~青イナツ風3~
――俺、ネコが触れないんだ――
黒髪湖の湖畔で、彼がそう言って寂しそうに笑ったとき、わたしは彼をぎゅっと抱きしめて、頭をよしよしって撫でてあげたい衝動に駆られた。
わたしよりも年上で、自信に満ちていて、たくましくて、弱い部分なんてどこにもないようなひとなのに。わたしにはそのひとが、涙をじっとこらえて震える、小さな男の子のように見えたのだ。そんな気持ちは初めてだった。
――もし、俺のことを信じて、頼ってくる人間が居たら、俺は何があっても、絶対にそいつを裏切らない――
彼に会うまでのわたしだったら、真顔でそんなことを口にする人間が居たら、「なに言ってんの、ばっかじゃないの」って内心、鼻で笑ったと思う。
まんがとかでよくありそうな子供じみた台詞。わたしを裏切った自称・親友も、よくその手の嘘っぽい言葉を、ドブくさい息と一緒に吐き出してた。
でも、彼の言葉を聞いたとき「ああ、このひとは本気でそう思ってる」って素直に信じられた。だってそれは、彼が『子供の頃の自分自身』に向けて言ってる言葉だったから。
彼はきっと、誰も助けてくれなかった自分を、強くなった自分で助けたいんだ。救われたいんだ。
わたしたちは似たような傷を心に負っている。でも、たぶん、彼はわたしみたいに、死んでしまいたいとか消えてしまいたいなんて、思わなかったんだと思う。
彼にとって世界は、絶望するには、憎むには、あまりにも美しかったから。
風景も。音楽も。本も。コーヒーも。
だから、彼は強くなるしかなかったんだ。
孤独や、寂しさや、弱さを、『自分の好きなもの』をありったけ集めて作り上げた、特別製の殻で覆って。
そして、これもうすうす感じていたことだけど、話を聞いてより実感を持てた。
たぶん、彼は、根っこの部分では、誰のことも心の底からは信じていない。
彼も、わたしと同じ。信じられるものが欲しいのだ。
雨の動物園の日、紹介された彼の友人を見てすぐに思った。
あ、このひと、わたしに似てるって。
とても綺麗な男のひとだった。でもたぶん内面は、小賢しくて、腹黒で、酷薄。見た目はいいけど中身は問題があるってタイプ。鏡を見ているようだった。相手もそう直感したらしく、いきなり喧嘩腰だった。いわゆる同族嫌悪ってやつ。わたしよりは器用で、世渡り上手そうに見えたけど。
だけど、温室でのアレはさすがに驚いた。
わたしは、彼(彼女?)をひと目見て、正体が誰なのかすぐにわかった。むしろ、あのひとがわかっていないのが不思議だった。だからこそ、そのあとの展開には、驚愕するしかなかったわけだけど。ぶちゅって。オイ。
色々あった翌日、いつものマリモのフードコートで呆けたように彼を待っているわたしの前に、その友人が現れた。しかも、アッチの姿で。
彼女――敬意を表して、そう記す。その格好でわたしの前に現れるのは、相当の覚悟があったんじゃないかと思うから。相応の意味も――は、無言でアゴをしゃくって、付いてこいみたいなジェスチャーをした。
「なに? ケンカでもしようっての?」
わたしもひるまず言った。その綺麗な顔を見た途端、昨日のキスシーンを思い出し、猛烈にムカムカしてきた。
返事も待たずに彼女はスタスタ歩きだした。歩き方も楚々として、完璧なまでに女らしい。わたしたちはマリモの駐車場まで連れだって歩き、彼女のあずき色の自動車に乗り込んだ。わたしは、お財布から百円玉を取り出して、車の中にパチンと置いた。彼女はそれを見て、肩をすくめた。そして、車をマリモから出した。
しばらく、沈黙の中で火花を散らせていたわたしたちだったけど、彼女は、フッと笑うと、「ねえ。まずははっきりさせておきたいんだけど」と言った。
正体がわかっていても、やっぱり声を聞くとそのギャップに戸惑ってしまう。
彼女はいきなり核心を突いた質問を飛ばしてきた。
「タキのこと、好き?」
わたしが(たぶん真っ赤になって)口ごもると、
「あは。それが返事みたいなものだね」と意地悪に笑った。
そんな顔は、どこからどう見ても、文句のつけようがないほど美しい女性だった。
「レラとは一度、腹を割って話がしてみたかったの」と彼女は言った。
そのひとが、そういう性癖のひとなのか、単に変態なのか、それとも何か深刻な病気なのかはわからない。そういう類いの、れっきとした病気があると世の中に広く知れるのは、もっとあとの時代になってからだ。
ただ、その美しすぎる容姿のせいで、健全な人生を送ってこなかったことは確か。なんでもお母さんは中国人で、今は別居しているという複雑な家庭らしく、しかも再婚したお金持ちの義父から、性的虐待を受けていたとほのめかすようなことを、あっさり告げてきた。わたしにしても、円満な家庭に育ったわけじゃないから、そういう同族的な匂いには敏感だ。
わたしたちは、敵であると同時に、似たような境遇、同じような心情、合わせ鏡のような性質を持つ、同士みたいなものだった。
結局、この日から三日間、立て続けにわたしたちは会った。
そして、福海町中をひたすらドライブして、それはそれは色々な話をした。
マリモできっとわたしを待っている彼のことが気にはなったけれど、しばらく会わないで心配させてやれって、意地悪な気持ちになった。わたしの目の前で、むざむざ他の女からキスされるなんて、隙がありすぎる。
彼についての話をするのは楽しかった。
わたしの知らない彼の話を聞くのも楽しかった。わたしは、わたしの知らない彼と彼女の話に焼きもちを妬いたし、彼女は彼女で、わたしの存在そのものに嫉妬するって自分で言ってた。
「でも」とわたしは言った。「わたしなんて、彼から連絡先も教えてもらってないんだよ?」
「あいつ、そういうところがあるから」と彼女も苦笑して「フレンドリーなくせに、どこか心の壁みたいなもの作ってる」
常に他人を試してるようなとこあるのかもね、と彼女は鋭い指摘をした。「もちろん、意識はしてないと思うけど」
彼の子供の頃の話を聞いた今ならそれも仕方ないと思える。
彼は、強いし、優しいけれど、きっと他人が怖いのだ。だから、自分なりの距離感で他人と付き合おうとする。
ズルい。わたしはもうすっかり甘えんぼなのに。
「あいつと一緒に居るとね、違う自分になれる」と彼女はくすぐったそうに言った。「ぼくは、あいつと一緒に居るときの自分が好き」
わたしもそう。彼と一緒に居るときの自分が好き。とても好き。彼と一緒に居ると、なんだか強くなれるような気がするし、自分の中の汚いものが浄化されていくように感じられる。なりたかった本当の自分になれる。
わたしと彼女は、三日間でずいぶんと多くのことを語り合った。
『友達以上、恋人未満』なんて手垢のつきまくった表現があるけれど(わたしと彼がまさにそう)、三日目の夜、福海駅のロータリーまで送ってもらったときには、彼女とわたしもまた、『ライバル以上、友達未満』って感じの不思議な関係になっていた。
ちっこちっこちっこ。
自動車を停止したときのあの黄色い点滅の音が響く中、わたしは車を降りかけて、振り返った。
「……ねえ。それで、これからどうする気?」
他人の心配なんかしてられる立場でもないのに、わたしは幾分か心配した口調で言った。彼女の彼への気持ちがわたしの想像通りのものならば、その行き先は決して明るいとは思えなかった。それは、とても悲しいことなんじゃないかと、急にそう思った。
「さあ。どうしようかね」
彼女は色気たっぷりの眼差しで言った。わたしは、がばっと服を脱がせて、ほんとに実際どっちなのかを確かめてみたくなった。
「あいつに言う? ぼくの正体」
「言わない」
「ありがと」と彼女は寂しげに「でもほんとにどうしよう。レラには勝てそうにないし」
「………………」
「いっそ、トリにでもなっちゃおうかな」
そう言い残して、彼女の車は夜の街に消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます