手探りの仕方

「はああぁぁぁ……」

 月曜の朝からため息をつくと本当に嫌になるから、つかないことしよう、と決めていた。

 だが、今朝は思い切りついている。自分に許してしまっている。


 一昨日の夜のことが、胸の中でじりじりとしていた。


「どおーしたっ永瀬!?朝からため息か?」

 背中をばんっとたたかれる。そしていつもちょっと暑苦しいハイテンションの声。

「あー、広田さん……おはようございます……」

 広田一馬さんは、俺の部署の3つ年上の先輩だ。俺に一から仕事を教えてくれた先生でもある。最近結婚し、幸せオーラ全開だ。そのオーラが、今の俺にはますます暑苦しい。

「あれ、いつも変わらぬ穏やかな笑顔の永瀬が……すごい珍しいな、その落ち具合」

「はい、落ちてます……広田さんは今日も楽しそうですね」

「うん、そうだな、楽しいな。……だが、いっつもこんな顔して生きてきた訳じゃないぞ?むしろ、このテンションも今だけ限定だろう、って思ってるけどな」

 こんなドロドロした後輩の顔を見てのことだろう、さりげない気遣いが感じられる。こんなとき、ひとの器のサイズがよく分かる。

「もし時間あったら、飲みにでも行くか?」

「はい!ぜひに!!」

 俺は早速、LINEの「ウチ」と名付けたグループトークルームに、「今日は遅くなるので夕ご飯不要です」とメッセージを入れた。


 日曜日は、それぞれに思い思いに過ごしながら一日を終えた。

 前夜のパーティでしこたま飲んだ優くんは、「頭いたい……」と呟きながら一日中パソコンに向かっていた。ヒロさんと花絵は、買い物やらお茶やらの「女子コース」を楽しみに外出。まあヒロさんからしたらデートなのだろうな……などとぼんやり考えたりして、俺は自室で一日中宇宙の本の中にいた。

 花絵も優くんも、顔を合わせれば普段と全く変わらず楽しそうで、不自然な様子もなく——。そうだ、あの火花バチバチや花絵の呟きは全部俺の幻覚幻聴だったのだ!と思い込みたかったが……やっぱり無理だった。

 ビビリな俺はそうやって終日宇宙へ逃げていたのである。



 就業時間をぐったりと終え、広田さんと焼き鳥屋へ向かう。つくねが美味でちょっとした評判の店だ。

「ほら、とりあえず飲め」

 倒れた旅人に水でも飲ませるような台詞で、広田さんにキンキンの生ジョッキを勧められる。美味い。ちょっと生き返った。


「まー、なんにしてもそう抱え込むな。くよくよして問題が解決するか?何でも、なるようになるんだよ」

 評判のつくねを齧りつつ、広田さんはそう言った。


「……広田さん」

「ん?」

「……もし、大切にしたい人がふたりいたとしたら……どうします?」

「えっ、今お前そういう状況!?お前ってカオはまあイケてるけど、二股できる肝っ玉はないと思ったぞ」

「二股……とかじゃないんですけどね」

 俺は力なく笑った。そんなわかりやすい言葉で片付くもんなら、どんなにいいだろう。

 広田さんは、少し考えるように間を置いてから、穏やかな声で答えた。

「まあ、誰でも一度くらい、そんな悩みを抱えるもんだろ。

……それに俺だって、すんなり今の幸せを掴んだと思うか?」

「え?」


「最悪な話だけどな……俺、結婚約束してた人を裏切って、別れたことがあるんだ」

 苦笑いして、広田さんはビールを一気に最後まで飲み干した。


「俺さ、大学4年から、結婚しようって同棲してたひとがいたんだ。優しくて、賢くて……俺は本当に彼女のことが好きだった。

でも、入社2年目の年に、仕事で他社と共同でやるプロジェクトがあって、そのとき参加してた女の子と何だか気が合ってな……。仕事ついでで一緒に飲みになんか行ってるうちに、惚れられちゃってさ」

 広田さんは、運ばれてきたハイボールを見つめる。

「そのうち、カレシとの別れ話なんか相談されたり……だんだん可愛くなっちまって……気がついたら、キスくらい平気でするようになってた。彼女がいるって話しときながら、バカだろ?」

「……」


「関係が深くなると、その子は休日にメールや電話何度も鳴らしたり……明らかに、俺の彼女に戦いを挑んできた。なんとなく楽しんでただけの俺には、この展開は予想外だった。一体何考えてたんだろうな、俺……。

こういうことになってから慌てて関係整理したって、ダメなんだよな。

しばらくしたある日、彼女は静かに出て行っちまった。泣きも怒鳴りもせずに……謝ることすらさせてもらえなかった。

どんなに酷く彼女の思いを傷つけたのか、その時思い知らされたよ」


 優しくて、賢くて……そんな女性が深く信頼した相手だったからこそ、許せなかったのだろう。

「……広田さん、ひどいですね」

「そうだよな……お前、ちょっとのオブラートもないの?」


 思い出したようにハイボールをかき混ぜながら、広田さんは言った。

「お前はいつも、誰にでも優しいけど、それがマズい時があるのは気づいておいた方がいい。

何か決めなきゃいけない時は、全員に当たり障りなく……っていうのは無理だ。うっかりすると、全部失うぞ?俺みたいにな。

なんとなくどっちも大切、なんて、虫がいいってことだ」


 広田さんの言葉が、胸に刺さった。

「なんとなく」っていう気持ちは、実はいろんな人を傷つけているのかもしれない。切実な思いを抱えている人を……。


 今俺にできることがあるとしたら、何だ?

 少しずつ、それが見えてくるような気がした。


「広田さんはいつも、俺の先生ですね……」

「さっきの棘コメントはどこいったんだよ!?」

広田さんは面白そうに笑って、やっとハイボールに口をつける。

「……ま、いいか。なんかお前の役に立ったんならな」


 広田さんのおおらかな温かさが、嬉しかった。持つべきものは、懐の大きな先輩だ。





 帰宅した時には、もう深夜0時を回っていた。

「ただいまー……」

 もうみんな眠ったのだろう。


「お帰りなさい」

 優くんが静かに部屋から出てきた。

「あれっ、まだ寝てなかった?」

「明日は講義午後からだし、ちょっとやることもあって……コーヒー飲みます?インスタントですけどね」

 そう言ってダイニングの小さな照明を点け、二人分のコーヒーを入れてくれる。

 月曜だというのに、結構飲んでしまった。ブラックの苦味がしみる。


「ちょっと酔ってますか?気持ち良さそうですね」

「んー、月曜からこんなんじゃマズいけどね……。

優くんは、お酒あんまり強くないの?」

「弱い方かなー……パーティの時もぐーぐー寝ちゃったし。弱いのに好きだから困るんです」

 そう言って、優くんはちょっと笑う。



 ——綺麗な髪。

 睫毛も、同じ色なんだな……触りたいけど、びっくりされるかな……。



「……ちゃんと、考えるよ。これからのこと」

 俺は、半ば酔ってふわふわしながら、そんなことを言った。



「……永瀬さん」

「ん?」


「……僕が、あなたを好きだと言ったら——困りますか?」



「…………」



 呆気にとられ固まった俺に、彼は呟いた。

「返事、今すぐ聞こうと思ってませんから……おやすみなさい」



 取り残された俺は……酔いも完全に冷めたまま、そこを動けずにいた。





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