水曜日にまた会おう

 確か季節は秋と冬の境い目だったと思う。俺がその高いビルの屋上のドアを開けたとき、その女の子はまさに飛び降りる寸前だった。

 重たいスチールのドアが「ごぐん」と開く音に反応して、コンクリートの崖っぷちに立ち、鳥が羽ばたくように腕を左右に広げ、夕暮れの紅の町を見下ろしていたその子の首だけが俺のほうを向いた。

 あふれるような赤い光に照らされた黒一色の姿は、あちこちに深いヒダのついた時代錯誤なドレスで、長い髪が風にあおられ逆立つ様は、まるで死を呼ぶ西洋の不吉な妖精だった。足元には、二匹の黒い子猫のような編上げのショートブーツ。素足だ。

「待てっ」とっさに片手を上げて小さく叫んでいた。

 女の子の全身が、ゆっくりとこちらを向く。

 見てはいけないものを見てしまったように、背筋に冷たいものが走った。

 その子は無表情のまま、普通じゃないくらい大きな黒い瞳を少し見開いた。

「落ち着いて」つとめて静かな声を出す。はやまるな、と月並みなセリフが出そうになり、慌てて「とにかく」と言い直し、また「落ち着いて」

 その子はマネキンのような顔で、芸のないセリフを吐く俺を見ている。

「飛んじゃだめだ」おそるおそる前に出ながら俺は言葉を繋げた。「なにがあったかは知らないけど……それだけは……だめだ」

 女の子が不思議そうな顔で虚ろに笑った。

 どこか馬鹿にしたような笑みだった。

 その顔に戸惑いを覚えながら、俺は慎重に続けた。

「ねえ」とにかく。何かを話さないと。「……とりあえずおれと話でもしない?」

 少なくとも話している間はその子の気がそれて俺に向く。そう思った。

 血の塊のような秋の落日を背景に、その地獄の貴婦人のような少女は何ひとつ口を開かない。固定された顔で、ガラスの瞳をただ開いているだけ。

「なあ」と俺はひるまずに続けた。「……返事くらいしてよ」

 美しすぎる女の子だった。不気味なくらいだ。

 化粧がものすごく濃くて素顔はまるでわからない。でも、鼻や唇の見事な造形や、綺麗な輪郭を見るに、元の素材も相当に上等なのは確かだ。

 なんというか、人間を超越したような美しさだった。狂った天才が、自分の美意識だけを追求して作り上げた、世に出さない秘密の少女人形のように。その証拠に、生まれて一番綺麗と断言できるほどの美人を前にしながら、俺の心はまったくときめいていなかった。

 その子はどことなく悲しそうに笑うと、自分の喉元を指差し、ぱくぱくと口を開いた。

 首元は、黒いリボンで巻かれてしっかり隠れている。

「え?」思わず彼女の顔をまじまじと見た。「……もしかして、喋れないとか……?」

 コクン。子供のように大げさな動き。

「そっか。……ごめん」

 その子は何も反応しなかった。

 長い風が吹き、黒髪と黒のドレスがざわめいた。

 その子が、目のすぐ上を蝶でも飛んだかのようにふと視線を上げた。

 ふと思い出すような顔をして、どこからか何かを取り出した。魔法のような手際だ。出てきたのも、黒魔法の魔導書みたいな、黒地に金の装飾の小さな手帳。

 その子は、骨董品のように素晴らしいデザインのペンをサラサラ走らせると、そのページを破って俺に示してきた。

 夕陽が照りかえるコンクリの床を歩いてその子に近づく。光が重たい。

 右手を持ち上げて、その紙片を受け取った。

『うぜーんだよ。ぎぜんしゃ』

 思わず絶句して、その子を見た。

 おとぎ話から飛び出したような美少女が書いたとは思えない、あんまりな言葉。

「偽善者」吐き出すようにつぶやく。

 濡れた紅い唇が少しだけ歪んだ。

「俺がか」

 コクン。

 はあ、思わずため息が漏れ、全身から力が抜けた。 

 その子は俺の反応を待つようにじっとこっちを見ている。表情はなかったが、なんとなく俺がどういう態度を示すか興味津々、という印象を受けた。

 機械的に、反論めいた言葉がいくつも頭に浮かんだ。自殺はよくない。考え直せ。お母さんは泣いてるぞ。命を大切に。君が捨てようとしている今日は、昨日死んだ誰かが死ぬほど生きたかったうんぬんかんぬん。

 でも俺はそれをすべて飲み込んだ。なにを言っても、『うぜーんだよ偽善者』というひと言で完膚なきまでに跳ね返されてしまう気がした。

 仕方なしに黙って、ただ、その子を見返した。

 そのかわり、一瞬たりとも目を離さないように、じっと。

 福海町の南の山際に建つ、その高いビルの屋上で。

 俺たちは身動きもせず、にらめっこするみたいにただ見つめ合った。太陽と風だけが動いていた。赤い光が青い闇に少しずつ押し返されていた。やがて夜が来る。

 先に沈黙を破ったのはその子だった。

『なんとかいえば? ぎぜんしゃやろう』と書かれた紙片。

「ひでー言われようだな」

『ぼくをとめてじこまんぞくしたいだけでしょ?』

 ぼく、とその子は書いた。自分のことを「ぼく」と言う女の子に俺は初めて出会った。でも、不思議とその子には似合っていた。

 それにしても見た目に反してなんて口の悪さだ。逆に笑いがこみ上げてくる。

『なにがおかしいの』と次のメモは比較的早く。

「いや」俺は真面目な顔を作りながら「……まあきみの言う通りかも、と思って」

 その子は無表情ながらもどこか意外そうな顔をした。頭ごなしに反論したり、感情的になったり、ムキになって否定したりを予想していたのだろうか。俺があっさり認めたもんだから、ちょっと戸惑ってる……そんなふうにも見える。

 その子はふいに俺に興味を失ったように背を向けると、素足のままふらふらとビルの端、にじんでいく真っ赤な太陽のほうへと歩きかけた。

 思わず俺は、彼女の手をつかみ、強引に引っ張っていた。

 その子は驚いた顔で乱暴に手を振り払い、俺を睨んだ。

『だからうぜーんだよ。ぼくのじゃますんな』また手帳を取り出してさらさら。

「邪魔って……」そうはっきり言われると返す言葉もない。「そりゃ悪かったな」

『ぼくがなにをしようが、ひとにはかんけいない』

「けど、きみに死んでほしくないって思う相手だって居るはずだろ?」

 俺の脳裏に、ひとりの女の子が思い浮かんだ。そうだ。少なくとも俺は、あの子に死んでほしくなかった。助けられたのなら……絶対にそうしたかった。

『そんなのいない』またメモが来た。『かなしんでもないても、どうせみんなうわべだけ。くちさきだけのうそくせーにせものばっか』

 微笑みを浮かべながらメモを俺に差し出す。その壮絶な笑みにぞっと寒気が走った。

 太陽は西の空に沈みかけ、あたりは刻々と蒼い闇に沈んでいく。

 その子はまた振り返ると、屋上のコンクリートの端ギリギリに立った。

 ゆっくりと羽ばたくように腕を左右に広げ……

「待てっ」と俺はまた叫んだ。「待ってくれ」

 億劫そうにその子が振り返った。

 真っ白な美しい顔に、ほんの少しの笑いと苛立ちが混じった表情が浮かんでいた。

「俺はきみに死んでほしくない」

 その言葉を予想していたようにその子は手早くメモを書いた。

『だからぼくをねたにおなにーしてんじゃねーよ。ぎぜんしゃやろうが』

 また一段と凄まじい暴言。この子本当に魔界の姫様かなんかか。

 目で俺を睨み、口元で冷たく微笑するその子を、俺もしっかりと見返す。

「……正義感で自殺を止めるほど俺は善人じゃないし、他人にも興味はない」俺は正直に言った。正直な言葉以外は何を言ってもこの子には届かないと思った。「……けどな、きみみたいな子は別だ。どうしても放っておけない事情がある。……個人的に」

 その子が突然クスクス笑いだした。俺のその言葉がさも面白かったかのように。気品に満ちた、でも邪悪な笑みだった。

 袖の膨らんだ優雅な黒いドレスの腕がさっと動き、どこからかまた、手品のような手際で何かが現れた。その手に俺の視線が釘付けになる。

 ……金?

 それは、その神秘的な女の子にはあまりに似つかわしくないもの――百万くらいはありそうな札束だった。

 困惑する俺に、その子は紙でくくった厚い札束を見せつけてくる。

 フッとその子の瞳から色が消えた。口元に薄ら笑いを残したまま。

 その子が可愛らしい上手投げで札束を俺に向けて放り投げた。いきなり。無造作に。

 その子の身体がゆっくり傾いていくのと同時だった。

 とっさに身体が動いた。

 俺は、背後にバサッと着地した札束を無視してコンクリートを蹴り、重たい空気を裂いて駆けた。コマ送りのように遠ざかる彼女の身体越しに、ピントのズレた薄暗い街と、細い灰色の川のような道路と、目立ち始めた無数の町の灯が見えた。地上から吹き上げる風が、黒い衣装のヒダを波立たせ、長い髪を舞いあげ、優雅に腕を広げた姿が、虚空に踊り……

 夢中で手を伸ばした。

 視線が交差した一瞬、その子の顔に張り付いていた薄ら笑いがかき消えた。

 信じられない、という表情が浮かぶが細かいことを考える余裕はない。

 もつれるようにして俺たちはコンクリートの床に倒れた。

 意外に重たいその子の身体の下敷きになり、背中と胸を強打して、息が詰まった。ぐったりと頭を垂れ、紅い唇を半開きにした彼女の顔を、長い髪が半分くらい覆っているのがすぐ鼻先にあった。俺の心臓は爆発寸前のエンジンのようにうなっている。なのに、全身のところどころには冷たい汗が流れていた。

 横たわったままその子と抱き合い、至近距離で目が合った。腕の中から思いのほか強烈な視線をこっちに向けていた。驚く俺の間抜け面が、大きな黒い宝石に映りこんでいた。

「……頼むから」仰向けになり、淡い紺色の空に向けてため息を吐きながら「いきなり、そういうのは、勘弁してくれ……」

 少しの間俺たちは脱力していた。必死で泳いで陸にたどり着いた漂流者のように。

 俺自身が発熱しているからか、その子の身体は異常に冷たかった。

 それからその子は、邪魔そうに俺の腕をどかせると、のろのろと起き上がり、両ひざを内側に畳んでぺたんと座った。黒いスカートがふわりと広がった。荒い呼吸のまま横目で見ると、その子はなんとなく納得いかないという難しい顔で俺を見ていた。

 あんまり熱心に見るものだから、俺はそっちを見られなかった。

 何が起きてるんだ、いったい。なんなんだ、これは。

 その子は唐突に何か思い出したようにゆっくり立ち上がると、綺麗な素足のまま青白い屋上の床を横切って、闇が水のように溜まり始めた暗がりから何かを拾い上げた。

 さっきその子が投げた札束だった。今の今まで綺麗さっぱり忘れていた。

 ようやく少し落ち着き、俺も身体を起こした。

 その子がまた何か書いて寄こした。

『おかねみなかった』

「………………」

『ぼくをみてた』と次のメモ。

 その子は、不思議な生き物でも観察するような物珍しい顔で、無遠慮と言ってもいいほどの視線を俺にぶつけてくる。居心地が悪くて、視線の持っていき場がなく、仕方なく遠くの風景を眺めながら頭をかいたり、ため息をついたり、無意味に目を閉じたり。

 その子のひらひらした黒い長袖がまたふわっと動いた。かと思うと、もう札束は消えていた。出したときのように唐突に。

『かわってるね』続けざまにどんどんメモが来る。『おかねよりぼくをたすけるなんて』

「………………」

『そんなひとほんとにいるんだ』

 ふとそこで思った。まさか、わざとか? 確かに、一瞬でも金に気を取られていたら、間に合わず、たぶん助けられなかった。

 ……試されたのか、俺は。

 そう考えたとたん、猛烈に腹が立ってきた。激怒と言ってもいい。俺にとって、それはすごく珍しいことだった。

 舌打ちしながらメモをぐしゃりと握り、思いきり床に叩きつけた。

「ふざけんなっ」

 その子は頭から水でもかけられたように長いまつげの瞳をぱちぱちさせた。

「命をなんだと思ってんだ」

 突然の俺の怒りに、その子の真っ白な顔から邪気が抜け、戸惑いの色を帯びた。

 若干慌てた様子で手に持った手帳にペンを当てる。

 俺は強引にその手帳をむしりとった。

「きみが女じゃなければ、殴ってる」

 俺を見るその美貌に気圧されないようキツい声を出した。

 その子が自分の命と俺の良心をチップに、妙な賭けをしたことが何よりも許せなかった。ほんの一瞬、何かが違っていたら、今頃取り返しのつかないことになっていたはずだ。

「………………」

「なんとか言えよ」

 くすっと涼しげにその子の口元が笑った。一方的に燃え盛る俺の怒りを受け流すように。

 うろたえたのも一瞬で、もう落ち着きを取り戻したらしいその子は、小鳥のように軽く小首を傾げた。それから、すっと指先から魔法でも放つように俺を指さした。

 その細長い指は俺の持つ手帳に向いている。

 あ。と俺はようやく気付いた。なんとなく素直に返すのは負けたみたいな気がするが、そうしないことにはコミュニケーションもとれない。

 しぶしぶ俺は手帳を返した。

 その子があらためて書いた、そのメモに記された、たった八文字の言葉。

『トリになりたいの』

「鳥?」

 思わず聞き返す俺に、その子は艶然と微笑み、コクリとうなずいた。

「ここから飛んだって鳥になんてなれないよ。……死ぬだけだ」

『ぼくはしなんておそれない』とその子が薄ら笑いを浮かべながらメモをよこした。

「俺は……死ってのが怖いよ」言いながら俺はその場にどすんと腰を下ろした。「自分のだろうが、ひとのだろうが」

 その子も俺の隣に来て静かに座った。両ひざを揃えた女の子らしい座り方だった。

「……いろいろと事情があるのはわかるんだよ」俺はぼそぼそと言った。少し頭が冷えてきた。「俺に止めたり干渉する権利なんてないのも。でも目の前でやられたら、どうしても止めちまう」

 ふと見ると、今までの無表情とは打って変わって、どことなく期待するような目で俺の言葉の続きを待っていた。面食らいながらも俺は続けた。

「……だから、トリになりたいなら、俺の見てないときにしてくれ」

『へんなとめかた』間髪入れずにその子が書いた。

「……他人の気持ちはできるだけ尊重したいんだよ。たとえそれが無茶なことでも。自分がやりたいなら、止めたくない。ひとには何も押し付けたくない」そして、本当は他人になんか関わりたくもない。

 その子は面白そうに俺の顔を見て、またさらさら何かを書いた。

『ぎぜんしゃってのとりけす』

 俺はおおげさにため息をついて、そりゃどーもと大きな声で言った。

『きみはここになにしにきたの?』

 次のメモにはそう書かれていた。ずいぶん話が飛んだ。

「……夕焼けと夜景を見に。いつも水曜日に来るんだ」

 このビルの一階はレストランで、店休日の水曜日だけ、店の裏にある非常階段を使って屋上にまで行けるのだ。

『ふうん』とその子は三文字のひらがなを書いて寄こした。『相槌』なんてわざわざメモに書くようなことかな、と俺はへんなことが気になった。

『でもだめだよ。ぼくもここがいい。ここからとびたい』その子はメモの余白に書き加える。

「どうして?」と俺はうんざりしながら言った。

『どうしても』

 しっかりアイメイクされた印象的な瞳が、イタズラっぽい色をたたえた。

 嫌な予感がした。

『だから、またここにきてぼくをとめて』

「はあ?」と素っ頓狂な声が出た。「なんでおれが……」

『じゃないとぼくとんじゃうよ』

 唖然とする俺に無邪気な顔を向けると、その子は踊るように立ち上がり、スカートをふんわりと翻して背を向け、てぱてぱとブーツを履いた。

『すいようびにまたあおうね』

 落し物のハンカチのようにその子が残していった最後のメモには、そう書かれていた。


 ……この『ヤエという少女の正体』について、思えば、ヒントはあちこちに散らばっていた。女の子にしては重い身体。のどを隠したリボン。声を聴かせないための筆談。美しい容姿に秘められたドス黒い本性。でも、そのときは、そんなことまで頭がまわらなかった。とにかく、こうして俺は、名前も知らない女の子が鳥になってしまわないよう、水曜日にそのビルの屋上を訪れることになってしまったのだ。

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