事実
『ヒロ?私よ。久しぶりね』
11月半ばの、金曜の夜。
ヒロは、母からの突然の電話に驚いていた。
「——どうしたの、急に?」
『大切な用があるの。近いうち、そっちに行こうと思ってるけど……いい?』
ヒロと母親の薫とは、もう長い間疎遠な関係だ。
自分の結婚のことは、いずれ家族に話さなければならないと思っていた。
だが……向こうから切り出す大切な話とは、一体何なのか。
母からの唐突な訪問の連絡に、いい予感は持てなかった。
ヒロの実家は、静岡の小さな街にある。高校の同級生だった花絵の実家からも、そう遠くない場所だ。
弁護士の父と、専業主婦でお嬢様育ちの母。
父母とも高い教養を持ち、教育熱心な反面、家庭内の硬質な空気を常に感じながら育った。
彼女の意志の強さや向上心は、そんな環境で身についたものだ。
ヒロは、父親である聡 《さとし》の深い愛情を受けて、明るく成長した。兄の煉とも仲が良く、いつも兄とくっついて遊んだ。
父も兄も、ヒロの性格や行動を全て受け入れ、彼女の選択を常に信頼してくれた。そのため、母と良好な関係が築けなくても、深く思い悩んだことはなかった。
母と理解し合いたい、とも思わなかった。
ただ……ヒロが女性しか愛せないことに、母が理解を示していない——そのことだけは、はっきりと感じていた。
「——いいけど。いつ来るの?」
ヒロは、電話の奥に向かって素っ気なく答えた。
*
一週間後の金曜の夜。
ヒロは自分の会社の側の小さなレストランで、薫と会っていた。
「ヒロ、久しぶりね。元気にしてる?」
「……元気よ。で、今日の用件って、何?」
薫は作ったような笑みで話す。
「あなたに紹介したい人がいてね。……私の知人の息子さんで、若手の大手商社マンよ。仕事もできて、優秀な方なの。……写真も持ってきたわ」
「……え?」
「つまり、お見合いね」
何を言ってるんだろう、このひとは……?
一瞬言葉を失った。
「一体……どういうこと?」
「今日はね、あなたの結婚について、話をしに来たのよ」
赤のグラスワインを口にして、薫は淡々と話す。
「……煉に言われたわ。あなたとちゃんと話をしてほしいって」
兄も、自分と母親の関係を気にしている。
結婚に関する相談を兄に持ちかけたことで、一層気がかりになったのだろう。
「……私、お見合いなんかしないわよ。
……結婚したいひとがいるの」
「とにかく」
ヒロの話を、薫が短く遮る。
「——男性との結婚でなければ、私は認めないわ」
薫はグラスを置くと真っ直ぐにヒロを見据え、押さえつけるような声で言った。
これほど頑に否定を示す母の様子を、見たことがなかった。
一瞬、強い衝撃に身体が揺さぶられた。
「——そんな話をしにきたの?……今更、何言ってるの?私のこと、ずっと見てきたでしょ?」
「だから言ってるのよ。
あなたは、結婚って何か、分かっていない。
結婚生活なんて、気が遠くなるほど長いの。——周囲の人に認めてもらって初めて、穏やかな幸せがある……そんなものよ。
愛情や何かより、安定した環境がなければ、女にとって辛いだけだわ」
苦しいものを一気に吐き出すようにそう話すと、薫はワインを大きく一口呷った。
ざわつく不安感を抑え、ヒロは語気を強めて聞き返す。
「……急に来て、私の話も聞かないで……なんでそんなふうに決めつけるような言い方するの?
私の考えてることなんか、何にも分からないくせに」
「——いいえ、よくわかるわ。
……私も、あなたと同じだった。だから……よくわかる」
「同じ、って……」
「私が愛したのも女性だった」
「………」
頭の中が真っ白になった。
必死に思考を立て直す。
次の瞬間、聞かなければならないことが溢れ出す。
ただ——何を聞いても、穏やかな答えは返ってこない気がした。
「今まで、誰にも話したことがなかった。誰にも話さずにいたいと思っていたわ……でも、これを話さなければ、多分あなたとは分かり合えない。
どうしてかしらね……遺伝するものではないらしいのに。でも考えても仕方ない。事実がそうなんだから」
そう言って、薫は感情のない微笑を浮かべる。
「……なら、何で……どうして父さんと結婚したのよ」
動揺を隠せない。必死に自分を落ち着かせながら薫に問う。
「父さんは、私の父……弁護士だったあなたのおじいちゃんが、法律事務所の部下から選んだ人だった。それは知ってるわね。
優秀で、優しくて、美男子で……父さんは完璧なひとだった。
私は父の話を断ることができなかった。——自分に好きな女性がいることなんて、親には絶対に話せなかった。
……申し分のない結婚なんだから、必ず幸せになれる……そうやって自分自身を騙したの」
「……それって……結婚以来ずっと、父さんのことは愛していなかった、ということ……?」
「違うわ。今は心から彼を愛してる。尊敬している。……でも、心や身体が湧き立つような、焦がれる感覚とは違った。
けれど、そんな思いがなくても、ちゃんと幸せは味わえるの」
薫は、ワイングラスの中の美しい液体を見つめながら続ける。
「おかげで私は、ずっと幸せに暮らしてきたわ。——周囲に認められない悲しみも、苦しみもなく。
……私の選択は正しかったの」
「それで——あなたが愛していた女性は、あっさり捨てたっていうの……?」
「……そうよ。……女同士でずっと一緒にはいられない……彼女に、そう言ったの」
「そのひとの辛さなんか、どうでもいいってわけ?」
ヒロは、吐きすてるように呟いた。
「……いずれにしても、母さんに認めてもらう必要はないわ。私は私の思うようにやる。お見合いっていうその話も、お断りするわ」
「いま一緒にいるその人との結婚、私が反対したら——父さんだって快く了承しないはずよ」
「………」
母も、女性を愛していた。
そして、自分と母の間には、こんなにも大きな溝があった。
対立する姿勢を崩さないまま……ヒロはそのことに大きな衝撃を受けていた。
*
「ただいま……あれ、拓海、起きてたの?」
その夜、優は夜遅くに帰宅した。残業が長引いたらしい。
「優、お帰り。俺もさっき帰ってきたんだ。早急に片づけなきゃならない不具合でさ——あー肩こった。……優も飲む?」
俺は湯気の立つ琥珀色のグラスを優に見せた。
「ん、それ何?」
「焼酎のホットウーロン割だよ。
会社の先輩が教えてくれたんだ。行きつけの居酒屋で教わったらしい。疲れを取るにはこれが一番だってさ」
「あ、飲む飲む!——明日土曜だから寝坊してもいいし」
俺でもできる簡単レシピだ。グラスにまず熱いウーロン茶を注いでから、好みの濃さに焼酎を加え、ステアするだけである。
「ん、美味しい!あったまるね……でもこれ、眠くなるなー」
優も気に入ったらしい。
初冬の外気で冷えた身体の疲れが溶けていく。
「ヒロさん、今日お母さんに会ったんだよね……どんな話だったのかな」
「うん……ここしばらく、考え込んでるような様子だったし……辛い話じゃないといいけど」
「……お母さん、か。
お母さんと話すって、どんな感じなんだろう?
この前、拓海のお母さんと話した時は……ふわふわ優しくて、温かかったな」
湯気を息で冷ましながら、優が呟く。
「親を知らないっていうのは……自分の大切な部分が
自分の知ってる自分以外、自分についての情報が何もないからさ」
少し重くなった頭を頬杖で支えながら、そんな彼を見つめた。
「……情報なんか、なくたっていいよ。
親が誰であれ……優は、今目の前にいる君なんだから。それで充分だ」
「……そうなのかな」
優は、ちょっと嬉しそうな顔をした。
彼の中には、誰とも繋がっていない孤独というものが、いつもあったのだろう。
その寂しさや辛さは、俺なんかからは想像がつかない。
でも……誰かと繋がっていても、人はしばしば、その繋がりのために酷く苦しむ。
人との関係を作るのは、難しい。
それは、他人でも身内でも、全く変わらない。
いい繋がりができれば、こんなに満たされるものはないが……うまく関係が築けなければ、深い恨みや憎しみになることもある。
そして、人はみな違う心を持っている。どうしても分かり合えないひともいるのは当たり前だ。
「……優は今、寂しい?」
「ううん、全然寂しくない」
彼は少し眠そうに、微笑んで即答する。
「そっか。よかった」
全ての人との良好な関係……そんな大それたものは、無理に望まなくていい。
目の前の大切な人のことを、よく解っていて……そのひとの心が満たされているならば。
それで、いいような気がした。
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