報告

「広田さん、おはようございます」

 月曜の朝。いつものように、広田さんに挨拶をした。

「永瀬えぇぇーーー……カミさんとケンカしたああぁぁー……」

 振り向いた広田さんは、眼の下にすごいクマを作って俺にすがりついた。


 広田さんは、俺の3年先輩だ。新入社員だった俺に仕事を一から教えてくれ、それ以外の部分でもいろいろ相談に乗ってもらったりしている。身体も懐の大きい、温かいひとだ。


「広田さん、カオすごいですよ……何があったんですか?」

「実はさ……カミさんが一昨日の夜急に泣き出してさ……。『あなたは、もう私を愛していない』って、なんかワケ分かんないこと言うんだよ……。

もう俺、気が動転しちまって。浮気とかも一切してないし、無断で夜遅くまで飲み歩いたりもしてない。なんでそんなこと言うのか思い当たらないから、必死に理由を聞いたんだよ。

そしたら——」

 ここで広田さんは、眼の下を一層青くして、盛大なため息をつく。

「俺、この前韓国に1週間出張だったろ?で、その時の土産をカミさんに買い忘れたんだよ——過密スケジュールだったし、そんなもん仕方ないだろ?

それが、彼女にとっては『昔は私のことを忘れたりしなかった』になっちゃっててさ……。

あんまり些細なことだったから、ちょっと怒鳴っちゃったんだよ。『土産の有無で愛情を量るのかお前は!!』って。

そしたら、こんどはすげー怒っちゃって。昨日も、映画でも観に行こうって約束してたのにさ……部屋から一歩も出てこないんだ……。

なああー永瀬ぇ、どうしたらいいんだあ?」


「……困りましたね……」

 俺は苦笑いしながら、広田さんの背を励ますようにぽんぽんする。

 うーん、その辺ですごく感じちゃうのは、やっぱり女の子だよな……何年カミさんやったって、女性はそういう風に思うものなのだろう。


 俺も、今日ちょっと広田さんに話したいことがあったんだけどな……

「広田さん、今日は俺の話なんか聞けなさそうですよね?ちょっと飲みにでも、と思ったんですけど」

「え?そうなの!?それは逆に有り難いよ!今日はなんかブルーすぎて家帰りたくなかったんだ。よーし飲みだ!今日は遅くなるって連絡しよっと」

 広田さんは急速に眼を輝かせて、早速自宅にLINEを送っていた。



 就業時間を終え、広田さんの行きつけの居酒屋へ向かった。仕事を終えた後の生ジョッキほどサラリーマンを生き返らせるものはない。


「で?今日はどうした?」

 広田さんはビールが運ばれると一気に半分近くまで勢い良く飲み、俺に聞く。

「実は……先輩、あんまり驚かないで聞いてくださいね?」

「……何だよ?」

 広田さんはちょっと改まった顔になる。

「俺、結婚しようと思ってるんです」

「——え、そうなのか?おお、マジか!!そりゃめでたいな!前につき合ってた彼女か?……そういや、以前二股で悩んでたよなお前?」


「いや……二股じゃないし、彼女でもなくてですね……」


「……ん?」


「彼、なんです」

「……カレ?」

「広田さん、一度見かけたことありますよね?朝、駅から彼と俺が歩いてるとこ」


「———あ、覚えてる。あのすごいかわいい男の子な?

…………って、お相手は……

あの子って意味か?」

「はい」



 広田さんは、しばらくじっと前を見て何か考えていたが……ゆっくりと俺を見ると、呟いた。

「お前、ずいぶんいい子つかまえたな」


 そして、ビールを再び呷ると、ボソッと続けた。

「俺も、それが良かったな………」

 


「……はい?」

「いや、だってさ、男同士だろ?ちっちゃなことでいちいち夫婦喧嘩しなくていいじゃん。お互いの気持ちがわかる、というかさ……。冗談抜きで羨ましいんだけど、それ。

しかも、あんなに綺麗な子なら……なあ?」

「……広田さん、顔ニヤケ過ぎだしヤラシすぎなんですけど……」

「あ、悪い」

 そう言って広田さんはわははと笑った。

「大丈夫。お前なら絶対彼を幸せにできるさ。俺は応援する。……なんか困ったら、何でも相談しろ」


 内心、すごくドキドキしたのだが……やはり彼らしい、大らかで優しい答えが返って来た。

 こんなに嬉しい応援をしてくれる人はそういない。


「ありがとうございます。広田さんに思い切って話して、やっぱりよかったです。

ちょっと迷ったんですけど……広田さんには、どうしても話しておきたくて」

「そうか。ありがとな、話してくれて。

でも、お前が決めたことなら、ウチの社内の連中も祝福してくれると思うぞ?お前の人柄は、みんなよく知ってるしさ。——まあ、無理する必要ないがな」

 広田さんは、いつもの温かい笑顔でそう言う。


 職場にこのことを話すどうかは、迷っているのだが……少なくとも、心から信頼できる広田さんには、伝えたかった。

 彼は、どんなときも大らかに俺を受け止めてくれる。


 やはり持つべきものは、懐の大きい先輩だ。





「はい、相楽書房でございます。——え?きゃっ!!お久しぶりですーー!」


 優の横のデスクで電話を取るなり、篠田あずみが黄色い声を上げる。


「はい、元気ですよぉー!相楽さんもお元気そうで……」


 パソコンを打つ優の指が、ぴくっと止まった。

 ——今、誰だって?


「え、黒崎君ですか?いますよーちょっと待ってください」


 優は、必死に手でバツ印を作って不在のジェスチャーをしたのだが、遅かった。

「黒崎君、相楽さんからよ。もー久しぶりで超ドキドキしちゃったぁー!」

「——代わりに用件を聞いてください、篠田さん」

「え?だってもういるって言っちゃったし……出られないわけでもあるの?」

 篠田が不思議そうに聞く。


  電話の相手——相楽峻は、優の元直属の上司であり、相楽書房社長の息子だ。若く有能な美男子で、社内の女子から絶大な人気を集めていた。

 この一見完璧なサラブレッドは、冷酷でサディスティックなバイセクシュアルという裏の一面を持っていた。


 半年ほど前、優はこの上司に愛人関係を迫られた。

 しかし、そのやりとりの録音と、ヒロに訓練を受けた護身術により、強引なセクシュアルハラスメントを退けることに成功した。

 その件がもとで、相楽はその後大阪支社へ転勤となり……優は漸く心穏やかにオフィスでの日々を過ごしていたところだった。


 そんな事情の説明など、できるわけもなく……彼と話したくない理由を突っ込まれると、何も答えられない。

 変に探られるのもまずい。

 ……出るしかない。



「——はい」

『黒崎君。久しぶりだね』

 変わらぬ艶のある声だ。

「どのようなご用件でしょうか」

 優は表情のない声で機械的に応答する。


『来週の金曜、東京へ行く用があってね。その時に会えないかと思うんだが』

「——お話しすることはないと思いますが」

『そう警戒するな。僕はもう君にマズいことをいろいろ握られてる。これ以上何ができるというんだ?』

 相楽はちょっと可笑しそうにそう言う。

「ですが——」

『待ってるよ。場所と時間を今伝えておくから』

 何も答えられないでいる間に相楽は自分の用件を伝え、一方的に通話を終わらせてしまった。


 相変わらず、勝手で強引だ。

 それに、この期に及んで、どの顔で自分と会うつもりだろう?

 ——何の話があるのか。



 無視しようと思いながらも——そのことを考え続けている自分がいた。

  




 翌週金曜の夜、指定されたカウンターバーに優はいた。

 数席だけの小さな隠れ家のようなバー。他には客もいない。

 手元だけを照らすような店内の暗さに癒される。上質な酒と心地よいBGMも揃っている。


 だが、カクテルを選ぶ気にはなれず、ウィスキーのロック、と適当にマスターへ頼んだ。


 仮に今回無視しても、簡単に彼が退くとは思えなかった。

 それに、以前のトラブルの核心を録音したテープレコーダーも手許に残っている。

 どんな用件かはともかく、今回要求どおりに彼に会って、話をつける方が賢明だ——そう感じた。



「待たせて悪かった。——というより、来ないと思ったよ。

……マスター、僕にも彼と同じものを」

 相楽は10分ほど遅れて現れた。以前と変わらぬ、端正な笑顔だ。


「——今日のご用件をお伺いしたいのですが」

 最短の時間で済ませたくて、優は何の前置きもなく彼に問いかけた。


「ん?別にないよ、用件なんて」

「……は?」

「君に会いたかったんだ」


 唖然とした。

 ああいう結末だったにも関わらず、なぜそんな言葉が出るのだろう。

 もともと、理解できる思考回路を持っていないと知ってはいたが。


「………どういうことでしょう」

「君が警戒するのも当然だよな。自業自得だ」

 彼は穏やかに言う。


「あの時、君にとんでもない反撃に出られて——半端じゃないショックだった。

あれ以来、ずっと君のことばかり考えてた」


 どこかが、以前と違う。そんな気がした。

 ギラギラとした獰猛さが抜け落ちた——そんな気配だ。


「——いつ、SからMになられたんですか」

「あはは、そうだな。本当に」

 笑えない冗談に、彼は面白そうに笑う。



「君はいつでも、僕に対して冷静で礼儀正しく、潔かった。

僕のような最悪な上司にひとりで立ち向かえる勇気も持っていた。

……そんな君に、僕は酷いことをした。

——本当に、申し訳ない」

 相楽は、優に向かって深く頭を下げた。


「…………いえ」

 そんなふうに真正面から謝罪されるとは、思ってもいなかった。

 視線を少し落とし、優はそれだけ答える。



「おかげで僕は、あれ以来彼女もなにもさっぱりさ——寂しいもんだ」

 自嘲するように笑いながら、彼はそう呟く。

「どうしてですか」

「自分がそういう気にならないからさ。自分の欲求のためには手段を選ばなかった、この僕がね。……おかしな話だろ?

——手に入れたいものなんて、今はもう何もなくなってしまった」

 相楽はそう言うと、小さな音を立ててグラスを呷った。




「——僕と、真剣に付き合ってくれないか」




 驚きで、優の思考が停止する。

 自分へまっすぐに向けられた相楽の視線を、優はただ受け止めるしかなかった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る