ラストピース

 高校生の頃、俺は、いくぶんか馬鹿にされた物言いで、『タンテー』と呼ばれていた。

 進路希望の紙に『私立探偵』と書いて提出したら、ホームルームでわざわざ担任に「お前、先生を馬鹿にしてるのか」と言われたからだ。教室中大爆笑だった。

 そんな夢でもあるだけマシで、まわりでは誰も、大学進学か就職以外の進路を考えもしなかった。

 同級生の『モリヤマカエデ』も、俺と同様に馬鹿にされていた女の子だった。みんなから『ザシキ』と呼ばれていた。座敷わらしに似た風貌と、潰れた小さな旅館のひとり娘だったせいだ。

 モリヤマは、本気で漫画家を目指していた。

 いつもひとりで誰ともつるまず、暇さえあれば大学ノートに漫画やイラストを描いていた。クラス中が、そんなモリヤマを馬鹿にした。漫画家になんてなれるわけがない。誰もがそう決めつけ、本気で夢を見るモリヤマを蔑んでいた。特に絡んでいた男女数人のグループが居て、モリヤマのノートを引ったくっては、からかって騒いでいた。

 でも、モリヤマは、それを徹底的に無視した。怒ることもなく、悲しむこともなく、卑屈になることも、逆らうこともしなかった。そんな連中は眼中にすらないように。

 あるとき、モリヤマがいつもの大学ノートじゃなく、本格的な原稿用紙を学校に持ってきたことがあった。

 昼休み、モリヤマが黙々とペンを走らせていると、例のグループがさっそく目を付けてモリヤマの原稿用紙を取り上げ、口々にからかってはやし立てた。

「返せッ!!」

 鋭い声が上がり、教室中が静まり返った。

 モリヤマがものすごい形相でそいつらを睨んでいた。気圧されたように凝固するそいつらの手から、一枚ずつ原稿を取り返すと、大切そうに茶封筒に入れ、カバンに直した。そして、席に着き、机に突っ伏した。

 モリヤマの迫力に、誰も何も言わなかった。完全に呑まれたそのグループの連中は、居心地悪そうな薄ら笑いを浮かべるだけだった。

「学校にそんなもの持ってきちゃいけないと思いまーす」いきなり女の声が上がった。

 遠巻きに見ていたクラスの誰かだった。わざとらしい子供っぽい声だった。やがて、それに賛同するようなことを誰かが言い出した。それは見えない力のように伝播し、みんな口々に「校則違反」だの「学校は漫画描く場所じゃない」だの「先生に言ってやろうか」だの言い始めた。

 でも、モリヤマは、自分を取り囲む悪意をまったく意に介さず、ただ黙って机に顔を伏せたままだった。

 その日の放課後、モリヤマが青ざめた顔でカバンをゴソゴソ探り、

「ないっ。ないっ。ないっ。ないっ」と気が狂ったように連呼していた。カバンをひっくり返し、机の中の物を全部出し、後ろのロッカーを漁り、教室中を探し回った。

 そして、獣のようなうなり声を出すと、ニヤニヤしながらそれを見る教室内の連中に向けて、

「おまえら死ね!」

 と叫び出ていった。残った連中はなにが面白いのか、ドッと笑った。


 放課後の校舎中を探し回ってようやく見つけたモリヤマは、校庭の隅にある錆びた焼却炉の前に立ちすくんでいた。ぐっと拳を握り、肩を怒らせ、小さな体をぶるぶる震わせて。

 俺はモリヤマに近づき、後ろから声をかけた。

「そこに入れられてたらアウトだったな」

 モリヤマはゆっくり振り返った。

 涙と鼻水で、日本人形みたいな顔はぐちゃぐちゃだった。俺を見るモリヤマの顔に、明確な敵意が満ちた。

「ホレ」と俺はそんなモリヤマに茶封筒を見せた。

「………………」

 モリヤマは呆けた顔でそれを見た。それが何かまったく認識できていない様子だった。

「単細胞ゴリラが隠しそうな場所なんて、どうせアイツらの部室だろって思ったけど、アタリだったよ」

 反応らしい反応がないもんだから、精いっぱいカッコつけた俺の第一声からして、すでに盛大にスベってる感があったが、恥ずかしさをこらえつつ俺は続けた。

「こっそり忍び込んで、しれっとパクッてきた。この俺に、入れない場所も、奪えないものもないのだ」

「………………」モリヤマはようやく口を開いた。「それタンテー違う。ドロボーや」

「モリヤマ、けっこうツッコミ鋭いのな」

 俺は苦笑した。モリヤマとまともに話すのはそれが初めてだった。

 モリヤマは、不思議そうに俺の手元を見た。泣いたあとの透明な表情。自分の原稿だというのに、手を触れるのをためらっているような素振り。

「ひとつ、条件があるんだけど」と俺は言った。

「……!?」

 何もそこまでというくらい怯えた顔をされた。

「俺にちゃんと依頼して欲しいんだよ。『原稿を取り返してほしい』って。順番、逆になったけど。プロの探偵は、自分の都合じゃ動かないんだ。依頼があって初めて仕事するもんなんだ」

 モリヤマは驚いた顔をした。上目遣いに俺の胸元を見た。しばらく考えていた。そして、ごしごし目をこすると、かすれた声で、「……依頼する。原稿、取り返して」

「はいよ」と俺はあらためて原稿を手渡した。

 モリヤマは封筒を受け取ると、子猫でも扱うように胸に抱いた。

「余計なお世話かもだけど、そんな大事な原稿なら、学校持ってこないほうがいいんじゃない?」

「時間、なくて。締切、近いから」

「締切?」

「これ、今度。投稿する、予定」

「投稿!?」

 夢の実現のための具体的なアクションに、俺は心底驚いた。急にモリヤマが大人に見えた。

「お前スゴイな。そこまでしっかりしたビジョンを持って活動してるなんて」

「自分だって。私立探偵になるって」

「ま、まあな」

 もちろん本気でそうなるつもりではあった。でも、ひとの口からあらためて聞かされると、それは信じられないくらい恥ずかしかった。出版社に投稿しようとするモリヤマに比べ、俺が私立探偵になるためにやっていることといえば、推理小説を読むくらいだ。

「私、絶対、漫画家になる。売れっ子に」

 モリヤマは大事そうに原稿をカバンに入れながら言った。チラッと見えた私物が女の子らしい可愛らしいものだったのが意外だった。

「……同窓会行って、昔のこと忘れてチヤホヤしてくるやつらに、言ってやる! 気安く話しかけんなって」

「はは。その意気だよ」

 自然に顔がほころんだ。こういうやつが本当に漫画家になるのかも、と思った。

「あいつら相手に一歩も引かないモリヤマはカッコよかったよ」

 モリヤマはいきなり背を向けた。なんだか怒ったように両肩に力が入ってる。

「……雑誌のインタビュー。受けたら」

 ニオクターブくらい高い声が小さな背中越しに聞こえた。

「……私が漫画家になれたのは、高校のとき、ある探偵さんが助けてくれたからって。答えるっ」

「それはすごいな。楽しみにしとく」

 俺の初めての依頼人。それがモリヤマカエデだ。


「タッキー、どうかな? 忌憚ない意見を聞かせてくれたまへ」

 放課後の図書室の片隅。長いベージュのカーテンにくるまり、顔だけ出したモリヤマが言った。

「誰がタッキーだ」と俺は顔をしかめた。仲良くなってみると、モリヤマは面白い女の子だった。おまけに変な口調でばかり話す。

「おまえのマンガって、絵は丁寧だし迫力もあっていいよ。俺は好きな絵だ」

「やっだーもー! バッシーン」

 回転しながらカーテンから出てきて俺をひっぱたく。

「痛ぇよ。効果音自分で言うなって。……でも、キャラクターは女が描いた典型って感じ。特に男。こんなオトコ居ねーって」

「あいやー。容赦ないアル」

「おまえが少女漫画描きたいんだったら全然いいんだよ。でも、少年誌志望なんだろ?」

「しかし年齢イコール彼氏居ない歴の女にリアルな男描けるはずもなく」

 いつのまにか、モリヤマはちゃんと俺の目を見て話すようになった。

「タッキーでべんきょうしなくちゃ」

「俺じゃ参考にはならないよ」

「そうだ。タッキーになんかアイデアない? 原案というかキャラ設定というか。男ならではの、アツいやつ」

「そうなー。……ま、帰りながら考えるか」

 俺たちは図書室を出た。

 いつしか、モリヤマへの創作アドバイスが放課後の恒例になっていた。絵コンテやらペン入れされたイラストを見せられ、俺なりの感想を言った。モリヤマは、それが本当に嬉しそうだった。でも、モリヤマは絶対に校内を一緒に歩こうとはしなかった。俺たちは図書室で一旦別れ、それから学校の帰り道にある小さな神社で再び落ち合った。

「……ザシキなんかとへんな噂たてられたら、タッキーが気の毒だかんね……」

 モリヤマはそう言って笑った。そんなこと気にするな、と言ったが、モリヤマは頑なに首を横に振るだけだった。

 通学路の途中、やけに思わせぶりな細い路地があって、竹に囲まれたその薄暗い道を抜けた先に、忘れられたような古ぼけた神社があった。

 思えばそれが、俺の探索癖の原点かもしれない。

 モリヤマはいつも先に着いて待っていた。

「……『文字成り』? ふうん。タッキー、変わったこと考えんのね。ほんで?」

「花が好きなその地味な女の子は、言葉を具現化できる『文字成り』って能力の持ち主で、言葉で創り出した剣で、人知れず王子を守っていたんだ」

 俺たちは緑深い神社の境内に座って続きを話した。

「ほんほん。言葉の剣。して、その名は?」

「『深い場所にまで届く言葉の刃』」

「ふかいばしょにまでとどくことばのやいば? ……へんなの」

「いや、俺、そういう固有名詞考えるの苦手で」

「『ニィルハース』なんてどう?」

「お。カッコいいな。じゃあそれで。……んで、その子が剣を落としてしまったあと、王子が宣言するんだ。『この剣を国中のすべての女に握らせ、光らせたひとを妃にする』」

「おお。シンデレラっ」

「だけど、その子の友達が、言葉を盗んで、自分がその騎士だって嘘つくのさ」

「いいねー。裏切り展開」

「…………。実際友達に裏切られたら、そんなに軽いもんじゃねーけどな。とにかくそれでピンチになるんだけど、王子への愛の告白で、その子は新しい言葉の剣を生み出すんだ」

「その子の名前とか決めてないの?」

「……【レラ】」

「シンデレラのレラかー」とモリヤマは微笑んだ。「……いいね。タッキーらしい話だよ。私は……好きだな」

「ただの思いつきを言っただけだよ」

「でも、私がそのネタ使っちゃっていいの? 『文字成り』とか」

「どうせ俺には漫画なんて描けねーからな。好きに使っちゃって」

「……うん。そうさせてもらう。それで、肝心のタイトルは? なにか決めてる?」

「タイトルはズバリ……『花仮面の騎士』」

「いやそれはちょっとダサすぎでゴザろう」とモリヤマは呆れた。


 大学に入って最初の冬。いろいろなことが上手くいかなくなり始めていた。

 俺は、カレシから日常的に暴力を受けているというクラスの女の子から相談を受け、余計なことに首を突っ込み、その子がその男とよりを戻したことで、微妙な立場に追い込まれた。私立探偵になるため、片っ端から電話をかけまくり、ようやく話を聞いてくれた興信所の見習いバイトとして無給で働いたが、ひとの弱みにつけこんで大金を稼ぐやり口を見せられ、心底嫌気がさした。若く元気だった母に最初の乳がんが見つかり、母はそれを片方の乳房ごと切除した。

 たまたま会った高校の同級生にモリヤマの話を聞いたのは、まさにそんな、どうしようもない冬だった。


「まさか同年代第一号が、ザシキとはねー」

 半分笑い話のように語るその元クラスメイトの軽薄な顔を、俺は殴りそうになった。

 故郷の町に帰り、初めて訪れたモリヤマの家は、パッと見、少し立派なくらいの古い日本家屋だった。旅館名が書かれたプラスチックの白い看板は、石をぶつけられあちこち割れていた。コンクリート塀は黒ずみ、外壁には亀裂が走り、敷地の中には、大量の食器、漆のはげたお膳、銀色の什器、破れた網戸、腐った畳やらが散乱していた。

 すべてが後戻りできないくらい薄汚れ、手の施しようがなく古ぼけた中で、植物だけが、枝葉を伸ばし、敷地内をさらに暗く陰気なものにしていた。

 モリヤマはこの旅館を死ぬほど嫌っていた。俺を近寄らせもしなかった。

 それでも、冗談っぽく「漫画でいっぱつ当てたら、旅館を立て直そっかな」と話していた。モリヤマにとっての幸せな記憶は、やっぱりこの旅館が生きていた時代に根ざしていたんじゃないかと思う。

 インターホンはとっくに壊れていた。仕方なく俺は、戸をほんのわずかに開き、ごめんください、と控えめに叫んだ。線香の匂いが隙間からぷんと匂った。

「はい?」と闇の奥から物静かな女性が音もなく出てきた。

 生まれて一度も楽しいことがなかった、というくらい悲しい顔立ちの、痩せた綺麗な女性だった。モリヤマとは目が似ていた。

 母親は、俺が訪ねてきたことをとても喜んだ。高校の同級生で家にまで来たのは俺だけだった。その顔は虚ろに微笑んでいて、娘を失ったことをまだ受け入れられない様子だった。

 俺は花屋で買ってきた花束を渡した。店員に弔問の花とはどうしても言えず、何を選べばいいかもわからず、仕方なくできるだけ感じがいいと思った白薔薇を選んだ。

 高校を卒業して以来、久しぶりに見るモリヤマは、仏壇の前の写真の中で、居心地悪そうに笑っていた。

 俺は黙って線香をあげて、手のひらを合わせた。

 母親は死因を言わなかった。俺も聞かなかった。途切れ途切れに母親は話した。

「カエデね、高校を卒業したあと就職した先でいろいろあったみたい」「なんだか毎日ツラそうで」「話を聞いても、大丈夫だからしか言わなくて……」『ザシキ、自殺したってウワサだよ』合間に誰かの言葉が蘇る。

「部屋を見てあげて」と言われ、古い匂いのする建物の中を移動した。

 モリヤマの部屋は、旅館の部分から一番遠くにあった。

 中は、普通の年頃の女の子の部屋だった。カーテンの柄は可愛らしく、ベッドもシーツも清潔で、はっきりと女の子の匂いがした。古本屋にあるような巨大な本棚には、少女漫画、少年漫画、青年漫画と実にたくさんの本があった。成人漫画も少し混じっていた。

 子供の頃から使っていたような学習机があり、モリヤマが一番長い時間をそこで過ごしたことはすぐわかった。俺が想像する、漫画家の机そのものだったからだ。

 トレイには大量のマーカーと、ありとあらゆる文房具が詰まっていた。使い込まれて軸が変色したペンが何本か転がっていた。傾いた巨大なまな板のような台の上には、書きかけの白い原稿用紙が置いてあった。

「好きに見て」ドアのところに虚ろに立ったまま、母親が言った。「あの子も嫌じゃないと思うから」

 そして俺はそれを見つけた。

 丁寧に書き込まれた原稿の束。トーンが貼られ、ベタが塗られ、モリヤマの込めた熱意がしっかり伝わってくるその漫画――『花仮面の騎士』

 学校の帰り道、ただ頭に浮かんだ適当なアイデアを聞かせただけのつもりだった。モリヤマにしても、そんなのはただの帰り道の話題くらいに考えてると思っていた。

 でも、違った。モリヤマは、そんな思いつきを、しっかりと絵にして、ストーリーを整え、キャラクターに姿を与え、セリフを言わせ、命を吹き込んだ。俺は、俺の頭の中に漠然とあった、レラや、王子や、意地悪な友達や、悪役たちが、生き生きと動き回る姿を確かに見た。不思議な体感だった。モリヤマのイマジネーションが、その物語の完成形を、あるべき姿を、俺に見せてくれたのだ。

 けれど、その漫画は未完成だった。

 途中から、唐突にそれは、いくつもの線が重ねられた鉛筆のラフ書きになった。

 最後のページ、まだペンが入っていない下書きの部分に、モリヤマはこう記していた。

『完成したらタキくんに連絡すること! もう口実でもなんでもいいから!』

 この原稿が完成することはもうない。

 モリヤマからの連絡も二度と来ない。

 そう思った途端、息ができないくらいに苦しくなった。

 そこで初めて俺は、この地上から、モリヤマカエデが完全に消えてしまったことを実感した。

 夢遊病患者のようにふらふらと部屋を出た。

 いつのまにか仏間に戻って手を合わせていた母親のところに行き、俺は、どうかこの原稿を頂けませんか、と頼んだ。声がうまく出なかった。喋ると感情の堤防が決壊しそうだった。それでもなんとか理由を説明しなくちゃ、と思った。

 でもその必要はなかった。

「どうぞ。あなたがもらってあげて」

 そう、母親は優しく頷いてくれたから。

 俺は、もう一度モリヤマの前に座り、線香をあげて手を合わせた。手が勝手に震えていた。

「……私立探偵のタキくん」

 驚いて振り返ると、母親は暖かい眼差しで俺を見ていた。

「カエデがね、よくあなたの話をしてたの。クラスにタキくんって男の子が居て、私立探偵を目指してるって。あなたでしょ?」

「………………」俺は浅くうなずいた。それだけ動かすのも辛かった。

「タキくんならぜったい夢をかなえるって。あのひとは口だけじゃないって。だから自分も負けないように頑張るって。一緒に夢に向かって頑張る仲間ができて、あの子、ほんとうに嬉しかったみたい」

 母親は場違いなほど明るく笑った。俺もつられてぎこちなく笑った。感情を司る回路が壊れ始めているのが自分でもわかった。

「ありがとう。カエデがね、タキくんが私立探偵になったら、自分もワトソンみたいな存在になって、あなたの事件をマンガに描けたらいいなあって……あなただけなのよ」声が唐突に震え、それは嗚咽に変わった。「……娘のこと、ざ、ザシキって、よ、呼ばなかった、のは……」

 そこで、一気に泣き崩れた。溜めに溜めた感情と涙を放出するように。

 何かが壊れてしまったように大声で泣く母親を見ながら、俺は震える全身に力を入れて、身の中で爆発しそうななにかに必死で耐えた。目頭が熱かった。気持ちがあふれ、身体の中にとどめておけないほどあふれ、こぼれそうになり、自分でもどうしようもないほどになり、それでも、俺は自分に言い聞かせた。

 泣くな。

 涙を見せるな。

 涙を自分に許すな!

 ここで泣くくらいなら、最初からもっと俺はモリヤマに対して、できることをすべきだったんだ。もっと話をするべきだった。漫画を読んでやるべきだった。感想を言うべきだった。相談に乗るべきだった。気づいてやるべきだった。なにがあったか聞くべきだった。カエデと名前で呼んでやるべきだった。支えてやるべきだった!

 それをしなかった俺に、いま、ここで、カエデのために泣く資格はない。

 泣いてスッキリするな。泣いてしまったらそこでおしまいだ。なにも変わらない。

 いまさらカエデになにをしてやれる?

 死んでしまった人間に、してやれることなんて本当はない。きれいな花も、弔いも、別れの言葉も、涙も、後悔も、すべては生き残った人間が、自分のためにやってるだけにすぎない。

 それでも、たったひとつだけ、死んだ人間に対してやれることがあるとしたら。

 ……それは、その死に意味を見出すことだけだ。

 俺は弱い。口だけの男だ。カエデに信じられるほどの価値はない。だけど、これからは違う。強くなってみせる。俺は変わる。ひとは変われるんだ。それを証明してやる。おまえが信じてくれた俺の強さを。こんどこそ、幻想でも、過大評価でもなく、ほんとうに……ほんとうに……ほんとうに

「……ありがとう」

 母親が。

 目頭を押さえながら。

 震える声で。

「……娘のために……泣いてくれるのね……」

「泣いてません」俺は言った。

「………………」

「おれは泣きません」

「………………たきくん」

 そうだ。俺には泣くよりももっとべつにやることがある。カエデのできなかったことを。物語を。俺が。俺の手で。カエデみたいに絵は描けない。もっとべつの。おれにもできることで。なんでもいい。なにができる? 文章なら書ける。そうだ。小説。小説なら。小説を。作家に。

 必ず。必ず作家に……それは約束できない。

 いくら望んでも、それは、熱意や執念だけでどうにかなるようなものじゃない。俺にはそんな才能はない。そんなことはわかってる。

 だけど、カエデ。

 俺たちがふたりで作った物語は。『花仮面の騎士』は。いつか、どこか、どんなカタチででも、俺が、必ず世に出して、誰かの心に届けてみせるからな。

 そして、これだけはカエデに誓う。

 俺が書く小説は、女の子が死んでそれで泣かせるような話には、絶対にしない。

 自分を信じてくれた人間を失う悲しみを。

 のどが潰れるくらい叫んでもどうしようもないこの痛みを。

 こんな。こんな、心がばらばらに引き裂かれて、息もできないくらいの辛さを、ひとの死を、感動の道具に使ってたまるか。

 だから笑え!

 俺の物語の主人公は、泣きたくなるような場面でも、決して涙を見せず不敵に笑えるような男にするんだ。カエデが描きたかった、誰かに届けたかった漫画の主人公のように。カエデが好きになってくれるような。憧れてくれるようなヒーローに。

 だから、タキ。まずはおまえが笑え。笑ってみせろ。

 泣きたくても、悲しくても、辛くても、苦しくても。

 笑え。わらえ。わらえ。わらえ。わらえわらえわらえ!

「……わかったからっ……もういいからっ……」

 必死な声がなにか言っている。

 遠くからそれが聞こえてくる。

 誰かが耳元で涙まじりにささやいてる。

「……もう……そんな……悲しい顔を……しないで……」

 温かい涙。震える細い腕。いい匂いのする柔らかな身体。

 その暖かな温もりと涙と鼓動の中で。

 作家になりたい。

 小説を書きたい。

 物語を創りたい。届けたい。

 そう決めたのは……このときだ。

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