第2章 ほんとの春のただ中で

泥沼

 俺たち4人が心穏やかに花見をした春から、1年が経った。


 あれから、俺たちの周りでは特に大きなもめ事もなく、それぞれ満たされた平和な日々を送っている。


 この春、優が就職した。

 大手とはいかないが、中堅の出版社だ。

 これまで小説などの創作に意欲的に取り組んできた熱意や力が認められたのだろう。希望していた編集者としての仕事がスタートした。もちろん、4人で盛大に祝った。

 当然、夜も二人で祝う。激戦の就職活動を勝ち抜いた華奢な身体を思い切り抱きしめ、ゆっくりと唇を重ねた。


「……………」


 ……ぷはっ、と優が苦しげに息をつき、恥ずかしげに呟く。

「……長過ぎ」

「そっか、ゴメン」

 小さく笑い合い、再び口づける。



 その先は——優が恥ずかしがるからヒミツだ。



 「おめでとう、優」

 もう眠りそうになっている彼の髪に触れ、もう一度囁いた。


「ん……なに?眠いよ、拓海」

「なんでもないよ。……おやすみ」



 出版社の仕事は、かなり忙しいようだ。月末の締め切りの前には残業で遅くなる。しかし、優の幸せそうに張り切る様子は、見ていて嬉しくなる。

「優くん、頑張ってるわね」

 花絵も嬉しそうに言う。

「うん、ずっと希望してた仕事だからね。楽しくて仕方ないんだろう」

「……なんか、心配じゃない?」

 ヒロさんが、ちょっと上目遣いになって俺を見る。

「ん?何が?」

「ライバルよ。優くん、美形だし……ほら、マスコミ業界っていろいろ華やかそうだから。かわいくて押しの強い女子社員とかさ……でも、まあ優くんは大丈夫か。しっかりしてるし」

「うーん、大丈夫なんじゃないか?……大丈夫だろ。多分……」


 何はともあれ、俺たちは明るい春を迎えていた。





 相楽さがら書房。優の勤務する出版社だ。彼は月刊文芸誌担当部門に配属になった。

 中堅とは言え、ここの出版社の雑誌類はなかなか読者に人気があり、オフィスにも社員の活気がある。

 優の担当する月刊誌はそれほどメジャーなものではないが、固定したファンを持ち、手堅く利益を上げている。


 「黒崎君。5月も半ばだし、来月からはそろそろ篠田さんに教わりながら、少しづつ作家の先生方との繋がりを作ってみようか。先生方も個性的な人が多いけど、黒崎君のように誠実で穏やかな性格の編集者は誰にでも好かれるしね。——仕事も君なら早く覚えてもらえそうだ」

 優は、上司である相楽係長の話を聞いていた。

 相楽峻さがらしゅんは、優秀な頭脳と人目を引く端正な容姿、水泳で鍛えたという長身を持つ、いわゆる完璧な男だ。


「じゃ篠田さん、黒崎君をよろしくね」

「よろしくお願いします」

 優も篠田に挨拶をする。

「うん、よろしくね。あなたとなら楽しく仕事できそう、うふふ」

 優の隣のデスクの篠田あずみは、優の3年先輩だ。ふっくらとした体つきと白い肌、幼さを感じさせる黒くて丸い瞳がかわいらしい。


「黒崎君、相楽係長って、うちの社長の息子さんって知ってる?」

 篠田が、少し声を潜めて言う。

「はい、僕も聞きました」

「仕事もできるし優しくて頼りになるし、あれだけの美男子だし……あんなに全てを持ってる男いないわよね……。

 今28歳だって。男盛りだわ……彼女とか、いるのかしら。どうなんだろうなぁ……はぁ」

 篠田はデスクの上で指を組み合わせ、熱い瞳を宙に浮かせて途中から独り言のようになりつつ呟いた。彼女も相楽に憧れている女性のひとりらしい。丸い瞳にハートがいっぱいだ。

「まあ、そうですよね」

 篠田さん、ハート出過ぎ……

 でも確かに、相楽は欠点のない魅力的なひとだ。それは優にも頷ける事実だった。



 「黒崎君、この書類のファイリング、お願いできる?」

 相楽に呼ばれ、彼のデスクへ向かう。

「これと、これは別のファイルに綴って……あと、こっちのはファイリング終わったら書庫にしまってほしいんだけどな」

「はい。わかりました」

 いくつかのファイルを抱えようとしてふと気づくと、相楽が優の眼をじっと見ている。


「——あの、何か?」

「……綺麗な瞳だな、と思ってね」

 相楽は、少し微笑んで言った。

「あ、……いえ……」

 なんとも答えようがなかった。


 優は、児童養護施設出身だ。父親も、母親も知らない。

 異国の血を引いているのか、その瞳はグレーとブルーの混じり合う美しい色をしている。肌は透けるように白く、髪色も明るい。

 

 ——誰から貰ったものかさえ知らない瞳を褒められても、大して嬉しくもない。いろいろ聞かれるのが面倒なだけだ……昔からそうだった。


「あ、悪かったね。仕事に戻っていいよ」

 深く聞かれなくて、ほっとした。





「ただいまー……」

「おかえり、優」

 5月の月末。残業を終え帰ってきた優は、さすがに疲れている。

「忙しそうだな。夕食は?」

「あ、適当に食べちゃったな…ビール飲もうかな」


 リビングの窓からは、5月のさわやかな夜風が流れ込んでくる。疲労で少し眠そうな優にビールを渡し、自分も開ける。

「仕事、どう?結構疲れるだろ」

「そうだね……学生生活とのギャップはやっぱり大きいなぁ」

「楽しいか?なにか悩みはないか?」

「……どうしたの?何か気になることあるの?」

 相変わらずの鋭さで聞き返してくる。

「いや……人間関係とかさ。社会人になって一番つまずくのはそこだから」

「浮気?してないよ」

 ビールが思い切りむせた。


「……なあ、そんな質問してないぞ? 」

「したそうな顔してた」

 やはり見破られたらしい。


「んー、女の子たちはみんなかわいくて華やかで、賑やかだよ。でもあんまり僕には関係ないし……あ、係長が男前だけどね」

「何?」

 俺の眉が一瞬ぴくっと反応する。

「拓海、僕がそんな軽率なヤツだと思ってるの?随分信用ないんだね」

 優はムッとした顔になって反撃する。

「そうじゃない!けど…そいつがどんなヤツかは気になる……」

 そんな俺を見て、ちょっとおかしそうに笑いながら言う。

「相楽峻さんっていう人。相楽書房の社長の息子だよ。仕事もばりばりで美男子で、女子にモテモテ」

 えー……社長さんの息子さんですかー……よくもそんなに何拍子も揃えたもんだ。

「でも、僕にはやっぱり関係ない。ただの直属の上司ってだけ」

 優は表情を変えず、そう言った。


「……そっか。それなら別にいいんだけどさ」

 動揺した手前、なんか恥ずかしい。結構ヤキモチ焼きなのか?俺。


「大丈夫。僕の最高の男は拓海だから」

 さらっと爽やかに優はそう言い切る。



  ……そうなのか。最高なのか。

 優がそう言うんなら……。

 俺も素直にそんな気持ちになっていた。



 そして、優も俺も、まだ気づきもしなかった。

 深い泥沼が、すぐ足元で口を開けていることに。

 

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