第20話

 ほんの少しだけ冷たくなった風が、車の助手席から降りた高橋の頬を撫でる。気がつけば一〇月も下旬に差し掛かっていた。もうそろそろスタッドレスタイヤに替える準備をしなければ。高橋は今しがたまで乗っていた坂本の車を眺めて、ふとそんなことを考えた。雪が降るまではまだ一ヶ月以上猶予があるが、早めに頭の片隅に入れておかないと。一ヶ月なんてあっという間なのだ。

 高橋はそこまで考えて、苦笑した。一ヶ月先の雪の心配よりも、今は目の先の問題を考えなければならないのだ。こうして先のことを考えてしまうのは、やはり目の先の問題から逃避しようとしているのだろうか。果たしてそんな甘い考えで、うまくいくのだろうか。

「ほら高橋。どうした? 行くぞ」

 坂本に背中を叩かれ、高橋は前のめりに転びそうになった。

「危ないな」

「戦場じゃ後ろから刺されることもあるんだ。気を引き締めろ」

 坂本はそう言って顎で前方を指し示した。二人の前には廃墟となった工場が広がっている。二人が住んでいる街から車で二時間ほどの山のふもとに位置している。一週間後の戦闘の舞台となる場所である。

 今回はお互い県内ということもあり、事前に見学を済ませておくことになった。佐藤達は先週末に済ませており、今日は坂本側の見学の日となっていた。

「どこに佐藤が潜んでいるか解らないからな」

 工場に向かって歩きながら、坂本は表情を固めてつぶやいた。高橋も何気なく辺りを見回すように人の気配を探る。が、どこにも人が隠れているようには感じられない。それでもどこからか佐藤が監視しているのだろうか。

 今回の下見には明確な意味があった。当初は単純に戦場の確認だったのだが、二日前に加奈子から届いたメッセージによってその意味合いが変わってしまったのだ。


 明後日の見学を父が監視します。お二人にはできる限り、私がお伝えした「想定される作戦」に沿って行動してください。


 想定される作戦。高橋が搬入路から侵入し、挟み撃ちするというものである。当日はその作戦通り行動するということを、見学の際に示さなければならないのだ。

「マジかよ」

 坂本に伝えたとき、最初はそう言って信じてもらえなかった。相手方の下見を監視して作戦を探る。そのようなことをする会員は少ないだろう。普通そこまではしない。確かにルールには抵触していないが、潔い方法とは言えない。ましてや佐藤はサイト内でトップの実力を持つ人物である。普通ならばプライドが邪魔して出来ないであろう。

 しかし先日の斉藤、緒方との戦いで、確かに佐藤達は相手方の作戦が想定通りなのかを監視して確認していた。逆に言うと、そこまでするから負け無しなのだろう。佐藤は他の会員と違って戦闘をスポーツ化して考えていない。ルールの範疇を越えていなければ、どんな汚いことでも平気でやるのだ。だから監視もするのだろう。

「……それにしても本当に見張っているのかよ」

 ゆっくりと歩きながら坂本が小さくつぶやいた。確かに辺りに人の気配は待ったく感じられない。もしかしたらどこか遠いところから望遠鏡で見張っているのだろうか。いや、案外近くにいるのかもしれない。佐藤だったら気配を消すことくらい簡単だろう。うかつな事は言わない方がよいだろう。

 二人はゆっくりとした足取りで廃工場を目指した。坂本も緊張した顔をしている。高橋と似たようなことを考えているのだろう。

 目の前に広がる廃工場は、今まで訪れた戦場とはどこか違う印象を受けた。近寄っていくとその理由が解った。建物が割と新しい。視線の先には坂本のスタート地点である正面玄関が見えるが、どこも損傷していない。ガラス製の自動ドアは、窓ガラスなども割れている箇所はなく、綺麗にはまっている。外壁もそんなに古くささは感じられない。廃墟というよりも休業中の工場といった感じである。

 二人はひとまず外周を歩いて回ることにした。しばらく歩いてやはり高橋は確信した。この建物はそんなに古くない。荒れた所はほとんど見られない。逆に言えば、侵入できる部分はほとんどないということだ。

 工場を半周して、裏口を通りすぎると辺りが開けてきた。駐車場である。そこそこの広さのその駐車場には、当然だが車は一台も停まっていない。

「ああ。ここか」

 さらに工場に沿って歩いていると、壁に大きなシャッターが取り付けられている場所に辿り着いた。作戦に出てくる搬入路だ。坂本が声を挙げた。

 シャッターの前の地面には緩やかスロープがあり、駐車場から直接工場の中に資材を搬入出来るようになっている。確かに加奈子の言う通り、割と綺麗なシャッターだが、下の方がこじ開けられたように隙間が開いている。近寄ってみると結構隙間は大きく、屈んで入れる位の大きさであった。

「なるほど。ここから侵入出来るわけか」

 坂本がわざとらしいくらい大きな声でそう言った。どこにいるのか解らない佐藤にアピールするためである。

 高橋は試しにその隙間から工場の内部に入ってみた。一応実戦に即し、物音が出ないように気をつけながら入っていった。

 中は真っ暗だった。加奈子の地図からすると、ここは資材庫だろう。向こう側の加工室に続くドアは閉められているのだろうか。窓のないその部屋は、暗く何も見えなかった。

「なんだ。暗いな」

 坂本も後から入ってきて、持ってきたライトを点灯させた。高橋も思いだしたようにポケットからライトを取り出して点灯させる。

 資材庫には何一つ物がなかった。さほど大きくもないその部屋は、がらんどうになっていた。向こう側の壁にスライド式の戸があるだけである。

 二人は歩を進め、スライド式の戸を開けた。すると急に光が射し込んできた。この工場のメインとなる加工室である。体育館のような広く天井の高い空間に、様々な機械が配置されている。それらは朽ち果てているというよりも眠っているという表現の方が適切だろう。電気さえ点ければ今でも動きそうである。

 ここは本当に廃墟なのだろうか。高橋は疑問に思ったが、気にしないことにした。もしかしたら戦闘を盛り上げるためにハリボテを置いているのかもしれない。この機械が配置されているおかげで、広い空間であるが物陰に隠れながら移動することが可能である。高橋は「こんな感じか?」と少し屈んで移動してみた。そうすると機械類に隠れて、離れた坂本からは見えないようである。一応、作戦上ではそんな流れになっている。

 高橋達は二手に別れ、作戦の流れに沿って動いてみた。高橋は搬入路から侵入し、正面玄関から入った坂本と、加工室の入り口付近ではさみ撃ちをする。実際には使われない作戦の流れを、二人は律儀に何度も確認していった。

「こんなもんでいいだろ」

 四、五回目の確認を終えてから、坂本はため息混じりにそう言った。いるのかどうかも解らない相手にこうしてアピールしていることが、少し虚しく思えてきたときだった。高橋も同意する。これだけやれば佐藤もきちんと見てくれただろう。

 それからしばらく工場内を歩いて回った。やはりどこも朽ち果てたような所は見当たらない。休み明けの月曜日にこの工場が稼働していたとしても、高橋は違和感を感じないだろう。

「高橋」

 加工室をでてエントランスに続く廊下に出たとき、坂本が蚊の鳴くほどの小さな声でつぶやいた。

「最悪な事態を想定しよう。作戦が失敗して俺達が分断してしまったときだ。そんな時の為に集合場所を決めておこう」

「……いいけど」

「よし。じゃあどこがいいか考えようか」

 高橋はそうつぶやいてエントランスの方に歩いていった。

「…………」

 呆然とその場に立ち止まっている高橋に、坂本は「どうした?」と振り返った。

「いや、何でもない」

 高橋は首を振って坂本の方へと歩いていった。気のせいだろう。なぜか先ほど一瞬だけ、坂本が別人のように見えたのだ。

 エントランスはさほど広くはない。正面玄関入ってすぐの所に受け付け用カウンターがあるだけの簡素な空間であった。

「どっちかなんだよな」

 正面玄関からの風景を眺めながら、坂本が小さくつぶやいた。加奈子の図面通り、左側に事務所が、右側に食堂がある。事務所はガラス張りで、内部がよく見えるようになっている。事務用の机と椅子が整然と並んでいるのが見えた。一方食堂はコンクリート製の壁となっている。唯一観音開きの扉の目線の位置に細長いガラスがはまっており、そこからしか内部を確認できない。

 坂本はまず事務所の方へ足を向けた。外からも見えていたが、事務用の机が並んでいた。両脇の壁にはキャビネットが配置されており、奥の壁には窓があり、そこから外がよく見えた。一般的な事務所である。さすがに机の上には物が置いてなく、ここが廃業した工場だというのがよく解った。

「……微妙だな」

 坂本はそうつぶやきながらも、しばらくの間部屋の中を丹念に調べ、なかなか部屋から離れなかった。

 次に坂本は向かいの食堂に入った。入ってすぐの所に食券販売機があり、その奥に壁に沿って奥まで配膳用のカウンターがある。カウンターは二人の胸のよりも少し低い位の高さで、その奥は調理室になっている。

 カウンターの後方、食堂に入って左側は食事をするスペースになっている。大きな長机が三つ、平行に並んでいる。食堂の奥には窓があり、左側の壁には扉があった。恐らく加工室から直接食堂に入れるようになっているのだろう。

「……なあ高橋。カウンターの奥にの下の方に小さい窓があるのが見えるか?」

 坂本はカウンターの奥の方を見つめながらそう言った。確かに奥の壁の足元に、換気用なのか、細長い窓があった。

「とりあえず、何かあったらこの食堂に集まろう。ここなら加工室からも直接入れる。で、先に来た方はあの窓の鍵を開けよう。そうすれば外から回ってこの食堂に入れる。そうすれば佐藤に鉢合わせすることもないからな。解ったか?」

 高橋は小さく頷いた。

「ま、そんな事態にならないに越したことはないんだけどな」

 坂本はそう言って、事務所の時と同じくらいの時間内部を確認した後に食堂を後にした。念のため、他の部屋についても同じように調べるフリをして、工場を後にした。

 車に乗り込み、しばらく車を走らせると、二人は揃って大きなため息をついた。

「……結構疲れるもんだな」

 坂本の言う通り、高橋も短時間であったが自分が思った以上に緊張していたことが解った。佐藤の監視下から外れたと思うと、一気に身体から力が抜けた。

「それにしても来週か。やっとここまで来たな。あ、お前武器どうする? 昔お前に渡したナイフだと心許ないし、これから買いに行くか?」

「…………」

 幾分興奮した顔でそう喋りつづける坂本に、加奈子の言葉を思い出した。目の奥に闇がある。本当にあるのだろうか。高橋は運転する坂本の顔を横目で見た。彼は果たして純粋に仇討ちだけを考えているのだろうか。

「……どうした?」

 急に黙ってしまった高橋に、坂本が怪訝そうな声を挙げた。

「いや、なんでもない。武器は用意しておくよ。それよりさっきの食堂の件、加奈子さんに伝えていいか? 仲間だしさ」

「いや、止めておこう」

 坂本は先ほどまでの幾分興奮した顔から、急に冷めた表情に変わった。

「……なんで?」

「あの話は、加奈子が裏切ったときの作戦だからだ。彼女がこっちにつけば使うこともない」

「彼女は裏切るような人じゃないよ」

「俺もそう信じたいし、そうであってほしい。でも失敗は許されない。だから保険は掛けておくに越したことはないんだよ」

「……解ったよ。でも、昔と違って色々考えるようになったんだな」

 高橋は感心したようにため息をついた。昔の坂本だったらこんな時は全面的に信じただろう。そしてこの様に慎重に考えるのはいつも葛西だった。やはり自分も坂本も、葛西がいなくなってそれぞれの役割を補わなければならなくなったたということか。

「俺も年取ったからな。それに、これが普通のゲームだったんなら俺もここまで考えねえよ。でもこれは、殺し合いなんだよ。」

 坂本の声がとても冷たく感じて、高橋は背筋に寒気が走った。殺し合い。その言葉を吐く坂本が、一瞬だけ別人に見えた。

「……なあ坂本、これは葛西の仇討ちなんだよな?」

「急にどうした? そうに決まってるじゃないか」

「それ以上には、なにもないよな?」

 高橋が祈るようにそう訊くと、坂本は一瞬だけ言葉を溜めて、ゆっくりと口を開いた。

「ああ。これは完全に、仇討ちだ。そのために俺達は力を合わせている。二人で力を合わせて、葛西の無念を晴らすんだよ」

「……ああ。悪いな。変な事を訊いて」

「いや、気にするな。悩む気持ちも解るから。ま、これが最後だ。来週佐藤を殺して、葛西の墓前に花を添えようぜ……って、あいつ墓には入ってなかったな。運営に埋めた場所を訊いてみようか」

 坂本はそう言って笑っていた。とても笑えない内容だったが、高橋はそのことを追求することは出来なかった。

 本当にこれは仇討ちなのだろうか。

 もはや悩んでも仕方がないことだが、つい高橋は思ってしまう。そしてその感情を押し殺して、坂本の話に合わせた。

 あと一週間。今回は佐藤の要望を坂本が呑むという今までにないケースで、サイト内でも注目されている。坂本を応援する声も少なくない。

 後戻りは出来ないのだ。

 車は進み、やがて高橋の家の前で停まった。

「……なあ高橋」

 車を降りようとする高橋を、坂本が止めた。

「なんだ?」

「できれば、もうこれ以上佐藤の話は聞かないでほしい。俺達の間で、相手が裏切っているかもしれないっていう気持ちを持ちたくない。命取りになるからな。アイツはそういう他人の心を誘導させるのが上手いからな」

「あ、ああ。解った」

「頼んだぞ」

 坂本はその言葉を残して帰っていった。

「…………」

 確かに坂本の言うことは正しい。今この状態で坂本とわずかでも関係に歪みを持つことは避けた方が良い。あってはならないが、最悪唯一の仲間になるかもしれないのだ。ここで仲違いをするわけにはいかない。

 高橋は内に秘める様々な疑問を、ひとまず心の中に留めておくことにした。

 自分が黙っていれば上手く回る。ここで坂本と喧嘩するわけにはいかないのだ。

 それでも、この戦闘が本当に仇討ちだけなのか。その疑問が高橋の心に留まり続けた。

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