夜の涙

 福海町の真ん中には、『黒髪湖くろがみこ』という湖があって、それを見守るように湖畔の丘の上に建つのが『鬼姫神社おにひめじんじゃ』だ。

 この町では初夏にここでささやかな花火大会が行われる。

 メイン会場である神社周辺は、どこもひとで溢れかえっていたが、黒髪湖をぐるりとまわって対岸のこの公園には、それほどひとが居ない。ここは、あまり知られていない花火大会の穴場だった。

 公園の小高い丘にのぼり、虫の声を聞きながら、熱々のたこ焼きを食べた。

 黒い水面の向こうには、縁日のとろみのある光が、湖のほとりに沿って長く伸びていた。

「さすがタキ。いい場所知ってるよね」

 ゴザを敷いて隣に座ったサエキが浮かれた声を出した。

 一緒に花火大会に行くこと、なんて妙な条件をつけられたけど、まさかタンデムで行こうと言い出すとは。

「お前も自分のバイクで行きゃいいだろ」

「お祭り会場のまわり、混むでしょ。どうせなら一台のほうが効率いいよ」

 なんだそりゃ、と思ったが、サエキは途中で立ち寄ったコンビニで、サッポロ黒ラベルを何本か買ってた。そういうことか、と俺も納得した。

 ぷしゅ。サエキが二本目の黒ラベルを開けた。

 ゴクッとのどを鳴らして俺はそれを横目で見た。

 どかん、と景気のいい音がして、花火が上がった。

 青や赤や緑の美しい破片が、夜の水面に散った。

 俺とサエキは、そんな夏の風物詩を黙って見つめた。

 夜空と花火を映す丸い鏡の向こう岸には、等間隔に並んだ提灯の赤い光点が、石段にそって点々と高台の神社にまで上っていく。その先には、幻想的な明かりを灯した神社が、ぽっかりと闇の中空に浮かんでいる。

 それはまるで夢の中で燃える巨大な松明のようにも見えた。

 ばんばん花火が上がる中、サエキが大声で、

「ビールなくなっちゃった」と言い出した。「ちょっと買ってこようかな」

 サエキは立ち上がり、ズボンの尻を叩いた。

「タキは? なにか買ってこようか?」

「そうな。揚げじゃがバターとりんご飴頼む」

 この公園からぐるりと湖沿いに歩けば、鬼姫神社前のメイン会場へ行けるのだ。

 サエキは斜面を身軽に駆け下りて、暗い夜道に消えた。

 ばすん。ばすばすん。

 夜空が破裂したように鳴り出した。

 時計を見る。そろそろクライマックスだ。

 サエキも、何もこんなタイミングで買い出しに行かなくても、と思った。

 けど、終わったら終わったで、混雑が酷くなるか。

 花火が終り、祭りの終了を告げるアナウンスがこだました。

 水銀灯が一斉に灯り、俺たちが居る場所も多少明るくなった。

 そのとき、遠くで男の怒声のような叫びが聞こえ、誰かが走ってくるのが見えた。

 小さなシルエット……女の子?

 最初はサエキがどこぞのチンピラに絡まれて走って逃げてきたのかと思った。でも、サエキに限ってそんなことはない。ヤツならうまく切り抜ける。

 白い明かりに照らされたその浴衣姿を見たとき、心臓が跳ねた。

 まだ顔もはっきり見えたわけじゃなかったのに。俺はそれがレラだと確信していた。

 レラは必死で誰かから逃げていた。

 とっさに斜面を駆け下りた。

 レラの前に小さくジャンプして着地する。

「よう。蒼きレラ」

 レラは驚いて急停止し、前のめりに転びそうになった。反射的に両腕で軽い身体を抱きとめた。すぐ間近に怯えた顔があった。引きつった美しい顔に、驚愕が浮かんでいた。レラが自分を抱く腕から逃れようと身を強張らせるのを感じ、俺は慌てて優しい声をかけた。

「俺だよ。俺」

 それで相手が俺だとわかったらしく、身体から少し緊張が抜けた。レラの肢体は驚くほど細く、なのに柔らかく、生地の薄い青い浴衣は汗でしっとり濡れていた。

「また、へんなところで会ったな。どうした?」

 抱きかかえていた猫を下ろすように、俺はそっとレラを放した。

 レラは確認するように後ろを振り向いた。長い髪を今日はアップにしていた。こんなに薄暗く、髪形も違っていて、しかも浴衣姿なのに、我ながらよくレラだとわかったな。

「なんだ? まるで追われてるみたいに」

「追われてる」

「はあ? 誰に?」

「わるいやつ」

 レラはまた駆け出そうとして止まり、ふと助けを求めるような顔で俺を見て、どうしていいかわからないように立ちすくんだ。

「こっちだ」

 俺はそんなレラの手を引いて愛車のほうに駆け出していた。


 サエキのヘルメットをかぶらせた浴衣姿のレラを後ろに乗せ、俺はバイクで湖畔の公園を飛び出した。湖の周辺はひどい混雑で、交通整理をする警官やパトカーも多かった。ひとごみを縫い、渋滞して動かない車の横をすり抜け、俺と同じような福海大生のバイク集団に紛れてその場を離れた。

 流れの悪い市道から外れ、田んぼの間を抜ける農道へ。

 滑らかな黒い水が張られた水田に、白い月が浮かんで揺れていた。

 田んぼの間をまっすぐ貫く道路は、月明かりで水色に光っていた。

 黒髪湖周辺のささやかな旅館街や、灰色の海のような田園地帯を離れたあと、レラに、

「これからどこに行けばいい?」と聞いた。

 レラは何も言わず前方を適当に指さした。

 それで俺もそっちに向けて適当にバイクを走らせた。

 しんとした田舎道に、エンジンとマフラーの音だけが響いた。

 市街地のネオンの中を突き抜け、鴻巣山こうのすやまのほうに向かう。

 要所要所で、レラは何も言わず前方に腕を上げ、俺に方向を指示した。そして行き着いたのは、緑豊かな山の手の住宅地で、金持ちの豪邸も多い場所だった。

「そこ入って」

 小さい公園の入り口で、レラが叫んだ。無理して絞り出したようなかすれた声だった。

 俺はバイクを公園の駐車場に進ませた。木に囲まれた、車六台くらいが止められる小さな駐車場には、他に誰も居なかった。

 バイクを止めて、キーをひねり、エンジンを切る。

 いきなり静かになり、虫の声と、夜の木のむせかえるような匂いに包まれた。

「着いたぞ」

 レラは何も言わず、バイクを降りようともしなかった。

 数分がそのまま経った。俺はずっと虫の声を聴いていた。やがて、その静かな音色に、すすり泣きが混じった。背中にごんとヘルメットを押し付けられ、俺の二の腕を、レラが痛いくらいに強くつかんだ。

 声を押し殺して。レラは泣いた。

 俺は両足を地面に置いたまま、バイクの上で微動だにしなかった。

 レラはずっと俺の背中で泣き続けた。

 どのくらいそうしていたか。すっかり身体がこわばった頃、レラはのろのろとバイクの後ろから降りた。乗るとき慌てたものだから、浴衣が乱れ、細く白い脚が、太ももくらいまで露わになっていた。

「なあ……大丈夫なのか……?」急に心配になってきた。

 レラは何も答えず、ヘルメットを脱ぐと、黙って俺に差し出した。

 俺は苦笑して、

「……初めてレラと出会ったときは小説みたいだったけど、今夜のはまるで映画だな」

 レラはいきなり綺麗な顔を歪ませ、しかめっ面をした。

 そんなレラの反応に、俺の口元が緩んだ。レラのしかめっ面って魅力的だ。

 それからも俺たちはしばらく無言で突っ立っていた。

「あれ読んだ」レラが思い出したように言った。

「あれ?」

「『五十年後』」

「ああ、アレか」と俺は明るい声で言った。「どうだった?」

「イマイチだった。文章も固いし、古くさいし」

「ははは……」と俺は乾いた声で笑った。正直な子だ。

「どこが純愛恋愛小説? と思った」レラは続けた。「それを聞いてなかったら、最後まで読まなかったかも」

 てことは、一応、最後までは読んだってことか。

「最後まで読んだら……すごくよかった」

 その恥じらうような声を聞いて、こんな顔もできるのか、と俺はレラの美しさに見惚れた。胸にこみ上げるこの嬉しさは、自分の大事な本を気に入ってもらえた喜びだけじゃないような気がした。

「ねえ」とレラは真剣な目で俺を見た。「あんな純愛が、本当にこの世にあると思う?」

「いいや。あるわけねえよ」と俺は正直に答えた。「そんなピュアな愛があるわけがない。そんな一途な女もな。だから、物語としてひとはそれを求めるんだ」

 レラはきびすを返すと、何も言わずに走り去った。

 ありがとうも、さよならもなかった。そのぶしつけさは、ノラ猫のようだった。

 レラが消えてしまった夜の公園で、しばらく俺は、灰色の夜空に浮かぶ星を眺めた。

 胸に妙な喪失感があった。そこに留まることで、それが埋まるかと思ったが、それはどんどん膨らんでいくだけだった。

 バイクのエンジンをかける。他にやれることもなかった。

 静寂を破るようにⅤツインがうなり、二本のマフラーからリズミカルな排気音が吐き出された。アクセルをまわし車体が動き出すと、頭の中を渦巻いていたモヤが風で吹き飛ばされ、クリアになった。

 俺は、夏の夜の街を、遠回りして家路についた。

 レラと二度目に会ったこの夜。俺はまた三つのミスを犯したことにあとで気が付いた。

 ひとつめ。俺は、またも自分の名を名乗るのを忘れていた。

 ふたつめ。百年文庫に挟んでおいたマイ・ポエム『青風』の消息について、レラから聞きだすのを失念していた。

 そして、みっつめ。黒髪湖にサエキを忘れてきちゃった。


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