~青イナツ風5~

 古い神社の前のバス停で降りた。

 そこからは、先の見通せない緩やかなカーブの坂道が伸びていく。

 山の斜面に身を寄せ合うように建物が建ち、その間をオレンジ色の蛇のような道が、途切れ度切れに見え隠れしながら高いところまでずっと続いていた。その先には濃い緑の山が、さらに向こうには目が覚めるくらい真っ青な空と、夏の雲があった。

「ここからちょっと歩くぞ。ゆっくりでいいからな」

 彼は優しい口調でわたしの恰好を気遣ってくれた。

 わたしたちは、密集した建物の間の、次元の隙間のような細い路地に入った。

 日が遮られ、湿気た匂いのする暗がりの中を、階段がまっすぐ続いていた。

 それを登りきったと思ったら、今度はベランダみたいに崖上に張り出した通路があって、そこを横に歩き、行き止まりでまた階段。

 くねくねと迷路みたいな道ばかり。階段は長いのもあれば、短いのもある。

 裏路地は、建物とびっくりするくらい近くて、中からテレビの音や、洗濯機の音、子供の笑い声なんかが聞こえてきた。窓を開け放しているところが多く、そのせいで、いろいろな家の匂いがした。

 流麗なピアノがかすかに流れてきた。ドビュッシーの『アラベスク』。CDかなにかだろうけど、わたしには、どこかで秘密の演奏会が行われているように思えた。

 やがて見覚えがあるオレンジ色の車道に行き当たった。さっき降りたバス停から続く坂道だ。神社はもうかなり下のほうにあった。

 わたしたちは、丘の下に海のように広がる街並みと、観覧車が光を反射するマリモと、町のそこかしこに固まった緑と、蒼い水平線と、そこに浮かぶ入道雲を眺めながら、ゆっくり坂を上った。日傘を持ってこなかったのを悔やんだ。どこを歩いても蝉の声は遠くから一定の音量で聞こえてきた。狭い歩道を彼と並んで歩いていたら、ふとむき出しの腕と腕がピトッとくっ付いた。

 ちょうど、「ああ。今からついに彼の家に入るんだ。で? そのあとなにするの? どうなるの?」というようなことをぼーっと考えていたわたしは、肌と肌が触れ合う生の感触に、熱いスープを舌先で舐めたネコみたいに過剰反応した。

 心臓が三倍くらい大きくなってワンピースの胸の部分が波打つんじゃないかと思うくらいドキドキした。近くに居たらきっとこの心音を聞かれてしまう。

 反射的に彼から大きく離れた。

 突然、後ろから来た車に激しくクラクションを鳴らされ、心臓が止まるかと思った。彼は、とっさに私の肩を抱くようにして、ぐいっと自分のほうへ引き寄せた。短い半袖から露出した二の腕に、男のひとの固い手のひらを感じた。

「ふらふらすんなっ。ひかれるぞ」

 彼はそう言ってダンスでも踊るように立ち位置を入れ替え、自分が車道側に立った。彼の声は遠く、うるさいくらい響く自分の心音の向こうから、くぐもって聞こえてきた。

 坂を上れば上るほど建物は少なくなっていき、やがて、滑走路のようながらんとした道路に出た。まわりは、草原と、畑と、棚田と、まばらな木々。眺めのいい、素敵な丘だった。絵本みたいな風景。空がすごく広く感じる。緩やかな斜面を、柔らかい風が駆けあがってくる。腕を左右に伸ばすと、ふわりと浮かび上がりそうな気がした。建物も車も少ないと、風は木と草のさわやかな匂いがする。

 彼の家は、そんな小さな丘に建つ窓の大きな四角い平屋だった。

 あとで知ったけど、沖縄にある外国人住宅を模した建物らしく、庭もかなり広かった。そこに彼の青いバイクもちゃんと止まっていて、なんだかものすごく嬉しかった。

 わたしはそこがひと目で気に入ってしまった。素敵な家。彼によく似合ってる。家賃高いのかな。こんなところにわたしも住みたいな。彼と一緒に。いっしょに? うあ。そんな。でも。ああ。ついに、ついにここまで来た。か、か、覚悟を決めなきゃ。でもすっかり汗かいちゃった。お風呂入りたい。あ。でも展開によってはシャワー浴びるたりすることも? いや、いくらなんでも、いきなりそれは。それは。さすがに。けど相手はコドモじゃないし。大人の男のひとだし。わたしだって。別に嫌とかそういうわけじゃないけど……ないけど……ないけど。

 思考のラリーと共に、「ぱらららら・ぱらららら」と何か聞こえると思ったら、それはブルグミュラーのほうの『アラベスク』で、せかすようなピアノの旋律が脳裏に響き、わたしの鼓動をどんどんどんどん加速させていくのだった。

「……ラ? 大丈夫か?」

 息をするのも忘れて頭から煙を出してるわたしを、彼が心配そうに見ていた。

「顔、赤いぞ」

「う、うん。日差し強かったから……」

「早く中に入って休もう。なんだったらベッドに横になるといい」

 唐突に曲が『ハンガリー舞曲集第五番』に切り替わった。

 ブラームスが「さあ行くのだ」とわたしの背中を押した。

 目からバチバチ火花が散った。

 わたしは大きく息を吸って。そして吐いた。

 もう、ここまで来たら、なるようになれ!

 ふとそこで、庭先に止まっているあずき色の軽自動車に気づいた。

「あれ」見覚えがある車だった。「タキくん、車も持ってたの? それに、あのひとと同じくるま?」

「あ。それは……」と彼が言った瞬間、玄関のドアがひとりでに開いた。

「おかえりー。遅かったね。冷やし中華、すぐ用意……」

 わたしの目が点になった。

「な……なんでレラちゃんが、ここに……?」

 彼の友達が幽霊でも見たようなかすれた声を出した。そりゃこっちのセリフだ。


「……福海町探検で、このあたり散歩してたとき、この家見つけたんだ」

「ふうん」

「へーえ」

「空き家だったからすぐ家主調べて連絡してさ。直接契約したから、家賃とかもかなりオマケしてもらったんだ」

「あっそう」

「そーなんだー」

 彼が話すのを、わたしと友人さんは薄笑いを浮かべて睨み合いながら聞いていた。

「そんなことより、ケーキとか買い出しに行くって出て、なんでレラちゃん連れて帰ってくるの? どこかで買ってきたの?」

「人聞き悪いこと言わないでくれます? わたし非売品なんで」

「ああ、おまえもレラも俺の家招待したことなかったからな。今日はいい機会だと思って、ふたりまとめてセッティングしたんだ」

「あいにく、冷やし中華ふたりぶんしかないんだよねえ」友人が舌でも出しそうな顔で。

「じゃあわたしとタキくんのぶんですね。ありがとうございます。ゴチです。ではさようなら。帰りの道中お気をつけて」

「……きみ絶対性格悪いでしょ?」

「一字一句そのままお返しします」わたしは本当にあっかんベーをしてやった。

 結局、ひとり相撲の空回りだったわけだけど、ガッカリすると同時にどこかホッとしている自分が居た。その意気地のなさと臆病さに情けなくなる。

 でも、なんとなくだけど、彼はわたしとふたりっきりになるのを避けるために友人を呼んだような……そんな気がした。 


 彼の部屋は、和洋折衷の変わった間取りだった。

 玄関に入ってすぐは広いフローリングのワンルーム。真ん中に木のテーブル。左手の窓際にベッド。右の壁際に棚とテレビとコンポが並んでいる。物が少なくて、簡素なインテリアも彼らしい。そしてわたし好み。家具も家電もうちで使っているのと大差ないものだったけど、この部屋にあると、どれも感じがよくて特別な品に見えた。

 部屋の奥、海が見える方向は、大きな窓の二面採光になっていて、眺めは最高に素晴らしかった。そこだけ畳が三枚並べられた変形の和室になっていた。小さな本棚と座椅子と可愛いちゃぶ台が置いてあって、彼がそこに座って、そよ風に吹かれながら読書している姿が目に浮かぶようだった。

 友人は、初めてカレシの家に来たカノジョかってほど初々しく、キッチンに立って料理し始めた。

 彼はといえば、畳の上に座り、壁にもたれてぼんやりしていた。

 スカートの裾が短いものだから、畳に直で座るのは少し気が引けたけど、わたしも和室? に居る彼のそばに行き、膝立ちになって本棚を見せてもらった。

 本当にいろいろな本が並べられていた。とりとめがない。

「ラノベも読むんだね。意外」

 本棚の特等席に置かれたその古いラノベは、不思議な町を舞台にした、鉄砲とバイクと白いワンピースの女の子が出てくる夏のお話らしかった。

「べつにラノベを頭からバカにしてるわけじゃないさ。いい作品だってあるしな」

 畳の上を四つん這いで移動してきた彼が、わたしのすぐ後ろの耳元で、吐息まじりに言った。身体のそっち側が急激に熱くなった。

 彼は私からその本を受け取ると、ぱらぱらめくりながら言った。

「俺が子供の頃、この小説読んで影響受けて、それでバイクに乗り始めたんだ」

「いいね。そういう影響を受ける本」

 彼もライトな本を読むとわかって少し安心した。というのも、わたしはつい最近、爆発的に流行した恋愛小説を読んでみて、思った以上に感動してしまったからだ。

 読書好きの男の子と病気の女の子の純愛小説。ちょっと前のわたしだったら馬鹿にしてたか、読む気にもならなかったと思う。でも、好きなひとが居る今は、重ねられるものがたくさんあって、わたしはとてもその世界に入り込めた。

 わたしはそのことを伝えたくて、その本の話題を出してみた。彼ももちろん知っていた。

「なんか感動しちゃった」とわたしは言った。「わたし、流行の恋愛小説とか読まなかったんだけど、偏見はよくないよね」

 彼にも読んでもらいたいな、と思った。その本の世界観や感動を共有したかった。

 だけど、彼の反応はわたしの能天気な頭に冷や水を浴びせかけるものだった。

「…………あんな小説、俺は嫌いだ」

「え?」

「主人公は弱くて暗いし、俺が女だったらあんなの好きにならない。内容も現実味薄くて、いかにも甘ったれにウケそうな話だ」

「そんなふうには……思わなかったけど……そうなのかな?」

「なにより気に食わないのは」彼は冷たく言い放った。「女の子が死ぬことで感動させようとしてるとこだ」

「いや、そんなこと言われても……」わたしは困る。

「……俺が書くなら」と彼はほとんどひとり言みたいに言った。「都合がいいだけの物語、現実逃避みたいな話、誰かを病気にしたり死なせたりで泣かせようって小説、そんなのは絶対に書かない。そんな物語を認めてたまるか」

 険しい顔で吐き捨てるように言う彼を、わたしは初めて『怖い』と思った。

 なのに、わたしの口は勝手に言葉を紡いでいた。

「わたしはそうは思わないよ」

 彼が目を上げてわたしを見る。怖い顔をしているせいか、睨まれているように見える。

「逃避でも、都合がよくても、そういう物語もやっぱり必要なんだよ。それで、今日を頑張れるひととか、嫌なこと辛いことを忘れられるひとだって居ると思うもん。自分のささやかな暮らしの中で、泣いたり、共感したり、感動したり……そういうのって、生きていくのにとても大切なものなんだよ。だから、そういう本は世に必要だと思う」

「それじゃいつまでたっても弱いままだ」

「強くなりたくてもなれないひとだって居るんだよ?」

「弱いからこそ、今より強くなるために、逃げてばっかじゃダメなんだろ?」

「それは強いひとの考えかただよね。でも、みんながみんな、タキくんみたいなひとばかりじゃないんだよ」

 彼の言いたいことはわかる。間違ってもいないと思う。彼にはそれを言うだけの資格がある。それでも、わたしは、弱者のための物語だと決めつける彼の考えを受け入れられなかった。

 パンパーンと手が叩かれ、その場の固い雰囲気をほぐすような明るい声が上がった。

「はいはーい。とりあえずそろそろご飯食べようか。冷やし中華が伸びちゃうよ。ふたりぶんを仲良く三等分しようねー」

 わたしは幾分かホッとして、如才のない友人さんに感謝した。

 彼はそれでもまだ難しい顔をして、じっと床を睨んでいた。

 それから、わたしたちは畳の上に輪になって、美味しい冷やし中華を食べた。玉子は甘く、きゅうりはシャキシャキで、トマトはみずみずしかった。彼の口数は少なかった。その代わりに、わたしと友人さんは少ししゃべり過ぎるくらいしゃべった。

 食事のあと、椅子とテーブルを庭に持ち出し、蚊取り線香の匂いを嗅ぎながら、『にんじんと石板』で買ってきたケーキを食べた。

 あそこのおばあちゃんにも、一生大事にしている物語があるのかな、と思った。

 彼がハンドドリップでコーヒーを淹れてくれた。確かに焙煎したてのコーヒーはとても美味しかった。全然苦くなくて、むしろ甘いと感じた。

 日が傾くと、風は涼しくなった。高台にある彼の家は風の通り道で、夕涼みにはぴったりだった。ここでならいくらでも本が読めそうと思った。彼は、黙りがちに遠くを見ていた。柔らかな風が彼の髪を揺らした。わたしはずっと彼を見ていた。

 緑色の丘の起伏は、光の加減で黄色の波になっていた。友人さんは二胡を弾いてくれた。

 暮れなずむ景色の金色の光に、美しい調べが広がり、染みこんでいくようだった。

『月の沈黙』『ふたつの泉に映る月』『空山に鳥はさえずる』という中国の有名な曲を立て続けに弾いてくれた。二胡というのは不思議な楽器だなと思った。慰めるような音色。気持ちがとても安らぐ。夕陽にとても似合う。そして、どこか悲しい。

 知ってる曲が流れた。ジブリの曲、『人生のメリーゴーランド』だった。二胡で聞くとまた雰囲気が違う。なぜだろう。突然、涙ぐみそうになった。

 痛む胸を押さえ、目を閉じて曲に聞き入っていると、突然誰かがわたしの手を優しく握った。びっくりして目を開けると、彼だった。わたしの耳元に顔を近づけ、彼は短く「さっきはごめんな」と言った。そして、すっと離れた。

 あっという間に帰らなくちゃいけない時間が来た。帰りたくなかった。唐突に、早く大人になりたいと思った。そしたら、家を出てもっと自由でいられるのに。彼のそばにだって、もっと居られるのに。

 わだかまりはまだ残っていた。それをちゃんと話し合えず去らなくちゃいけないのが辛かった。彼は理由もなしにあんなことを言うひとじゃない。もっと彼と話がしたい。

 ああ。夏が終わる。

「じゃあ、レラを頼むぞ」

 淡い闇が満ちた庭で彼は言った。こんな場所にひとりで住んでいる彼は、本当に物語の主人公に見える。

「任せといて」と友人。

 もうとっくに、お母さんに怒られる時間だから、送ってもらえるのはとてもありがたい。

「ねえ。タキくん」とわたしはもじもじしながら言った。「また、遊びに来てもいい?」

「当たり前だろ」と彼は笑った。最後まで、なんだか寂しげな笑顔に見えた。「いつでも好きなときに来い」

 そして、わたしと友人さんの乗った車は、彼の家を離れた。

 ヘッドライトが照らすオレンジ色の坂道を、車はぐるりと下っていく。

 ガードレールの向こうの藍色の闇の中に、光の粒がたくさん散らばっていた。

「……ごめんね。一応謝っておく」と友人さんがぼそり。

「なんですかいきなり」

「今日、それなりに覚悟決めてきたんだろうな、と思って」横目でわたしの恰好を見て。「ふたりきりの邪魔してごめん」

 ほんとに嫌味なぐらい女心のわかるひと。

「…………。いいんです。家、教えてもらったからまた押しかけます」

「今日はタキがどうしても来てくれって言ってね」

「……でしょうね」やっぱりだ。

「レラちゃん」

「なんですか」

「今日のアイツ、へんだと思わなかった?」

「そりゃ思いましたよ。なんか、待ち合わせたときから、上の空というか、ぼーっとしてるっていうか。あまりしゃべらないし、ずっと何か考えているって感じ。それにすごく優しかった。……かと思えば、いきなりあんなになっちゃうし」

「はは」と友人さんは短く笑った。「珍しかったね。あんなタキ」

 しばらく会話がやんだ。

 わたしは、自分の家までの道順をときどき指示する以外口を開かなかった。

「レラ。話があるの」唐突に友人さんが口調を変えた。まるでモードを切り替えるように。

「なによいきなり」自然わたしのモードも切り替わる。

「これはぼくだけがタキに聞かせてもらったこと。でも、それは、レラをないがしろにしてるとかじゃない。それをわかってほしい」

「なにそれ。どういうこと?」

「レラには聞かせたくない、聞いたらレラがつらいって、タキは思ったんだ」

「もうっ。思わせぶりなのはやめてよ。はっきり言って」

「でも、ぼくはレラも知っておいたほうがいいと思う。そのつもりで聞いて」

「わかった」急に怖くなってきた。

「………………」彼女はなかなか口を開かない。

「そんなに深刻な話なの?」怖い。聞きたくない。

「………………」

 彼女は口を開かない。彼が言わなかったことを、自分が言っていいか迷っている。「言ってよ」とわたしは背中を押した。本当は怖い。聞きたくなんかない。「……友達でしょ?」

 彼女は言った。それは、わたしが予想していたよりも、はるかに深刻なことだった。

「……タキのお母さんに、乳がんの再発が見つかったらしいんだ」

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