耐える
「いろいろと、大変なんだろう?——生い立ち的にも」
薄笑いに屈辱的な言葉を並べ、相楽は平然と続ける。
「君のポジションも生活も、僕が手助けすればいい。人助けに誰も文句は言わない。なんなら君を養ってもいい。——どう?
辞退したら、どうなるか……少なくとも、あまりいいことはなさそうだ」
——この男は、何を言っている?
……今は、耐えろ。
無表情に、ひたすら黙った。
「悪い話じゃないはずだよ?
……ずっとそんな頑なな態度でいて大丈夫か、よく考えてみてよ。じゃ、お疲れ様」
優は、ひとり暗い会議室の隅で立ち尽くした。
その帰り道を、優はひたすら考えた。
混乱した思考が次第にクリアになる。
——相楽は自分を、愛人のように扱いたいのだ。
弱点を探し出し、ひとを蔑み、見下すように。
もし拒否すれば、社内での立場が苦しくなるよう仕向けられるのだろう。
考えれば考えるほど、陰湿に粘りつく窮地に追い詰められた自分がいる。
——ウチのみんなには、心配をかけたくない。
できるなら、自分だけで何とかしたい。
その一方で、ひとりでは乗り切れない状況だという気もした。
あの男は多分、自分の地位や力を使って、欲しいものを力ずくで取りに来る。社内にも、結局自分の味方はいないだろう——このままでは、多分逃げ切れない。
それに——
4人で暮らすようになって、優がはじめて知ったことがある。
ひとりでは先が見えないことも——誰かに打ち明けることで、必ず何かが開ける。
このことを、3人に相談しよう。
優はそう決めた。
*
「優お帰りー。今日花絵とヒロさん飲んでくるらしいから、フツーのカレーにしたんだけど食べるか?」
「ただいま。拓海、ちょっと話あるんだけど」
いつになく真剣な面持ちで優にそう言われ、俺はいささかざわついた思いでリビングのソファに座った。
「どうした?会社で何かあった?」
「愛人関係を求められた。……相楽に」
……ごめん、ちょっと待って。唐突すぎる。
今、なんて言った?
「ただいまー。ちゃんとご飯食べた?」
そこへ花絵とヒロさんが帰宅した。
振り返った俺の形相と優の深刻な顔を見て、二人とも固まった。
「あの——なんかあったの?」
優は、その日会社であったことを全て俺たちに打ち明けた。
「相楽書房の息子、完璧な皮の下はエキセントリックなドS野郎だったってワケね——人の弱みまで調べ上げるようなことして……やり方が卑怯すぎる」
花絵が怒りを露わにしてそう言う。
「……なんかとんでもないヤツに目つけられちゃったわね、優くん。新入社員を愛人になんて、タチが悪いわ……」
ヒロさんも額に手を当てて、いつになく低く呟いた。
「……許せない……」
俺は、怒りで思考がまとまらない。
「ねえ優くん、すごく残念だろうけど……そこの会社、辞めちゃったら?そんなしょうもない上司がいちゃ、太刀打ちできないわよ……」
花絵が戸惑いながらそう提案する。
重い沈黙が流れる。
「——いや」
沈黙を破り、静かに考え込んでいた優が低く返事をした。
「あの男に、泣きを見せてやる——必ず」
いつもは穏やかな瞳が違う色に
「ヒロさん、お願いがあるんだけど……実戦向きの空手の技を、僕に教えてくれる?」
優は、力のこもった眼でヒロさんを見た。
ヒロさんは、びっくりした顔で優を見たが……ニッと笑顔になって答えた。
「なんだかわからないけど、面白そうね……短期間で身につけたいなら、護身術も教えてあげるわ。
師範レベルの私が教えるんだから、確実よ」
*
翌朝、優は相楽のデスクに呼ばれた。
「黒崎くん、おはよう」
「……おはようございます」
「今日のミーティング資料、大丈夫だよね?」
「確認済ませてあります」
「了解。——で、昨日の話、考えてくれた?」
爽やかな笑みで問う。
「……ひと月ほど、お時間をいただけるでしょうか」
視線を落とし、優はそう答えた。
「ひと月?あんまり待たされるの嫌だけどなあ……まあ、あんまりサクサクいっても面白くないね?ならそうしようか」
「……」
「楽しみにしてるよ」
デスクの上に組んだ両手の甲に顎を乗せ、いつもの美しい笑顔を見せる。
優は黙って一礼し、踵を返す。
……あの視線が一日中自分にへばりつき、どんな想像が展開されているのだろうか……
そう思うと、思わず背筋が寒くなる。
——好きにすればいい。
しばらくの我慢だ。
「ねえねえ、相楽さん、黒崎君のことお気に入りみたいだね?なんかうらやましいなあー……って、同性じゃ意味ないか。ふふっ」
「……さあ、どうなんでしょう」
優は、篠田のそんな会話を、脳内で丸めてゴミ箱に叩き込んでいた。
*
俺は、必死に考えていた。
優を救う方法を。
あれから、優は時間さえあれば、近所の木立の中でヒロさんに空手と護身術の訓練を受けている。どうやら筋がいいらしく、ヒロさんも教えがいがあると言っていた。
この問題を解決する方法を、優は自分の中で組み立てているようだ。
だが、彼の今置かれている状況は、酷く重い。
普段も、深く考え込む表情をすることが多くなった。
「優、俺に何かできること、ない?」
「うん……多分、このケースは僕が解決しなきゃならない問題だと思うんだ……相手が相手だからね。
誰かに頼んでも、どうにもならない気がする」
俺の問いかけに、彼は明るく冷静にそう答えた。
俺に、何かできることはないのか——
俺が優を守る方法はないのか。
彼の上司かつ社長の息子である相楽に、自分が優の恋人だと宣言すれば、何かが解決するのだろうか?
そんなことをして、優の恋愛対象が同性だということが周囲に知れたら、どうなる——?
同時に、俺自身の恋人が同性であることも、広く明るみに出るような気がした。
いくら考えても、解答を見つけ出せない。
優のために、自分は何もできない——。
俺の中で、この問題は少しずつ大きく膨らんでいった。
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