~青イナツ風4~

 夏休みの間、わたしと彼は毎日のように会った。それぞれの、どうしても抜けられない用事や事情があるとき以外、会うのがごく当たり前なことのように。

 わたしたちは、だいたいの場所と時間を決めて待ち合わせた。

 たいていはマリモ。フードコートとか本屋、それから中央広場。

 そんなやりかただから、すんなりとは会えず、どっちかがどっちかを待つことも多かった。でも、問題はなかった。わたしたちには読書があったから。

 待ち合わせ場所に彼が居なかったら、わたしはかばんから読みかけの本を出したし、わたしのほうが彼を待たせたとき、そこに行くと、彼は綺麗な表情で本を読んでいた。

 わたしはそんな彼の姿が見たくて、実はけっこう彼を待たせた。それどころか物陰からじっとしばらく観察したりもした。

 彼はときどき、何か思いついたような顔で、小さな手帳を取り出し、熱心に書き込んでもいた。まわりの音なんか聞こえないみたいに集中して。

 何を書いているんだろう。いつも気になったけど、彼の邪魔をしたくなかったから黙っていた。

 そんな風な会いかたを彼は望んでいた。わたしたちの、これまでの何度かの、運命的な、物語のような出会いをなぞるように。

 彼はロマンチストなんだと思う。でもわたしはもう少し現実的だ。

 会えるか会えないかはっきりしないままの状態は不安だったし、ふいに気持ちが暗くなることもあった。いつまでこんな宙ぶらりんが続くんだろう。

 わたしは彼と電話でも話したい。いつでも連絡が取れるようにしたい。

 今日あった嬉しいこと、ムカついたこと、思いついたこと、発見したステキなこと、彼に教えたいこと、彼に聞きたいこと、とにかくそんなささいなことを文章でもやり取りしたい。おはようとか、おやすみとか、くだらないことでも言ったり言われたりしたい。

 わたしは彼にとって、非日常な「蒼きレラ」かもしれない。でもわたしは、ごく当たり前の「青木レラ」として、彼のそばに居て、共に時間を過ごしたい。彼の日常の一部になりたい。 

 わたしは彼の連絡先を知らない。家も知らない。このまま夏が終わってしまったら、わたしたちはどうなっちゃうんだろう? 夏休みが永遠に続けばいいのに。


 夏休み最終日、わたしはわたしと彼との関係にひとつの答えを出そうと決心した。半ば強引にわたしからねだり、ついに、彼の家に遊びに行くことになったのだ。

 待ち合わせ場所の福海駅前に、わたしは一時間も早く着いた。

 一番シックだと思うワンピースを選んだ。きちんとした襟の、結構胸元がV字に切れ込んだ、しゃっきり紺色のシャツワンピ(古着だけど)。少しヒールのある白いアンクルストラップのサンダルとオレンジのペディキュア。そんな格好じゃバイクになんて乗れないから、今日は歩きで、と彼には伝えてある。

 彼が迎えに来てくれる間、わたしは、スカートの裾がちょっと短すぎたんじゃないか、とか、胸元がもっと隠れたのにすればよかったとか、いきなりこんな服着てなんか変に張りきりすぎてるって彼に見透かされるんじゃないか、とか、頭がくわんくわんするほどの葛藤と自己嫌悪の渦中にあった。

 わたしのどう考えてもあまり大きくはない胸の真ん中あたりに、小さいけど凶暴な生き物が居て、そいつが身体の中から「出せ出せ出せ!」って暴れているみたいだった。ドキドキして。顔が熱い。

 一秒でも早く会いたいのに、なんとか少しでも先延ばしできないか、なんて矛盾したことを考えていたところで、彼がふらりと現れた。

「レラ」

 その声を聞いた途端、わたしの中にある「恐怖」「緊張」「不安」「苛立ち」「自己嫌悪」「羞恥」「後悔」……とにかく色々なタグがついたスイッチが一斉に「嬉しい」に切り替わった。犬かわたしは。

 彼は今日もさっぱりした飾らない服装だった。なんてことない格好なのに、体型のせいですごく感じがいい。張り出した広い肩とか、しっかりした胸板とか、首回りの筋とか、形のいい手足とか。同じ格好をほかの男がしてもこんな風にはきっと見えない。彼自身は全然気づいてないんだろうけど。

「悪い。待たせたか? 出かけにちょっとバタバタしてさ」

「ううん。ぜんぜん待ってないよ」

「なんか、今日のおまえキレイだな」

 一緒に歩き始めながら彼がサラリと言った。わたしは心の中でグッとガッツポーズ。

「大人っぽくて別人みたい。でも、似合ってる」

「え。そうかな?」

「……レラは一日ごとにどんどん大人になっていってるんだもんな」

 遠い目をしながら彼。

 あれ? とわたしは違和感を覚えた。彼って、こんな風にお世辞めいたことを言ってくるひとだったっけ? すごくわたしを喜ばせることを言ってくれるけど、もっとさりげないというか、思い出したようにボソッと言う感じだったような。嬉しいけど。

「ケーキでも買って帰ろう」

 彼のひと言で、私たちはマグナム商店街に寄り道することにした。

 はっぱねこの前を、彼はバツの悪そうな顔で早歩きして通り過ぎようとしたけど、店内から、立ちはだかるように店長のおじさんがにゅっと現れた。

「うお。出やがったっ」

 店長さんはニコニコしながらなぜかわたしのほうを見て、「ジャンボフランクパンが焼きあがりましたよー」

「いらねーよ!」と彼は顔をしかめた。

 はっぱねこの店長さんは、見た目は素敵なヒゲのオジサマだけど、ふだんは、スランプ中の音楽家のように無口で気難しくて近寄りがたい。みんな言ってる。なのに、彼とじゃれている顔は別人みたいで、感心した。

 それから、いつも可愛いお洋服を着たおばあちゃんがひとりでやっているケーキ屋『にんじんと石板』に入った。他のケーキ屋より安いから、わたしも時々来る。

「レラ、ふたつ好きなの選んでいいぞ」と彼が言ってくれたので、桃とメロンとスイカのフルーツタルトと、ホイップがちょんとのったチョコムースにした。彼は四つもケーキを買った。

 商店街を歩いていると、「あ。そういや、コーヒー切れてたんだった」と彼が思い出したように言った。「ケーキにコーヒーなしはありえねーな。カモカモ寄っていくか」

 カモカモ。知ってはいたけど、入るのは初めての珈琲屋さん。敷居が高くて入りづらい雰囲気だけど、彼は常連らしく「ちわっす」と気さくに入った。

 店の主人は、客商売なんか向いてなさそうな怖い感じの女のひとで、髪はボサボサ、化粧っ気なし、ヤル気なし、愛想もなし。でも妙な色気をむんむん発散している。ばかみたいに大きな胸のせいだろうか。

「おう」とこんな声出せたらいいな、というかっこいいハスキーボイスで「タキ。女連れかよ。珍しいな」

 彼を呼び捨てする気安さに反射的にイラッとしたものの、同時にちょっと嬉しかった。

「ん。おまえ、見たことあるぞ。『ぴょんカル』のあたりウロウロしてたろ」

 ぴょんカルって……。店の主人の言葉に絶句するわたしに、トドメのように「タキ。これおまえの女か?」

「え」

「え」

 まったく同時にわたしたちは固まった。

 思わずすがるような目で彼を見た。

「あ。いや」と彼はしどろもどろに「レラは……」

「しかし意外だな。おまえの女の趣味は、もっとアダルトっつーか、落ち着いたオトナのオンナかと思ってたけど」値踏みするようにジロジロ。

「あのー」めちゃくちゃイラッとした。「どーでもいいけど、気安くじろじろ見ないでもらえます? あと、おまえって言うの、やめてください」

 主人の眠そうな顔がふっと真顔になった。それから、数回パチパチと瞬きして、楽しそうに喉の奥でクックックッと笑う。

「なるほど。そーいうところか。私もおまえが気に入ったよ」

 困ってしまって彼を見ると、ちょっと嬉しそうに苦笑していた。

「カモカモのカモだ。よろしくな」

 気に入られてしまった。

 綿あめの機械とストーブを合わせたみたいな焙煎機でコーヒー豆が焙煎されている間、カモさんと彼は古い小説の話をしていた。

 コーヒー豆の店なのに、店の片隅に『ご自由に』と書かれた書棚があり、古い海外の小説や児童文学が並んでいた。そこに混じって、彼がわたしにくれた百年文庫という短編集が、ズラリと何十冊も置いてあった。その素敵なベージュのカバーを見ていると、彼がわたしに言った「本を持ち歩いているときも読書の一部」という謎のことばの意味が少しわかる。装丁やデザインという、手で触れられる実態的なものも含めて、本は本なのだ。

「そういえば、どうしてタキくんは古い小説ばっか読むの?」

 前から気になっていたこと。

「えーとな」と彼が言葉を選んでいる間に、

「普遍的なスタイルを確立するためだ」

 勝手にカモさんが答えた。「まわりと同じものを読んだって、同じような考え方しかできなくなるからな。かといって、本当にいいものは限られてる。時間の劣化と淘汰を乗り越えた作品なら、間違いなく読むだけの価値がある」

 ……言いたいことはなんとなくわかる。けど、なんでこのひとが答えるの。彼の姉かなんかのつもり?

「流行の本が悪いとは思わないんだよ」

 彼はゆったりと切り出した。今日の彼は口調が柔らかだ。

「でも、俺は、ちゃんと自分自身で選んだっていう実感が欲しいんだ。今どき誰も読んでないような本なら、俺はこれが好きで、まわりに流されず自分の意思で選んだんだって、自信持てるだろ?」

「そう。タキはいずれ作家になる男だ。今は、滋養のある本物を、たくさん、浴びるほど読むべきだ。化学調味料で味付けしたようなやつじゃなくてな。そして、他のやつらの意見や価値観なんて気にせず、自分だけの感性を大事にする。そうすれば、いつか確固とした自分だけの世界が構築される。あとは、それを簡潔な文章にすれば、必ず誰かの胸を打つ」カモさんはエラそうにベラベラ。

「……だといいんだけどね」と彼は苦笑。

「ちょっとまって」

 そんなゴタクなんかよりももっとずっとわたしの耳に引っかかったワードがあった。「いま、作家になるって……」

「あ」と彼。「ああ」

「なにそれ」

「なんだ? タキ、お前、自分の女に作家志望って話、聞かせてないのか?」

「聞いてない!」そんなの……「聞いてないいいっっ!」

「あ、っと、そうだっけな……」と彼は申し訳なさそうに「……俺、作家になりたいと思ってんだよ。もちろん、なれたらだけど」

「え? なに、ちょっと、あ、でも、そういえば……」『五十年後』に挟まっていたあの紙、あの素敵な文章!「……けど、なんで?」そんな大切なこと「わたしにはひと言も!」だいたい「なんで」彼自身の口からじゃなくて「こんな」『飄々とした理解者のお姉さん』ポジション気取りの女から!

 頭に火がついたみたいになったわたしは、彼の首を絞めかねない勢いで詰め寄った。

「どうしてもっとはやく言ってくれないの!?」

「ぐっく」彼のうめき声で自分が物理的にぐいぐい首を締めていることに気づいた。「ぐぐ……でだ……落ぢ……げぐるじ」

「は」とわたしは手を離す。

 カモさんは大笑いしながら、

「おまえ、おもしれー」はっはっは。

「……なんか、恥ずかしくて」のどをおさえてはーはー言いながら彼は「レラは……特別っていうか……読書好きだし、その……言いづらくてさ」

「………………」

「できれば、ちゃんと結果を出してから言いたかったんだよ。……なんか賞とるとか」

「………………」

 その言葉は嬉しかった。特別というのも本当だと思った。わたしだって彼だからこそ言えないこともある。でも。

 ……それでも、わたしは、それを、彼の口からちゃんと聞きたかった。

 そう思った途端、鼻の奥がツンとして、蛇口が壊れた水道みたいに涙がどばっとあふれ出した。まただ。また泣かされた。

「れ、レラっ?」

 驚いた顔をした彼が、わたしの両肩を優しくつかんだ。

「……で。泣くと。なんかいろいろすげーな、レラって」

 カモさんは心底感心したようにしみじみと言った。「うん。タキが気に入るわけだ」


 カモカモを出たあと、アーケード街路の途中にある『決闘するネコの像』の前で、彼は、

「ちょっとそこで待ってろ」と言ってさっさと行ってしまった。

 仕方なくわたしはベンチに座って彼を待った。

 彼は買い物袋を持って戻ってきた。

「ほれ」と言って中から出したのはハーゲンダッツの新作。

 わたしは彼の買ってきてくれたハーゲンダッツを無言で食べた。残暑の蒸し暑さの中、涼しい日陰で食べるそれは笑みがこぼれるほど美味しかった。口の中に広がる冷たい甘味に、自然と顔が緩む。女ってこれだから……我ながらトホホという気分になった。美味しいスィーツを食べながら怒った顔を続けるのって、とても難しい。

「……考えてみれば、心当たりはたくさんあったんだよ」とわたしは白いスプーンをくわえたままつぶやいた。

「なにが?」

「いろいろな場所で、よく手帳になにか書いてたし」

 彼は、ポケットから黄色の小さな手帳を取り出した。見覚えがあるリングメモ。わたしはその黄色い手帳を横目で見ながら続けた。

「あの人形劇……『花仮面の騎士』にしたって、ふつうのひとにいきなり脚本なんて書けるわけないしね。それもあんな短時間で」

 彼はちょっと苦しそうに笑って肩をすくめた。

 そして、手のひらに収まるくらい小さなその手帳の表紙を撫でながら言った。

「なあ。作家って、どうやったらなれると思う?」

「それは……たくさん本を読むことじゃない? カモさんも、浴びるほど読めって」

「でも、たくさん本を読むだけなら、みんなやってるだろ。レラだって」

「……じゃあ、実際に小説を書く……とか?」

「なら、小説はどうやって書けばいい?」

「わかんないよ。わたしは書くことには興味ないし。『小説の書きかた』とか読めば?」

「カモさんは、その手のものは死んでも読むなってさ」

「……わかんないね。どうやったらなれるんだろう。作家って」

「わかんないよな」と彼は少し楽しそうに言った。「だから、俺なりに考えたんだ」手の中でくるりと器用に手帳をまわす。「とりあえず、たくさん本を読んで、いろいろな場所に行って、いろいろな物を見て、いろいろなことを考えて、それで思い浮かんだ言葉の切れ端をこの手帳にスケッチして、自分だけの言葉を集めようって」

「うん」綺麗な手。見惚れながら答えた。

「それで本当に作家になれるかはわからない。でも、そんなふうに過ごしているうちに、不思議とひとりでもまったく寂しくなくなった。毎日がすごく新鮮で、楽しくなったんだ」

「………………」

「だから、もし作家になれなかったとしても、いまの俺の毎日は決して無駄じゃない」

 迷いのない彼の言葉は、わたしの心の深い場所にまで届いた。またひとつわたしは彼の秘密を知った。彼はわたしを見て少し恥ずかしそうにはにかんだ。喉元まで「好きぃ」と出かかった。わけもわからず気持ちをぶつけてしまう寸前、彼が言った。

「レラ、おまえもやってみる?」

 ぽわーっとした夢心地でなにを? と口を動かした。

「手帳に書いてみるんだ。おまえの心にある、自分だけの言葉を」

「……うん。やってみる。……やってみたい」

「じゃあ、俺のと同じやつ、プレゼントしてやるよ」

 さっそく文具屋行くか、と言って彼は立ち上がった。たったそれだけで、ついさっきまでわたしの中にあった負の感情のスイッチが、一斉に「嬉しい!」に切り替わった。犬だわたしは。

 彼は、商店街にある文具屋で、おそろいのロルバーンのリングメモを買ってくれた。

 色はオレンジ。それと携帯用の青いボールペン。縮めると小指くらいの大きさになって、リングの部分に収納できる。彼はそれをちゃんと包装してもらって、わたしにプレゼントしてくれた。

「案外、レラもいつか、小説書いたりするかもな」

 彼がわたしにまいたたくさんの種。その中でもとくに大事なこの種子は、やがて将来、彼の予言通り、小説という形でわたしの中に花咲くことになる。

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