耐える

「いろいろと、大変なんだろう?——生い立ち的にも」


 薄笑いに屈辱的な言葉を並べ、相楽は平然と続ける。

「君のポジションも生活も、僕が手助けすればいい。人助けに誰も文句は言わない。なんなら君を養ってもいい。——どう?

辞退したら、どうなるか……少なくとも、あまりいいことはなさそうだ」



 ——この男は、何を言っている?


 ……今は、耐えろ。

 無表情に、ひたすら黙った。


「悪い話じゃないはずだよ?

……ずっとそんな頑なな態度でいて大丈夫か、よく考えてみてよ。じゃ、お疲れ様」



 優は、ひとり暗い会議室の隅で立ち尽くした。


          



 その帰り道を、優はひたすら考えた。

 混乱した思考が次第にクリアになる。



 ——相楽は自分を、愛人のように扱いたいのだ。

 弱点を探し出し、ひとを蔑み、見下すように。

 もし拒否すれば、社内での立場が苦しくなるよう仕向けられるのだろう。


 考えれば考えるほど、陰湿に粘りつく窮地に追い詰められた自分がいる。




 ——ウチのみんなには、心配をかけたくない。

 できるなら、自分だけで何とかしたい。


 その一方で、ひとりでは乗り切れない状況だという気もした。

 あの男は多分、自分の地位や力を使って、欲しいものを力ずくで取りに来る。社内にも、結局自分の味方はいないだろう——このままでは、多分逃げ切れない。


 それに——

 4人で暮らすようになって、優がはじめて知ったことがある。

 ひとりでは先が見えないことも——誰かに打ち明けることで、必ず何かが開ける。



 このことを、3人に相談しよう。

 優はそう決めた。





「優お帰りー。今日花絵とヒロさん飲んでくるらしいから、フツーのカレーにしたんだけど食べるか?」

「ただいま。拓海、ちょっと話あるんだけど」


 いつになく真剣な面持ちで優にそう言われ、俺はいささかざわついた思いでリビングのソファに座った。


「どうした?会社で何かあった?」

「愛人関係を求められた。……相楽に」


 ……ごめん、ちょっと待って。唐突すぎる。

 今、なんて言った?


「ただいまー。ちゃんとご飯食べた?」

 そこへ花絵とヒロさんが帰宅した。

 振り返った俺の形相と優の深刻な顔を見て、二人とも固まった。

「あの——なんかあったの?」



 優は、その日会社であったことを全て俺たちに打ち明けた。


「相楽書房の息子、完璧な皮の下はエキセントリックなドS野郎だったってワケね——人の弱みまで調べ上げるようなことして……やり方が卑怯すぎる」

 花絵が怒りを露わにしてそう言う。

「……なんかとんでもないヤツに目つけられちゃったわね、優くん。新入社員を愛人になんて、タチが悪いわ……」

 ヒロさんも額に手を当てて、いつになく低く呟いた。

「……許せない……」

 俺は、怒りで思考がまとまらない。

「ねえ優くん、すごく残念だろうけど……そこの会社、辞めちゃったら?そんなしょうもない上司がいちゃ、太刀打ちできないわよ……」

 花絵が戸惑いながらそう提案する。



 重い沈黙が流れる。



「——いや」

 沈黙を破り、静かに考え込んでいた優が低く返事をした。


「あの男に、泣きを見せてやる——必ず」

 いつもは穏やかな瞳が違う色にたぎっている。


「ヒロさん、お願いがあるんだけど……実戦向きの空手の技を、僕に教えてくれる?」

 優は、力のこもった眼でヒロさんを見た。


 ヒロさんは、びっくりした顔で優を見たが……ニッと笑顔になって答えた。

「なんだかわからないけど、面白そうね……短期間で身につけたいなら、護身術も教えてあげるわ。

師範レベルの私が教えるんだから、確実よ」





 翌朝、優は相楽のデスクに呼ばれた。

「黒崎くん、おはよう」

「……おはようございます」

「今日のミーティング資料、大丈夫だよね?」

「確認済ませてあります」

「了解。——で、昨日の話、考えてくれた?」

 爽やかな笑みで問う。


「……ひと月ほど、お時間をいただけるでしょうか」

 視線を落とし、優はそう答えた。

「ひと月?あんまり待たされるの嫌だけどなあ……まあ、あんまりサクサクいっても面白くないね?ならそうしようか」

「……」

「楽しみにしてるよ」

 デスクの上に組んだ両手の甲に顎を乗せ、いつもの美しい笑顔を見せる。

 優は黙って一礼し、踵を返す。


 ……あの視線が一日中自分にへばりつき、どんな想像が展開されているのだろうか……

 そう思うと、思わず背筋が寒くなる。


 ——好きにすればいい。

 しばらくの我慢だ。


「ねえねえ、相楽さん、黒崎君のことお気に入りみたいだね?なんかうらやましいなあー……って、同性じゃ意味ないか。ふふっ」

「……さあ、どうなんでしょう」

優は、篠田のそんな会話を、脳内で丸めてゴミ箱に叩き込んでいた。





 俺は、必死に考えていた。

 優を救う方法を。


 あれから、優は時間さえあれば、近所の木立の中でヒロさんに空手と護身術の訓練を受けている。どうやら筋がいいらしく、ヒロさんも教えがいがあると言っていた。


 この問題を解決する方法を、優は自分の中で組み立てているようだ。


 だが、彼の今置かれている状況は、酷く重い。

 普段も、深く考え込む表情をすることが多くなった。


「優、俺に何かできること、ない?」

「うん……多分、このケースは僕が解決しなきゃならない問題だと思うんだ……相手が相手だからね。

誰かに頼んでも、どうにもならない気がする」

 俺の問いかけに、彼は明るく冷静にそう答えた。



 俺に、何かできることはないのか——

 俺が優を守る方法はないのか。


 彼の上司かつ社長の息子である相楽に、自分が優の恋人だと宣言すれば、何かが解決するのだろうか?

 そんなことをして、優の恋愛対象が同性だということが周囲に知れたら、どうなる——?


 同時に、俺自身の恋人が同性であることも、広く明るみに出るような気がした。



 いくら考えても、解答を見つけ出せない。




 優のために、自分は何もできない——。



 俺の中で、この問題は少しずつ大きく膨らんでいった。


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