嵌る

 6月に入った。

 月末の締め切りを終え、相楽書房のオフィスにも落ち着きが戻った。業務終了の時間が来ると、社員たちは一斉に退社していく。


 優は、明日のミーティング資料の作成を相楽に依頼されていた。篠田は今日は用があるらしく、優に一通り業務の説明をして定時に帰る予定だ。

「黒崎くん、ほんとゴメン!今日どうしても外せない予定があって……」

「合コンとかかな?篠田さん」

 相楽が冗談交じりに聞く。

「係長、やめてください!私にはもう心に決めた人が……あわわ」

 勝手に赤面しながら慌てる。

「大丈夫だよ。黒崎くんが大変だったら僕が手伝うから」

「会議室で美形が二人で……なんかやらしいですね?うふふ。じゃお疲れ様でした!」

 篠田は慌ただしく帰って行った。

「面白いよな、篠田さん。かわいいんだし、カレシすぐにできそうだけどな?」

いやいや、想われてるのはあなたですから……と心の中で突っ込む。


 でも、この席は居心地がいい。先輩にも上司にも恵まれた。拓海が心配していた人間関係もすこぶる良好に思えた。


 資料作成は難しい作業ではないが、手間がかかる。

 静かな会議室でひとり、優は仕事に取りかかった。



 何時間経ったろうか。時計を見ると午後8時近い。そろそろ仕上げというところに、相楽が入ってきた。

「君にいろいろ面倒な仕事頼んじゃって、悪かったね」

「いえ、あと少しで終わりますから……係長、先にお帰りになって大丈夫ですよ」



「君って……もしかして、恋愛対象は女性じゃないだろ?」

 背後から唐突に、そう尋ねられた。

 ぎくりとした。思わず作業の手が止まる。

 なぜ、急に……


「君の眼や空気が違うからさ。——まず、君に夢中な女子社員が大勢いることに、君は気づいてないだろう?」

「……」

「彼女たちが君にアピールするために、どんなに胸の開いた服を着て、美しい谷間を顔の前にちらつかせても ……君の眼は、なんの反応もしない。まるでペンや紙を眺めるように、無意識だ」


 突然のことで、言葉が出ない。

 ……この人は、一体何を言いたいんだろう?


「いつも君ばかり見てるから——そんなのはすぐに気付くよ」


 ……今、何て……?

 優はぎょっとして相楽の顔を振り向いた。


 相楽は、全身を舐めるような視線と冷たさの漂う美しい笑みで立っている。


「……あの……係長…?」


「この会社でずっと働くんでしょ?

……こういう時、僕みたいな立場の上司と良好な関係作っておいた方がいいよ?」


 ……今、この薄暗い会議室に二人だけだ…。

 背筋が次第に寒くなる。


「……もっと近くにおいでよ。昼はデスクが遠いんだから」

 

「——あなただって、こういう行動がバレたら、まずいんじゃないですか?」

 優はじりじりと後ずさりながら返した。

 

「心配はいらない。今日はもう誰も残ってないんだ。……それに、僕の立場、知ってるでしょ?

ウチの会社の上層部はみんな知ってるさ、僕が本当は両刀だって。そんなの何の影響もない。結婚は女と決めておけばいい話だ。

仮に君が社内で何を言いふらしても、君の立場がマズくなるだけだよ」

「……」


 距離が縮まる。背後はもう部屋の隅だ。


「かわいい女子はいろいろ見てきたけど……君みたいに魅力的な男の子は初めてだ。その不思議な瞳の色も……。

外見だけじゃない。君はその辺のか弱い男の子とは違うな。芯のあるその強さが、一層そそる」

 笑みを消さずにそう言いながら、優を追い詰めた。


「……黙って僕に従ってくれたら、大事にしてあげるから」


 逃れようとする腰をぐいと引き寄せられ、手首を異常な力で掴まれた。

「もっとよく見せて」

 力ずくで優の顎を上向け、宝石を愛おしむように瞳を見つめる。

 全身の力で、彼の腕を振りほどこうともがいた。だが、彼の鍛えられた長身からは簡単には逃れられない。


「…………っ」

「嫌がるとこが、またいいなあ」

 彼は、柔らかな声の奥に不穏なものを潜ませて言った。

「女どもは、僕が優しくすればみんな喜んですり寄ってくる。抵抗するのなんていないからさ……腕の中でもがかれると、ますます興奮する」

 力任せに重ねようとする唇を必死に避けた。


「——やめてください」

 相楽の腕をやっと振り払って飛び退くと、乱れた息でそれだけ言った。



 退く気配すら見せず、相楽は一層冷酷に微笑む。

「……ほんとにかわいいね、君は。

なら、これはどう?君が僕に応じるなら、君をこれから経済的にも困らせないっていう約束。

だって、君は——」




 相楽の発言に、優は言葉を失った。




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