スタートライン

「あのさ、拓海……」

「ん?」

「昨日、煉さんから話聞いて……どう思った?」


 煉さんの家を訪問した翌日、日曜の夕方。

 俺の部屋を優が訪れ、そう話し出した。


「……そうだな。……やっぱり、少し残念だったかな」

 俺は、少し笑いながらそう答えた。


 俺たちが結婚するって、結局なんだろう——そんな疑問が、俺の中で大きくなっていた。


 結婚によって、パートナーを末永く、強く守っていきたい。

 俺のこの希望は、現状では叶わない。

 今の日本では、同性間の結婚が法律上の保護を受けることはできない。

 婚姻関係を証明したくても、正式に証明する方法もない。



 ……ならば。


 俺たちの結婚って、何だ?


 そこから先に進めない俺がいた。



「……優は、どう思う?」


「……んー……」

 静かな表情で、彼は考えながら話す。

「僕はしたいな、結婚。……法律の保護なんかなくても」


「……でも、結婚したとしても、俺たちは今のまま何も変わらないんだよな?関係を証明もできないし、法的にも守られない……これ以上強く結びつくことができないってことだろ?」

「うん……表面上はそうなんだろうけど」


 そう言うと、彼は俺をまっすぐに見た。


「……結婚って、スタートラインだよね。

それを、僕は欲しいのかもしれない。

——ここから僕たちは家族になるんだ、っていう、新たな気持ちになれる気がするからさ。たとえ、法的な何かに守られないとしても。

何となく繋がっている関係じゃなくて……周りの大切な人たちにも知ってもらって。僕たちは結婚したんだ!っていう思いを、自分の中に刻みたいんだ」



 優の気持ちが、手に取るように分かった。


 優は、これまでずっと、この世界にたったひとりきりだった。

 法律より何より……彼は、今までとこれからを分けるラインが欲しいのだろう。

 ひとりだった時間を終わらせて——家族になった、という出発点が。



 俺の希望は、今の社会ではまだ叶わない。

 でも、優の希望は、叶えることができるのだ。


「……そうだよな。

優がそう思ってるなら……俺たち、先に進もう。

——俺、優にプロポーズして、やっぱりよかったんだな。

ちゃんとスタートしよう。俺たち」

「そうだよ?そんなに簡単にプロポーズ取り下げられちゃ困るんだからね?」

 優は、冗談混じりに俺を睨むと、そう言って笑った。



「——僕たち、結婚しよう。拓海」



 君と、スタートラインを一緒に引いて。

 そこから、君と並んで歩き出す。


 胸の底に、じわっと熱くなるものを感じながら……

 俺は、彼を思い切り抱きしめた。





「あ、兄さん?

昨日はありがとう。またいろいろ相談するかもしれないけど……いい?」


 ヒロは、自室で兄の煉に電話をしていた。

 忙しい中、自分たちを温かく受け入れてくれた兄には、感謝せずにはいられない。

『ああ、もちろん大歓迎だよ。みんないい友達だな、ヒロ。いつでもおいで』


 少し間を置いて、煉が言葉を続ける。

『——花絵さんのこと……父さんと母さんにも、いずれ話すんだろ?』

「……ええ。時期を見てね」

『……母さんとは、たまには連絡取ってるのか?』

「連絡?そんな楽しいおしゃべり、私たちがちょいちょいすると思う?」


『——僕が言うことじゃないかもしれないけど……ずっと、母さんとそんな関係でいいのか、ヒロ』

「……こうなったのは、私のせいなの?私こそ、何で母さんとこんなふうになったのか知りたいのに——」

『……』

 兄の困惑した様子が、電話の奥から伝わって来る。


『……とにかく、父さんと母さんも、快く受け入れてくれるといいな』

「ええ、そうね」

 ヒロは、無表情な視線で前を見つめたまま、抑揚なく兄に答えていた。


 ——問題ないわ。

 認めてくれるに決まっている。父も、母も。


 ヒロは、そう思いたくて、手の甲で額をごつごつと叩いた。



「ヒロ、今いい?」

 花絵が部屋のドアをノックする。


「あ……いいわよ」

「ヒロの好きな銘柄の赤ワイン見つけたから、買って来ちゃった。ちょっと飲もうよ!今日の夕食当番は拓海と優くんだから、夕食までのんびりできるわ」

 花絵は既にワインとグラス2つを持って準備万端だ。



「……花絵」

 ヒロは、テーブルにワインを置いた花絵を、きつく抱きしめていた。


「……ヒロ?」


「……あなたを、幸せにするわ。……どんなことがあっても」


「……何かあったの?」

「………」


 自分の中の複雑な思いを、花絵には話せない。

 自分の家族のことで、花絵に不安な思いをさせたくなかった。



「——私は、あなたに幸せにしてもらう気はないわ」


「……え?」

 ヒロは、驚いて花絵を見つめた。


「だって、私たちふたりで力を合わせて、幸せになるんでしょ?

どっちもか弱い女の子同士なんだから。私たち」

 そんなふうに、花絵はおどけて笑う。

 思わず、ヒロも笑った。


「……そうね」

「そうよ」

 花絵は、ヒロの唇に柔らかく自分の唇を重ね、その瞳を見つめた。



「……っていうか、拓海たち、今日夕食当番って忘れてない!?なんかキッチンで全然物音がしないんだけど?拓海ー!優くん!ほらほら当番サボるな!!」

 花絵がドアから顔を出して大声で呼びかける。

「あーーー!すっかり忘れてた、まずいぞ優!」

「ヤバい!仕方ないから今夜は拓海のフツーのカレーだな」

「なんだよそれ!明らかに俺のレシピをバカにしてるだろ!?」

「いや、眼をつぶってもできる時短レシピはそれくらいだなーと思って」

「しっかりしてよね?これだから男どもは全く!」



「——大丈夫。

……きっと、何があっても」


そんな3人を笑いながら見つめ、そうヒロは呟いた。


 



「おまたせー。拓海のフツーなカレーライスとグリーンサラダで申し訳ないけど」

「申し訳ないとか言うなよな?」

 俺と優で慌ただしく完成させた夕食である。

 優がカフェエプロン姿でスマートに給仕すると、フツーのカレーでも許してやる、というような雰囲気になるのでちょっと悔しい。

「花絵さんとヒロさんはシャンディガフにしてみたよ」

 冷やしたビアグラスに、冷えたジンジャーエールとビールを1:1。これを軽くステアして完成する、爽やかに甘いカクテルだ。優はこういうところがほんとに器用だ。

「やーん優くん、もうこれで今日の夕食大満足!フツーなカレーも気にならないわ」

「あら、それじゃ永瀬君がかわいそうよ。フツーのカレーもすごく美味しいわよ、飽きがこなくて」

 多分、全然褒められてない。


「拓海も。おつかれ」

 椅子を引いて不満げな俺を座らせ、優がグラスにビールを注いでくれる。

「拓海のカレー、僕は大好きだからさ」

 こんなふうに、結局喜んで彼に丸め込まれてしまうアホな俺である。



「ねえ、私たち、結婚した後ってバラバラになっちゃうのかな?」

 花絵が、ふとそんな話をする。


「……どうなのかしら」

「……別々に……なるのか、俺たち……」

「……あんまりイメージできないね、別々になった僕たちって」



「……いいんじゃないか?一緒で」

「うん……今までだって少しも支障ないし」

「夕食当番持ち回りでラクだしね」

「花絵の発想はともかく、やっぱり2人より4人じゃない?」

「じゃ、決まりー!」


 あまりにシンプルな決着に、思わずみんなで吹き出した。


「じゃ、ラブラブで仕方ない私たちに乾杯——!!」


 先のことなんて、まだ誰にもわからないのだが——どうやらよほどやむを得ない事情がない限り、俺たちはこれからも一緒のようだ。


 そして、やっぱり4人一緒でよかったんだ……と、俺たちがはっきり実感する出来事が起こるのは、これからもう少し先のことである。


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