場に来る時間は、本来の予定通りでしたら午後一〇時半になります。もちろんこれよりも早くなる可能性もありますので、念のため父が監視しておりますが。ともかく父から連絡があるか、その時間になるまでは楽にしていて大丈夫です」
なぜ会場到着時刻を把握しているのか。恐らく運営委員に佐藤と懇意にしている者がいるのだろう。先ほどの話だと、必ず運営委員に申告しなければならないのだ。
「……予定よりも早くなることはあるの?」
「ええ。予定が変わった場合は運営に電話連絡すれば申請外の時間でも入れることになっておりますので」
なるほど。そこまでは読みきれないというわけか。高橋は納得した。
「今が七時少し前ですので……戦闘開始まであと五時間です。とりあえず本番のリハーサルでもやりましょうか」
加奈子はそう言って己のカバンから、練習用のラバーナイフを取り出した。
「想定では緒方は前方の戸の前にいて、外をうかがっていると考えられます。向きとしては父から見えないように、父が進む向きと同じ方向を向き、戸の後ろ側にいると思います。この位置からでしたら前に進む父からは見えませんので」
加奈子はそう言って戸の隅に立った。確かに佐藤からは死角になりそうな位置である。
「高橋さんはそこ、教壇の下に隠れています。そこから出てきたときには緒方は後ろを向いていますので、音さえ出さなければ気づかれることはありません。そして近づいて刺す。と、ここまではよろしいでしょうか?」
高橋は小さくうなずいた。
「では実際にやってみましょう。まずは手本を見せます。入り口付近に立ってください。あ、今回は動きを見てもらわなければならないので、こちらを向いていてください」
加奈子にうながされ、高橋は先ほどまで加奈子がいた戸の隅に立って教壇の方を向いた。彼女は教壇の中に隠れている。
「この位置から足音を消しながら近づいてください。このように」
加奈子は教壇から抜け出して、前傾姿勢で高橋の方へと近づいてくる。確かに物音一つ聴こえない。今は目で確認しているので接近が解るが、後ろを向いていたら解らないかもしれない。
「そして緒方の後ろについたら……あ、後ろを向いてください」
高橋が後ろを向くと、加奈子は口元をきつく押さえて後方へと反らせた。そして開いた腹部に、上へ突き立てるようにナイフを押し当てた。そこまでの動作はまばたきをするほどの間しかなかった。一瞬の出来事に、高橋は驚く間もなかった。
「こんな感じですね。ナイフを刺す角度を覚えてください。きちんと横隔膜を破って心臓に突き刺さなければなりませんので。では高橋さん、やってみてください」
「あ、ああ……」
高橋はラバーナイフを受け取り、先ほどの加奈子と同じ動作を行った。
「……ダメですね。歩く音が聴こえます」
しかし、まず近づく前段階で加奈子から何度も指摘を受けた。どうしても歩く音を完全に消し去ることが出来ない。高橋は何回も試行錯誤し、ようやく加奈子の了解を得ることが出来た。近づくことが出来たら次は口を押さえて刺す練習である。加奈子の身体を借り、何度も何度も練習を重ねた。
結局リハーサルが終わったのは一時間後、八時になる少し前であった。
「……リハーサルはこの位にしておきましょうか」
加奈子にそう言われたとき、高橋は疲労でその場に崩れてしまった。それまで近づく練習、刺す練習を何度行ったか解らない。ようやく終わり、高橋は深く息をついた。
「本番では恐らく緊張で身体が思うように動かないと思います。本番まであと四時間、時間の許す限り頭の中でイメージしてください。そうすれば本番は多少は動けるようになると思います」
「イメージ……」
「ええ。頭の中で何度も何度も緒方を殺してください。緒方の心臓にナイフが食い込み、彼が痙攣しながら絶命してゆく様を強くイメージしてください」
加奈子は無表情のまま、淡々とそう言った。高橋は眉をひそめたが、素直に従うことにした。彼女の言っていることは、四時間後に自分が行っていることなのだ。彼女の言う通り、イメージしなければならない。失敗は許されないのだ。
二人は「3ー4」の教室内でその後の時間を過ごすことにした。斉藤達が来るまではこれ以上することがない。二人は教室内の物が動かないように注意して、窓側ので空いている壁に背中をもたれて座った。
加奈子は途中で買ってきたコンビニのご飯を勧めてきたが、今はもう胃が受け付けてくれそうになかったので、高橋は遠慮しておいた。今回は無理に食べさせようとはせず、自分一人で静かにパンをほおばっていた。
食事が終わると、無言になった。来たころには夕日がまぶしかったが、今は完全に陽が落ちている。月明かりが廃墟となった教室をかすかに照らす。たまに遠くで車の音が聴こえる以外は何も聴こえてこない。
隣にいるの加奈子も、次第に見えにくくなってきた。今は輪郭がうっすらと見えるだけである。彼女は座ったまま微動だにせず押し黙っている。暗くて顔も見えないので、彼女が起きているのか寝ているのかも高橋には解らない。
高橋は急に不安を感じるようになった。うまくいくだろうか。近づく途中に見つかってしまうかもしれない。ナイフを刺す瞬間に躊躇してしまうかもしれない。止めておけばよかった。そもそも自分とは何も関係がない緒方を、なぜ殺さなければならないのか。心に迷いが染み出してきた。今はそんなことを考えてはいけない。加奈子に言われたように殺しのイメージをしなければならない。心の表層でいくらそう己を戒めても、心の奥底から湧き出る不安感を止めることが出来なかった。
高橋は目をきつく閉じ、己の身体をきつく抱いた。緒方達はいつ来るのだろうか。隠れている間見つからないだろうか。高橋の不安は止めどなくあふれてくる。
「……高橋さんは」
と、加奈子が声を挙げた。急に声がしたので、高橋は驚いて身体を揺らした。
「高橋さんはなぜ殺しをしているのですか?」
「……急にどうしたの?」
「いえ、何となくです。なぜですか?」
加奈子にそう言われ、高橋はしばらく頭を巡らせた。思えば今の自分は目の前の「殺さなくてはいけない」という言葉しか見えていなかった気がする。そもそも自分はなぜこれをしなければならなくなったのか。今、この場の事だけではなく、そもそもなぜこの世界に足を踏み入れたのか。
「……葛西のため。あいつが抱えていた苦しみを理解するにはこの方法しかないと思ったから。……あと、坂本を死なせたくないからかな」
「そうですか」
加奈子は再び押し黙ろうとしていたので、高橋は「あの」と会話を続けようとした。喋っていれば不安が解消するような気がした。しかし「あの」から次の言葉が見つからず、しばらく考えた後に、
「加奈子さんはなんでこれをやってるの?」
そう質問を返した。
彼女は「そうですね」としばらく無言で考えた後に顔を上げた。
「もうだいぶ昔からこればかりをしてました。理由なんて忘れました」
「……いつからこれをやっているの?」
「物心つく前からです。もちろんその時にはこんなに殺しを管理するサイトなんてありませんでしたから、父の『仕事』の協力していた感じですが」
「仕事?」
「ええ。父は昔、『掃除屋』をしていました」
「掃除屋、って?」
「いわゆる殺し屋でしょうか。依頼を受けて人を殺す仕事です。まあ、お話の中にあるようなヤクザのヒットマンではなくて、一般の人から依頼を受けて、一般の人を殺すような仕事を細々としていたんです。私は父についていって一緒に殺しをしていました。もう、随分と昔の話です。昔からこれ中心の生活をしておりましたので、理由なんてもう忘れてしまいましたよ」
彼女の言葉には妙に重みを感じた。物心つく前から人を殺し、それが日常となる。高橋は昼間のマクドナルドでのやりとりを思い出した。彼女は「人生楽しいか?」という問いに「さあ?」と答えた。そんな生活に、果たして意味はあるのだろうか。
高橋はチラと彼女の横顔を見た。暗くて輪郭しか見えないが、とてもかわいらしい女性である。こんな殺しの世界に入らなければ、そこそこ幸せな人生を歩めたのかもしれない。笑顔で「楽しいです」と言えるような人生を歩んでいたのかもしれない。
「なんというか……俺が君くらいの頃はくだならないことばかりやって盛り上がっていたよ。あんまり意味はなかったかもしれないけど、それでもすごく楽しかったよ。今思えば、君くらいの時が一番楽しかったような気がするよ。……まあ、人生語るほど年取ってないけどさ」
高橋は昔、大学時代の頃を思い出した。その時は坂本や東京に行った葛西と遊びながらも、大学の友達とよくバカみたいに騒いだものだ。内容はとても下らないことだったのかもしれないけど、今思い返しても楽しかったように思える。そんな貴重な時を、こんな日陰で人を殺して過ごしているというのは間違っている。
「世の中にはもっと楽しいことはいっぱいあるよ。もちろん合法的なものでね」
「そうかもしれませんね」
意外と加奈子は素直に受け入れた。彼女はフッと息を漏らして立ち上がり、窓の外に目を向けた。
「今日はいい天気ですね」
急にそう言われ、高橋は面くらいながらも「ああ」と相槌を打って同じように立ち上がった。今日は雲一つない晴天である。東京ではあるが山の中だからだろうか。空気は澄んでおり、星がよく見える。大小様々な星の中で、上弦の月が光り輝いている。
「こんな綺麗な夜の日は、この先に何があるのだろうかな、と少し考えてしまいます。父もいずれは誰かに殺されてしまうでしょう。遅かれ早かれ、私も死んでしまうかもしれません。そこにどんな意味があるのかと。ま、ほんの少しですけどね」
彼女はいつものように淡々と言った。どこか他人事のように言う彼女は、やはり無表情なのだろう。それでも初めて人間らしい事を聞いた気がした。
「少しずつでも、これ以外のことを考えてみるのもいいかもしれないね」
「ええ。そのためにも、今回の戦闘を終わらせましょう。緒方を殺す役、頼みましたよ?」
彼女は高橋を見据えて静かにそう言った。高橋は小さくうなずきながら、フッと心が軽くなったのを感じた。先ほどまで感じていた不安はいくらか和らいでいる。
そう言えば今の会話、加奈子から切り出したような気がする。もしかしたら、彼女は緊張を和らげるために、今の会話をしたのかもしれない。高橋は礼をするために声を挙げようとしたその時、加奈子の携帯電話が着信した。
「もしもし……はい、はい。早いですね。わかりました準備します」
加奈子は携帯電話の相手にそう言っていた。それだけで高橋は電話の相手も、話の内容も解った。
「父からです。斉藤達は予定よりも早くこちらに向かっているようです。我々も準備にかかりましょう」
加奈子の言葉に、高橋は大きく身体を波打たせた。ついにきたのか。緊張で足がガタガタと震えてきた。
「では、期待してますよ」
加奈子は高橋の背中を強く叩き、教室を出ていった。高橋も己を奮い立たせ、教壇の方へと歩いていった。
いつの間にか、足の震えは治まっていた。
加奈子が去ってからおよそ一〇分経って、教室の外から話し声が聴こえてきた。
高橋は既に教壇の中に隠れているので姿は見えないが、二人組で、斉藤達のようだった。
「よし。じゃあ予定よりも少し早いけど、ここで隠れていてくれな」
話の内容から斉藤だろう。彼は少し低い声をしている。
「うん……解ったよ」
こちらは緒方だろう。穏やかで声の質は葛西に似ているような気がした。幾分沈んだトーンなのは、やはり今回の戦闘には乗り気ではないのだろう。
「じゃあこれがお前が使う銃だ。安全装置外しておいたから、後はこのまま引き金を引くだけで撃てるからな」
「うん」
「じゃあ、頼んだぞ。俺は外で手続きの時間までスタート地点にいるから」
斉藤がそう言って教室から出ようとしているところを、「あ、待って」と緒方が引き止めた。
「なんだ?」
「今日の戦闘、勝てるよね?」
「なに言ってるんだよ。あったりめーだろ? こっちは銃持ってるんだ。さすがの佐藤だって、手の届かない所から撃たれたら何もできねえよ」
「そうだよね。うん。ごめん変なこと訊いて」
「いいから、お前はお前で集中しろな。大事な役目なんだから」
そう言って、一人教室から出ていった。出ていったのは斉藤だろう。それからしばらく静寂が流れた。物音はしないが入口付近に緒方はいるのだろう。高橋は息を殺して教壇の中でジッと身を固めた。
足元に置いたダガーナイフのグリップを触った。金属製のグリップは少し冷たく感じた。これで彼を刺すのか。そう思うと背筋が冷えた。
先ほど加奈子と行ったリハーサルを、何度も心の中でリピートした。特に刺す部分を繰り返し繰り返し心の中で思い描いた。加奈子が言う通り、何度も緒方を心の中で殺しながら、その時を待っていた。
と、急に大きな音が聴こえてきて、高橋は身を揺らせた。何とか物音を立てずにすみ、高橋は小さく息をついた。どうやらその音は携帯電話の着信音のようだ。とても近い所から聴こえる。緒方の携帯電話だろう。
「もしもし……ああ、どうした?」
緒方は携帯電話に出たようである。先ほど聴いた穏やかな声で応対していた。
「……うん。今斉藤と遊びに出てるよ……そう言うなよ。あいつも根はいいやつなんだよ。昔は俺より泣き虫だったんだから。それよりなんだ? ……うん。そうか、そうだな。解った。来週ちょっと時間空けるから、一緒に行こうな。……うん……うん。じゃあね。愛してるよ」
緒方はそう言って携帯電話を切った。話の内容から恋人だろう。緒方の声が先ほどまでよりも幾分明るくなっていた。
それからしばらくして廊下を走る音が聴こえた。
「……今の携帯の音、お前か?」
どうやら斉藤が教室に来たようである。彼は離れた所から先ほどの着信音が聴こえたのだろう。
「うん。早織から。ちょっと結婚式の打ち合わせの事でね」
緒方の言葉の後、ことさら大きな舌打ちが聴こえた。
「バカ戦闘前は携帯切っておけって言っただろ? 始まってから携帯鳴ったらどうするんだよ」
「……ごめん」
「それに戦闘中は外と連絡取っちゃいけない規則だろ? 何やってるんだよお前、どんな会話したんだよ」
斉藤は何度も舌打ちをしながら、不満げに早口でそう言った。緒方は「ごめん」と萎縮しながら電話の内容を語っていた。どうやら結婚式の打ち合わせを来週末に設定していたのだが、早織なる人物の予定が変わったので、平日に変更したいという内容であった。緒方はその内容を、早織から斉藤が悪く思われている部分と、泣き虫云々のくだりを割愛して話した。
「……解ったよ。多分大丈夫だとおもうから、もういいよ。とりあえず携帯切っておけ」
「……うん。ごめんな。迷惑かけて」
「携帯は何度も言ってるだろ? いいかげんちゃんとしろよな」
「うん。ごめん」
そして斉藤は教室から出ていったようである。
確かに戦闘前は外部の人間に連絡をしてはいけないことになっている。理由は、戦闘で負けた場合は当然失踪扱いになるのだが、その際に近親者に怪しまれないようにするためである。「明日会おう」と言った翌日に失踪したら、事件に巻き込まれたと怪しまれるということである。できる限り、己が死んだときの事も考えなければならない。しかしそれにしても斉藤はそこまで怒る必要はあるのだろうか。高橋は少し違和感を感じた。確かに組織防衛を第一に考えていると思えばもっともなのだが、斉藤達は生き残ることを前提に今回の戦闘に臨んでいるのだ。先ほど斉藤も、「今日の戦闘には勝てる」と断言していた。それなのになぜあそこまで怒ったのだろうか。
戦闘開始後に着信した場合の事を考えているのだろうか。高橋はそう考えて己を納得させた。恐らくこのようなことが何度かあったのだろう。それで下手を踏みそうな時もあったのかもしれない。
それよりも。
高橋は折れそうな心を必死で立て直した。緒方は結婚を控えている。それを思うと一瞬殺す気持ちが無くなりそうになった。ダメだ。高橋は瞳をきつく閉じて緒方を殺すイメージを繰り返し想像した。これは気持ちなのだ。「殺そう」という気持ちが強くないと、相手を殺すことが出来ない。
高橋は身を潜めながら、心の中で何度も緒方を殺した。大切なのはイメージすることで、本番はそれをなぞれば良い。
随分と長い時間が経過した。高橋は腕時計のバックライトをそっとつけて時間を確認する。そのバックライトは淡く光り、外には漏れないことは加奈子と確認済みである。確認済みであるが、高橋は念のため外に光りが漏れないように注意しながら時間を見た。現在午後一〇時半。あと一時間半である。そろそろ斉藤と佐藤は外で開戦の手続きをしているのだろう。加奈子も既に所定の部分に待機しているのだろうか。
と、小さなため息が聴こえてきた。緒方のため息だろう。彼は乗り気ではないのだ。その音にまた心が折れそうになったが、なんとか盛り返した。
遠くで鳥の鳴き声が聴こえてくる。高橋は先ほど加奈子と共に見上げた外の夜空を思い出した。今日は静かで美しい夜だ。こんな夜に人を殺さなければならないなんて、間違っている。しかしやらなければならない。緒方を殺さなければ自分が殺されてしまうのだ。意味など考えている余裕はない。
高橋は再び殺すときのイメージをしていった。次第にイメージは鮮明になってくる。その瞬間、緒方がどのような表情をして、どこを刺すのかも正確に頭に思い描けるようになっていった。問題ない。右手には以前加奈子の背中を刺したときの感触が残っている。大丈夫だ。
そして時間が過ぎてゆく。緒方も緊張しているようだった。姿は見えないが、彼の荒い息が高橋の所まで伝わってくる。高橋も息を殺しながらそっと教壇の中で身を隠す。
午後一一時半。あと三〇分で戦闘開始時刻である。高橋は狭い教壇の中で音が出ないように注意しながら身体を動かし、長い間隠れていて凝り固まった身体をほぐしていった。
あと二〇分、あと一〇分。刻一刻とその時間は迫ってくる。高橋は時間を見逃さないようにバックライトをつけた時計を注視した。
時間は一秒一秒確実に刻んでゆく。あと三分、あと二分。高橋は足元に置いてあったダガーナイフを持ち、鞘から引き抜いた。暗くて何も見えないが、確かにそこにはブレイドを露出させたナイフがある。高橋は覚悟を決めた。
ゆっくりと身体を起こし、まずは頭だけを教壇から外に出した。先ほどまで真っ暗な中にいたので、月明かりに照らされた教室の中はよく見える。想定通り、緒方は手前の戸の隅で廊下の外を注視している。彼の右手には拳銃が握られている。高橋のいる教壇には背中を向けているので、頭を出した高橋には気付いていないようであった。問題ない。リハーサル通りだ。高橋はゆっくりと這って教壇から抜け出した。
完全に教室の中が見渡せるようになった。緒方との距離は三、四メートルといった所か。緒方はまだ外に目を向けており、高橋の存在には気付いていない。高橋は中腰のまま一段高くなっているステージから降りた。ほぐしたとはいえ、長時間の潜伏で身体の至る所が悲鳴をあげていた。痛む腰に構わず、高橋はリハーサルで通った道を辿っていった。
チラと腕時計に目を向ける。三〇秒前。大丈夫だ。予定通りだ。次第に緒方との距離が縮まっていく。彼まだ気付いていない。拳銃を持ちながら、廊下に目を向けている。やがて彼の真後ろに着いた。
高橋はもう一度緒方を刺し殺しているシーンを頭に浮かべた。問題ない。いける。大丈夫だ。そう思って高橋が緒方の口を塞ごうと手を回したその時。
緒方が振り返ったのである。
ようやくここまできたか。
斉藤健二は深い闇の中で一人ため息をついた。耳元ではイギリスのデスメタルバンド「メサイヤ」の、退廃的なギターソロが流れている。斉藤は戦闘前にメサイヤのアルバムを聴くことが恒例になっていた。いわゆる験担ぎである。掻きむしっているようなギターに心臓まで響くドラムとベース。そして言葉は解らないが、地の底から怒りをぶつけているようなボーカル。彼らの狂った音を聴くと、斉藤は何でも出来るような錯角を覚えた。そんなメサイヤの曲を大音量で聴きながらも、斉藤は冷静に頭の中で今回の作戦を追っていった。
問題はない。いくら佐藤とはいえ、遠距離から拳銃で撃たれたらひとたまりもないだろう。装弾数には気をつけなければならない。きっちり二発残して残りをすべて撃つ。全弾ヒットしなくてもよい。一発、彼の足でも手でも当たって怯んでくれれば、後は近づいてとどめを刺すだけである。一発は佐藤の頭に。もう一発は……。
斉藤は腕時計に目を向けた。一一時四五分。もうすぐだ。斉藤はポータブルプレイヤーを操作して、一番のお気に入りの曲に合わせた。戦闘前にいつも聴いている曲である。激しいドラムラインから入り、ボーカルの叫び声と共にギターの早引きが始まる。バスドラムの重い音を心臓で感じながら、斉藤は精神を高揚させていった。音楽はいい。これさえあれば麻薬なんか必要ないと斉藤は思った。曲が中盤に差し掛かるにつれ、斉藤の鼻息が荒くなっていった。
曲が終わるとスイッチを切り、しばらく余韻に浸った後にイヤホンを外した。いつも通りだ。今までの戦闘と何ら変わることはない。斉藤は軽く耳鳴りを感じたが気にすることはなかった。自分には暗視スコープがある。はっきりとした視覚があるため、聴覚は余り重要ではない。
斉藤は傍らに置いたカバンから暗視スコープを取り出した。ヘッドギアのように頭に装着できるものである。その暗視スコープを頭に取り付け、電源を付けた。暗視スコープ越しに鮮明な映像が見える。いつも通りだ。問題ない。
ベルトラインに差し込んでいた拳銃を手に取る。入手には手間も金も大分かかったが、それでも手に入れてよかった。これで俺はサイトでトップになれる。そうすれば特別対戦の申し出はいくらでも来るようになる。俺はいつでも殺人が出来るようになるのだ。斉藤は顔を歪めながら、再び時計に目を向けた。もうすぐ戦闘開始の時間である。斉藤は気を引き締めた。
廊下の向こう側には佐藤らしき人影が見える。遠くてはっきりとは見えないが、ジャケットのフードを頭から被っているようである。
時間だ。斉藤は左手に持っているライトのスイッチを入れて、向こう側に見えるように軽く振った。すると相手側はそれにすぐ光りを返してくると思ったのだが、なにやらゴソゴソと探しているようだった。どうもライトを振ることを忘れていたようで、今になって探しているようだった。
まったく、何をやっているんだよ。斉藤は舌打ちをしてそう思ったが、お互いが光りを確認してから進むのがルールであり、彼が進まないと作戦が使えない。佐藤は必死になってライトを探している。佐藤も大したことねえな、そう心の中で愚痴りながら斉藤は佐藤がライトを探し当てるまでの時間を待った。
と、「3ー4」から腕が飛び出してきた。一瞬の出来事だった。一瞬だけ緒方の腕が見え、すぐに引っ込んだのである。何やってるんだアイツ。斉藤は眉をひそめて佐藤を確認したが、どうやら探し物に夢中で気付いていないようだった。
よかった。斉藤は胸を撫で下ろした。佐藤がもたもたしてくれたおかげでなんとか気付かれずに済んだ。斉藤は安堵しながらも心の中で緒方を罵倒した。アイツはいつもそうだ。いつもボロを出して俺の邪魔をする。
ようやく佐藤もライトを見つけたようだった。勢いよく振っているのが見える。斉藤も再びライトを振り、合図を返した。
拳銃を構えながら、ゆっくりと廊下を歩いてゆく。向こう側の佐藤も、こちらに近づいているようである。
斉藤が「3ー1」の後ろの戸を過ぎたときに、佐藤も同じように「3ー4」の前の戸を過ぎていた。しばらくして緒方らしき人影が教室から音もなく出てきた。
作戦通りである。斉藤は笑いをこらえながらその場に立ち止まり、拳銃を構えた。
照準を佐藤に合わせ、斉藤は心を落ち着かせた。心のブレは手に伝わる。深呼吸して手ブレを抑えた。
ふと、斉藤の頭に思いついた事があった。ルール作成の時の事である。自分がフルネームでお互いの名前を明記したが、佐藤が正式なルールとして書き直した時には氏名が消えており、佐藤秋雄から佐藤、斉藤健二から斉藤に書き換えられていた。あの時は特に気にしなかったが、これには何の意味があったのだろうか。
何か嫌な予感がして一瞬手が止まったが、すぐに気持ちを切り替えた。今考えるべき事ではない。今は目の前の事だけを考えなければならない。そう思って斉藤は引き金を引く指に力を込めた。
しかし。
「一瞬迷いましたね」
後ろからそんな声が聞こえたと思った次の瞬間、右手に激痛が走った。後ろの人物が何かを振り下ろしてきたようだった。振り返り、それがブラックジャックと呼ばれる短い革製の武器だと気付いたときには全てが終わっていた。斉藤はうつ伏せに倒され、髪を引かれて顎を上げると、首にパラシュートコードが巻きつけられた。
「その迷いは、緒方との友情を思い出したのか、己の失策に気付いたのか、どちらでしょうかね」
背後からそんな声が聞こえてきた。背中に乗ってきたその声の主を、斉藤は確認することは出来ない。しかし、その声は先ほど聴いた記憶がある。
「……汚ねえぞ。ルール違反だ」
斉藤は顔を歪めながら、背中に乗る男、佐藤にそう言った。
「ルール違反? はて」
佐藤はとぼけたような口調で言っている。斉藤は気付いていた。ルール違反ではない。今もライトで照らしながら廊下を歩いている人影は。
「あれは『佐藤』ですよ。佐藤加奈子と言いまして、私の娘です」
「ふざけんなっ……」
彼の言葉が終わらないうちに喉に掛かるパラシュートコードが絞まっていく。
斉藤は恐怖を感じる間もなく意識が遠のいていった。
その時、高橋は全てがスローモーションに感じた。振り返った緒方。恐怖と驚きで顔を歪めながら背を向けて逃げようとする。
緒方が廊下に出ようとする寸前で彼の身体を捕まえた。もしかしたら腕が廊下に出たかもしれないが、ともかくもがく緒方の口を押さえながら、教室の隅まで引きずっていった。
もう躊躇している余裕はない。高橋は持っていたダガーナイフを彼の腹の上辺りに這わせ、一気に突き立てた。
意外と抵抗なくダガーナイフは彼の胸部に滑り込んでいった。嫌な手応えだ。ナイフの先が柔らかい物に突き刺さる感触が、妙に生々しく感じた。手に熱い液体が流れてくる。もう一度突き刺すためにナイフを引き抜こうとしたが、収縮した筋肉が邪魔をして抜くことが出来ない。高橋は柄まで入るのではないかという所まで必死にナイフを押し込んだ。
緒方は一度苦しそうにのけぞった後に泡を吹いた。すぐに彼の身体から力が抜け、高橋の方へと倒れこんだ。
高橋が我に返った時には既に緒方は死んでいた。殺したのか。そんな実感もあまりないまま、高橋はゆっくりと彼の亡骸から離れた。緒方はカッと目を見開き、苦悶で表情を醜く歪ませたまま天井を見つめている。彼の腹の上には高橋が刺したナイフが突き刺さっている。
あまり深くは考えられなかった。頭がぼんやりと霞が掛かっている。殺したのか殺していないのか。そんな事も考えられずに、ただ作戦を遂行させなければという思いで立ち上がった。もうすぐ加奈子が廊下を通り過ぎるはずだ。その後に自分も廊下にでなければならない。
立ち上がると、足に何かが当たった気がした。緒方が持っていた拳銃である。高橋は無意識のうちにその拳銃をジーンズの隙間に差し込み、シャツで隠した。
と、廊下で横切る影があった。ジャケットのフードで頭を隠した加奈子である。彼女はライトを持ってゆっくりと「3ー4」を通りすぎてゆく。背丈は佐藤と同じくらい、遠くからなら佐藤と見間違えるだろう。高橋は己を奮い立たせ、彼女の後を追うように廊下に出ていった。加奈子の後ろ姿を見ながら、ゆっくりと後をついてゆく。廊下の先は暗くて何も見えない。一点だけ淡く光るのが、斉藤のライトなのだろうか。
作戦通りにいくのだろうか。歩きながらふとそんな事を考えていた。今見える光の主である斉藤が生きていた場合、自分と加奈子は鉛の弾丸の掃射を受けることになる。大丈夫だろうか。高橋は唾液を飲もうとするが、喉がカラカラになり、それすら出来なくなっていた。
しばらく歩いていると、闇の先にある光が左右に振れた。佐藤の合図である。
「終わったみたいですね」
加奈子のそんな声で高橋は一気に緊張の糸が途切れた。腰が砕け、その場に崩れ落ちた。
「……大丈夫ですか?」
加奈子にそう言われたが、高橋は言葉を返す余裕はなかった。床の冷たさを肌で感じながら、この作戦のおかしな部分、「違和感」の理由が解った気がした。
高橋は緒方を背後から手を回して刺したため、さほど返り血を浴びなかった。袖をまくった右腕にかかっただけだったので、手を洗えばすぐに汚れを落とすことが出来る。
しかし、高橋は何回手を洗っても、綺麗になった気がしなかった。石鹸を借り、一階の手洗い場で何度も何度も洗い流したが、血液のヌルッとした感触がいつまでも残っているような気がした。
これが人を殺した感触なのだろうか。高橋は洗いすぎてふやけてしまった手を見ながら、ぼんやりとそう考えていた。
意外と冷静だった。もっと取り乱すかと思ったが、落ち着いてこうして手を洗うこともできている。いつまでたってもヌメリが取れないが。
はっきりとした実感はなかった。一瞬の出来事であったし、すぐに作戦のために廊下に出なければならなかった。あれから緒方の遺体を見ていない。なので本当に死んだのかどうかも解らない。しかし、確かに緒方は自分が殺した。いつまでも取れない血のヌメリがそれを証明しているようだった。
現在運営委員によって遺体の確認作業を行っている最中である。佐藤と加奈子は運営委員と共に殺害現場に行っているはずである。
ふと斉藤の顔を思い出した。優しい中学校の先生だったらしい。皮肉にも彼が死んだのは、廃墟となった中学校の教室である。彼は「失踪」したことになるのだろうか。葛西みたいに。そうなると、彼を慕っていた生徒はどうなるのだろうか。彼が電話していた「早織」は? 来週の結婚式の打ち合わせはどうなるのだろう。
「もう十分汚れは落ちていますよ?」
背後からそんな声が聞こえてきた。加奈子である。彼女は相変わらず感情のない顔で高橋の横に立つと、蛇口をきつく閉めた。高橋の手に流れていた水は、何滴かの雫が滴り落ちた後に止まった。
「あまり洗いすぎると、手が荒れますよ?」
「……いや、なんかヌメリが取れないような気がしてね」
「いくら洗っても取れないですよ。精神的なものですので」
加奈子はそう言ってハンドクリームを取り出した。高橋の手の甲にクリームを出すと、ゆっくりとその手に擦り込んでいった。
「ヌメリはこのクリームのせいにしたらどうですか? 手にヌメリを感じたら、このクリームを塗っているからだと思えば多少は和らぎますよ」
彼女の手はとても冷たかった。柔らかく冷たいその手に包まれた高橋は、次第に心が落ち着いて来たような気がした。
「お疲れさまでした。初めてにしては上出来です」
加奈子は無表情のまま褒める。彼女は戦闘終了後に緒方の遺体を確認に行っていた。彼女曰く、「少し外れているけど、まあいいでしょう」ということだった。
「あ、そう言えば……」
高橋は先ほど感じた、この作戦に関する「違和感」を思い出した。あの作戦はおかしいのだ。確かに斉藤達は佐藤が想定していた作戦通りに動いたのだが、彼らの作戦には重大な「間違い」があるのだ。素人の自分でも気付いたことを、佐藤や、実際に作戦を考えた斉藤が気付かないわけがない。
しかしそれを訊く前に、加奈子が遮るように口を開いた。
「どうです? 何か解りました?」
「……ああ。そういえばそうだったね」
高橋はため息をつきながら小さく頭を掻いた。この戦闘には大きな意味があったのだ。人を殺した先に行くことで、葛西が当時何を考えていたのかを知ること。緒方を殺すことで精一杯で、そんなことを考えている余裕はなかった。
「…………」
高橋は疲れで余り頭が回らなかったが、それでも何とか考えて言葉をまとめた。もうすぐ佐藤が手続きを終えて戻ってくるだろう。こうして二人きりでいられるのももう余り時間はない。
「……まず一つ確実に言えることは、思っていたよりも辛い。神経使うし殺した後も不快感しかない。加奈子さんに言うのは悪いかもだけど、こんな事を楽しんでやる神経が理解できない」
「至って正常な考えですね」
加奈子は表情を変えずにそう言ってうなずいた。
「葛西はいい奴なんだ。こんな事を好んでやるとは思えないし、例え彼女がどうしてもって頼まれたとしても、不倫に関係する恨みで佐藤を殺すことを了承するはずがないし、そもそも葛西が付き合う人がそんなことで葛西に頼むとは思えないんだ」
高橋は一つ思い出したことがあった。それは葛西が東京に暮らしている時の事。葛西が帰省してきて坂本と三人で飲んだのだ。その席で葛西は「彼女が出来た」と打ち明けてきた。坂本がしきりに「写真はあるのか?」「芸能人で言ったら誰に似てるのか?」と容姿に関する質問をする中、葛西は照れたような笑みを浮かべて、「優しい人だよ」と言ってきた。似た者同士で喧嘩もなく、穏やかに時が過ぎてゆく。そんな葛西の言葉に、「ウチなんて毎日喧嘩だぜ?」と坂本が羨ましがっていた事を記憶している。この中の「彼女」が皆川なのだ。こんなエネルギーを要する事を、ただの私怨であの二人が動くとは考えられない。
「それでは、葛西さんは何のために闘っていたのですか?」
「……さあ、解らないな」
高橋がそう言うと、加奈子の眉がわずかに動いた。
「結局のところ葛西が何を思っていたかなんて、葛西に訊かない限り解るはずがないよ。想像出来たとして、それがどのくらい正しいのかなんて、誰も証明は出来ないし」
「そうですか……」
「でも、俺がどうしたいかは解ったよ」
高橋は言葉を止めて、加奈子を見据えた。彼女は相変わらずの無表情だが、よく見るとほんのわずかだが感情が浮かんでいるような気がした。どのような感情なのかは読み取る事は出来ないが。
「今日一日一緒に行動していて解ったよ。加奈子さんは佐藤さんから離れて普通の生活をすべきだよ。こんな人殺しに追われた青春なんて、悲しすぎる。せめて人並みの幸せを得るべきだと思う。でも、多分現状では佐藤さんが許してくれないと思うから、だから一緒に佐藤さんを討たないか?」
高橋はそう言って手を差し出した。
「…………」
加奈子はその手を取ることなく、ジッと見つめていた。一瞬彼女の瞳に感情が灯り、何かを言いかけるように顔を挙げた。
「あ、二人ともここにいましたか」
図ったようなタイミングで佐藤の声が聞こえた。彼は手続きが終わったようで、こちらに駆け寄ってきた。
「今手続きが終わりました。いや、少しアクシデントがありまして、遅れてしまいました」
「何かあったんですか?」
そう言う加奈子はいつもの無表情に戻っていた。
「いや、まあ大したことじゃない。高橋主任、お疲れさまでした。初めての殺人はどうでした?」
「え? あ……いや、あんまり覚えてないです」
「まあ最初はそんなものですね。では帰りましょう。私は車で帰ろうかと思うのですが、高橋主任も一緒に帰りましょう」
どうやら佐藤は東京まで車で来ていたようである。確かに今は午前一時を越えたところである。始発を待って新幹線で帰るよりも、車で帰った方が早い。
恐らく加奈子は始発で帰るのだろう。高橋は先ほどの続きの話を加奈子としたかったが、余り行動を共にするのも得策とは思えない。高橋は考えた末に佐藤の車に同乗することにした。
「加奈子はどうする?」
「私は始発まで待ちます」
「そうか。じゃあ、父さん達は先に帰るから。気をつけてな」
加奈子は小さくうなずいた後に去っていった。
「では、我々も帰りましょうか」
加奈子の姿が見えなくなると、佐藤はそう言って歩き出した。高橋もそれに続き、校舎を後にした。校庭をしばらく歩き、加奈子とは異なる場所に駐車してあった佐藤の車に乗り込んだ。
車は佐藤の運転で発進した。
「高橋主任は疲れたでしょうから、ゆっくりしててください。寝ててもいいですよ」
佐藤にそう言われたが、とても眠れるような状態ではなかった。身体は疲れているが、頭は妙に冴えている。なんだか坂本と行った最初の戦闘の時と同じだった。
そう思って、高橋はあることに気付いた。そう言えば今日は坂本も戦闘があるんだった。自分の事が精一杯ですっかり忘れていたが。坂本はどうなっているのだろうか。無事、生き残ることは出来たのだろうか。万が一にも死んだなんてことはないだろうか。高橋は結果が気になり、いてもたってもいられなくなった。
「坂本君も今日戦闘でしたね」
そんな高橋の気持ちを佐藤は察知したのだろう。運転しながらフッとそんな事を言い出してきた。
「坂本君、勝っていると思いますか?」
「……もちろん。ヤツは頑丈ですので、殺しても死にませんよ」
「ははっ、確かに坂本君は頑丈そうな身体していますからね。高橋主任の予想通り、坂本君は勝ちましたよ。先ほど運営委員に教えてもらいました。相手方に見えない共闘がいて苦戦したようですが、なんとか勝ったようですよ」
佐藤の言葉に、高橋は安堵の息をついた。よかった。無事生き残ることが出来たのか。しかしそれは同時に、坂本も殺人を行ったということである。彼もまた、手を汚したのだ。そう考えると少し複雑な気分だった。
「さて、高橋主任もようやく『こちら側』に来ましたね」
「こちら側……」
それはすなわち人殺しをする側だろう。今までの高橋は安全な場所から出ないで参加していた。これでようやく葛西や佐藤達と同じフィールドに立ったということなのだろう。
「遺体を見させていただきましたが、初めてとは思えない位鮮やかでしたね。気分はどうですか?」
「……さっきも言いましたが、あんまり覚えていないです。ただ、殺した緒方さんには申し訳ないことをしたと思います」
「申し訳ないこと、と言いますと?」
「彼はあまり戦闘には乗り気ではなかったと聞いています。そんな人を殺さなければならなくなったのが、申し訳ないなと」
高橋がそう言うと、佐藤は「ははっ」と軽く笑った。
「その気持ちは大事ですね。一般人に戻りたいのでしたら、忘れないようにすべきですね。こちらの世界で生きていくのでしたら必要ありませんが」
「佐藤さんはそんな気持ちにはならないのですか?」
「ええ。なりません。彼は強制されたわけではない、自分の足で戦場に現れたんです。確かに斉藤君に頼まれて断れなかったのかもしれません。しかし、彼は理由はどうあれ自らの意志で我々を殺そうとしたんですよ。同情の余地はありません」
「…………」
高橋は言い返すことが出来なかった。確かに佐藤の言うことはもっともである。もっともであるが。
「すごく、悲しい考えですね」
「そうですか?」
佐藤は頭を掻きながら、困ったように笑った。
それからしばらく沈黙が続いた。佐藤はそれ以上は何も語らず、黙って運転に集中していた。
やがて車は高速道路に入った。深夜の高速道路はまばらにしか車は通っていない。二人の乗る車は長距離トラックが駆け抜ける中、法定速度を守りながら走っていった。
高橋は真っ暗な外を見ながら、色々な事を考えた。坂本は三勝してしまった。恐らくすぐに佐藤との戦闘は決まってしまうだろう。
加奈子はこれで仲間になってくれるのだろうか。一応手応えらしきものはあるが、まだ解らない。
そして加奈子が共闘してくれるとして、坂本はどうやって説得すべきなのか。あの頑固な坂本を、どうやって説得すればよいのか。
課題はまだまだ残っているが、それでも高橋はやらなければならないと思っていた。緒方を殺した瞬間から、自分がどうしなければならないのか、道は決まったのだ。彼の死を無駄にしないためにも、自分は前に突き進まなければならないのだ。
高橋がそう考えている間も車は進んでゆく。車のダッシュボードにある小さなデジタル時計は午前四時を示していた。佐藤は疲れたそぶりを見せることなく淡々と車を運転している。高橋が窓の外をぼんやりと見ていると、「寝ていてもいいですよ?」と言ってきた。
「私はこういうことは慣れておりますので、大丈夫です。まだまだだいぶありますし、仮眠してもいいですよ」
「いえ、まだ気が張っていて眠くないですので」
「そうですか。まあ、明日はゆっくり休んでください」
「ええ。……それより佐藤さん、一つ教えてもらえませんか?」
「なんです?」
「葛西が死んだことも、同情の余地はないと考えてますか?」
急にそう言われ、佐藤は面を喰らった顔をしたが、すぐに先ほどの緒方の会話の続きだと理解した。
「同情はしていません。仕方のないことでした。彼もまた、自らの意志で私との対戦会場に来ましたから」
「そうですか……」
高橋は言葉を止め、しばらく言うべき事を頭の中で整理していった。佐藤もまた、彼がそうしていることを察したのだろう。高橋が話し出すまで黙って待った。
「……色々、考えたのですが」
考えた末、そんな言葉から切り出すことにした。高橋はゆっくりと口を開く。
「まだ私の中には解らないことだらけです。葛西が何で闘っていたのか、自分の中では何となく想像は出来たのですが、それが本当に正しいのかの確信は持てません。坂本が本当は何を考えているのかも解りません。解らないことだらけです」
「…………」
佐藤は相槌も打たずに静かに耳を傾けていた。高橋は言葉を続ける。
「でも、一つだけ確かなのは、葛西と坂本は私にとってかけがえのない親友だということです。理由はどうあれ、佐藤さんに葛西が殺されて、坂本が仇討ちをしようとしているのでしたら、私は坂本の加勢をしなければいけないです。それが正しいことかは解りませんし、坂本が何を考えているのか完璧には解りませんが、それでも坂本を信じてやりたいんです」
高橋は一気にそう言った。しばらく沈黙が流れる。見ると佐藤は運転しながら何か考えているようだった。いつもとは違う、鋭い雰囲気をまとっていた。
高橋は少しだけ後悔したが、すぐに気持ちを取り直した。これでよいのだ。緒方は友のために戦場で死んだ。彼を殺した自分は、彼の分も意味のある人生を歩まなければならない。これが正しいのかは解らないが、自分は友のために仇を討つのだ。高橋はそう考えて己の心を納得させていた。
沈黙は思いの他長く続いた。ずっと喋らない時間が続き、いつまで続くのだろうかと高橋が焦れ始めた時、佐藤が口を開いた。
「……そうですか。わかりました。まあ、坂本君から特別対戦の申し込みがありましたら、受けますよ。その時に高橋主任がどうするかは好きにしてください。ただ、自らの意志で戦場に来た場合は、遠慮なく殺しますので」
冷やかなその言葉に、高橋は軽く身震いをした。「殺す」という言葉にひどく重みがあった。高橋は呑まれそうな心を奮い立たせて、「わかりました」と虚勢をあげた。
それから二人は一言も喋らなかった。高橋は無言のまま真っ暗な風景を眺め、佐藤のまた、黙って車を運転させていった。
やがて夜が明けるころには最寄りのインターチェンジに到着した。佐藤は高速道路を降り、次第に明るくなってゆく街中を通っていった。
「着きましたね」
高橋がポツリとそう言うと、「意外と早く着きましたね」と佐藤が返した。その声は、いつも会社で聞く声に戻っていた。
そのまま街中を走ってゆき、高橋の家の付近で車を停めた。
「ではお疲れさまでした。高橋主任、はい」
佐藤はハザードランプを炊いた後に高橋に手を差し出してきた。手のひらには何も乗っていない。何かを渡すというよりは、何かを出せということなのだろう。高橋が意味を捉えきれずにいると、佐藤は「その腹に隠している拳銃ですよ」と言ってきた。
そういえばあの時とっさに拳銃を腹に差していた。別に深い意味があったわけではなく、今まですっかり忘れていた。
「先ほど終戦手続きの時にアクシデントがあったといいましたよね? あれ、緒方が使っていた拳銃がどうしても戦場から見つからなかったんですよ。いえ、別に拳銃を誰が持っていても構わないんです。遺体から奪って次の戦闘に使っても問題はありません。ただ、あの場に残ったままだとまずい。戦場は一応運営が管理しているとはいえ、常に監視しているわけではありません。一般人が普通の廃墟だと思って肝試しに入るかもしれない。その時に拳銃が見つかったら事件ですからね。運営が一生懸命遺体の周辺を探したのですが、結局見つからなかったんです。その後高橋主任と合流して見てみると、腹部が少しだけ膨らんでおりましてね。出してください。あ、見えないようにこの紙袋に落としてください」
佐藤に小さな紙袋を手渡され、高橋は観念してジーンズに挟んでいた拳銃を取り出して、紙袋に落とした。佐藤に紙袋を手渡すと、軽く頭を下げられた。
「ああ、誤解しないでください。次に対戦するかもしれないから没収するわけではありません。別に高橋主任が持っていても構わないんですが、この拳銃、恐らく銃口に詰め物がしてありますので。知らずにそのまま撃つと最悪指が吹っ飛ぶ危険な銃ですから、高橋主任が持っていない方が良いと思いまして」
「……詰め物?」
「恐らく、ですけど」と佐藤は紙袋の中で手早く拳銃を分解させ、銃口の部分だけを取り出して高橋に見せた。確かに弾丸が出る先の方に何かが詰められており、発射出来ないように細工がされてあった。
「……なんでこうして細工してあるって解ったんですか?」
「簡単な話ですよ。斉藤君は一週間前に都内の釣具店で鉛を購入しています。まあ、釣りが趣味でしたらさほど珍しい事ではないのですが、斉藤君に釣りの趣味があるという話はありませんし、それにどうでしょう。今回の斉藤君の作戦、おかしいと思いませんか?」
そう言われ、高橋は戦闘終了後に思いついた違和感の理由を思い出した。そうなのだ。今回の斉藤の作戦にはおかしい点がある。高橋は斉藤の作戦が成功した場合を思い浮かべた。斉藤が廊下の端から歩き、緒方は佐藤の後ろに回る。そして同時に撃った場合。
「……この作戦だと、緒方と斉藤はそれぞれの銃弾で怪我を負うことになります」
「ええ。正解です。銃撃戦の最大のタブーは挟み撃ちです。まあ、ドラマには良くある演出ですが、実際には高橋主任の言う通り、お互いの銃弾でお互い怪我を負います。斉藤君は外見上は軽い男ですが、実に勉強熱心な男でして、そんな初歩的な事を知らないわけはありません。という所を総合的に判断しますと、緒方君の拳銃には鉛が詰めてあって、撃っても弾が出ないようになっているのかなと思ったのです」
「でも、なんでそんなことをするんですか?」
「最近、緒方君は斉藤君にこの世界から足を洗わせたかったらしいです。今回の私との戦闘も、これを最後に止めようと言っていたらしいです。斉藤君はそんな緒方君を、疎ましく感じたのではないでしょうかね」
結局、緒方は何のために死んでいったのだろうか。高橋は複雑な気分になり、顔を歪めた。友達を更正させようと戦場に赴いたのに、その友達からは騙され、最後は高橋に殺されたのだ。唯一の救いは、騙された事に気付かないままに逝ったことだが、そんな救いは気休めにしかならない。
「まあ、そういう例もありますので、高橋主任も気をつけた方がいいですよ?」
「……どういうことですか?」
「斉藤君と緒方君は、昔は仲が良かったそうです。斉藤君も真面目な青年で、緒方君を一番の親友だと思っていたそうです。だから緒方君も死なせないように見えない共闘でサポートしていましたし、更正させようとしていました。そんな斉藤君でも、殺しを続けるために親友を殺そうとしていたのです。そういうこともありますので、まあ、気をつけた方がいいということです」
「……どういう意味ですか?」
「聞き流してください。一つの事例として紹介しただけです」
「……坂本はそんな男ではないですよ」
高橋が不機嫌そうにそう言うと、佐藤は少し困ったように鼻を掻いた。
「気分を害したのでしたらすみません。あくまで一般論の話ですので」
「……まあ、いいですよ。でもそうなると、緒方は殺す必要は無かったんじゃないですか? 持っている拳銃は弾が出ないんですよね?」
「それとこれとは話が別ですよ。恐らくそうだろうと確信はありますが、一〇〇パーセントそうだとも言い切れません。もしかしたら挟み撃ちしようとしていたのかもしれません。不確定要素は確実に排除しなければ、加奈子も高橋主任も危険ですからね。それに……」
佐藤は言いかけて、言葉を止めた。頭を掻き、言うべきかどうかを迷うように高橋を見ていた。
「それに、なんですか?」
「いや、今回は適任だと思ったんです。高橋主任に殺してもらう相手として。拳銃は持っておりますが、万が一の時でも弾は出てこないし、リスクは少ないかな、と思ったんです」
その言葉に、胸が痛くなった。つまりは自分のステップアップのために、緒方は死んだのだ。高橋はやりきれない怒りを感じたが、それを佐藤にぶつけることはなかった。解っている。殺しを体験したいと申し出たのは自分である。自分が佐藤に頼み、自分の意志で緒方を殺したのだ。責任はすべて自分にある。
「……わかりました。ではこれで失礼します。お疲れさまでした」
高橋は何とかショックを表に出さないようにしながら、そう言って車のドアを開けた。
「お疲れ様でした」
そんな高橋の動揺に気付いていないのかわざと気付かないふりをしているのか、佐藤は笑顔で言葉を返し、車を走らせていった。
「…………」
外は既に朝を迎えていた。陽の光がまぶしく辺りを照らしている。寝不足の高橋には少し眩しくて、反射的に目を細めた。
空は綺麗に晴れ渡っている。目を細めながら空を仰ぎ見ると、再び緒方の笑顔を思い出した。
俺は彼を殺してしまったんだ。そう心の中でつぶやいて、高橋はアパートの方へと歩いていった。
緒方のためにも、やはり意味のある人生を歩まなければならない。
それが佐藤を殺すこととつながっているのかはよく解らなかったけれど。
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