愛する

 花絵は、明日のことを考えていた。


 拓海を愛しながら、ヒロの思いに応える……それは、花絵にとっても理解の難しい状況だった。


 でも、今は4人とも、その関係に同意している。

 ヒロの自分への思いの強さも、よく分かっている。


 ヒロが求めるなら、応じたい……素直に、そう感じていた。




 花絵とヒロが付き合い始めたのは、高校2年の夏だった。


 7月の初めの学校の帰り道、ヒロに抱きしめられ、告白された。

 花絵の思いも同じだった。


 花絵の母は、ひとりで花絵を育てるため、常に忙しく働きに出ていた。

 ヒロと花絵は、外でショッピングやお茶などを楽しんだ後、大抵は花絵の部屋で二人で過ごしていた。


 男性に恐怖感を抱いている花絵とは違い、ヒロは女性しか愛せないことを早くから自覚していたようで、愛情の表現も積極的だった。


「この前は、花絵に突然抱きついちゃったけど…驚いた?」

「ううん、最初はちょっとびっくりしたけど…安心したような気持ちになって…嬉しかった」


「……私ね、花絵にキスしたいの。すごく」

「……」

 もちろん、初めてのことだ。

 だが、ヒロの賢さと優しさには、疑いのない信頼を抱いていた。

 ヒロのすることになら、自分を任せられる。


「……うん、いいよ」


 静かに唇が重なった。

 柔らかな、熱い感触。

 肩にかかったヒロの手に、僅かに力がこもる。


 唇が離れ、視線を合わせた。

 そこには、学校では決して見ることのない、静かな熱を湛えたヒロの瞳があった。


「……次にすることって、何?」


 花絵は、ヒロにそう尋ねている自分に驚いていた。

 この瞳と、長く美しい指と、強い腕の中にどんな悦びがあるのか、知りたい……花絵は素直に、強烈にそう感じていた。



 高校を卒業するまでの間、花絵はヒロと何度もセックスをした。

 ヒロが本気で自分を悦ばせようとしてくれることも、自分が彼女を悦ばせることができるのも、嬉しかった。

 柔らかく、繊細で、強烈に甘い時間。



 ふと我に返った。


 明日は、きっとあの頃の私たちに戻ってしまう……そんな気がしていた。





 ヒロがデートに選んだ場所は、人気のラグジュアリーホテルのスカイラウンジだった。

 夜の街の光の海。東京タワーが目の前に輝いている。夜景が楽しめるよう、店内は照明が落とされ、座席は窓に向かって置かれている。


「すごい……これ、ガチデートじゃない」

「だって、デートだもん」

 ヒロはにこっと笑う。

「焼き鳥屋ばっかりじゃ女はキレイになれないのよ」

「へー。そこまで言う?」

 花絵はおかしそうに笑う。

「……よかった。ちゃんと笑った。その顔、久しぶりに見た」

 ヒロも、今度は心から微笑んだ。


 美しいカクテルが揃い、料理の味もどれも逸品だ。

 カクテルの酔いに少しずつ心を緩ませながら、高校時代のように喋って笑う。


 だんだんと強めのカクテルに移ってゆく。

 ふわり、と甘い酔いに包まれた。


「——花絵、やっぱりかわいい」

「……改まって言うのやめてよ。恥ずかしい」

「いいじゃない。今日は花絵の喜ぶ顔を見たくてこうしてるんだから」



 自分のカクテルを空けて、ヒロが呟く。

「……そろそろ帰る?」

「……」

「それでもいいのよ。——あなたが決めて」


「……ずるい。ヒロは——あなたはどうしたいのか、言ってくれないの?」

「私は、もっと花絵といたい。……こんな邪魔なものみんな脱いで」

 ヒロは、仕事帰りの自分のスーツの襟をひっぱって、よどみなく言う。


「——私もだわ」

 目の前のグラスを空けて、答えた。


 ヒロは、しばらく黙って花絵の瞳を見つめる。

「……本当に?」

「うん」


 花絵の本心を確かめて、ヒロは言う。

「部屋、取ったのよ。……キャンセルだろうと思ったんだけど——」





 酔ってシャワーを浴びたせいだろうか、鼓動と熱が身体から溢れる。

 白いシーツに、花絵の明るい色の髪が柔らかく広がる。

 黒いつややかな髪が、その上に重なる。

 お互いの上気した頬と唇を重ね、そこから首筋へとヒロの唇が辿る。


 花絵の耳元で囁く。

「あなたを愛してる——

いつも。どんなときも。——

何があっても、決して変わらない」


 鼓動の早まる花絵の脳に、その言葉が刻まれていく。


 ヒロの唇は鎖骨を越え、花絵の胸元の膨らみに柔らかく口づける。

 続いて訪れる刺激の強さに、花絵は思わず声を漏らした。



 ヒロは、私の好きな場所を知っている。

 ——拓海よりも——私を知っている——。



 花絵は、途切れそうな理性の中に浮かんだこの言葉を、一瞬意識して——そして、ヒロの例えようもなく大きな波に呑みこまれた。





 その日、俺は仕事から帰宅して驚いた。

「おかえりなさい!」

 優くんが、カフェエプロン姿で出てきた。

 ……かわいい。


「んー……どうしたの?」

「まあまあ、早くカバン置いてきてください」

 慌ただしくカバンを置くと、ダイニングテーブルに招かれた。

 テーブルには、かなりゴージャスなメニューが並んでいる。

「ビーフシチュー、アボカドとトマトのサラダ、フランスパン、オードブルにチーズ盛り合わせ…って、何のお祝いかな?とにかく、すごい空腹なんだ。いただきまー……」

「待った!」

 ストップをかけられた。

「まずこれを」

 いかにも涼しげなカクテル……すごく美味い。これ何だ?

「テキーラ・グレープフルーツです」

「……俺を酔わせてどうするつもりだ?」

 その途端、優くんは俺に冷たい一瞥を投げる。何か言いたそうなのを我慢してるようだ。

 単なる冗談のつもりなんだけどな……?


 空腹に結構強いカクテルを半ば強要されて、ふわふわと軽い酔いが訪れたところで食事となった。

 優くんの得意レシピであるビーフシチューは、やはり美味い。サラダもかなり本格的だ。

「……どうですか?」

「うん、ほんとに美味い。すごいな。いいおムコさんになれるぞ」


 ここで再びギッと睨まれた。

 さっきは我慢して飲み込んでいた言葉が、今度は彼の口から飛び出した。

「永瀬さん、僕が今日なんでこんなことしてるか知ってます?今日もあなたがモヤモヤしたり夜中に眠れないとか思い悩んだりしないようにと思って苦労してるのに、ヘンな冗談ばっかり……」


 ここまで言って、優くんは黙った。

 俺も黙った。


「……そうだよな。彼女たち、今日会ってるんだもんな」


「……気になってるんでしょう?」


 ——優しいな、優くんは。


「大丈夫だよ。みんなでそういう選択したんだからさ。

今日はちゃんと眠れるように、さっきのカクテルおかわり貰おうかな」


 優くんは、やっと気持ちが落ち着いたように、ほっとした笑顔になった。



 彼の意図した通り、俺はしっかり飲んでたらふく食べ、ベッドに入るなり深い眠りに落ちてしまった。


——この日のことに、じわじわと苦しめられることも知らずに。


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