ほんとの春
10月、秋晴れの日曜日。
ヒロと花絵は、夏に拓海と優が訪れた海辺の公園へ来ていた。
夏の活気は去り、人影はまばらだ。
「少し肌寒いくらいだけど……気持ちいいわね」
「こんなに広い海を間近で感じるって、久しぶり」
海に面したベンチで、潮風を浴びる。今はもう陽射しも穏やかだ。
「……私、拓海を解放してあげることにしたの」
「……」
花絵の言葉を、ヒロは黙って聞いていた。
「……あんなふうに彼を苦しめるとは、思わなかった。
彼の側にいたいって……私はそれしか考えてなかった」
海からの風を大きく吸い込んで、ヒロが言う。
「……まあ、その辺テキトーな男だったら、二人を同時に愛せるなんてオイシイじゃん!くらいなもんなんでしょうけど……
マジメで繊細なひとだからね、永瀬君は」
「私たちと違ってね」
花絵は、冗談めいたことを言いながら笑う。
今日は風が弱いせいか、波音は穏やかだ。海面の小さなさざ波が無数にきらめく。
「あなたを愛してるわ」
ヒロは、いつものようにさらっとそう言う。
「私の気持ちは、決して変わらない。——生きている限り」
「それ、知ってる」
花絵はそんなふうに茶化す。
茶化しながら、涙が溢れた。
ヒロの強い腕が、花絵をしっかり抱く。
子どもを抱きしめるように、頭まで抱え込む。
「……ヒロ、大好き」
「知ってるわ」
穏やかな秋の風が、二人の肩をなでていった。
「ねえ、最高に美味しいディナーして帰ろうよ」
「うん。……今日は、彼らにも最高のデート日和ね」
ヒロと花絵は空を見上げた。
優しい陽射しに、ほうきで掃いたような薄い純白の雲が高く広がっていた。
*
日曜。花絵とヒロさんは用事があるとかで二人で出かけていった。夜遅くなるらしい。
じゃあ、優くんとどこかへ出かけるか?などと昨日は考えていたが、起きたら昼過ぎだった。彼は今日も相変わらずパソコンの虫になっているようだ。
夕方、彼の部屋を訪れた。
「優くん、今ヒマ?」
「ヒマじゃないですよ。永瀬さんに借りてた宇宙関係の本、借りっ放しにしてるうちに行方不明になっちゃって……今捜索中です」
「いいよ、そんなの探さなくて」
「……どうしたんですか?」
「……キスしにきた」
彼は、持っていた数冊の本を思い切り自分の足の上に落下させた。
「……ってー……なんかまたヘンな冗談言いにきたんですか!?」
「違うよ。——本気で」
俺は、彼の顔を見つめて、真剣に言った。
夕暮れの光の中で、彼もふと真面目な顔になった。
「——いい?」
彼は黙って頷いた。
彼の両肩を引き寄せ、静かに唇を重ねた。
離れる。
もう一度、重なる。
今度は、もっと強く。
肩に置いた手を離し、腕を背に回して抱き寄せる。
そのまま彼の膝の後ろに片腕を入れ、その身体を掬い上げた。
ベッドまで運び、再び唇を重ねる。
唇を離し、彼の瞳を見下ろした。
今度は、はっきり伝える。
「俺には、君が必要だ」
彼は俺の眼を見て答えた。
「待っていたのは僕です」
柑橘類をあたためたような、甘い肌の匂い。
首筋にキスをして……そのまま、透けるような白い肩を唇でなぞる。
あとは——
夕暮れの闇に咲き乱れる花の中へ、ただ埋もれていくだけだった。
*
春が来た。
桜の季節だ。
「さあ、今度の日曜はお花見に行くわよ!」
「お弁当は全然作らないくせに、元気ばっかりいいのよね花絵は」
「私も作るわよ?おむすびならいくらでも作れるんだから」
「花絵のおむすび、ちょっとデカすぎるんだよな……ぎゅうぎゅうに握ってあるし」
「花絵さん、ウインナー炒めるくらいならできるんじゃないですか?」
「タコさんとかそういうのは無理よ?言っとくけど」
「そんなこと言ってちゃお嫁にいけないわよ、あなた」
「え?ヒロが私をおヨメにもらってくれるんでしょ?……それとも拓海かしら?」
「それはないです。永瀬さんは僕のものです」
「あら、まだ優くんのって決まったわけじゃないわよ」
「……もうそこで取り合いをするのはやめてくれないか?」
「永瀬君。今度花絵を奪ったらタダじゃ済まないからね」
「はい……大丈夫です……」
俺たち4人は、この家で今も一緒だ。
時々危なっかしい思いをしながらも、大きくぐらつくことはない。
今後も……ないだろう。多分。
「Cafe Algorithm」。俺が優くんと出会った場所だ。
そこから、俺たち4人は繋がり始めた。
何の関わりもないはずの星が星座をつくるように。
適切なアルゴリズム(=問題の解き方)だったのかは分からないが……俺たちは、ひとつの解答を得た。
いろんな思いをした。
苦い思いも。甘い思いも。
そして——
大切なひとを誰も失うことなく、こうして今、幸せが手の中にある。
ほんとの春を探してみて、よかった。
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