引き金
「やだー遅刻じゃんっ!誰か声くらいかけてよもぉーー!」
土曜の静かな雨の朝は、花絵のドタドタいう足音と乱暴な声で破られた。
「今日あなたが出勤なんて誰も知らないし、起こしてと頼まれてもないわよ」
極上の香り高いコーヒーを静かに啜り、ヒロさんが冷静に受け答える。
「もー梅雨なんて鬱陶しい!傘さしてちゃ走れないしっ。あー間に合わない!拓海、これもらうねっ」
花絵は、俺が最初のひと口を齧ろうとした焼きたてのトーストを奪い、がぶっと大きな齧り跡を残す。
「はいはい、あなたの遅刻は梅雨のせいよね。いってらっしゃい」
「じゃいってきますー!」
花絵はバタバタと玄関を出ていった。
「いってらっしゃい……」
無惨なトーストを眺め、俺も力なく呟いた。
俺たち4人が共同生活を始めて、初めて迎える週末だった。
「全っ然変わらないんだからあの子は」
コーヒーのおかわりを俺にも注ぎ、ヒロさんが呟く。
「百貨店は土曜も仕事だからね……」
俺も、残りのトーストを齧って答える。
普段なら土曜は好きなだけ寝坊するのだが、今日はちょっとした緊張感もあり、早めに目覚めてしまった。
起きてきてみると、キッチンでヒロさんが既にワインカラーのカフェエプロンをキリッと締め、コーヒー豆を挽いている。急いで着替えを済ませた俺がレタスとトーストを準備し、ヒロさんがフワフワのスクランブルエッグを見事な手さばきで焼き上げた矢先だった。
俺たちの新居は、都内でも千葉県寄りの4LDKのマンションだ。それほど新しい物件ではないが、周囲には適度に緑もあり、ゆとりのある間取りが心地いい。
「お互いの生活に干渉しないのは、ウチの決まりの第1条だってのにね」
そう言いながら、ヒロさんは花絵がかわいくてたまらないように笑う。
4人揃って共同生活を始める初日の夜に、我々の「ウチの決まり」をみんなで話し合って決めていた。
といっても、
1.お互いのプライベートに干渉しない。
2.メンバーを悲しませたり悩ませたりするようなウソや隠し事はしない。
こんな、当然といえば当然のシンプルなものである。
「ヒロさん、コーヒー淹れるのうまいね。すごく美味しい」
変な敬語もやめよう、というのも決めた。だが優くんだけは、「歳下だし、その方が居心地がいい」という本人の希望で、敬語が許可されている。
「これはね、私の昔からの趣味。美味しいでしょ?」
今日のヒロさんは、素顔に近いメイクと白い開襟のブラウス、スキニージーンズというシンプルな服装だ。細い腰や長い脚がますます綺麗に見える。料理の腕前も相当らしい。
湿気の多いこの季節、俺もグレーのポロシャツとシンプルなジーンズだ。ヒロさんの前では、汚いジャージとかは封印である。
「……花絵から聞いてた通り、永瀬君はじわじわ来る男前ね。宇宙オタクが痛いけど」
……今のは褒められたのか、けなされたのか。
「おはようございますー……」
いつになく溶けた声で、優くんが起きてきた。髪はモサモサ、ブルーのパジャマの襟が思い切りはだけている。
取り締まり役のヒロさんが再び発動した。
「優くん、寝坊はいいけど服装見る!胸はだけてるし!花も恥じらう年頃なの、わかってる?朝食作るから着替えておいで!!」
「え?あっ!すっすみません!」
優くんがはだけた胸を押さえ、ばたばたと部屋へ戻る。なかなか無防備だ。
年頃の男の子の白い胸元を見て心拍数が上がってしまった俺も大概だ……。と思った瞬間。
「……今、押し倒したかったでしょ」
ヒロさんがぼそっと呟いた。
!!
何か今、見透かされた……のか!?
「なななな、なに言っちゃってんですか!?こんな朝っぱらから……」
「いえ。私もそう思ったから。まあ、男の子だからNGだけど……かわいいなあ」
こともなげにそんなことを言い、淡々と卵を割る。
ヒロさん、コワい……そしてこの動悸をなんとかしてくれ……。
「改めて、おはようございます」
着替えた優くんは恥ずかしそうに言った。ネイビーの細身のシャツに白のチノパン。彼にとてもよく似合う。
*
ヒロさんは、午後から会社で少し片付けたい仕事があるらしい。その間に、俺たちは夕食の買い出しに行くことになった。
「土曜日は、初の週末だから盛大にやろうよ!私はパエリアが食べたいっ」と、花絵は数日前から盛り上がっていた。
「他のメニューはどうしようか?優くん、何が好き?」
「んー、僕、ビーフシチューとか好きです」
「じゃ、そのメニューに合いそうな……シーザーサラダとか美味しいよね?」
「私は、上質のスパークリングワインがあればそれで」
そんなこんなで、必要な食材を2人で仕入れにいくことになった。大きなショッピングモールがすぐ側にあるから大して悩むこともない。
ちょうど、雨も上がったようだ。
「永瀬さん、どうして僕を誘ってくれたんですか?」
雨上がりの静かな歩道を歩きながら、優くんは唐突に俺に聞いた。
「ん?……どうしたの、急に?」
「いや、あの……なんか不思議で」
「え?」
「カフェでちょっと顔見知りになった大学生なんて、普通だったらこんなふうに仲間に入れてくれたりしないんじゃないか、と思って……」
「……」
どう答えたらいいか、俺は言葉に詰まっていた。
「本当は、これは聞かないでいようと思ったんです。聞いて、悲しい思いをするのが怖くて。
……でも、やっぱり聞いておかないと、僕はそのうちひねくれた態度の嫌なヤツになりそうだ」
彼の眼が、俺をまっすぐに見た。
「もしかして、僕のこと、哀れんでるんですか?可哀想な猫を拾った、みたいに……
そういうのは嫌だ。もしそうなら……手遅れにならないうちに、放り出してください。僕もあのカフェにはもう行かないから」
俺の思考は、一瞬止まった。
彼への気持ちは……もしかしたら、哀れみなのか……?
……違う。哀れみじゃない。
もっと、ちがうものだ……。
「……あのさ」
精一杯思いを巡らせてから、俺は言った。
「気持ちに名前つけるのって、結構難しいな」
「……」
「でも……俺は君の楽しそうな顔を、もっと見たいと思った。もっとたくさん君を笑わせたいと思った。これだけは、間違いない」
「……よかった」
優くんは、小さくそう言った。
そしていきなり俺の手をぎゅっと握ると、
「もたもたしてるとヒロさんに怒られますね!買い出し気合い入れなきゃ!今晩はがっつり食べるぞおーっ」
と、ショッピングモールを目指してずんずん歩き始めたのだった。
初めて触れた手の感触は、華奢で滑らかで……そんなことを、オマエ初恋か?というほど異常に意識しているアホな俺がいた。
そして、こんな何気ないやり取りが、それぞれの引き金に手をかけるきっかけになることも、俺自身まだ気づいていなかった。
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