抱く
夏もそろそろおしまいだ。風が涼しくなり、日ごとに空が遠く、高くなっていく。
四角関係を試みて1ヶ月以上が経つ。俺たちは、表面上は普段通りだ。
花絵とヒロさんの会った日のことについて、俺は深く考えずにいた。
4人でそういう関係を選んだのだから、それでいい——そう思うことにしていた。
会社の昼休み、「Cafe Algorithm」へ向かった。初めて優くんと出会った店だ。
「あれ、優くん?大学まだ夏休みなんじゃないの?」
店内の窓際で優くんが本を読んでいた。
「いやー……それもそろそろ終わりですよ。今日は後期の受講手続きとかがあって……ああもういやだなー……」
「まあな。就職とかしたらそんな長期休暇あり得ないし、やりたいことやっとくべきだぞ」
「オジサンぽいですね、その台詞」
「君から見たらオジサンなんだからいいんだ」
そこで、俺のLINEの通知音がした。
「ん?花絵からだ」
『今週金曜、飲みにいかない?この前はゆっくり飲めなかったし』
少し考えた。——というか、真剣に考えた。
「……どうしたんですか?」
優くんが、俺の表情を見ている。
彼は、ひとの心の動きにとても敏感だ。
今の顔を見られたくない、と瞬間的に思った。
「ん?あー、話題の焼き鳥屋見つけたから連れてけ、だってさ」
ごく自然な顔を装って笑い、そう流した。
「……そうですか」
彼は、少しだけ俺の眼を見つめた。
花絵と二人で会ったら……
考えないように努めていた部分に触れなければならない——そんな気がした。
「自分だけで悩むのとか、やめてくださいね?」
本を読みながら、優くんが言う。
「……え?」
「あなたの気持ち先回りするの、疲れるんですから」
そんなことをいいながら、ちらっと俺の顔を見る。
彼には何も隠せない。思わず苦笑いが出る。
「——なんか心配させちゃってるみたいでごめんな」
「いえ、別に」
彼は、素っ気なくかつちょっと恥ずかしそうに笑った。
*
金曜の夜。
「拓海が好きなお店にして」という花絵の希望で、俺のお気に入りのカクテルバーに向かった。
俺は緊張していた。——なぜだかわからないが、手に少し汗をかいている。
理由のわからない緊張感というのは逃れようがなくてタチが悪い。
花絵は先に着いていた。カシスソーダを少し飲み始めたところのようだ。
「ごめん、待った?」
「ううん、全然」
お互い、微妙に口数が少ない。
カクテルのオーダーだけがハイピッチになっていく。
「この前は、なんだか無理やり帰るような感じになって残念だったわね」
「うん、そうだったな」
「……でも、あなたは明日休みでしょ?私も明日は遅番だし……少しはゆっくりできそう」
「……じゃ、俺が酔って正体不明になったら、ちゃんとウチへつれて帰ってくれよ?」
「——帰らない、って言ったら?」
「………」
「……今日は、拓海に、抱いてほしいの」
……どうしてだ?
つき合っているんだから、当たり前なはずなのに……俺は彼女にそう聞き返したかった。
「だめ?」
「——そうしようか」
お互いの気持ちを読み取ることはできないが——同じレベルの緊張感を抱いていることだけは、間違いなかった。
静かな雰囲気のカジュアルホテルの一室。
大きな窓から、街の夜景が見える。
……どうして今日、俺に抱かれたいのか……
シャワーを終えバスローブを羽織って現れた花絵に、俺はさっき呑み込んだ質問を再び投げかけたくなっていた。
その一方で、聞いてはいけない質問のような気もした。
……聞いて、何になる?
自分が動揺するだけだ……やめておけ。
そう思った時だった。
花絵が、窓の外を見ながら言った。
「今日、あなたに触れてほしくて——
今までより、もっと。壊れるくらい強く」
それは、俺が尋ねるのを止めた質問の答えだった。
「……そっか。
……俺もシャワー浴びてくるよ」
今までよりも、壊れるくらい強く——そんな要求を彼女がしたのは、初めてだった。
今まで口にしたこともないそんなことを、なぜ求めるのか?
——その理由は、もう知っている。
温かい花絵の身体を、ベッドに横たえる。
大きな瞳、柔らかな髪、白く弾力のある肌、ふくよかな胸——いつもと変わらず美しい。
唇を重ね、首筋を辿り、もっと奥へ———
…………どうやったのか?
花絵を心から愛するあの女性は、どうやって花絵を悦ばせたのか。
一体どこに触れ、どこに口づけて、どんな声をあげさせたのか——
どうやって、彼女を壊れる程に愛したのか。
……そして花絵は俺にも、それと同じ熱を望んでいるのだ………
———勝てない。
彼女を熱狂させたであろう女性の愛情の分量に、勝てない。
俺はその夜、彼女の期待に応えられなかった。
どうしても、彼女を悦ばせることができなかった。
*
俺は、帰るなりベッドに倒れ込んだ。一晩中眠れなかった。夜中から激しい頭痛まで始まった。
翌日の土曜も一日中自室を出られず、なにもする気になれない。
時々起き上がり、机に残っていたペットボトルの水を無理矢理飲むくらいしかできなかった。
夜、優くんがさすがに心配したのか、俺の部屋をノックした。
「永瀬さん……二日酔いですか?今日は花絵さん仕事だし、ヒロさんも用事でいないから、夕ご飯どうしようかなと……」
ドアを開けた俺を見て、優くんは固まった。
「……って、顔色酷いですよ!?着替えもしないで……ワイシャツもズボンもシワすごいじゃないですか……」
「シワなんていいよ、別に」
そう言って、俺は彼の腕を掴んで部屋に引き入れた。
そして、思い切り抱きしめる。
「……永瀬さん?」
そのまま彼の身体をベッドへ倒し、両肩を押さえつけた。
その体温が無性に欲しくて、彼の白いシャツの胸に手をかける。
「……待ってください。……待って……!」
彼は全力で抗った。
俺の肩を必死に押しとどめ、ぐっと力を込めて俺を見つめる。
「……これで、あなたの問題が解決するんですか……?」
「……」
「もしそうならば……このまま抱いてください。
でも……捌け口みたいに抱かれるのはごめんです」
俺は、彼の上で喘ぎながら答えた。
「……君の言うとおりだ……
多分こうしても、問題は解決しないだろう……
でも、寒くて……」
「……寒い?」
荒い息遣いの俺の額に手を当てる。
「……って、すごい熱じゃないですか!?寒いなら寒いって……」
「少しだけ、こうさせてくれ」
俺は彼を抱きしめ、その胸に耳を当てた。
温かさと鼓動が伝わってくる。
朦朧とした意識の中で、それは心地よく——俺の中の冷えきった固まりを溶かした。
彼も、じっと動かない。
そのまま——俺は深い眠りに落ちてしまったようだ。
目覚めると、夜明けだった。
あのまま眠り続けてしまったのだろうか。
頭痛も治まっている。
ふと見ると、ベッドの頭上に水分補給のペットボトルと頭痛薬や風邪薬、解熱剤……いろんな薬が用意してある。
ベッドの横には、机から引っ張ってきた椅子にもたれかかって、優くんが眠っている。
ずっとここにいてくれたのだろうか。
射し始めた朝日に照らされた彼の寝顔は、まだ少年の瑞々しさを残して、清く美しい。
俺は、黙ってその寝顔をずっと見ていた。
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