嵐の中に消えた想い
それは、レラとの夏が終わり、入院する母親のもとに戻ろうと思っていた矢先の台風だった。
「大型で非常に強い勢力の台風二十一号は、沖縄本島を通過し、勢力を保ったまま九州南部から日本列島に上陸。今夜にも……」と胸の大きい童顔のニュースキャスターが深刻な顔で告げた瞬間、音もなくテレビ画面が消えた。停電だ。
暗くなると、家の外で吹き荒れる風と雨が音量を増した。ひゅうううう、と長く引くような風音がして、窓がガタガタ揺れた。
あらかじめ置いておいたライトをつかみ、洗面所にあるブレーカーのパネルを調べてみたが、スイッチはすべて元の位置だった。
海に浮かぶ孤島のように、高台にポツンと建つ平屋だ。ただでさえ、地上ではちょっと風が強いかなという日でも、ここでは吹き飛ばされそうな強風だったりする。
引っ越してきて以来、ここまで強い嵐に見舞われるのは初めてだったが、なんでこんな好物件が空き家で家賃も安かったのか、その理由がわかった気がした。
まるで性悪な女神が、自分の掌にへばりついた無力な虫を、吹き飛ばすか飛ばさないかのぎりぎりの吐息で、面白半分に遊んでいるようだった。
カーテンを開く。無数の波紋が広がる黒い窓の向こう、蛇行して下っていく道路にいつも点々と輝いている青白い街灯も全部消えている。深い闇を挟んだ先には、雨ににじんだ町の灯がぼんやり光っていた。どうやら停電はこの一帯だけらしい。
そのとき、家の外で、金属のバケツでも転がるような派手なガラガラ音がして驚いた。
バイクはサエキのマンションのガレージに避難させてもらっている。別の何かが飛ばされでもしたのだろうか。
ライトと傘を持ち、サンダルを履いてドアに手をかけた。ぐっと押したが、ドアは外から重いものでも立てかけられたように開かない。
体重をかけた。ひゅおおおと飛行機の機体に穴が開いたみたいに空気が流れ、ドアが軽くなった。途端に雨粒を含んだ風が前髪を逆立てた。傘なんてさす気にならない、横から吹きつける雨だ。
目を細めてドアの隙間から外に滑り出る。
そこら中で草が小刻みに震え、狂ったように木が左右にしなっていた。電灯らしいものはすべて消えていたが、かえってほのかに明るく感じた。
バケツや、植木鉢や、ポストや、折れた太い木なんかが、心霊現象のようにあちこちで動きまわり、雨が薄い流れを作るアスファルトの上に、制服姿の女の子が立っていた。
長い髪は小さな頭にぺったり張り付き、青白く光る透明なブラウスは身体のラインをくっきり浮かばせていた。えんじ色のスカートもソックスも革靴も、黒々と重そうに濡れている。
乱暴な風と横殴りの雨にさらされた夜の丘に立つその姿は、吹き飛ばされそうになりながら耐える最後の花弁のように現実味を欠いていて、今にも泣き出しそうな顔で俺を見ていなかったら、幻とでも思ったことだろう。
「レラ!?」思わず叫んで走り寄った。
レラは、ふらふらと向かい風に逆らうように少し歩いて、それから立ち止まって俺を見た。俺は、半分抱きしめるみたいにレラの濡れた細い身体をつかんだ。
「おまえ……なにやってんだ!?」
「よかった……」レラは俺の胸におでこを押し付けて、ホッとしたように言った。「電気、ついていないし、バイクも、なかったから、タキくん、もうどこかに行っちゃったかと思った」
「ダメだ。電気もガスもぜんぶ死んでる」
部屋をひと回りしてから、俺は、頭からバスタオルをかぶり、毛布にくるまってベッドに座るレラに声をかけた。
「風呂か、せめてシャワーだけでも入らせてやりたかったんだけど」
「ううん。大丈夫」
「寒くないか?」
「寒くないよ」
相変わらず強い風が窓をガタガタ鳴らし、上から横から打ちつける雨音が暗い部屋に響いていた。ベッドにちょこんと座り、虚ろな表情でテーブルに置かれたランタンを見つめるレラは、まるで嵐の中救助された遭難者のように見える。
濡れた制服はすべて脱がせ、俺の長袖シャツと部屋着のスウェットに着替えさせた。浴室の洗濯かごを見たら、ぐっしょり濡れた制服に隠すように、水色の可愛らしいブラジャーも入っていた。
俺がキャンプで愛用しているランタンが、オレンジ色の艶のある光で、レラの美しく青ざめた顔を温めていた。ランタンの隣では、同じキャンプ用のガスバーナーがごうごうと音を立てて、ケトルを沸かしていた。
「怖くないか?」
「怖いよ」とレラは素直に言った。そして健気な顔で少し笑った。「……でも、ここまで来る途中ほどじゃないかな」
本当は、もっと肝心な質問があるのに、レラの思いつめた表情に、それを聞くのがためらわれた。
少しでも身体が温まるようにとココアを作った。
レラはカップを両手で持ってふうふう言いながら少しずつ飲んだ。
「腹減ってないか?」
「…………うん。すこし」
「待ってろ。なんか作ってやる」
そうは言っても、ガスバーナーしか使えないから、鍋でお湯を沸かし、パックのごはんとレトルトカレーを湯煎した。
その間の長い時間を、レラはひと言も口を利かず、青白い炎をじっと見つめていた。こうしていると、本当に、雨と風からの避難所にふたりきりで取り残された気がしてくる。
レトルトごはんのパックを開け、そこに黄金色のルーを流し込んでベッドに座るレラに渡した。カレーの香ばしく食欲をそそる匂いに、ようやくレラの表情が少し緩んだ。
「うあ。おいしそー。なんか、キャンプみたい」
「そうだな。たしかに」と俺も微笑みを返す。
ふたりで言葉少なにカレーを食べながら、窓をひっきりなしに叩く雨と風をぼんやり眺めた。
闇が海のように広がる丘の下では、パトカーや消防の赤いランプがいくつも点滅して忙しく動き回っていた。事件か事故でもあったのだろうか。物々しい雰囲気だ。こんな天気だけに、厳戒態勢であっても不思議じゃない。テレビが消える直前、福海町全域に大雨洪水波浪注意報が発令されたと聞いた。それなのに。
なんでお前は、こんな台風の中、とつぜん俺の家に来たんだ。
そのひと言がどうしても口に出せない。
着の身着のままの制服姿、全身ずぶ濡れで、荷物すら持たず、どう考えても普通じゃない。だけど、その理由を聞いてしまったが最後、もう後戻りはできなくなるような気がして、俺は何も言えなかった。
自然と俺は無口になり、俺が黙りこくると、レラの口もぴったり閉じてしまった。
手持無沙汰なもんだから、またケトルをバーナーにかけて湯を沸かし、ゆっくりと時間をかけて馬鹿丁寧にコーヒーを淹れた。
レラはベッドの上で膝を横に女座りして、方向の定まらない視線を暗い窓の外に向けていた。
ふたり分のコーヒーを淹れると、やることもなくなり、俺はレラの前のテーブルに湯気の立つマグカップを置いて、部屋の奥の畳にどっかり座った。
嵐に閉じ込められた、電気もガスも止まったこの暗い部屋に、ふたりきりで居ることを意識し始めた途端、今まで肉体の奥にずっと押さえつけ、目をそむけようとしていたレラへの気持ちが、あふれそうになるのを自覚した。
今、はっきりと俺は、レラを女として意識している。こんな言葉は使いたくない。でも、正直に言ってしまえば、俺はレラにたまらなく欲情していた。
レラが何をしに来たかはわからない。でも、きっとレラは、俺が心の赴くまま流されたとしても、それを拒絶せず受け入れてくれる。そんな気がした。その確信が、自分の最後のタガを外しそうにしている。
レラを大事にしたいのに。傷つけたくないのに。
そのピュアな気持ちと、ストレートな欲望との葛藤に、気が狂いそうだった。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、レラは無防備な雰囲気でベッドに座っている。
少しでもそこから遠ざかるように、和室スペースの窓際ギリギリまで後ずさった。
気を紛らわそうと外を見るが、風も雨もいっこうに弱まる気配はない。
突然、テーブルに置いたライトの光量が衰え、ろうそくほどの頼りない明るさになった。
闇が濃度を増す。
「…………っ」レラが息をのむ気配。
「やべっ。電池切れだ」と俺は慌てた。「くそっ。この前、長く使ったからな」
そうは言っても、予備の電池も、代わりのライトもすぐにはない。
やがて、力尽きるようにライトの光が消えると、頭から黒い布でも被せられたみたいに視界が完全な闇に閉ざされた。聴覚だけを残し、感覚が遮断されたようだった。
「だ、大丈夫か……?」
思わずベッドのレラに声をかける。
返事はない。そこにレラが居るかもよく見えない。
びゅおおおお、とひと際強い突風が吹いて、巨大な手が俺たちを脅かそうと家を揺らしたように、壁全体がしなり、窓が派手な音を立てた。
レラが小さく悲鳴を上げた。
「レラ?」俺はそっちのほうに声をかけた。
そんなことをしても無駄だとわかっているのに、何度もまばたきして目をこすった。
闇の中から突然白いものが現れ、俺にぶつかってきた。
驚きの声を上げる前に、柔らかくて熱い感触を身体に感じた。小さなふくらみと固い突起が押し付けられた。細い腕が俺の輪郭を確かめるように動き、ぎゅうっと抱きついてくる。
レラは、ためらいも羞恥もなく、溺れかけた人間のように必死で俺にしがみついていた。
「……ごめん」暖かい吐息まじりに。レラは固い声で「……こ、こわくて」
女の身体の感触にクラクラしながらも、俺は必死で落ち着いた声を作った。
「いいよ。大丈夫」
言いながらも、頭が痺れ、自分を見失い始めているのがわかった。レラが欲しい、レラの中に入りたい、振り切れそうなほどの衝動があった。でも、一度その本能に身を任せたら最後、どこまで行ってしまうか自分でもわからなかった。
俺は、レラのまだ濡れた頭をぽんぽんと撫でた。
ことさら紳士的に振舞うことで、無理やり自分にブレーキをかけるように。
何も見えず、嵐の音だけが大仰に響く真っ暗な部屋の中、俺は壁に背をもたれ、レラは俺に身体を預けたまま、しばらく密着し、抱き合っていた。
レラの身体は熱く、震えていた。小さく激しい鼓動を直に感じた。そのストレートな怯えと不安が、俺の理性の最後の防波堤だった。
どのくらいそうしていただろう。
ごうごうと響き続ける風の音に奇妙な音が混じっていた。
それは鳥の鳴き声のように、一定のリズムで繰り返される音だった。
それはレラの口から発せられる音だった。
耳を澄ませると、それが何かがわかった。
すき。すき。すき。すき。すき。すき。すき。すき。すき。すき。
レラは、そう、繰り返し呟いていた。
ぞっとした。それが誰に対するどういう気持ちの言葉なのかはもちろんわかったが、嬉しさよりもまず恐怖のような気持ちが先に来た。
「……れ、レラ?」思わずレラから離れようと。
ぐっとレラが全身でそれを止めた。暗さに慣れてきた俺の目に、レラの小さな白い顔が見えた。闇の中で、猫のようにはっきり輝くレラの美しいアーモンド形の瞳に、熱っぽい、妖しい光が宿っていた。
そうして、レラは俺の目を見ながら、はっきりとこう言ったのだ。
「好き」
「レラ……」
「わたしは、タキくんが、タキくんが……すき……好き……好きです」
熱い吐息と一緒に、全身全霊で出された、嵐の中でもはっきり通る強い言葉。
熱と潤いを帯びたその告白に、俺の頭の最後のネジが吹っ飛んだ。
レラの身体を抱きしめた。我を忘れて。爆発した感情に突き動かされるまま、そのか細い身体を、強く抱きしめていた。
レラは、はあはあと荒い息遣いで、悲痛な口調で、それでも優しく言った。
「……わたし……ど、どうすればいいかとか……よくわかんなくて……」言いながら呼吸はどんどん熱く激しくほとんど苦しそうなほど「……だから……タキくんが……ぜんぶ……やって……」
弾かれたように俺はレラを横向きに持ち上げた。
目はもう闇に慣れ、青灰色の薄い闇を通した先に、白いベッドが浮かび上がっていた。
強引なお姫様抱っこのまま俺はそこまで歩きレラをばふっと横たえた。
レラは両手両足を投げ出し、あごと肩だけは緊張させて、くったりと、無抵抗に仰向けになった。
ベッドに押し倒されたレラは、下から俺の首に両腕をまわし、耳元でささやいた。
「……タキくんの好きなように、なんでもしていいからね……」
その艶めかしい声は、やがて、必死な、懇願するような声に変わった。「……でも。その前にちゃんと……レラを恋人にしたいって……言って?」
その言葉は、氷の剣のようにズクリと俺の眉間に突き刺さった。
俺は、身体をもぎ取るようにして、レラから離れた。
そのまま、はああああ、と身体中すべての息を吐いた。
「ど、どうしたの?」
「………………」
「わたし……なにか、へんなこと、言った……?」
身を起こしたレラが、すがるような口調で、俺の背中に手を置いた。
「……ダメなんだ」と俺はベッドの端に座りレラに背を向けたまま「……できない」
「え?」とレラが驚いた声を出した。今までの艶めかしい声が嘘のような、現実的な声だった。「なにが? いきなりどうしたの?」
「…………ごめん。そうできたらいいと思う。でも、俺はレラのカレシになる資格は」
「ちょっとまって? なんで!?」レラが俺の肩を揺さぶった。「わたしはタキくんのことが好き。今までこんな気持ちになったことなんてない。これからも、こんなに誰かを好きになることはない。絶対にない! それは、タキくんだって同じだって……! わたしのこと、同じように考えてくれてるって……そう思って……だってわかるでしょ? わたしたちは、お互いが特別で、代わりなんて居ない存在で、世の中じゅう探したって、お互い以上の相手なんてたぶん見つかりっこないって……!」
俺は、後ろから肩に置かれたレラの手に自分の手を重ねた。
「……それでも、俺は、おまえの気持ちにはこたえられない。今はまだ」
「どうして!?」
「…………俺には」俺は激しい自己嫌悪に押し潰れそうになりながらそれをレラに告白した。「……カノジョが……居るから」
「はい?」
レラは素っ頓狂とも言える声を出した。
「恋人が居るんだよ」と俺は半ばヤケになったように「ずっと離れているけど」
「ナニソレ」虚ろな声。最初、レラは笑ってすらいた。「なにそれ!」叫び、やがてその声が震えて。「な、なにいってんの……わけ、わかんないよ……」そしてついにそれが嗚咽に変わった。
「……わた、わたわたし……あっ、あそばれて……たの……?」
「ちがう!」俺は振り返って叫んだ。「そんなわけがあるか!」
「……だったら……わたしって、なんなの……?」
恐ろしいほど空虚な声だった。その身体は俺から逃げるように、ベッドの端、雨がぶつかる黒い窓際にまで後ずさっている。
「カノジョが居て、そんな気もなくて、どうしてわたしに近づいたの? 構ってきたの? 優しくしたの!?」
「……あの港町でレラを最初に見たときから、なんか、放っておけないと思った。自分と似ていると思った。だから、俺にできることで力になりたい、そばに居て色々してあげたいって……」
「………………」
俺の言葉は底の見えない深い穴にただ吸い込まれていく。
……ワタシッテ、アナタノ、ナニ……
その穴の奥から、幽鬼のようなか細い声が聞こえてきた。
「レラは……おれのいちばん大事な……友達で」
「トモダチ!?」嘲るようにレラはヒステリックな叫びをあげた。「これが友達? わたしたちの、この関係が、友達……!?」
レラから目を背けた。
レラは、身を乗り出して、ほとんど殴るように俺の肩をつかんだ。
「これが友達だっていうんなら!」急速に声から力が抜けていく。「……わたしは……友達なんて……いらない」
その悲痛な声に両足から力を奪われ、俺は床にへたり込んだ。
嵐の底に切り離された蒼い闇の中で。
声を押し殺したすすり泣きがずっと響いていた。
雨の音。風の音。建物が揺れる音。窓が騒ぐ音。レラのすすり泣き。俺は、自分の自己満足が、どれほど深くレラを傷つけたのかを思い知った。
「帰る」突然、レラがキッパリした口調で言った。
「え?」
レラは俺の身体をぐいっと邪魔そうに押しのけると、ベッドから降りた。
「ちょっと待て。帰るって。外は嵐だぞ?」
レラは聞こえていないかのように俺に背を向けたまま、突然その場で俺のシャツを脱ぐと、壁に叩きつけるように投げ捨てた。透明感のある闇の中、幻のように美しいレラの白い裸の背中が浮かび上がった。
「れ、レラ?」
思わず立ち上がり、レラに触れようとした。レラは「触らないで!」と鋭く言った。俺は手を引っ込めた。レラはさらにズボンも脱いだ。小さなお尻にショーツだけという姿が闇の中でもはっきり見えた。ついさっきまで、コントロール不能なほど高まっていた俺の性欲は凍りつき、そんなレラのあられもない姿を見ても、少しも欲情しなかった。
レラは足音も立てずヒタヒタと洗面所に向かい、習慣的に電源のスイッチを探り、カチカチカチとイラついた様子で音を立てたあと、闇が穴の中で濃密に固まった洗面所に入った。そして濡れた制服が入ったかごを持って出てきた。
おそるおそる近づこうとした。
「来ないで」その気配だけでレラはぴしゃりと言った。「もう心配しないで。これ以上構わないで。関わらないで。迷惑だから」
「おい。ちょっと待て」
「今までありがとう。さよなら。わたしのこと、忘れてください。わたしもそうします」
そのまま俺に背を向けると、暗い部屋の真ん中に立ち、ブラジャーを付けようとする。
「そんなことできるわけねーだろ!」
その背中に思わず叫んでいた。
レラの身体がびくっと硬直した。
胸を手で隠したままゆっくりとこっちを振り返る。
俺は自分のシャツを脱ぎ、レラの裸を覆った。
「おまえのこと、考えるな? 忘れてください? ……無理だよそんなの」
自分でも驚くくらい弱々しい声が出ていた。カッコをつける余裕なんてもうどこにもなかった。
「正直に言うよ。……俺はいつだってレラのことばかり考えてるんだ。家に居ても、バイクに乗ってても、大学に居ても、本を読んでても、散歩してても、飯食ってても、頭の中はおまえのことでいつもいっぱいだった。レラ、いまどこに居るんだろう。なにしてるんだろう。会いたい。話したい。いや、ただ見ているだけでいい。お前と仲良くなってからは、そんなことばかり考えている。か、母さんが……」
そこまで一気にまくしたてて、俺は一度大きく息をついた。
いつのまにかレラの手が優しく俺の腕に触れていた。俺のシャツは床に落ち、レラの可愛らしい胸が露わになっている。俺は目をそむけて続けた。
「……母さんが死ぬかもしれないってときなのに、それでも、考えるのは、レラ。おまえのことばかりなんだ。おまえの言う通りだよ。こんな気持ち初めてだし、おまえ以外の誰もきっとこんな風にはならない」
情けないほど声が震えていた。自分じゃないみたいだ。
「だったら、別れてよ……」レラは絞り出すように言った。「今すぐ、その女と別れて! ここで! 私の目の前で! いま電話して!」
「俺だって、できるならそうしたいよ! けど、連絡がつかねーんだ!」
「なにそれ」レラの乾ききった声。
俺はことの経緯を説明した。一年ほど前に喫茶カルディで知り合い、向こうから付き合ってくれと言われたこと。サエキにもそれは話しておらず、この町で知っているのはカルディさんだけだということ。その相手が春に就職して東京に行ったあと、とつぜん連絡が途絶えたこと。電話もメールも繋がらないこと。手紙も返事が来ないこと。
「なんなのそれ」とレラは力なく笑った。「そんなの付き合ってるなんて言えないじゃない」
「だけど、ちゃんと別れたわけでもない」
「そんな相手に縛られるのなんておかしいよ。どうせ、新しいひと好きになったんだよ」
そう言ってから、レラはしまったという顔をしたのが暗がりでもわかった。
「俺だってそう思うよ」苦笑する。「でも、ひょっとしたら事件とかに巻き込まれたのかもしれない。なにか事情があるのかもしれない。それに、相手がどうこうとかじゃないんだ。自分がどう振舞うか、なんだ」
「………………」
「偉そうだけど、レラ。……お前が好きになってくれたのは、恋人が居るのに、流されて他の女の子に手を出しちまうような男じゃないはずだ。違うか?」
レラは何も言わなかった。
「レラ。おまえ、マリモの短冊に書いたろ? 信じられるものが欲しいって」
「え? なんで知って……?」
「俺が、その存在になりたいって。お前にとって、信じられるものでありたいって思うんだ。そのためには、どんなにくだらない、どんなに馬鹿らしく見えることだって、おろそかにしちゃいけない。だから、俺は、形だけのものかもしれないけど、その子を裏切れない。……信じるって、そういうことだろ?」
レラは何も言わなかった。
「俺だって、ほんとうはレラと同じ気持ちなんだ。いや、俺のほうがもっともっと気持ちは強いかもしれないぞ。俺は、レラとキスだってしたい。その先のことだってしたい。お前が欲しくてほしくて、頭がおかしくなりそうだ」
闇の中でもレラが羞恥に顔を染めるのがわかった。俺は続けた。もう止まらなかった。
「だいたい、友達とか言ったけど、ほんとうはお前には、俺以外の誰とも付き合ってほしくない。それどころか、他の男と話したり、接するのも許せないんだ」
目を閉じたまま、裸のレラを有無を言わさず抱きしめた。冷たく、柔らかく、熱く、細い、不思議な存在感を確かめるように。レラに対する激情が息もできないくらいあふれて、俺は、自分がどれだけレラを想っているかを思い知る。
「……ずっと誰のものにもならないで欲しい、俺だけのレラで居て欲しいって……そんな勝手なこと考えている」
「……自分はカノジョ居るくせに……」
いじけた声でレラは俺の背中に手をまわす。
自然に俺たちは優しく抱き合っていた。
「そうだよ。もっと早くお前と出会えてたらって心底思うよ」女々しい口調で俺は言った。「その子から付き合おうって言われたとき、俺、思ったんだ。こんな、俺みたいな男を好きになってくれる女の子なんて、もう他に居ないかもって」
「わたしは好きになったよ」レラは慈愛と確信に満ちた声でささやいた。「ほかの誰よりも。これ以上はないほど。別の誰かなんてもう要らないくらい」
「……ああ。だから、俺は、決めてたんだ。近いうちに東京に行って、その子と会う。そして、必ずケリをつける。それから、スッキリした身体で、レラ、お前ともう一度会うって」
「そのひとが絶対に別れたくないって言ったら?」俺の腕の中で、レラがうつむく気配を感じる。「じつはほんとうに病気とか事件とかに巻き込まれてて、連絡できなかっただけとかで……」
「それでも俺の気持ちは決まってる」俺はきっぱり言った。「その子にとって、ほんとうは俺じゃなくたって別にいいんだ。他の誰かとでもきっと幸せになれる。だけど、俺とレラは違う。俺にとってのお前も、お前にとっての俺も、代わりなんて居ない。居るもんか! 俺たちは絶対にお互いじゃないとダメなんだッ」
渾身の言葉だった。
でもしばらくレラは何も言わなかった。
それでも俺は待った。
そして、その言葉が時間をおいて染みこんだとき、レラが泣き出すのがわかった。
大丈夫。この涙は暖かい涙だ。俺の言葉はちゃんとレラの心の深い場所に届いている。
目を閉じたまま。俺はレラをそっと放した。
そして、わざとらしい、ことさらエラそうな口調で、
「もう少しだけ待っててくれ。あらためて、俺からレラを迎えに行く」がばっと頭を下げた。「それまでは、俺への気持ちを大事にとっておいてくれ」
「………………」
「誰も好きになるな。どこへも行くな」
「………………」
「……自分勝手なお願いで悪いんだけど」
「まったくね」レラは軽やかに。涙と笑いが混じった声だった。「タキくんが自分勝手でエラそうなのは知ってたし、まあそれもコミで好きになったんだけど、それにしたって勝手な話だよね。これ、逆の立場だったら、どうすんの?」
「お前にカレシが居たらってこと?」
「そ」
「居たじゃねーか。ほら。花火もそいつと行ったって」
「キスすらさせておりませんの。あいにく」レラはつーんと。
「え」と俺は間抜けな声。「マジ?」
「マジ」
「やべっ。どうしよう」と俺は情けないほど浮足立った声で「めちゃくちゃ……うれしい」
「も、もう。目を閉じたまま、なに、幸せそうな顔して笑ってんのよ」
レラが呆れるが、その声はけんめいに笑いをこらえているようにも聞こえた。
「いや。ほんとにな。俺も自分で驚いてる。それだけでも、レラが特別ってわかるよな」
「まったく」レラは、はふーとため息。そして言った。「その言葉に免じて、特別に待っててあげよっかな……あ」
突然レラの言葉尻に焦りが混じった。ベッドのほうに行く気配。ぎしっときしむ音。思わず薄目を開ける。ショーツだけというレラがベッドに膝立ちになり、暗い窓の外を見ていた。小さな赤い回転灯がいくつも動き回っている。さっきよりもその数が増え、より殺気立っているような印象だった。
「なんか、やけにパトが多いな」言いながら、俺もベッドの上のレラに並ぶ。
「……ここに居ると迷惑かける」レラが小声で何か言った。
「ん?」と俺はそんなレラを見た。
「ね。タキくん」
レラが優しく俺の名を呼んだ。
「なに?」名前を呼ばれただけで幸せな気持ちになるのなんて、絶対レラだけだ。
「お願いがあるんだけどいい?」
「どんなこと?」
「いいって言ってくれたら話す」
「いいよ」と俺はまっすぐ頷いた。「俺だってレラに勝手なお願いしたからな。これであいこだ」
「目を閉じて。ベッドに横になって」レラは恥ずかしそうに。
「え?」と俺は思わず甲高い声。「いや、俺、そういうのは。そりゃしたいけど」
「え」とレラも甲高い声。「あ。いや、そういうつもりじゃなくてっ」と子供を叱るように「もう。ばかっ。えっち。まだカレシでもないひとにはやらせませんっ。……そうじゃなくて、ただ眠るみたいにベッドに横になってほしいの」
言われた通りにした。
何をされるんだろう。上半身裸のままだけにすごく心細かった。
「いい? 絶対に目を開けちゃだめだよ」
「うん」
「いっそ本当に寝ちゃっていいからね」
「いや。さすがに興奮して今夜はなかなか寝られそうにない」
「それでも、タキくんは今から眠るの……わたしがここから帰ってからも、目を開けず、そこから動かず、タキくんは眠り姫のように眠ったまま……」
「………………」
「タキくんは眠ってるから、その間に誰かに何かされちゃったとしても、それはタキくんのせいじゃない。……だから、タキくんは何も悪いことはしていない」
レラの声が呪文のように続く。今から、タキくんに呪いをかけるからね。眠り姫とは逆の呪い。眠り姫じゃなく、眠り王子との、約束の儀式。解けるのはわたしだけ。
すっと髪が俺の顔にかかった。
俺の波打つ裸の胸に自分の裸体を重ねるようにそっと耳をつけて、鼓動を聞いた。
「爆発しそう」
「当然だろ」吐く息と一緒に思わず言った。
その俺の唇に何かが重ねられた。
「待ってるから」耳元で、レラはかすかな、艶やかな、でも決意に満ち満ちた言葉をささやいた。「必ず来てくれるって信じてる。五十年だって待ってみせる。だけど、なるべくはやく来てよ」
それから、ぎゅっと目を閉じた俺の唇に何度も何度も唇を重ねて。
夢みたいな心地だった。
「たっぷり呪いをかけたから。タキくんはもう、わたし以外とは幸せになれないように」
「の、呪いかよ……」思わずうなった。「なかなか重いな……」
「あったりまえでしょ? タキくん、どれだけヒドいことしてわたしを傷つけたかわかってんの? あれだけちょっかいかけてきておいて、友達でーすカノジョいまーすとか、ふつうならとうてい許されはしないよ」
「そ、そうだな……レラの言う通り。俺のエゴですごく傷つけちまったから、レラにはそれだけの権利があるな」
「この呪いはわたしにしか解けないからね。だから必ず」
「必ずお前を迎えに行く」誓うように夢中で俺は言った。
服を着る音が聞こえ、ドアが開き、ごうっという風が部屋の中に飛び込み、ずっと待ってるという置手紙のようなかすかな声が聞こえ、空気が激しく流れ、やがてそれが収まった。俺は最後まで決して目を開けなかった。それがレラとの約束だ。
どんなにくだらない、どんなに馬鹿らしく見えることだって、おろそかにしちゃいけないのだ。それが、誰かに信じられ、誰かを信じるということなのだから。
いつしか俺は、本当に眠りに落ちていた。
目覚めると、台風も、レラの姿も、どこかに消えてしまっていた。
そして、それがレラを見た最後だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます