~青イナツ風1~

 両親が喧嘩ばかりするようになったのは、わたしが友達と万引きしたせいかと思っていたけど、母は違うと言った。おばあちゃんが亡くなったせいだ、と。

 祖母が遺した財産は、母にとっては「娘の将来の学費のため、大事に貯金しておくべきお金」だったけど、父にとっては「投資に注ぎこんで何倍にも増やすチャンス」だったらしい。うさん臭いもうけ話を信じ込む父と、堅実な母は対立した。

 母がまくしたてる文句に父が我慢できなくなったときが、ふたりの喧嘩の始まりで、わたしはそんなときはすぐに部屋にこもり、布団をかぶって両耳を塞ぎ、ののしり合う叫び声や、部屋を揺らす鈍い振動や、食器とか花瓶とかが割れる鋭い音(わたしはこの音が大嫌いだった)を必死でやり過ごしながら、早く時が過ぎるのをひたすら願った。

 でも、ふたりの喧嘩は次第にエスカレートし、修復不能なまでに悪化して、ついには時間も人目も気にしないようになった。

「お前がレラを産むからだ!」

 ある夜、父がそう怒鳴ったとき、母の中で最後に残っていた何かが弾けた。

 わたしにもその言葉は聞こえてきたし、母の衝撃はまるで自分のことのようにはっきりと感じられた。

 母は憤怒の形相でわたしの部屋に来ると、パジャマ姿のままのわたしの手を引いて外に飛び出した。父は怒声をあげながら追いかけて来た。母はわたしを車に乗せて急発進させた。父はわけのわからない叫び声をあげながら車を蹴った。わたしは恐ろしい夢でも見ているような気分だった。

 母は無言で夜の街を走り、それから「ごめんね」と言った。「本当に、ごめんね」そう言ってわたしの手を握った母の身体は小刻みに震えていた。

 家から遠く離れた二十四時間営業のスーパー銭湯に行き、そこで夜を明かした。それから、新しい家が決まるまでの間は母の叔父さんの家にお世話になった。そして、ほんのわずかなつてを頼り、わたしと母は、その福海町という街に引っ越した。

 それ以来、母はもうわたしを絶対に父に会わせなかった。裁判所の調停員に、父がわたしに対して色々な虐待を行っていた、と話したらしい。そしてわたしに「そういう風に言うのよ」と言った。気丈な母の目に溜まった涙を見ると、イヤとは言えなかった。

 父と別居して、福海町に住み始めてからの母は、わたしに自分の人生を過剰に重ねてくるようになった。そんな母の押しつけに反発心もあった。わたしはわたし。母の人形じゃない。母が自分の人生をやり直す為に存在してるわけじゃない。

 でも、母がどんなにわたしを大事にしてるかはわかったから、嫌いにもなれないし、露骨に逆らうこともできなかった。

 そのうちに、わたしはなんだか自分が、二周目の人生を繰り返しているように錯覚し始めた。二度目の人生、二度目の高校生。

 まわりの同年代の人間が幼く見えたのは、きっとそのせい。

 わたしは母の愛情と自分の良心に縛られていた。それは、柔らかな鎖による逃れられない呪縛だった。理解がわたしを子供で居させてくれなかった。

 いっそ、消えてしまいたい。

 最初のころは、死んでしまいたいとも思ったけど、自殺はあとのことを考えるとすごく面倒だった。死体も残るし、母にも、色々なひとにも迷惑をかけてしまう。手品のうざきとかハトみたいに、ポンッと煙のように無くなってしまえたらいいのに。

 わたしはよくそんな風に思った。そんなときは、泣きたくもないのに涙が出てしまう。

 その、桜が信じられないくらい綺麗に咲いた春のある日、古本屋で『ベロニカは死ぬことにした』というタイトルの本を見つけたとき、いまの自分の心境にぴったりだと思った。

 それを買って、目についたバスに飛び乗って、走るがままにぼんやり乗り続けて。

 バスは街の北の岬のほうへ進んだ。

 都市の匂いは消え、綺麗なパッチワークのような丘の中を、バスは走り続けた。

 やがて青い海が見え、バスはそんなものが町にあるなんて知りもしなかったテーマパークの跡地に行き着いた。

 よく晴れた、風の心地いい日だった。

 こんな日に、こんな場所で死ぬのも、悪くないかも。

 その幻想の街で『彼』と出会ったのは、そんなときだった。 


 黒髪湖の花火大会は、最初、なんとなく付き合っていた男と一緒だった。友達と一緒に行く、と嘘をついたわたしに、母は浴衣を用意してくれたけど、そんなもの窮屈で着たくもなかったし、履き慣れない下駄のせいで足は痛むし、ちっとも楽しくなかった。

 その男は、つまらなそうにするわたしと強引に手を繋ぎ、やたら話しかけてきた。内容なんて何もない話だった。男がやっているバスケの話。流行っているテレビ番組の話。顔が広いという先輩の話。自分がタレントの誰に似てるかって話。

 わたしは、そんなどうでもいい話を、ぼんやりと聞き流した。その男は、会話がしたいんじゃない。ただ、自分の話を聞かせたいだけなんだろうなと思った。

 その男は、わたしの手を引いて、どんどん暗くひと気のない方へ歩いた。いきなり無口になったし、なんだか怖かった。でも、そのときのわたしには他に味方なんて居なかったし、嫌われるのは怖かった。キスくらいはされるかも、と覚悟した。

 でも、わたしを待っていたのは、そんな浮ついたものじゃなかった。

「レラ。おまえ、いろんな男と付き合ってるって本当?」

「はあ? なにそれ」

「みんな言ってるぜ」とその男は疑いの目でわたしを見た。「なんか、頼んだらすぐやらせてくれるって。おまえとやったって言ってる男も何人か居るってよ」

 唇が震えて、頭の真ん中が燃えたみたいになって、何も言えなかった。

 そんな風に見られた屈辱以上に、唯一の味方だと思っていたその男が、そんなばかみたいな噂を信じて、わたしを疑いの目で見ていることが何よりショックだった。

 突然、肩を乱暴にぐっとつかまれて強い力で引き寄せられた。

「どうなんだよ」

「なんでそんなこと言うの?」

「だっておれ、おまえのカレシだろ?」

「カレシ?」鼻で笑った。こんなひどいこと言って、わたしを傷つけたくせに? 

「どうなんだよ? ほんとなのか」

「……本当だったら、どうするの?」

 涙がこぼれてしまわないように、精いっぱい気を張ったわたしから出たのは、そんな言葉だった。少しでも自分を可哀そうと思ったら、もう駄目だと思った。

 わたしの挑発的な口調に男は気色ばんだ。それまでに、何度も身体を求められたけど、わたしはずっと拒んできた。なのに、なんで俺だけ、と考えてるのが伝わってきた。お前はもう汚いんだから、俺にもやらせろよ。そんな気持ちが透けて見えて、吐きそうになった。

 わたしは両手を強く突き出して男の身体を押しのけ、背を向けて走った。

 男が何か叫んだような気がしたけど、幸いなことにちょうど始まった花火の音ではっきりとは聞こえなかった。男の怒声なんて二度と聞きたくない。しばらく走り、息を整えようと立ち止まっていたら、すぐに知らない男が寄ってきて声をかけられた。

 めちゃ可愛いね。ひとり? なにしてんの? 名前は? いま暇?

 わたしはそれを片っ端から無視した。

 わたしが暇そうに見える? 声掛けられて嬉しそうに見える?

 このひとたちはなんてばかなんだろう。わたしに興味を持って近づいてくるくせに、わたしのことなんてこれっぽっちもちゃんと見ていない。

 ウンザリしながら縁日の中心から離れた。花火大会なんて来るんじゃなかった。

 アロハシャツを着たサルみたいな汚らしい男が、やたらとしつこく絡んできた。いくらわたしが嫌がっても、離れてくれない。しかも、髪とか肩とか触りだした。わたしはあまりの嫌悪感に、背中を虫が這いまわったみたいに身をすくめた。あっちへいって、くらいじゃダメだと思った。「消えて」とわたしは言った。男はニヤニヤした。心底腹が立った。「失せろ」と言った。男の顔にドス黒いものが浮かんだ。無言で私の身体を触ってきた。「放せ!」と叫んで、持っていたポーチを男の顔目がけて振り回した。男は「んだてめんやがらんしやって!」と人語とは思えない怒声を上げた。

 わたしはとっさに走り出した。

 空では花火が途切れることなく続き、周囲のひとたちは全然こっちなんて気にしていなかった。男は叫びながら追いかけてきた。足は遅かった。でも怖かった。後ろから突然手や肩をつかまれるんじゃないかという恐怖心で、頭がおかしくなりそうだった。怖くて、こわくてこわくて泣く暇もなかった。とにかく走った。湖畔の暗い道を、ただただ、必死で走った。

 ひとの多い場所に居たほうがいい。そんな当たり前の判断もできないほど、わたしはうろたえ、混乱していた。でも、むしろ、まわりの大勢の人間は、わたしを助けてくれるどころか、面白がってニヤニヤ見物しそうな気がした。わたしが学校でやられているように。

 現実味のない花火の音を遠く聞きながら、重たい水の匂いのする夜道を走り続けた。

 男は不気味なほど執拗に、でもそれほど切迫した様子もなくダラダラと追いかけてきた。それがかえってわたしの恐怖をあおった。男はときどき威圧するように獣じみた声を出した。

 どうしよう。どうすればいいんだろう。誰か。誰か。誰か。誰か。

「よう。蒼きレラ」

 場違いなほど爽やかな声がして、突然、闇の中から誰かがふわりと現れた。

 驚いた拍子に膝の先から力が抜けて、わたしは転びそうになった。

 ぱふっと抱きすくめられた。優しい腕だった。さっきの猿とは大違いだった。でも男のひとの太い腕の感触に、恐怖が先だって、わたしはそれを振り払おうともがいた。

「俺だよ、俺」

 それはどこかで聞いた快活な声。それが誰だかわかる前なのに、身体から恐怖と強張りがすうっと霧散した。ああ。と相手が誰だか気づいた。あのひとだ。

「また、へんなところで会ったな。どうした?」

「………………」助けて。

「なんだ? まるで追われてるみたいに」

「追われてる」助けて。助けて。

「はあ? 誰に?」

「わるいやつ」わたしを助けて。

「こっちだ」

 その、名前も知らないわたしの友達は、わたしの手を引いて、駆け出した。

 彼の力強い手の感触。迷いのない声。頼もしい後ろ姿。わたしは一生それを忘れない。

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