駆け足の夏

 俺の住む福海町には、町を南から支えるように、三つの山が連なっている。

 景勝地である『九仙女山くせんにょやま

 よくバイクで走りに行く、大学の裏山的な『美羽飛岳みわひだけ

 そして、近隣の最高峰『天津魔山あのつまさん

 町の南東部、九仙女山のふもとに、斜面を強引に削って作られた別荘地があった。バブルと呼ばれた時代の負の遺産。今では、デザインは古く、造りは安っぽい建物が、植物の勢いに飲み込まれながら、静かに滅びの刻を待っている。

 伸び放題の笹やススキに埋もれそうな道路を進んでいくと、突如、藪の中に、ピンクのカマボコを立てたような、巨大なビルが現れる。

 このビルの屋上からの眺めは、丘の町・福海町でも屈指だった。

 天津魔山と美羽飛岳の優美な重なりや、七色に輝く海、空を映す鏡のような黒髪湖、精緻に造られたジオラマみたいなマリモが、絶妙な角度で見晴らせる。

 ここを見つけて以来、俺は、夕景や夜景を楽しむ自分だけの秘密の場所にしていた。

 そして――ヤエと出会ったのだ。


 ようやく水曜日が来た。

 名残惜しそうにするレラといつもより早く別れ、俺はヤエに会うためにこのビルを訪れた。

 ふと、ヤエの紅い唇の甘い感触が蘇り、今さらながらドキドキした。

 屋上のドアを「ごぐん」と開ける。

 透明なオレンジ色の夕空。

 がらんとした屋上。

 ヤエは居なかった。

 惑星探査船みたいな給水タンクや、巨大なエアコンの室外機の陰を慎重に探してみたが、あの美しいカラスの化身のような姿はどこにもない。

 嫌な予感がした。

 慌てて上半身を突き出しビルの真下を見たが、眼下には、俺の青いバイクが小さく見えるだけだった。

 そのとき、足元に、コンクリの破片で重しをしたメモを見つけた。

『いろいろといやになりました。さがしてください』

 見覚えのある丸っこい文字。

「……こういうときは」

 思わず声に出していた。気は長いほうの俺だが、さすがに呆れてそのメモをにらんだ。「ふつう、『さがさないでください』だろうが、あのばか!」

 メモをポケットにねじ込んで、飛ぶように地上に降り、バイクにまたがった。

「くそっ。こんなことばっかしてるな、今年の夏は!」

 誰に言うともなしに呟きながら、俺はヤエを探しにバイクを飛ばした。

 福海町特有の、斜面に無理矢理建てられたような家々の隙間、細い路地を駆け抜ける。

 アリの巣のように込み入った住宅地、秘密の研究所のような浄水場、感じのいい病院やレトロモダンな図書館、赤い雫が十字架を濡らす教会、夕方の鐘の音を響かせる神社、緑の中の遺跡のように見える霊園。

 そんな丘の情景の中をひたすら走った。

 途中で色々なバイクとすれ違った。戦闘機みたいなフォルムのスポーツタイプや、虫の羽音のようなサウンドを響かせる単気筒、どっしりとしたビッグスクーターに、小回りの利きそうなオフロード車。どれも福海大生だ。お盆も過ぎ、貸切のようだったこの町にも、ひとが戻り始めていた。そして、夏が少しずつ遠ざかり始めようとしていた。


 山の手の高級住宅街の真ん中に鴻巣山はある。

 地面をつまんで引っ張ったような低い山に、マテバシイの森が広がり、整備された遊歩道が通っている。だが、森の一番深い場所に建つテレビ塔まで近寄る人間はあまり居ない。木に囲まれた鉄の塔は、もし色が赤くなければ、軍事施設にでも見えたことだろう。

 檻のような物々しい鉄の戸は施錠されておらず、メンテナンス用の鉄骨階段に簡単に侵入できる。

 カンカンと音を立て、鉄の階段を駆け上った。

 全体の三分の二ほど登ると、鉄骨の間にしっかりした鉄の網を張って床にしたスペースがあった。学校の教室ほどの広さがある。

 その端に、脚を空中に投げ出すようにして黒い人影が座っていた。

 夕陽をバックに背を向けたヤエは、人知れず翼を休める黒い天使のようだった。

 風が巻き上がる。ヤエの向こうには、美しい夕暮れのパノラマ。

 驚かせないようにわざと足音を立てながら近付き、「ん、んんっ」と咳払い。

 ヤエはこっちを見ない。

 俺は、小柄な黒いドレスの背後にしゃがみこんだ。流れるような美しい黒髪。形のいい小さな頭。今日もまた甘い香水が強く薫る。

 後ろから抱くように両手で目隠しして、ささやいた。

「だーれーだ」

 ヤエの手が俺の腕を愛おしそうに撫でた。まるで恋人にするような親密な手つきに、ちょっとたじろいだ。

 ヤエは目隠しされたまま、俺の右手の甲に指で『タキ』と書いた。

「あたり」と俺はおどけて言った。

 そのまま、俺も靴を脱ぎ、同じようなポーズでヤエの隣に腰掛けた。

 角度のせいか、都市の風景は遠く、眼下には、蜂蜜のような光に表面を濡らされたマテバシイの樹冠が広がっていた。それはまるで、光と空気の成り立ちが違う空想世界の黄金の樹海みたいだった。

「おー。こりゃ気持ちいいなー」

 俺も子供のように足をぶらぶら。

 ヤエは何も反応せずただまっすぐを見つめている。

「え? 『なにしにきたの』って? そりゃもちろん、ヤエに会いにだよ」

 ヤエは何も言わない。メモを取り出す気配もない。

「『よくここがわかったね』って? 俺がもしヤエだったら、って考えてみた。こう見えても俺、人探しは得意でね」

 ヤエは落ち込むように真下を向いた。

「まさかこのテレビ塔までヤエに知られてるとはな。ヤエも福海町散策のエキスパートだねえ」

 そこでヤエはやっと、のろのろとメモを取り出そうとした。

「あ。今日はいいもん持ってきた」

 俺はカバンの中からキャンプツーリングで愛用している電池式のランタンを出した。

 天空の城を冒険する少年が使っていたランタンによく似た形で、暖かいオレンジ色の光が灯る、俺の大のお気に入りだ。

「これで暗くなってもヤエと話せる」

 ヤエは無言のままいつもの丸文字で、

『ぼくきょうはたきとおはなしするきぶんじゃないの』

「……いいよ。じゃあ今日は黙って景色でも眺めよう」

 俺はそう言って、燃え尽きる寸前のような太陽を見る。

 空の高い部分は透き通った濃紺。

 地表には遠い国の火事のようなオレンジ色の帯が横に広がる。

 最初の星の瞬きを俺は見つけた。

 俺は、カバンから指輪ケースより少し大きいくらいの小箱を取り出した。上ブタに、黒猫が踊りながら月に向かってバイオリンを奏でる絵が彫り込まれたオルゴールだ。ヤエがこっちを見ないようにしながら、でも横目でなんとなく気にしている気配が伝わってきた。

 俺はそんなヤエを気にしない素振りで、ネジを巻いた。

 小さな鳥が羽ばたくような音色で、『恋はみずいろ』が流れた。

「……これは独り言だけど、この前はびっくりしたよ」

 ヤエは何も答えない。

「これも独り言だけど、ヤエがどうしたのか、すごく気になる。話がしたい。ヤエの言葉が聞きたい。だから、ヤエを探して俺はここに来た」

 ヤエはペンを走らせた。

『とってもいやなことがあったの』

「どんな?」だからってなんで俺にキス?

『たきにはきかせたくない』

「そっか」と俺は言った。「でも俺は何があったか聞きたいかな。あ。これも独り言」

『すきなひとにひどいことされた』

 ヤエはうつむきながらそう記した。

 吹き続ける風で、喉元の真っ黒なリボンと長い髪が横になびいていた。

「……居るんじゃねーか。好きなやつ」と俺は呆れた。なにが『たきのことすきになっていい?』だよ……。俺にキスしたのも、自暴自棄になってとか?

『ぼくのすきなひとにはすきなひとがいたんだ』

 寂しそうにヤエは肩を落とした。

「……そっか。そういうの、辛いよな」

 唄うのを終えた猫のオルゴールのねじを巻く。

 再び優しい旋律が流れ始める。

『でもあきらめきれない』

「あきらめなくたっていいじゃないか」

『そのひとのすきなこにはかてない』

「ヤエほどのカワイコちゃんがずいぶん弱気だな」

『ぼくはふつうじゃないから』

「まあ確かにな」と俺は言ってしまって、慌ててフォローした。「あ、でも、俺は、普通の子とやらよりも、ヤエのほうがずっと面白いけど」

『ぼくはいろいろなことをあきらめてる』

「色々? あきらめるってなにを?」

『すきなひとも。ゆめも』

「夢って、なんだ? ……トリになりたいってやつ?」

『たきのゆめをきかせてくれたらおしえる』

 中空に架けられた橋のような場所。

 座った俺たちふたりの間で、小さなランタンが光を放つ。

 太陽はとっくに沈み、蒼い闇が水のように俺たちを包んでいた。

 夜のマテバシイの森は、横たわって眠る巨大な黒い獣に見える。

 晩夏の夜空には、天の川がさらさらと流れていた。

 ただでさえ不思議な町である福海町が、ヤエと一緒だと、どこか知らない幻想の魔法郷のように思えてくる。子供の頃、猛烈に憧れて、夢見ていた場所に居るような。でも、もう色々なことが手遅れで。結局、間に合わなくて……。

 そんな、寂しいような、懐かしいような、胸がきゅっと締めつけられる切なさが、ふいにこみ上げた。

「作家になりたいんだ」

 自分でも驚くくらいに素直に打ち明けていた。

 ヤエが驚いた顔で目を見開いた。ぼんやりとしたオレンジ色の光で浮かび上がった白い顔は、修行中の若い魔女みたいだ。

『ほんがすきだから?』

「いいや。俺さ、本当はそんなに本が好きじゃないのかもしれない。本を読むより、景色を見たり、音楽を聴いたり、色々なことを考えたり……変わった、でも面白い女の子とお喋りしているほうがずっと楽しいしさ」

『だったらなんでさっかになりたいの?』

「ヤエがトリになりたい理由と似てるのかもな」

 黒々とした森の先に、街の夜景が薄く見えた。

 川の対岸から、決して行くことのできない街を眺めているみたいだった。

 月は出ていない。俺はもう何度目かわからないねじを巻く。

『こいはみずいろ』とヤエが書いた。

「お。ヤエもこんな古い曲知ってたのか」ちょっと嬉しくなった。

『ぼくのすきなひとがすきなきょく』

「へえ。俺と同じか。そのカレシとは気が合いそうだ」

 ヤエが突然俺の肩を殴った。

 驚いた俺がヤエを見ると、ヤエの赤い唇が、「ばか」って形に動いた気がした。

 唖然としてヤエを見た。

「もしかしていま、バカって言った?」

 ぷいっと片頬を膨らませたヤエはそっぽを向いてしまう。返事のメモはない。

 俺は苦笑しながら、頭をかいた。

「……ヤエの夢って、なに?」

 ヤエは、例の黒魔術風の手帳にペンを当てたまま、しばらく動かなかった。

 俺は、じっとそれを待った。

 ランタンの小さな灯りでも、ヤエのその、恥ずかしそうな真っ赤な横顔は見えた。

 もじもじしながらヤエが俺に渡したメモには、可愛らしい丸文字で、こう記されていた。

『およめさん』

 ヤエは、チラチラと俺を見る。

 俺はランタンの明かりで照らしながらそのメモを見た。不思議少女にしてはずいぶん堅実な夢だな、と思った。

「……うん。いいと思うよ。普通の女の子っぽくて」

 また殴られた。正直言って、女心なんてまったく理解できないが、ヤエは特に難しい。その、ヤエが好きな相手の男もさぞ大変だろうな、としみじみ。

 ヤエは、俺の反応が気に入らなかったのか、ぷくーっと頬を膨らませながら、この日最後のメモを渡してきた。

『のろってやる』

 俺は苦笑しながら、そのメモをポケットに突っ込んだ。

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