それぞれの思い

 花絵は、歩き出して間もなく足が痛み出した。

 新しい草履のサイズが、少し小さかったのかもしれない。鼻緒が強く指に当たり、擦れてしまったようだ。


「花絵さん、足、もしかして痛いんですか?」

 優が花絵の歩調の不自然さに気づいた。

「いたた……あー、皮剥け始めちゃってる……」

「大丈夫ですか?草履なんて普段履かないですからね……もう少しだけ歩けますか?」


 優は、大通りから少し離れた静かな路地へ入る階段まで花絵を連れて行き、そこへ座らせた。

「ここで、ちょっと待っててください。すぐ戻ってきます」

 優はそう言うと、あっという間に人ごみに消えた。



 優とふたりになったら、何の話をしたらいいんだろう?……ケンカになっちゃったらどうしよう?

 花絵は、少し緊張しながらそんなことを考えていた。

 しかし、彼の自然な優しさに、いつしか身構える姿勢もほぐれていることを感じていた。


「花絵さん、お待たせ!」

 息を切らし、優が戻ってきた。手にはいくつか袋を提げている。

「焼き鳥とビールです。花絵さん、焼き鳥大好物でしょ?永瀬さんが言ってました。あとこれ、絆創膏。すぐそこにコンビニがあってよかった」

「あ……ありがとう。……ふう、これで足すごい楽になった!」

 絆創膏を擦り傷に貼って、二人でビールを開ける。


「花絵さん、こういう場所平気ですか?人混みとか……男の人大勢いますけど…… 」

 優が花絵を気遣う。

「うん、深く関わるのは、やっぱり怖いけどね……だいぶ良くなったの。一般的な人間関係くらいならもう平気よ。ヒロや拓海がそばにいてくれたおかげだと思う」

「……花絵さん、みんなに愛されてるんですね」

「やめてよ、そんな言い方。なんかむずがゆい」

 花絵は、ちょっと照れて笑う。


 鮮やかな線を描きながら花火が上がり始めた。

 二人で夜空を見上げる。


「いいですね、花絵さんは……いつもたくさんの人に囲まれて。

でもきっと、それは花絵さんが自分から行動した結果なんですよね」

 空を飾る明るい輝きを瞳に映しながら、優が呟く。


「——僕は、これまでずっと、人と深く関わったことがなかったんです。

やれって言われたことは何でもちゃんとやりました。

でも、自分から誰かに対して働きかけたことはなかった。

なんか、そんなことどうでもいいように思えて。

……周囲からしたら、無表情で素っ気ない、感じ悪いヤツですよね。

結局、嫌われるか、変なちょっかい出されるか……ずっとそんな感じでした」


「……なぜ、拓海には話しかけようと思ったの?」


 優は、静かな笑顔で言う。

「永瀬さんは、大学の側のカフェで、いつも窓際に座って本読んでました。

ある時、バイトの女の子がテーブルの横でアイスコーヒー落として、床でグラスが割れちゃったことがあったんです。

その時、多分永瀬さんのズボンの裾とかも汚れちゃったと思うんだけど……そんなの全然気にせず、自分のハンカチやら全部総動員して、バイトの子と一緒に床を掃除して……。店長さんに怒られないようにその子を庇ってあげて……

また静かに本を読んでいました。

僕、初めてでした。そういう人。


そんなきっかけです。永瀬さんに話しかけたくなったのは」



 ……そうなんだ。

 私を闇から救ったように——

 拓海は、この子も救ったんだ。


 そしてこの子も、最初から拓海に恋をしてたんだ……


 花絵はそう気づいた。



「花絵さんや永瀬さんに誘ってもらって、こんなふうに皆さんと過ごして、分かったことがあるんです。——自分から動かなきゃ、何も手に入らないんだって。

……体質上、恋だけは一生叶うことがないのかもしれない、と思ったりしますけどね」

 そんなふうに言って、優は笑う。



 大輪の花火が、柳の枝のように緩やかに下へ向けてきらめき、消えていく。


 不意に、酔った中年の男がふらふらと路地に近づいてきた。

「おいっジャマだよ!……あー?おねえちゃんすっごいかわいいなぁ?おじさん酔って歩けないからさぁ、手ぇ繋いで歩いてくんねえかなぁ?」

 暗がりで突然襲ってきた男の大声に、花絵はびくっと硬直した。


「……大丈夫」

 その瞬間、優が花絵の耳元で囁いた。

 後ろの壁に両肘をつき、花絵の顔を挟み込むように身体で庇う。



 ——顔のすぐ間近で自分を守る、思ったよりもずっと逞しい腕と、浴衣の胸元。


「へっ、今の若いヤツは……壁ドンってんだろ?知ってるぞぉーへへっ」

 そんなことを叫びつつ、男はよろめきながら去っていった。



 激しい動悸と震えが止まらない。

 花火が、空気を振動させながらいくつも花開く。


「花絵さん……大丈夫ですか?」


 花絵の両肩を支え、心配そうに優が顔を覗き込む。

 グレーとブルーの混在する、不思議な瞳——。



 思わず涙が溢れた。

 いろんな思いが溢れそうで、胸が苦しかった。


 優くん、ずるいよ!

 優しくて、美しくて……よくわからないけど、ずるい……!



 ぶつけたい言葉がまとまらず、全部嗚咽になる。


 花絵は、優にしがみついて泣いていた。





 花火大会もそろそろ終わりだ。

 とりあえず、一発も見逃さず花火鑑賞を終えた俺とヒロさんは、最初に決めた集合場所へ集まった。

「まだ来てないみたいね」

「うん……あ、来た来た!……って、ど、どうしたの!?」

 花絵が、優くんに支えられて、ぼろぼろ泣きながら歩いてくる。


 ああ、これはとうとうやっちゃったんだな……一体どういうことになったんだろう!??

 おろおろする俺に、ヒロさんが「落ち着きなさいよ」というふうに目配せする。


「いや、ちょっとヘンな酔っぱらいに絡まれちゃって……」

「ちがうもん……優くんが、優しいせいだからね……」

「……僕のせいですか?」



 ……ん??

 ……とにかく、ケンカしたわけじゃない…のかな?



「よくわからないけど、よかったんじゃない?」

 ヒロさんも、ひとことそれだけ言うと、嬉しそうに微笑んだ。




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