法の壁
9月下旬の土曜日。
夏が終わり、空気は急速に秋めいてくる。今日は空も高く澄み、風も爽やかだ。
俺たち4人は、ヒロさんの兄の住む横浜のマンションに向かっていた。ヒロさんのコンパクトカーと完璧な運転技術に全員で甘える。ウチの大黒柱はやっぱりヒロさんなのだった。
「兄は今年33になったわ。去年離婚して、今は気ままな一人暮らしよ」
ヒロさんが、非の打ち所のない安全運転を披露しつつそう話す。
「え、そうだったの?どうして離婚しちゃったの?」
花絵が意外そうに尋ねた。
「仕事が忙しくて、奥さんが愛想つかしたっていうのかな……とにかくワーカホリックなひとだからね」
「こんなふうに私的に相談にお邪魔しても、大丈夫?」
優がちょっと申し訳なさそうに言う。
「大丈夫よ。私の大切な友人なら大歓迎って言ってたわ。その辺は大らかだから」
「そっか、愛されてるんだね、ヒロさん。俺も兄貴って欲しかったんだよなー。うちは姉貴と妹だからさ」
「なるほどねー。女の子に囲まれて育ったから優しいんだね、永瀬君は」
「ヒロ……私のことは、お兄さんになんて言ってあるの……?」
真剣な顔になって、花絵がヒロを見る。
「婚約者って、もちろんちゃんと言ってあるわよ。……兄も、私のことはよくわかってるんだから」
ヒロさんも、心なしか緊張しているようだ。
——それはそうだろう。この相談を兄に持ちかけた段階で、ヒロさんの心にも少なからず重圧があったはずだ。
「……ヒロさん、ほんと感謝してる。ありがとう」
俺は、彼女にそう言わずにいられなかった。
「急に改まらないでよ。なんか恥ずかしいし」
ヒロさんは、ちょっと照れたような笑顔を見せた。
「やあ、お待ちしてました。どうぞ」
海を臨む高層マンションの10階。出迎えた男性はすらりと背が高く、ヒロさんによく似た端正な容姿にかっちりした黒ぶちの眼鏡をかけた、知的な美男子だ。無造作に後ろへ流した髪を指でかきあげる仕草に大人の色気が漂う。かつ頭脳明晰で弁護士で……さすがヒロさんの兄だ。全部揃えている。
「兄さん、忙しいのに時間作ってくれてありがとう。——私の婚約者と、友人よ」
ヒロさんは、ちょっとはにかむように俺たちを紹介する。
彼は嬉しそうににっこりと笑顔になった。
「すごいな、ヒロ。お前は人見知りで、友達大勢連れて来たことなんて今まで一度もなかったもんな?」
「そうよね。私も驚いてる。ほんとに大切な人たちなの」
ヒロさんのいつにない素直な言葉が、なんだかやたらに嬉しい。
「ヒロの兄の、佐伯
「あの——私、真木花絵です。ヒロ……さんの婚約者です。……どうぞよろしく」
ド緊張の面持ちで、花絵が自己紹介する。
「話は聞いてました。ヒロの言う通り、美しくて明るくて……素敵な方だ」
「永瀬拓海と言います。お時間を作っていただいてありがとうございます」
「黒崎優です。いつもお忙しいと伺ったので……ご迷惑ではなかったでしょうか?」
「……あなたたちお二人も、ご結婚される予定ということですね?」
煉さんはにこやかにそう問う。
「はい。——でも、いろいろわからないことだらけで……」
などと答える俺ではなく、彼は優をじっと見つめている。
「……かわいい方だ」
そして艶のある甘い声でそんな台詞を言うと、ひときわ美しく微笑んだ。
「…………ありがとうございます」
優は笑顔を崩さないが、内心がっちり硬直しているのが手に取るように分かる。
「ちょっと兄さん、ヘンな冗談やめてよね!?ただでさえ優くんはいろいろ怖い目に合ってるんだから!」
ヒロさんが慌てて彼を制止する。
「いやいや、僕は客観的な意見を言っただけだよ。心配するな、お前の大切なお友達に危害を加えたりするわけないだろ?……失礼しました、どうぞよろしく」
……煉さん、肉食なところもヒロさんに激似だ……ちょっとコワイ。
*
解放的な明るいリビングで、香り高くドリップしたコーヒーを俺たちの前に置きながら、煉さんは言う。
「——日本では、同性同士の法律上の結婚はまだ認められていない——これは、ご存じですか?」
全員、黙って頷く。
「異性間の婚姻が成立すると、さまざまな法律上の権利が発生しますね。例えば、相続権を得たり、配偶者の代理人として書類へのサインや押印などの行為が認められたり…日常生活から老後、死後にわたり、配偶者を保護する法的な権利が発生します。
ですが、同性間では、仮にパートナーと結婚同然の生活を送っているとしても、これらの権利が発生することはありません。……今の日本では、同性間の結婚は『事実婚』(婚姻届を出さずに結婚同様の共同生活をすること)という形に留まってしまうのです」
多少は知っていたつもりだが——詳細な話を聞くと、やはり胸が重く詰まる。
同性同士の結婚は、日本では法的には認められていない。
どれだけ強い思いで結ばれていても、何の保証も保護もされない「他人同士」でいるしかないのだ。
結婚という事実によって——「夫」という立場で、優を強力に守りたい……俺のこの思いは、現状では叶わない。
同性という、見かけ上曖昧な関係だからこそ、結婚が成立していることを証明する何かが必要なはずなのに——。
「……法的な結婚ができない場合、俺たちがパートナーの権利を守るためにできることは、何もないんでしょうか?」
「いや、パートナーを守るために必要な法的手続きを取ることは可能です。
それに、同姓婚のカップルの権利を部分的に認めようとする自治体も最近出てきましたしね……少しずつ、状況が改善していけばと期待しているところです」
彼はそう言いながら、少し微笑んだ。
「もう少しお時間をいただければ、より詳しい情報をお伝えできると思います」
「ねえ……これって、人権問題じゃないの?」
ヒロさんも真剣な顔で疑問を呈する。
「うん。この問題は、世界レベルでつい最近まで手付かずの領域だったんだ。同性愛は犯罪という時代が長かったくらいだからね。……殊に日本は、この問題に関する理解が諸外国に比べて30年近くも遅れているとも言われている。偏見や差別もまだ根強いんだ」
「……何だか悔しいわね。
——異性も同性も、想いは少しも変わらないのに」
花絵が視線を落として、小さく呟く。
口にしても仕方のない、やりきれない思い。
これは、これからも俺たちにずっと付きまとう思いなのだろうか。
煉さんは、ちょっと空気を変えるように話す。
「こんな仕事をしてると、よく分かるのですが……何不自由ない結婚をしても、幸せを得られない夫婦や家族がたくさんいるんですよね。僕自身、離婚という結果になってしまいましたし。
皆さんが羨ましいです。とても仲睦まじくて。……お互いの愛情の強さを、これからもどうか失わずにいてください。
同性間の愛情についての社会の理解はまだまだ進んでいません。辛い気持ちになることもあるかもしれませんが——お互いの強い結びつきがあれば、怖いものは何もない」
「そんなふうに言ってくださる方がいるだけで……俺たち心強いです、本当に」
「いや、実は僕も、皆さんの幸せになるところが見たいんですよ。……そんな風景が当たり前な社会になったら、楽しいだろうなあ」
そう煉さんは微笑む。
彼の温かい応援が、心にしみた。
「……ところで、お土産に買ってきたケーキは出ないのかしら、兄さん?みんなでここで食べたいから持ってきたんだけど?」
張りつめた空気を、ヒロさんが鋭いツッコミで突き崩した。
「あ、ごめん!すっかり忘れてたよ!こんな風に気が利かないから、僕は」
そんなことを言って煉さんは照れ笑いをする。
「あ、私やります!お皿、勝手に使っちゃっていいですか?」
花絵がすかさず立ち上がった。
「花絵さんは本当にかわいいなあ。ヒロにはもったいない」
「兄さん、花絵は私の最愛の人なんだから、略奪とかしないでよね?」
「全く……そんなはしたないこと言うのはやめなさい、ヒロ。
——こんな僕ですが、できる限り力になります。よかったらいつでも遊びに来てくださいね。……敬語も堅苦しいからやめませんか?ね、優くん?」
「え……」
「だから優くんは永瀬君のだから!!」
またヒロさんに怒られている。——ちょっと肉食だが、本当にいいひとだ。
不安と、希望と——さまざまなものが交錯する思いをまだ整理できないまま……こうして一緒に過ごす人たちの温かさが、今はひたすら嬉しかった。
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