スカボローフェア

 霊園の入口は、巨大な綾杉が一本立つロータリーになっている。

 ゲートをくぐると、白い花をつけた大きな蓮が浮く池があった。

 その脇を通り、森の別荘地のような広葉樹の並木道を抜け、サエキの軽自動車はぐんぐん高台へと向かう。

「墓?」と俺は後部座席から運転席に声をかけた。「墓参りでもすんのか?」

「いや。違うよ」

「だったら、肝試しか?」

 物言わぬ墓石の群れを見つめながら俺は言った。時刻は日暮れ。こんな時間の霊園は、なかなか雰囲気がある。

「まあまあ。お楽しみにってことで」とレラ。

 やがて車は、園内のひときわ高い場所に到着した。台地の頂上だ。俺たちは、バタンバタンと音を立てて車から降りた。

 エンジンを切った車を背に三人並んで、なだらかな緑の斜面に広がる霊園を眺める。

 空いっぱいに広がった夏雲は、地平に接近した太陽の光で輝きを強め、真っ青だった空は、複雑な虹色に変化しつつあった。遠くには平らな金色の海が見えた。

 湿った風に吹かれながら、コンビニで買ってきた甘いアイスコーヒーを飲んだ。

 山の斜面に造られたこの霊園は、よく言えば緑豊か、悪く言えば管理が適当で、霊園特有の整然とした無機質な雰囲気がない。不揃いな墓石が、緑の斜面の至るところに、段になって広がっている。育ち過ぎた植え込みと、隙間にはびこる深い雑草とに埋もれた様は、まるで樹海に呑まれた太古の遺跡だった。

「こんなとこあったんだな」と俺は感心した。いいかげん福海町をうろうろしまくっている俺だけど、この霊園は初めてだ。「ここ、レラの家の近くだろ?」

「うんっ」とレラは勢いよく言った。「いい眺めでしょ?」

「なんか、大昔の街が滅んで何百年も経ったあとみたいだよな」

「タキって創造力豊かだよね」サエキは笑う。

「あ。でも、そんな感じ。タキくんって、いつも上手いこと言うね」とレラ。

「お前らが見せてくれるいいものってこの景色か?」

「とにかく見てて」

「あと少し」

 レラとサエキが言った。俺は丘の斜面に視線を戻した。

 海から駆けあがってくる風が、若い木々の葉を裏返し、供えられたユリや菊やホオズキを揺らした。ヒグラシが一斉に鳴き、あたりには夏の夕暮れの情緒が満ちていた。

 園内のあちこちに設置されたスピーカーが、突然、沈黙から目覚めた。

 まず、何かの予兆のようなハンマーダルシマーの硬質な音色。

 やがて、ダンスのようなチェンバロが軽やかに合わさって。

 音が重なる。混じりあう。手を取って踊り出す。

 やがて、それは、美しいメロディーとなった。

 訴えかけるような旋律が、墓地全体に染み込むように響き渡る。

 喉の奥から絞り出すように俺はつぶやいた。

「……スカボローフェア……」

「この時間になると、音楽が流れるんだよ」レラがささやいた。

 驚いた。

 どうして霊園のスピーカーでわざわざ音楽を流すかはわからない。でも、ここに眠る人々の魂の安らぎのためだというなら、いい趣向だと思う。選曲もふさわしい。

 俺たちは黙って耳を傾けた。

 旋律の最後のひとしずくまで味わい尽くすように。

 途中からレラは曲に合わせてハミングしていた。

 二度繰り返して、スカボローフェアは終わった。

 俺たちは、敬虔な巡礼者のように、音が吸い込まれた世界を見つめた。

 音楽を知る前とあとでは、世界はまったく変わってしまったように思えた。

「サエキさんに聞いたよ」レラは静かに。「タキくん、スカボローフェア好きだって」

「ああ。もともと、俺の母さんが好きでさ」と俺は言った。「なんか、忘れられない思い出があるんだと」

「気に入ってくれた?」

 サエキとレラがニコニコしながら。

「ああ」全身に歓喜の鳥肌が立っていた。「すごくな。おまえらを抱きしめてやりたいくらいだ」

「どうぞ」

「カモン」

 レラとサエキはまったく同時にまったく同じポーズで両腕を広げた。

 俺はそれを無視して、

「いい歌詞なんだよな、スカボローフェア」

 離れ離れになった恋人どうしの歌だ。

「俺、思うんだよ……二度と会えないくらい離れてしまった相手って、冷たい言い方をすれば、死んだ人間とそう変わらないんじゃないかって」

「そうかもね。生きてようが死んでようが、自分にはもう関わりないわけだし」

 サエキがサエキらしい台詞を吐く。

「けど、その相手にも相手なりの時間がちゃんと流れて、学校に行ったり、仕事したり、飯食ったり、音楽聞いたりって生活が続いているんだ。当たり前だけど、この世界のどこかでちゃんと生きてる」

 ふたりは黙って話を聞いてくれている。俺は続けた。

「だから、離れ離れになった相手を、生かすのも死なすのも、結局は自分次第で、相手がいま過ごしている日々を、ちゃんと考えるかどうかじゃないかって思うんだ」

「想像力が、相手を自分の中で生かし続ける……」

 神妙な面持ちでレラがつぶやいた。

 俺は頷いた。いい答えだ。「なあ。レラ」

「なに?」上品な声音で首を傾げるレラは、この夏で一気に大人になってしまったみたいに見える。

「前に、俺に聞いたろ? 『五十年後』みたいな純愛が本当にこの世にあると思うかって」

 レラは目を見開いた。

 そして数度まばたきして、一度だけ大きく頷いた。

「それが俺の本当の答えだ」と俺はレラの目を見て言った。「……それでいいか?」

 レラは何度か小刻みに頷くと、満足げに目を細め、

「うん。ありがと……」と言った。「今日、ここで、それを聞かせてもらえてよかった……」

「はいはーい」とサエキが冗談っぽく大げさに手を振って、見つめ合う俺とレラの視線を手刀で断ち切る仕草をした。「ふたりの世界作らないでー。ほら。レラちゃん。サプライズはこれだけじゃないでしょ?」

「あ。そうでした」とレラは顔を赤く染めた。

「なんだ? まだなんかあるのか?」

「どっちかと言えば、お楽しみはここから」

 サエキは歌うように言うと、おもむろに車のトランクを開け、中から横に細長い皮のケースを取り出した。

 出てきたのは、持ち手が妙に長い木槌をひっくり返したような、変わった形の……弦楽器。ひと目見て、俺は驚いた。

「……おまえ、そんなもん弾けたのか?」

 中国の楽器。二胡だ。

 サエキは意味深な微笑を浮かべると、大ぶりな木のねじをまわし、チューニングらしきことを始めた。

「……では、ぼくとレラちゃんからプレゼント。温室でタキを置いて帰っちゃったお詫び。それから……」

「今日という二度とない大切な日と、三人の友情の記念に」レラはイタズラっぽく笑って。「『五十年後』のお返しもこめて、ね」

 サエキは車のボンネットに身軽に飛び乗って腰掛けた。

 左の太ももの付け根あたりにそっと二胡を載せる。

 水色のワンピース姿のレラが、海に向かって一歩前に出た。

 サエキの右手が、細い弓の端をつまみ、弦にあてがった。

 鳥が片翼を浮かせるように、その腕が動いた。

 それに合わせて、どこか物悲しい音色が手元から流れ出した。

 それは、悲痛な想いで唄う女性の声にも似た、哀愁を帯びた音色だった。

 緑の海に沈む太古の遺跡。

 爪弾かれる音楽が風に乗る。

 どこからか甘い音色が聞こえ、二胡の調べにそっと乗った。

 最初、何が起こったのかわからなかった。

 唄だ。レラの声だ。レラが歌ってる。

 俺は驚いてレラの華奢な後ろ姿を見た。

 高く透き通った歌声は、まったくの別人みたいだった。

 それはまるで、小さな妖精がプラタナスの葉陰で雨宿りでもしながら歌っているような、不思議な歌声だった。

 レラの歌が、夏の夕空に広がっていく。

 高く。遠く。広く。果てなく。

 スカボローフェア。

 パセリ。セージ。ローズマリー。タイム。

 離れてしまったかつての恋人たち。互いへの不可能な頼みごと。

 それでもふたりは願う。その頼みが実現不可能に見えても、せめて、「やってみる」とは言って欲しい。その言葉が、その気持ちが欲しい、と。

 隠れていた巨大な黄球が、雲間から現れた。

 世界に光が満ちた。黄金の斜光が眩しく放たれ、俺たちの視界すべてを輝かせた。

 何もかもが金色に照りかえり、三人の影が、後ろにするすると長く伸びていく。

 それはまさに音楽という魔法がもたらした奇跡だった。レラの唄とサエキの二胡が、雲の向こうから太陽を呼び出した。俺にはそんな風にしか見えなかった。

 レラが振り返り、潤んだ瞳で俺を見た。

 サエキもまた、まっすぐに俺を見た。

 三人の視線が、しっかりと絡み合った。

 声量が増した。二胡も複雑な色調を帯びた。役どころをわきまえたメロディが、レラの声の輪郭を強調した。

 それは、忘れ去られた都市に眠る人々に捧げられた、鎮魂の儀式のようにも思えた。

 高台に並び立つ俺たちは、まるで、そんな遺跡を訪れた、物好きな三人の旅人だった。

 心の中に、夢幻の荒野を旅する俺とレラとサエキの、色鮮やかなイメージが、奔流のように溢れた。

 異国の荒野を旅する、俺たち三人の姿が。

 二胡の調べの最後のひとかけら。夕空ににじんで消えて。

 唄は終わった。

 ひとりだけ何もしていない俺が、なぜか一番大きく息を吐いた。

「おそまつ」サエキは剽軽な仕草で首と弓を同時に左右に振った。

 品のいいサマーワンピースの裾をふわりと浮かせて、レラが突然しゃがみこんだ。両手で顔を覆い隠し、消え入りそうなか細い声で、「……は、はずかしい……」

「どうだった? タキのために用意したサプライズは」

 サエキの細い整った顔が残照で輝いていた。

「……ああ……すごかった……すごくよかった……ほんとによかった」あまりの感動に、ばかみたいな感想しか出てこない。「サエキの二胡にも驚いたけど、レラの歌もすごかった。魔法みたいだった」

 レラはしゃがんで顔を覆ったまま「うーーー」と唸った。長い髪は、光に濡れてしっとり金色に染まっていた。

 そういえば、と俺は今さら思い出した。例の人形劇『花仮面の騎士』を上演することになる前、レラはピアノと歌の出し物をする予定だったのだ。レラはきっと歌が得意で、大好きなのだろう。それに、あの人形劇で見せたレラの特別な声。

 やっぱりだ。この子には、計り知れないほどの表現の才能がある。

「ありがとな。レラ。サエキ」

 俺は暖かな視線で自分を見るふたりに言った。

「……たぶん、俺、この先ずっと、何があっても、今の音楽を忘れないと思う。きっと、夏が来るたびに思い出す。この思い出があれば、どんな状況になったって、生きることに絶望なんてしない」

「……出たよ。タキの必殺の一撃」嬉しそうにサエキが言った。

「『深い場所にまで届く言葉の刃』ですね」レラも共犯者めいた笑いをサエキに。

「あ? なんだよそれ」

 さあねー、という声が重なって、サエキとレラはクスクス笑った。

「おまえらさ」と俺もつられ笑い。「ほんとうは、気が合うだろ?」

「ねえタキ。約束してほしい」

 サエキはあらたまった口調で言った。微笑んでいるが目は真剣だった。「ここに連れてくるのは、ぼくとレラちゃんだけだって」

 レラも、真剣な瞳で懇願するような顔をした。

「ああ。わかった。約束する」と俺はしっかり頷いた。「ここには、おまえらとしか来ない」

「ぼくも約束するよ」とサエキは満足そうに「また、二胡を聴かせてあげるからね」

「わたしも約束します」とレラは言った。「恥ずかしいけど、また歌うね」

 そして、夢の名残のような声で、「いつか……また、この三人で……スカボローフェア」

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