闘う
9月が来た。
まだまだ暑いのに、どことなく秋の気配が漂ってくるのは不思議だ。
会社の休憩室で窓を少し開けて、俺はわずかに涼しくなった風を吸い込んだ。
仕事中は気持ちが切り替わるが……こんな時間の隙間に考えることは、最近はいつも同じことだった。
——花絵と優くんの思いに応えること。
俺が二人のどちらといる時も、どちらもそれを黙認し——俺は、二人を両方愛していいのだという。
頭では何とかわかったつもりでも、心が理解していない。
そんなこと、できるのか……?
——最近ずっと、花絵の笑顔を見ていない……そう思った。
LINEに、「今日都合良ければ飲もう」とメッセージを送った。
「OK!」という陽気なスタンプが返ってきた。
仕事を終え、約束の焼鳥屋へ向かった。花絵のお気に入りの店だ。カクテルや上質のワインなどにあまり興味を示さないところも、屈託のない花絵らしい。
そんな花絵の屈託のない顔が見たかった。
「お待たせ」
花絵は、俺が店に着いて間もなく現れた。
久しぶりに会うような……不思議な感覚だ。
「花絵、なんか変わった?」
「え?」
「……なんか、色っぽくて綺麗な気がする」
「何それ?気持ち悪いよ」
花絵は少し恥ずかしそうに笑う。
この店でいつも頼む甘口の冷酒を、二人分のグラスに注ぐ。
日本酒の柔らかな酔いに少しずつ包まれる。
「花絵、最近どう?」
「ん、何が?」
「いや、仕事とかさ……いろいろ。ウチじゃ、ふたりでこんな改まった話もなかなかできないしな」
「んー……ぼちぼちね」
「ぼちぼちって、解答と言えるのか?」
「そうね、ごめん」
花絵がクスクスと笑う。
そんな他愛のない話で、いつものように笑い合う。
花絵が、ふと静かな顔になって言った。
「……来週ね、ヒロとデートする予定なの」
「……そっか」
透明に光る液体を口に含む。
その味は、甘く優しく滑らかで——花絵を包む、非の打ち所のない女性に似ている気がした。
「拓海の側は、いつもほっとするなあ……」
そんなことを言って、花絵は微笑む。
花絵は、綺麗になった。
以前のあっけらかんと明るく陽気な幼さを、何かで包み込んだような……そんな美しい女性がそこにいた。
「明日休みだったら、もっとゆっくりできるのに……しかも私明日早番よ?」
「……そうだよな、曜日選ぶんだった」
——今日は、このくらいにしなければ。
飲み過ぎると、自分の中の何かがぐらぐらとバランスを崩しそうだった。
*
少し酔っていたはずなのに、眠れない。
真夜中のリビングで、ビールなど開けてしまう。とにかく飲みたいんだから仕方ない。
味気ないビールを呷り、考えていた。
俺は、ヒロさんを尊敬している。
あの美しさだけでなく、冷静さや意志の強さ、判断力、優しさ……どこをどう捉えても、彼女に至らない点など見つからない。自分の欠点を知り、それをカバーする力をも身につけたのだろう。
……今度花絵と会えば、ヒロさんは花絵を抱くだろう。全てを包む大きさで。心から花絵を愛するその情熱で。
———勝てない。
変な酔いが回ってしまった頭で、気づけば俺はそんなことを考えていた。
勝てない……って、どういう意味だろう……自分でもよくわからない。
「あれ、こんな時間に……どうしたんですか?」
コーヒーのおかわりだろうか、優くんが部屋から出てきた。
小説の創作に打ち込むのも分かるが、夜更かしも大概だ。
「よい子は早く寝なきゃいけないんだぞ」
「よい子とか言わないでください」
「そっか、ゴメン」
少し怒らせたようだ。
「ちょっと眠れなくてさ……たまにはそんな時もあるよな」
「……永瀬さん、悩んでるんじゃないですか?」
俺の隣に座り、彼はそう言った。
はっとした。
「……なんで……」
そんな顔を、誰にも見せていないつもりだった。
「当たったでしょう?
永瀬さん、最近いつも、何か違うこと考えてるような気がしたから……
——永瀬さんは、誰かのために、いつも自分のことを後回しにしてしまうひとだから」
優くんは、俺を見て静かに微笑んだ。
誰かのために、自分を後回しにしている……他人から初めて言われた言葉だった。
自分でも無意識にその苦しさを押し殺してきたことを、彼は見破っていた。
——それをわかってくれていた。
「苦しかったら、苦しいって言ってください。
僕に何ができるかわからないけど……どんな話でも聞きます。あなたと一緒に考えます。
だから、ひとりきりで抱えないでください」
これから独りで闘うつもりでいた自分に、手を差し伸べてくれる人がいる。
彼は、俺に愛されることだけを待っている儚げな男の子ではなかった。
「ありがとう。——君がそう言ってくれたから、俺眠れそうだ」
優くんは心から嬉しそうな顔をした。
俺はこの時、何に勝てないと思ったのか。何と闘おうと思ったのか——
何となく感じていたこの不安感は、後に激しく俺を襲ってくることになる。
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