第五章

第13話

 その公園は街灯らしきものは何一つ存在しない。いや、その残骸らしきものは点在しているがそのどれもボロボロに朽ち果て、辺りを照らすというただ一つの機能を果たしていない。曇天の空からは月明かりもほとんど届かず、辺りは闇に包まれていた。

 その公園が一般的には使われていないことは入ればすぐに解る。遊歩道のレンガは所々剥げて歩行を困難にしているし、遊歩道の回りの木も腐っているか途中で折れて横倒しになっている。点在するベンチや中央にあるアスレチック器具も、破壊されて使い物にならない状態である。しかし管理がなされていないかというとそうではなく、どちらかというと管理された廃墟という印象を受ける。

 公園の中央へと続く遊歩道の脇の木の下で、息を殺しながら身を伏せる人影がある。高橋である。彼は闇に紛れながら暗視スコープ越しに遊歩道を見つめていた。その手にはバールのようなものが握られている。

 高橋の呼吸は安定している。興奮や不安は感じられない。ただジッと先にある遊歩道を見つめていた。

 しばらくそのまま身を潜めていると、遊歩道を歩く人影が見えた。彼はナイフを構えながら、注意深く遊歩道を進んでいた。本日の戦闘相手、鈴木の見えない共闘である。

 男は中央のアスレチック広場に向かおうとしているのだろう。そこでは佐藤がいると思われる。彼は彼なりに勝てる策を持っているのだろう。表情は硬いが、その顔は自信に満ち溢れていた。

 男が次第に近づいてくる。男はまだ高橋には気づいていないようである。高橋の潜む木を横切るように遊歩道を進んでいた。

 高橋はしばらくそのままやり過ごし、後姿が見えるようになったところで駆け出した。

 男が高橋に気付く。驚きで声を挙げそうになっているところで高橋は男の脚めがけてバールを振り下ろした。

 鈍い音が辺りに響く。男は高橋の一撃をまともに喰らい、体勢を崩していた。

 と、高橋の視界に人影がよぎった。加奈子である。彼女は一瞬で男との間合いを詰め、腰に吊ったナイフを抜き、彼の胸に一突きするとすぐにその場から離れ、高橋のすぐ横まで来た。

 全ては一瞬の内に終わった。男はゆっくりと前のめりに崩れ落ちる。その光景を、加奈子は冷めた表情で見つめていた。

 男が完全に崩れ落ち、動かなくなったところで加奈子は男に近づいた。脈拍を調べ、完全に絶命していることを確認したところでそっとナイフを腰に戻した。

 そんな光景を高橋は呆然と眺めていた。相変わらず彼女の動きには無駄がない。最短距離で相手に近づき、ためらいもなく一撃で相手を殺す。その姿はとても同じ人間だとは思えない。別の生き物、人を殺すために製造されたマシンのようだった。

「……さ、行きましょう」

「あ、ああ」

 加奈子にうながされ、高橋は彼女の後をついて行った。加奈子の向かう先はアスレチック広場。佐藤が戦闘を行っているであろう場所だった。

「あ、加奈子、高橋主任」

 アスレチック広場ではすでに佐藤の戦闘は終わっていた。彼の足下に死体が転がっている。恐らく対戦相手の鈴木だろう。いつものように絞殺で片付けたのだろう。一滴の血も流れていない。

「では、終戦の手続きをしますか」

 佐藤はそう言って腰を叩きながら動き出した。現在午前〇時一〇分。ほんの一〇分の戦闘であった。

 佐藤の戦闘に参加するのは、これで四度目だった。季節は巡り、いつの間にか秋になっていた。思い返せば葛西の手紙を発見してからちょうど一年が経過していた。

 高橋は主に加奈子の補佐を行っている。高橋が相手を崩し、加奈子が討つ。四度目にしてようやく息が合ってきた。

 戦闘にも少しずつ慣れてきた。死体を見るぐらいでは高橋も何とも思わなくなってきた。それが良いことなのかどうか、高橋も解りかねているが。

 本来なら、もっと今日起こった死について重く考えるべきなのだ。今日目の前で死んだ男にも友達がいて、今日彼の人生が絶たれた事で彼のみならず多くの人の人生が変わったはずなのだ。それについて深く掘り下げ、己の行っていることについて疑問に思わなければならない。少なくとも初戦で渡辺と闘った時の高橋ならばそう考えていたはずである。

 しかし、今は相手の名前すら知らない。「鈴木の見えない共闘」という認識しかない。

 戦闘を重ねるごとに高橋の心の大切な何かが削げ落ちているような気がした。少しずつ麻痺していって、そのうちに人を殺しても何とも思わなくなるのだろうか。

「それ、使い心地はどうですか?」

 急に声をかけられ、高橋は身を揺らした。

 声の主は佐藤であった。彼はいつも通りの涼しい顔で高橋が手にしているバールを指差してきた。

 それは佐藤から借りたものだった。高橋に与えられた役割は、相手の体勢を崩すこと。バールは相手の足を引っ掛けるのにちょうど良いらしい。二回目の戦闘から使用している。

「ええ。やっと手に馴染んできました」

「まあ、いきなり刃物は抵抗あると思いますので、こういう武器から慣れていくのはいいと思いますよ」

「はあ……」

 高橋は曖昧な言葉を返した。自分が慣れた手つきでナイフを扱う姿は想像できない。しかし現にこうして人が死んでいる所を見ても何とも思わなくなった。段々麻痺していって、殺すことにも抵抗が無くなるのだろうか。高橋はそれ以上深くは考えないことにした。

 高橋はバールを佐藤に返し、帰り支度を始めた。ふと高橋は加奈子に目を向けた。彼女は冷めた表情でナイフの手入れをしている。彼女は今、何を考えているのだろうか。そう高橋は心の中に浮かんだが、口には出さずに帰る準備を始めた。


 高橋は加奈子の軽自動車に乗り込んだ。彼女の運転で軽自動車はゆっくりと発進した。

 最近は加奈子の車で戦場の行き来をしている。運転は主に彼女が行い、高橋は助手席に座っているのみである。最初は一応年上で男性ということもあり運転を代わろうかと申し出たが、彼女には無表情で断られた。戦闘に集中してほしい。運転などという余計な事で神経を使って欲しくないようだった。

「今日はお疲れ様でした。少しずつですが動きが良くなってきましたね」

 彼女は前を向きながら、抑揚のない声でそう言った。彼女はお世辞を言わない。純粋にそう思っているのだろう。高橋は少し嬉しく感じた。

「ありがとう」

「でも、もう少し改善の余地はあると思います。例えば……」

 加奈子は同じトーンで先ほどの戦闘の反省すべき所を述べていった。彼女の指摘部分は非常に細かい。高橋のほんのわずかな動きも冷静に見ていて、どこが悪いのかを解りやすく指摘する。今回は飛び出す時のタイミングがほんの少し遅かったらしい。高橋は素直にうなずいた。

「細かいことのようですが、命に関わることですのでご了承ください」

 加奈子はそんな言葉で話を終える。その後彼女は一言もしゃべらない。いつも通りだった。行きはその日の戦闘の作戦に関する事、帰りは戦闘の反省点について。それだけ話したら彼女は黙ってしまう。それ以外の事で彼女から話を切り出すことはない。

「…………」

 高橋も黙って外を流れる風景を眺めていた。季節は秋。ようやく涼しくなった夜の秋空は、いつまで経っても夜が明けない。何となく、その空の色が高橋の心情を表しているようで、無言で車の窓越しに見上げていた。

 そのまま二人は無言のまま夜の街を走ってゆく。しばらくすると高橋のなじみのある街並みが見えてきた。

 高橋は再び空を見上げた。未だに夜は明けていない。もしかしたら一生このまま夜が明けないのかもしれない。一瞬そんな事が頭を過ぎったが、すぐに気分を入れ替えた。我ながら馬鹿らしい。高橋はダッシュボードのデジタル時計に目を向けた。まだ午前三時である。まだまだ夜明けには早い時間である。ただそれだけだ。

 やがて加奈子の運転する車は高橋のアパートの近くまで来た。そこまで二人は一時間以上無言のまま過ごしていた。

「……着きました」

 高橋のアパートから歩いて五分の所にある小さな路地で加奈子は車を停めた。人気の少ない工場地帯の路地。人目のつきにくいそこは、戦闘の終点はいつもここだった。

「ありがとう。いつも悪いね」

「いえ、これも含めて私の役割ですので」

 加奈子は前を向きながらそう言う。その表情は、いつものようになにも表していなかった。

「あの」

 高橋が車を降りようとノブに手を掛けた時、加奈子は小さく声を挙げた。

「なに?」

「高橋さんは、なぜ『これ』をやっているんですか?」

 加奈子の顔は相変わらずの無表情である。しかし今は高橋の顔を正面から見据えている。高橋は反射的にその視線から目をそらした。

 『これ』はもちろん戦闘の補佐のことを指しているのだろう。なぜ高橋は殺しの手伝いをしているのか。そういえば特に明確な理由を述べずに、ただなし崩し的にここまで来ているような気がした。

「……葛西がなんで佐藤さんと闘うことになったのかがどうしても気になってね。ほら、あの時教えてくれなかったやつ」

 最初の戦闘の補佐をした時、高橋は加奈子にその質問をした。葛西と明日美はなぜ佐藤と闘ったのか。彼女の答えは、「言いたくない」だったのだ。

「……そのためにこんな事をしていたんですか?」

 加奈子は呆れたたようにため息をついた。

「もちろんそれだけじゃないよ。どう言ったらいいかな。ともかく、今は行動したかったんだ。意味があるかどうか解らないことでもね。頭だけじゃなにも解らないからね」

 葛西の事はまだ解らないことが多い。それだけでなく坂本も、本当に仇討ちだけのために行動しているのか解らなくなってきた。これらの疑問はいくら己の脳細胞をフル動員したとしても、解消できるものではない。当然である。真実は自分の中にはないのだから。

 ならば、意味があるかは解らないが、出来るところから行動してみようと思った。その行動がこの戦闘の補佐だった。

「悪くない傾向ですね。でも、それだけじゃないですよね?」

 加奈子は冷えた目で高橋を見据えている。全てを見透かされているような気がした。

「……あと、やっぱり君の協力が欲しい。どう考えても君のお父さんに俺と坂本で挑んでも勝てる気がしないからね」

 加奈子は高橋を「弱いから組めない」と言っていたのだ。だからこそこうして戦闘を重ねて自身を鍛えているのだ。

「まあ、私の裏切りがあれば大分有利ですからね」

「うん。まあそうなんだけど、一応それだけじゃないんだけどね」

「それだけじゃない、とは?」

「どうも引っかかっている事があってね。あいつの遺言に君の事が書いてあったけど、ただ有利になるからって、それだけの理由であいつが書くとも思えないんだよね。加奈子さんにとってはいい迷惑だからさ。だから他になにか理由があるんじゃないかなってね」

 高橋の言葉に加奈子は一瞬だけ表情を曇らせた。しかし辺りはまだ暗く、高橋はその表情の変化には気づかなかった。

 一瞬だけ沈黙があった。加奈子は言葉を返さない。会話は終わったのか。高橋がそう思ってドアのノブに手を掛けたその時。

「一応言っておきますが、今のままこれを続けたとしても私の気持ちは変わりません。高橋さん達に味方する気もありませんし、葛西さん達についてこれ以上語るつもりもありません。今のままでは、です」

「…………」

 険のある口調だったが、悪い気はしなかった。「今のままでは」が強調されているのだ。

「……じゃあ、どうすればいいの?」

「自分で考えてください……と言いたい所ですが、それでは高橋さんは一生掛かっても答えが出そうにないので、条件をつけます」

 加奈子はそこで言葉を止め、高橋を見据えた。

「一つは足手まといにならないように強くなってください。前よりも大分ましになりましたが、まだ高橋さんは実力不足です。一緒に組むためにはそれなりに実力をつけてください」

「……解った。何とかするよ」

「それからもう一つ。確か高橋さん達が私に協力を依頼した理由は、葛西さんの遺言に書いてあったからだとおっしゃっていましたね?」

 急にそう言われ高橋は戸惑いを感じたが、黙ってうなずいた。

「では、葛西さんはなぜ私に協力を依頼したと思いますか?」

「……え?」

「高橋さんが葛西さんの想いを理解して、葛西さんと同じ内容で共闘を依頼したら、私も協力を考えます。葛西さんには借りがありますので」

「葛西の想い……」

 高橋は加奈子の言葉を反芻するようにつぶやいた。葛西の手紙にはそこまでは書かれていなかった。あくまで「加奈子と協力して佐藤を殺してくれ」とだけだった。そんな状態で、果たして葛西がどんな想いで加奈子に協力を求めていたのかなど解るのだろうか。

 なぜ佐藤に戦闘を挑んだのかすら解っていないのに。

 いや。高橋は一つだけ気付いたことがあった。

「……それは、葛西が佐藤さんに戦闘を申し込んだ理由に関連しているの?」

 なんとなくだが、その二つが関連しているように思えた。葛西は何か特別な理由があって佐藤と戦闘を行うことになり、加奈子はその考えに賛同して葛西に協力したのではないか。

「…………」

 しかし加奈子はその問いに答えずに高橋を車から降ろすと、そのまま車を走らせていった。


 加奈子が協力してくれる。その事実は高橋にとって大きな前進だった。加奈子さえ仲間になれば。それはこの数ヶ月高橋が常に考えていたことである。加奈子の協力さえあれば佐藤に打ち勝つことが出来るかもしれない。なにより葛西の作戦なのだ。彼がそれでうまくいくと考えたのだからうまくいくのだ。

 しかし彼女の出した条件は、葛西と同じ内容で共闘を依頼すること。葛西が何を考えて闘い、なぜ佐藤に戦闘を仕掛けたのか。それを理解しなければならない。

 それは葛西の手紙を見つけてからずっと考えているが、答えが見つからないことである。

 当時の葛西の気持ちを示すものはなにもない。唯一の手がかりである葛西の手紙には、彼の想いは一切書かれていなかった。高橋は手がかりがない状態で彼の気持ちを察しなければならないのだ。

 せめて当時の葛西と接していたら。当時の人を殺していた葛西と接していたら、何かしら感じることがあるのかもしれない。しかし高橋は当時の葛西を知らない。高橋の中の葛西は、いつも穏やかに笑っている。いくら考えても殺しをしている葛西が想像できなかった。

 高橋は仕方なく坂本に「なぜ葛西が佐藤に戦闘を申し込んだのか」を訊いてみた。坂本も解らないのだろうが、彼は当時の葛西を知っている。高橋一人で悩むよりも効率がよいかと思ったのだ。

 当然のことながら回答は「解らない」だった。だが、その後に「少し調べてみる」と付け加えてあった。

 ともかく、なぜ葛西が佐藤に戦闘を申し込んだのか。高橋も自分なりに答えを出さなければならない。高橋は昼夜問わずに考え続けた。

 しかしこの問題は悩めば答えが出るものではない。悩んで答えが出るものなら、もうとっくに答えは出ている。とはいえ、今の高橋には考えることしか出来ない。無駄な事だと解っていても、高橋は考えることを止められなかった。

 やがて仕事中も考え込むようになる。以前と同じである。その日もつい思考にふけってしまっていた。

「……主任、高橋主任」

 考え込んでいる最中に急にそんな声が聞こえ、高橋は身体を大きく揺らした。顔を上げると佐藤が怪訝そうな顔で覗き込んでいた。

「えっと、頼まれた作業が終わったんで確認してほしいんですが」

 佐藤は頭を掻きながら、今朝依頼した文書をプリントアウトした書類を差し出してきた。

「え、あ、はい」

 見渡すと皆静かに仕事をしている。高橋は慌てて書類を受け取ると、誤字脱字などのチェックを行った。

「……どうでしょうか?」

 佐藤は恐る恐るという口調で訊いてくる。これは一回目のチェックだが、軽く見た限りでも誤字は二個位しか見当たらない。以前の何度チェックしても誤字が減らなかった頃に比べると見違えるようである。

 これは高橋が行った対策がうまくいったようである。先日より提出する前に一度印刷して、内容を自身で確認してから提出するようにとお願いするようにした。仕事が出来ないというのは彼なりのブラフだが、誤字を内在させるのは恐らく「ディスプレイ上では見づらいから」という設定で行っているのではないかと気付いたのである。となると、その設定に対して「印刷して確認する」という策を施したらどうなるか。高橋の予感は的中して、それ以来誤字は驚くほど減るようになった。

「佐藤さん惜しいですね。こことここ、誤字ですね」

 高橋がそう言うと、佐藤は悔しそうに額を叩いた。彼としたら結果が解っていることである。これも彼なりのブラフなのだろう。

「二つですか。あちゃー、惜しいですね」

「あともう少しでパーフェクトいけますね。では直したら持ってきてください。次の作業用意しますので」

「はい。すぐ直してきます!」

 佐藤はそう言って隣の席に腰を下ろした。その口調は幾分嬉しそうであった。

「あ、あと高橋主任。これも確認お願いします」

 そう言いながら、佐藤は一枚のメモ紙を差し出してきた。


 あまり考えすぎない方がいいですよ?


 メモ紙には小さくそう書かれていた。見ると佐藤は一瞬だけ戦場で見せる顔をして、すぐに元の顔に戻していた。

「……わかりました」

 高橋は小さく頭を下げ、席を立った。フロアの中央にあるシュレッダーまで移動すると。そのメモ紙を投げ入れた。紙は鈍い音をしながらシュレッダーの中へと吸い込まれてゆく。これで佐藤の指摘の証拠は隠滅された。そのメモ紙の内容は普段の佐藤の性格とは一致しない。他のメンバーに見られる前に処理しなければならないのだ。

 シュレッダーの刃が止まるのを確認すると、高橋は自席へと戻った。

 それにしても、この人はどこまで自分の心を読んでいるのだろうか。高橋はそう考えながら小さくため息をついた。


 昼になり、いつものように若林達グループメンバーと昼食を食べに出かけていると、携帯電話にメールが着信した。

 こんな時間に誰かと思い携帯電話を開くと、坂本からだった。


 アイツが六、七年くらい前にどこにいたのかを調べてくれ。もちろん本人に訊くのはなしな。

 答えが解ったら主語を削って場所だけメールしてくれ。

 頼むな。


 坂本のメールに、高橋は眉をひそめた。「アイツ」とは佐藤の事だろう。それは間違いない。しかし彼が「六、七年くらい前」にどこにいたのかを調べて、何になるのだろうか。坂本はなにか情報を掴んだのだろうか。

 高橋はそんな疑問が次々と湧いてきたが、ひとまず考えないことにした。まず「六、七年くらい前」に佐藤がどこにいたのかである。確かに六、七年前に佐藤がどこにいたのかは高橋も解らない。彼が高橋のグループに入ってきたのは確か五年ほど前である。葛西がこちらに戻ってきた時期と時期が似ていた気がする。それより前に彼がどこにいたのかは、高橋は興味がなかったし知らなかった。

 となると、佐々木マネージャーにでも訊いてみようか。高橋はそう考えて坂本に「解った」と返信した。

「高橋さん、彼女からですか?」

 隣の席で焼き魚定食を食べていた若林が、笑いながらそう茶化してきた。

「いいですね。ラブラブですねー」

「……残念ながら友達からだよ」

「女の子ですか?」

「マッチョな男の子」

 高橋の言葉に若林は「なんだー」と残念そうな声を挙げた。

「おいおい。いいのか若林君。確か君彼女いたじゃないか」

「いや、それがですね……」

 若林は一瞬真顔になって声をひそめてきた。それまでの茶化した感じとは違う。何か真剣な打ち明け話でもあるのだろう。高橋も表情を戻し、「どうした?」と悩みを訊く体勢になった。しかし。

「なんだ若林、彼女と別れるのか?」

 二人の会話を耳にしていた他のメンバーが茶化すようにそう囃し立ててきた。

「まさかー、そんなわけないじゃないっすか。ラブラブですよー」

 若林は笑顔に切り替え、そう返していた。あまり大勢には聞かれたくない悩みなのだろう。高橋はそう察して場の話題をそれとなく切り替えた。

 午後になり、高橋は仕事の話にかこつけて、佐々木に佐藤について訊いてみることにした。

「佐々木マネージャー、ちょっとよろしいでしょうか」

 高橋はノートパソコンを片手に佐々木の席へと歩み寄った。

「ん? どうした?」

「ちょっと話があるのですが、よろしいでしょうか」

「ああ、ちょっと待ってな……」

 佐々木は今行っていた作業を手早く済ませ、席を立った。フロア奥にあるミーティングコーナーへと足を向けた。念のため、佐藤に聞かれないようにするためである。

「あの、この件なんですが……」

 高橋はまず本題とは関係ない仕事の話を切り出した。その内容は大した話ではなく、わざわざ別室で行うような話でもない。それでも佐々木は親身に話を聞いてくれて、高橋は少し悪い気がした。

「……あ、ところで佐々木マネージャー」

 一通り仕事の話が終わると、高橋は思い出したように声をあげた。

「そういえば佐藤さんって五年くらい前にこっち来ましたよね?」

「えーっと、そうだっけ?」

 佐々木は頭を掻きながら首を傾げていた。見る限りとぼけているわけではなさそうだ。本当に記憶から抜けているのだろう。

「ええ。確か僕が入社した時には佐藤さんいなかった気がするんですけど」

「ああ、そういやそうだったな。思い出した。それで、それがどうした?」

「ええ。それで教えてほしいんですが、佐藤さんはここに来る前はどこで働いていたんですか?」

「東京の本社だよ。その時は普通に仕事出来ていたんだよな」

 最後は独り言のようにつぶやいた。余計な一言だったと気付いたのだろう。佐々木は咳払いを一つして、「今のは忘れてくれ」と苦笑いをした。

 東京。坂本からの依頼はあっさりとクリアした。しかし事情を一切聞いていない高橋は、その答えがどんな意味を持つのかさっぱり解らず、手応えも何も感じられなかった。

 ともかく、この結果を坂本に送るのだ。彼だって意味も無くこんな事を依頼してくるはずがない。この結果でなにかしら動きがあるはずなのだ。

 高橋はできる限り平静を装いながら、佐々木と別れた。ひとまずパソコンを置きに自席へと戻る。

「あ、高橋主任、おかえりなさい」

 佐藤にそう言われ、高橋は身体を揺らした。何となく、佐藤には全て見破られているような気がして動揺した。

「……どうかしました?」

「いえ、ちょっとトイレ行ってきます」

 高橋はパソコンを机に置いて、手早くそう言うとフロアを後にした。

 誰もいない廊下に出ると、高橋は小さく息を吐いた。落ち着け。例え前に所属していた場所を佐々木に訊いたからといって、それが直接どう関わるのかは高橋にも解らないのだ。そこからどうつながるのかなど、佐藤に解るはずがない。高橋はそう自分に言い聞かせながら廊下を歩いた。トイレに行き、個室に入ると胸ポケットに入れた携帯電話を取り出した。坂本に「東京」とだけメールしてすぐにフロアに戻った。

 坂本からの返信はすぐに返ってきた。


 今夜 メッセージ


 メールにはそれだけ書かれていた。今夜メッセージを送るからサイトにアクセスするように、との事なのだろう。やはり先ほどの答えには大きな意味があったのだ。高橋は期待に胸が躍りながらも隣の佐藤に気付かれないように平静を装った。

「高橋主任、修正終わりました」

 そんな高橋の心の動きに気付いているのかどうなのか、佐藤はそんなのんきな声を挙げていた。


 夜になりサイトに接続すると、宣言通り坂本からメッセージが届いていた。


 皆川明日美について解ったことがある。近いうちに会いたい。


 どういうことだろうか。高橋はそのメッセージの真意が解らなかった。坂本が訊いたのは、佐藤が六年ほど前にどこにいたのか、である。それと皆川明日美とがどう関わってくるのだろうか。

 高橋はそう疑問に思ったが、少なくとも先日坂本に送った「なぜ葛西が佐藤に戦闘を申し込んだのか」に関連することであることは間違いない。高橋は大きく期待を持ちながら二日後の夜に坂本と会って話をすることで調整した。場所はいつもの坂本のマンション近くのカラオケ店である。

 翌日は遅くまで仕事をして帳尻を合わせ、二日後は定時で仕事を終わらせた。カラオケ店に行くと既に坂本の姿があった。

「よう、遅えぞ!」

 坂本は既にビールを胃に流し込んでた。高橋は定時後すぐに来たのだ。しかしテーブルのビールは既に空になりかけている。一体いつからここにいるのだろうか。高橋は疑問に思ったが気にしないことにした。いつもの事である。坂本は基本的に待ち合わせに遅れてくるが、仕事と飲み会だけは誰よりも早く来るのだ。

「久しぶりだな。元気してたか?」

 坂本は高橋が席つくなり笑顔で背中を叩いてくる。相変わらず加減の知らない男である。高橋は痛みに顔を歪ませた。

「……お前は相変わらずだな」

「ハハッ。あったりめえじゃねえか。それよりほら、早く本題に入りたいから何か飲み物頼めよ」

「ああ……」

 坂本のいつも通りの強引な姿勢に圧倒されながらも、彼の言う通りインタホンで飲み物を頼んだ。今日は余り飲む気がしない。ウーロン茶を頼んだ。それに併せて坂本も生ビールを注文する。

「それにしても久しぶりだな。二ヶ月ぶりくらいか?」

 坂本は指折り数えながらそう言った。早く本題に入りたい所だが、坂本は随分とゆったりしている。もったいぶっているのかとも思ったが、坂本は高橋の事情を知らないのだ。葛西が佐藤に戦闘を申し込んだ動機に、どれほど重大な意味があるのかを知らないのだから。高橋ははやる気持ちを抑えながら、坂本の会話に合わせることにした。

「二ヶ月か。もうそんなになるのか」

「ああ。ところでそっちはなにか変わったことはあったか?」

「…………」

 高橋は一瞬言葉に詰まってしまった。変わったことは、ある。四ヶ月前から佐藤の戦闘の補佐を行っており、加奈子とも少しずつだが距離を縮めている。そして今月ようやく共闘出来るかもしれない条件が出てきた。着実に一歩ずつ先に進んでいる。しかしそれを坂本に言うことが出来ずにいた。

 何となく今坂本に言うと、佐藤との縁を切られるだろうと思っていた。まず、仇と一緒に戦闘を行っているということに強い拒否反応を起こすだろう。そして喧嘩別れとなった加奈子と組むという考えにも同意しないだろう。坂本は実利よりも感情で動く男だ。いくら自分が有利となることだとしても、坂本が容認するとは思えない。今坂本に伝えるのは早いような気がしたのである。

「……なにもないな」

 高橋はそう言いながら首を振った。

「……そっか」

 坂本は一瞬表情を落としたが、すぐに気を取り直し、ビールを傾けていた。

 しばらく待つと高橋のウーロン茶が届いた。店員がいる間坂本は歌うフリをして、完全に退席するのを見計らって口を開いた。

「……とりあえず、こないだは急な頼みで悪かったな」

「いや、いいけど、あれで何か解ったのか?」

 坂本は高橋の言葉にニヤリと笑って返した。

「まあ、お前に訊かれる前から色々動いていたんだけどな。東京に単身赴任している時に知り合ったダチでな、記者のまねごとやってるヤツがいるんだ。ま、別にそれで喰ってる訳じゃなくて、ネットで趣味としてやってるだけなんだけどな。ともかくそいつに大分前から調べてもらってたんだよな」

「……皆川明日美を、か?」

「ああ。関東近辺で、六、七年位前に行方不明になっている『皆川明日美』っていう名前の女って事で。もちろん細かいことは適当にごまかしてな。まあ大して期待もしていなかったし全然音沙汰無かったから訊いてたこと自体忘れていたんだけどな。そいつからこないだ連絡があったんだよ。素性が解ったってな」

 坂本はそこで言葉を止めて、鞄からクリアケースを取り出した。中には数枚の紙の束が入っている。その紙の束を取り出し、高橋に手渡した。

 「皆川明日美 調査レポート」と表紙に書かれたその書類は、坂本が言っていた記者もどきが作ったものなのだろう。体裁が妙に凝られている。

 二枚目以降に彼女の情報が記されている。高橋達よりも二歳年上らしい。出身地から始まり、彼女がそれまで歩んできた経歴が大まかに記されている。特にそれを読んでも思うべき所は何もない。正直な所なぜこの情報をここまでもったいぶって見せるのか、よく解らなかった。

 しかし経歴が大学を卒業し、東京の派遣会社に入社した後に派遣された会社の所で目が止まった。

「……え?」

 高橋は目を疑った。明日美が派遣社員として派遣された先。それは高橋の会社の東京本社だった。

「意味が解ったか?」

 坂本が小さく笑った。坂本が依頼した事を思い出した。佐藤が六、七年前にどこにいたのか。佐藤はその時期に東京にいた。つまり明日美と佐藤は同じ建物で働いていたのだ。

「佐藤と皆川は当時同じ建屋で働いていた。しかも当時の友人の話だと、この頃の皆川は派遣先の社員との不倫で悩んでいたらしい。間違いなく佐藤とだな」

「……なんでそう言いきれる?」

「加奈子と皆川は知り合いだったんだろ? でも加奈子はサイト内ではほとんど活動していないからな。交流があるとしたら実社会でだろ。でも加奈子と皆川じゃ年齢も住む所も違いすぎる。まず普通の生活で仲良くなることはありえない。となると、佐藤と皆川が深い仲だったんだろ」

「なるほどな……」

 確かに坂本の仮説はとてもしっくりくる。あの佐藤が不倫をしていたという所は想像出来ないが、加奈子と明日美が「友達」だという部分の理由付けとしたら、佐藤と深い仲にあったと考えるのが自然だろう。

 でも、そうなると、一つ考えたくはない仮設が成り立つことになる。

「で、ここからお前の疑問である『葛西がなんで佐藤と闘ったのか』だけど、葛西は佐藤に恨みを持っていたんだろうな」

 坂本は高橋が考えていた内容と全く同じ事をつぶやいた。

「俺は皆川と葛西が付き合っていたんじゃないかと思うんだ。遺言に書く位だしな。多分佐藤と不倫していたっていう事実を知って恨んでいたんだろうな」

「…………」

 もし佐藤と明日美が不倫関係にあったとしたら。そして葛西がその事実を知ったとしたら。もしかしたら葛西も特別な感情を佐藤に抱くかもしれない。

 恐らく最初の戦闘は明日美と佐藤の関係を清算させるという意味で行ったのではないか。明日美と葛西のどちらが主体となったのかは解らないが、佐藤を殺すことで二人の新たな道を進もうとした。しかし結果は明日美が命を落とすことになる。それに失意を抱き一時は地元に帰ってきてゆっくりしていたが、再び佐藤を思うようになる。その感情は憎しみだ。愛する人を殺された憎しみ。そして坂本と共に佐藤を討とうとして、自身も命を落とした。

 こう考えると全ての行動に説明がつく。とても自然で矛盾するところはなにもない。

 しかし、それが正しいとは高橋は思えなかった。強い違和感を感じる。葛西は本当にそのような下世話な理由で人を殺そうと思うのだろうか。例えば彼女に「不倫相手が忘れられないから一緒に殺してほしい」と言われたとして、同意するだろうか。

 そしてそんな理由で加奈子が協力するはずがないし、もしそれが理由だとしたら、共闘の条件にするはずがない。

 なにか他に理由があるはずだ。なにか……。

 高橋のそんな思考を、坂本は手を大きく叩いて遮った。

「まあ、ひとまずそんな感じかな。またなんか解ったら連絡するわ」

 坂本は手早くそう言うと、テーブルの上を整理しだした。少し前から時間を気にしていた。恐らく家庭で何か約束でもあるのだろう。会合は終わりということだ。

「あ、ちょっと待った」

 すでに帰り支度をしだした坂本を、高橋は引き留めた。一つ、訊いておかなければならないことがある。

「どうした?」

「もう一度、加奈子さんを仲間に入れるかを検討してみないか?」

「…………」

 高橋の急な申し出に、坂本は露骨に嫌な顔をした。ある程度覚悟はしていたが、坂本は予想以上にあの日の加奈子とのやりとりを気にしているようだった。

「あんなヤツは関係ねえよ。俺達二人でやる」

「でも、実際問題として、俺達二人じゃ佐藤さんは倒せない……」

「うるせえな。それでもやるんだよ!」

 坂本は言葉を遮り強い口調でそう言うと、そのまま怒って帰ってしまった。

「…………」

 一人取り残された高橋は、深く溜息をついた。

 加奈子を仲間に引き入れたとして、坂本がこの調子では意味が無い。

 どうすれば良いのか。高橋はいくら考えても明確な答えは思いつかなかった。

 その翌週、その月の対戦カードが決定した。相変わらず佐藤は特別対戦、坂本は今月も対戦から外れてしまった。


 対戦カードが決定した翌週、急遽佐藤が会合を開こうと申し出てきた。戦闘前に会合を開くのは、最初の見学の時以来である。高橋が戦闘の補佐を行ってからは一度もなかったので、今回は何か今までと違う何かがあるようである。

 会合は駅前のカラオケ店で行われる。高橋は仕事終わりに佐藤とは別行動でそのカラオケ店に向かった。

 秘密の会合を行うときは皆示し合わせたようにカラオケ店を使用する。確か坂本が言っていたか。カラオケ店は密会に一番適していると。複数人で長時間部屋を占有しても怪しまれることはないし、店員さえ気をつけていれば中の会話を聞かれることもない。

「……すみませんね。こういった話し合いは呑み屋でお酒でも呑みながら行うべきなのでしょうが、この取り合わせでは少々浮きますので」

 店の前で合流した佐藤は、高橋の姿を見るなりそう詫びてきた。最初佐藤の言っている意味が解らなかったが、部屋に入ると納得した。

 部屋の隅に加奈子が相変わらずの無表情で背筋を伸ばして座っていたのだ。確かにこの三人で飲み屋に行くのは自然ではない。

「さて、じゃあ早速始めましょうか。まあ、今回は高橋主任の意志を確認したいだけですので、すぐ終わりますよ……ああ、別にそんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。ただ、今回の相手は少し特殊でして、リスクが含んでいるのでそれでもやるかどうかを確認したいだけですよ」

 高橋は無意識のうちに警戒した顔をしてしまったのだろう。佐藤は慌ててそう言い直すと、加奈子の向かいに座るように促した。

「今回の対戦カードは確認されました?」

「ええ、一応」

 確か斉藤という男だったような気がする。

「今回は見えない共闘が一人付く事が予想されます。なので加奈子と高橋主任にその人の始末をお願いします。まあここまではいつも通りなのですが、問題はこの後です。どうも相手は拳銃を所持しているようなんです」

「……拳銃?」

 その単語に高橋の表情が曇った。今までの相手はナイフを武器として所持していた。ナイフは距離さえ取れば安全であった。しかし拳銃は離れていても関係ない。引き金を引くというごく簡単な動作で致命傷を負う可能性がある。ほんのわずかなミスが死に直結するのだ。

 高橋は身震いを感じたが、何とか平静を装う事が出来た。 

「……なんで相手が拳銃持ってるって解るのですか?」

「先日、対戦相手の斉藤が大阪の暴力団からロシア製の拳銃を二丁、買い付けたとの情報がありました。もちろん本物の銃です。こういう話は大体偽物つかまされるのが関の山なのですが、相手が誠実なやくざだったみたいですね。今回私に戦闘を挑んできたのも、本物が入手できたからだと思います。まあ、拳銃があれば当然有利ですからね」

 佐藤は淡々と言ってきた。その顔には恐怖など微塵も感じられない。加奈子も同様に表情一つ変えない。二人にとっては拳銃など脅威でも何でもないのだろう。

「まあ拳銃さえあれば我々に勝てるなどというのは非常に浅はかですけど、それでも今までより危険であることは確かですので、念のため高橋主任の意志を聞きたいと思います」

 佐藤はそこまで言うと身を乗りだし、高橋を見据えた。

「高橋主任、相手は拳銃を所持していますが、それでもやりますか?」

 急にそう言われ、高橋は一瞬怯んだが、すぐに気持ちを取り直して小さくうなずいた。こんな所で立ち止まっているわけにはいかない。

「今更後戻りも出来ないですからね。やりますよ」

「さすが高橋主任。じゃあその勢いで、今回は殺しをやってみませんか?」

「……は?」

「いえ、いつも加奈子の補佐ばかりで高橋主任もつまらないかなと思いましてね。高橋主任も最近戦闘に慣れてきましたし、そろそろ殺しも体験した方が良いかなと思いましてね」

「…………」

 高橋はしばらく言葉が出なかった。確かに葛西の仇を討つという最終目的のためには殺しに慣れておかなければならない。加奈子も言っていたではないか。『人を殺すことに慣れていないため、直前で怖気づく可能性がある』と。加奈子の協力を得るためには、ここは通らなければならない道なのかもしれない。

 しかし。

「……すみませんが、即答は出来ないです」

 「殺す」という単語に強い拒否反応を感じた。やはりどうしても慣れることが出来ない。所詮今までやってきた事は「補佐」でしかないのだ。いくら目の前で人が死ぬ事に慣れても、そこと「人を殺す」事には大きな隔たりがあるような気がした。

「そうですか」

 佐藤は一瞬失望したように溜息をついて、再び顔を上げた。

「まあ、まだ戦闘までは時間がありますし、ゆっくり考えてみてください。あ、でも出来れば直前は勘弁してください。やるとなったら色々準備もありますので」

 佐藤はそう言い終わる前に立ち上がった。会合は終わりなのだろう。高橋も立ち上がろうとすると佐藤に制された。

「せっかくですので加奈子と少し話をしてみたらどうですか? 戦闘では余り話せていないでしょうし」

 そう言って佐藤は部屋を後にした。そして部屋に残ったのは高橋と加奈子。

「…………」

 加奈子はよそを向いたまま静かに座っている。自分から声を挙げる気は無いようだが、かといって帰る気も無いようだった。

「……あのさ」

 沈黙に耐えかねて、高橋が口を開いた。

「銃とかさ、怖くないの?」

 高橋がそう言うと、加奈子は表情も変えずに「別に」と答えた。

「慣れていますので」

「ここ数ヶ月はいなかったけど、拳銃持ってくる人は結構いるの?」

「結構、というほどいませんが、稀にいますよ。まあ、所詮素人が訓練もなしに拳銃を持っても、危険でも何でもないんですけど」

「……そうなの?」

「ええ。映画の世界じゃないんですから。至近距離じゃない限りまず当たりませんよ」

 彼女はいつも通り淡々と言った。そういうものなのか。もちろんこの親子が言う「大したことない」が本当に大したことないのかは解らないが。

「……多分、前半の話は口実だと思います」

 急にそう言われ、高橋は最初何のことかよく解らなかった。先ほどまでの話に前半後半などあっただろうか。高橋がそう思って首を傾げていると、加奈子は小さく息を漏らして言い直した。

「拳銃云々ということは口実だということです。多分父は、その後に言ったことが本題だと思います」

「その後……」

 高橋は先ほどの会話を思い出した。今回の戦闘の相手が拳銃を持っているため、戦闘の参加をどうするのかと訊いてきた。その後、交わした話は、確か。

「……殺しをしてみたいかって話?」

「ええ。多分」

「でも、なんで?」

「さあ。高橋さんにもっと成長してほしいんじゃないですか?」

「だから、なんで?」

 高橋が再度訊くと、彼女は無表情のまま小さくため息を漏らした。

「私だって父の考えている事を完璧に把握しているわけではありません。知りたければ父に直接訊いてください。それより……」

 加奈子は言葉を切って高橋の方を向いた。

「明日美さんの身辺を探る人物がいたようですが、高橋さん達ですか?」

 彼女は静かに高橋を睨んでいた。先日の坂本との会合を思い出す。坂本の口ぶりから明日美の友人に直接話を聞いているようだった。その中の一人に加奈子とつながりがある人物がいたのだろう。

「明日美さんの友人は、明日美さんがあのようなことをしていたということを知りません。余計な詮索はしないでください」

「……ごめん。もうこれ以上は余計な事はしないようにするよ。ごめん」

「お願いします。あの人の名誉を傷つけたくないので」

 加奈子はそう言って小さく頭を下げた。

 それからしばらく沈黙が続いた。会話は終わったが、彼女はまだ帰ろうとはしない。高橋はしばらく考えた後に「あの……」と声を挙げた。

「さっきの話なんだけどさ、皆川さんの話は本当なの? その……佐藤さんと皆川さんは……」

「ええ。父と明日美さんは不倫関係にありました。娘としては複雑ですが。それがどうかしました?」

「いや……」

 先日坂本と共に至った結論が頭に浮かんだが、口には出さなかった。佐藤と明日美が不倫関係にあったことが原因であるという結論は間違っているに決まっている。言ったところで彼女を呆れさせるだけ、言うだけ無駄である。

「あ、一応言っておきますが、父と明日美さんの件は関係ありませんから」

 完全に高橋の考えは加奈子に読まれていた。

「……解ってるよ。でも、あいつの事を知れば知るほど色んな顔が見えてきてね。どの葛西が本物なのかが解らなくなってきてね」

 高橋はそう言ってため息をついた。考えれば考えるほど解らなくなってくる。葛西はそんな男ではないと思いたいが、次々と嫌な事実が高橋の元へとやってくる。何が正しくて、何が間違っているのか。果たして高橋が見ていた葛西が本当に正しかったのか。それすらも高橋は解らなくなっていた。

「……どの葛西が本当の葛西なんだろうね」

「…………」

 高橋のつぶやきに、加奈子は沈黙で応えた。彼女が何を考えているのかはうかがい知る事が出来ない。無表情のまましばらく沈黙を続けていた。

 ずいぶんと長い沈黙の後、彼女はため息をついて高橋を見据えた。

「葛西さんは一人しかいませんでしたよ?」

「そういうことじゃなくて……」

「確かに葛西さんは一人しかいませんでした。その事を高橋さんが信じないでどうするのですか?」

 加奈子の言葉に、高橋はハッと顔を上げた。彼女は冷たい目で高橋を見据えると、何も言わずに伝票を手にして立ち上がった。この場を閉めるということなのだろう。

「あ、俺が払うよ」

 高橋が慌てて立ち上がって財布を出そうとする所を加奈子が制した。

「いえ、父からここの支払い分のお金をもらっていますので」

 加奈子はそう言うと、有無もいわさずにその場を後にした。

「…………」

 高橋は仕方なくそれに従い、加奈子の後ろについて行った。

 カウンターで支払いを済ませ、店の前で別れる寸前に加奈子はポツリと言った。

「いっそのこと、葛西さんと同じ所まで堕ちたらどうです?」

「……え?」

「人を殺してみれば、解ることもあるかもしれませんよ? 今回はいいチャンスなんじゃないですか?」

 加奈子はその言葉を残して去っていった。

「…………」

 高橋はしばらくその場で呆然と立ち尽くした。

 確かに彼女の言うことには一理ある。安全な場所でいくら考えても答えなど出ないのかもしれない。所詮高橋は殺した「向こう側」の世界はまだ知らないのだ。

 しかし、そんな理由で人を殺してよいものなのか。そんな理由で。

 高橋はそこまで考えて薄く笑った。考えても解らないと解っているのに、つい考えてしまう。それは結局、自分が汚れたくないだけなのではないか。

 ため息を一つついて高橋は家に戻った。


 佐藤が急に殺しを勧めてきた理由については、後になって解った。

 いや、それが本当に理由なのかどうかは解らないが。

 通常対戦の片方が自己都合で戦闘を辞退し、対戦に空きが出来てしまった。その場合ルールでは落選者から空いている対戦相手を埋める事になっているのだが、その結果坂本が選ばれたのである。

 もしかしたら、佐藤はこのことを知っていていたのかもしれない。サイトのその発表を見た高橋はそう思ってしまった。今回の戦闘は坂本にとって三戦目となる。これに勝利すれば坂本も晴れて特別対戦を行う権利を得ることになる。そうなればすぐにでも佐藤と闘うことになる。その前に高橋に殺しを体験させたかったのではないか。

 もちろん真相は解らない。しかしこれだけ古株で運営側とのパイプも持っている佐藤なら、あるいはあり得るのではないか。

 高橋はそこまで考えたが、それ以上は深入りしないようにした。どうせ佐藤に訊いてもはぐらかされるのが簡単に予想されるし、それよりも高橋には優先的に考えなければならない事があるのだ。

 坂本の事である。今回の戦闘で三勝目を挙げれば、すぐに佐藤に戦闘を挑むだろう。しかし高橋の方で動いている事は何一つ先に進んでいない。加奈子は条件さえ満たせば協力してくれると言っているが、その条件である「葛西がなぜ加奈子を共闘に誘ったのか」は、手がかりすらない状態である。今坂本と共に佐藤に戦いを挑んでも、勝ち目はないだろう。その先にあるのは死である。

 このままではいけない。しかしどうすれば良いのか。高橋は相変わらず答えが見つからなかった。

 坂本の三戦目が決まって、早速坂本から会合を開くように連絡があった。ちょうど良かった。高橋も坂本と話がしたかったところである。高橋は何よりも最優先にし、翌日の仕事上がりに会うことにした。場所はいつものカラオケ店である。

「……よう、高橋」

 いつものように坂本は先に部屋でビールを呑んでいた。その表情はいつもよりも明るい。ようやく実現する三戦目に、喜びを隠せないでいるのだろう。無理もない。坂本にとっては待ちに待った三戦目なのだから。

「やっと三戦目だな。本当、待ちくたびれたよ」

 坂本はそう言いながら美味しそうにビールを傾けている。先の事は深く考えていないのだろう。坂本らしい。

「とりあえず、今回はお前はどうする? 今回は無理に参戦する必要はないから、俺一人でやってもいいんだけどさ」

「ああ、まあちょっと考えさせてくれ」

「そうだな。まあ、無理にやることじゃないし、今回の相手は大したことないから、俺一人でも大丈夫だと思う……あ、すみません」

 注文の品を届けにきた店員に、坂本は頭を下げた。店員が注文の品、フライドポテトと生ビールグラスを置いている間、坂本は静かに曲を選び始めた。店員が出ていくまで話を続けるつもりはないらしい。何食わぬ顔でリモコンを操作し、曲を入れた。

 伴奏が室内に流れる。最近テレビでよく流れる曲である。高橋も何となく知ってはいるが、サビ以外を歌える自信はない。それを坂本は難なく歌い始める。店員が去った後も坂本はしばらくの間歌い続け、サビが終わったところで歌うのを止めた。

「さて何の話だっけ? ……ああ次の戦闘は考えさせてほしいだっけ?」

 坂本の言葉に高橋は小さくうなずいた。

「了解。まあ、今回は日付がもう決まっているからな。その予定が合わなきゃ無理にする事もないし、いいよ。それにしてもこれが終われば佐藤と闘えるな。やっとだよ。本当ここまで長かったな」

 坂本はそう言って小さく笑った。少し興奮気味な表情をしている。

「……なあ、坂本。葛西はなんで佐藤さんを殺すように頼んだのかな」

 高橋がそう言うと、坂本は水を差されたように眉を寄せた。

「あ? それはこないだ答えが出ただろ? 佐藤と皆川が不倫していた恨みだろ?」

「本当にそうなのか? あの葛西が……」

「別にもう、どうでもいいじゃん」

 切り捨てるようにそう言う坂本に、高橋は耳を疑った。

「いいわけないだろ? この三戦目が終われば佐藤さんと闘うことになるんだから。ちゃんと葛西の気持ちを汲み取ってやらないと」

 高橋がそう言うと、坂本は困ったように頭を掻いた。

「……そういう難しいことはよく解らん。でもさ、葛西が手紙で頼んでいるんだから、それでいいんじゃないか? 葛西の最後の願いは佐藤を殺すことだった。理由は完全には解らんけどそれを友人として果たす。それじゃダメなのか?」

「……それじゃあダメなんだよ」

「なんでだよ。そう言えばこの前からいやに葛西のことを知りたがっているけど、なにかあるのか?」

 いぶかしそうにそう訊かれて、高橋はどうすべきなのか考えた。これ以上佐藤達とのことを黙っていても意味がない。特に加奈子を仲間にするためには坂本の同意が必要なのだ。いつかは話さなければいけない。今はちょうど良いタイミングかもしれない。

「……どうしたんだよ。急に黙って」

 首を傾げる坂本に、高橋は意を決したように口を開いた。

「あのさ、とりあえず何も言わずに訊いてほしいんだけど……」

 高橋はその言葉を口切りに、今までの経緯をかいつまんで説明した。佐藤からアプローチがあり、戦闘を見学することになったこと。その中で加奈子と一緒に戦闘の補佐を行うことになったこと。そして加奈子へ共闘の打診をしていること。加奈子が「葛西と同じ方法で共闘を誘うこと」を条件に共闘を了解したこと。高橋は出来る限り誤解のないように、あくまで加奈子の協力を得るための行動だったということを繰り返し伝えた。

「……それで、お前は加奈子の力を借りるつもりなのか?」

 前置きを守りそれまで黙っていた坂本は、高橋が言い終わると同時にため息を付きながらそう言った。

「できればな」

「必要ねえよ。俺達は俺達だけで仇討ちをやるんだよ」

 坂本は渋そうに顔を歪めてそう言い放った。予想通りの反応だ。よほど彼女と会ったときのことが忘れられないのだろう。

「俺達だけじゃ勝てないよ。加奈子さんもなんとか仲間に入れないと……」

「うるせえな。とにかく俺達でやるんだよ。だいたい葛西が何考えていたかなんか、どうやって割り出すんだよ」

 その言葉に高橋の表情が曇った。そこはまだどうすべきなのか高橋にも見えていない。痛いところを突かれてしまった。高橋がそんな表情をしていると、坂本はニヤリと笑った。

「加奈子も本気で仲間になろうとは思ってないんじゃないか? だから絶対に答えが出ないような問題を吹っかけてきたんだよ」

「いや、加奈子さんはそんな人じゃない。何かしら手がかりはあるはずだ」

「具体的にどこにあって、いつまでにその手がかりが見つかるんだよ。現実的な話をしろよ」

「だいたい坂本知りたくないのか? 葛西がなんで戦闘していたかとか、佐藤さんを殺すように依頼したのかとか」

「別に。俺は俺の道を突き進むだけだ」

 急に冷えた口調になった坂本に、高橋は一瞬違和感を感じた。なぜか、もうすっかり忘れていた「ぐちゃぐちゃ」を思い出した。佐藤の話では、昔葛西と一緒に戦闘をやっていた頃、その月に戦闘を行う会員にアプローチして見えない共闘を持ちかけていたらしい。坂本は本当に仇討ちだけなのだろうか。もしかしたら。

「……なんだよ」

 高橋の心の動きが表情に出ていたのか、坂本は憮然とした顔でそう言った。

「なにか言いたいことがあったら言えよ」

「……お前、本当に葛西の仇討ちだけが目的なのか?」

「あ? どういうことだよ」

「この前の俺の初戦の時さ、戦闘が終わった後に相手が原型を留めないくらいぐちゃぐちゃになっていたって聞いたんだ。仇討ちだけが目的なら、そんなことする必要はないんじゃないか?」

 高橋の言葉に、坂本の表情が次第に強張っていった。高橋はその表情に少しだけ言ってしまったことに後悔した。やはりこのことは坂本にとって触れてはいけない話だったのだ。

「……もういい」

 しばらく沈黙が続いた後に坂本が低くそう言って高橋を睨んできた。

「佐藤は俺一人で討つ。お前の協力なんていらねえよ」

 坂本はそう言い残して立ち上がると、部屋から出て行ってしまった。

「…………」

 一人取り残された高橋は、ため息を一つして頭を掻いた。

 心がざわついた。今目の前にあるグラスを投げつけて割りたい衝動に駆られたが、高橋は何とか心を落ち着かせた。

 葛西の気持ちも、坂本の気持ちも解らない。どうすればよいのか。

 いっそのこと、葛西さんと同じ所まで堕ちたらどうです?

 加奈子の言葉だった。彼女が高橋が、人を殺していないから気持ちが解らないと言っていた。

 確かにそうなのかもしれない。人を殺してみれば、もしかしたら何か解るのかもしれない。

 高橋はもう一つため息をつき、カラオケ店を後にした。

 家に帰り、午後一0時を過ぎると高橋はサイトにログインし、佐藤にメッセージを送った。


 次回の戦闘、私が見えない共闘を殺したいのですが、よろしいでしょうか?


 佐藤からの返信はその日のうちに届いた。


 解りました。それでは見えない共闘を高橋さんに殺してもらいましょう。そうなると今まで以上に事前打ち合わせが必要になってきます。

 高橋主任は独身だと思いますが、一人暮らしでしたでしょうか?


 そのメッセージに、高橋は若干の疑問を感じたが、ともかく「はい。一人暮らしです」と返した。

 ともかくこれで先に進むことができる。その先に何があるのかは解らないが、留まっているわけにはいかないのだ。

 人を殺すのだ。

 そう思うと不意に身体が震えてきた。

 それが恐怖からなのか、俗に言う「武者震い」なのか、高橋には判別がつかなかった。

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