恋はみずいろ

 レラを三度目に見かけたのは、七夕の『マリモ』だった。

 と言っても、北海道阿寒湖に生息する緑色のまるいアレじゃない。『Marie-mall』というショッピングモールのことで、地元の人間はみんなマリモという愛称で呼んでいる。

 オーストリアの街並みをイメージしたという半露天の店内は、小さな運河が流れていて、その感じのいい水路に沿って、外国風のお洒落な店舗が並んでいる。

 緩やかなカーブを描く通路の隙間には、縦横無尽に細い路地が通され、季節の花が濃く甘い匂いを放つ花壇と、植物園みたいに贅沢な緑があふれている。

 あちらこちらに、レンガの階段、謎めいたトンネル、抜け道のような通路があって、どこも子供の頃の秘密基地のような、わくわくする雰囲気に満ちている。イヤホンを耳にただ散歩したり、気の向いた場所で読書したり、のんびり過ごすだけでも楽しい場所だ。

 七月七日は例によって雨だった。

 七夕の期間、マリモの中央広場には何本もの笹が運び込まれ、パステルカラーの短冊の束と大量のサインペンがテーブルに置かれる。願いごとを書いて自由に飾り付けていいという、マリモの小粋なイベントだ。

 少し考えて、俺は今年度の願いごとを書いた。

 ――蒼きレラとまた会えますように――

 さすがに若干照れながらそれを笹に結び付けたとき、そこにレラが居ることに気づいた。

 いやいや。叶うのが早すぎだろ。

 レラもまた、大勢のひとが賑わう七夕会場で短冊を結んでいた。

 すらりと伸びた細い手足と華奢なシルエットは、光の膜で覆われているかのように目立っていて、百メートル先からでも人目を引きそうなほどだ。

 でもその姿を見て、少なからず驚いた。

 無垢な白いブラウス。丈の短いえんじ色のチェックのスカート。胸の、大きな、スカートと同色のリボン。それは、福海町の北のほうにある高校の制服だった。トップクラスの公立の進学校だ。

 まさか、高校生だったなんて。

 レラは、艶のある革靴でつま先立ちに背伸びして、手早く笹に短冊を結び付けた。そして、そんなところを誰にも見られたくないかのように、さっさと離れてしまった。

 俺は近づいて緑色の短冊を手に取った。

 ――信じられるものがほしい――

 思わずレラを目で追った。

 だがその姿は、色とりどりの色紙を揺らす笹の林に、消えてしまっていた。


 四度目の出会いもまたまたマリモだった。

 大学の前期試験が終わり、例年より少し早い梅雨明けが宣言された七月の半ばの、よく晴れた日の夕方。制服姿のレラは、この日もひとりだった。相変わらず、雑踏の中でもその姿は発光してるように目立っていて、すぐに見つけられた。

 マリモの屋上遊園地のほうに向かって歩く後ろ姿に、俺は追いつくようにして並んだ。そして、逸る鼓動を抑えつつ、レラと同じ方向を見ながら、能天気な声で言った。

「蒼きレラ」

「青木だってば」視線を前に固定したままレラは不機嫌そうに。

「また会えたな」

 レラは、俺をひと目見て少し眉をあげると、ぷいっとそっぽを向いた。一瞬、ほんのわずかだが、透明な表情の中に、好意的な笑顔の欠片が浮かんだのを俺は見逃さなかった。

 レラは、観覧車の券売機のほうに向かってずんずん進む。俺も追いかけるように一緒に歩いた。レラは前を向いて早歩き。顔を見せようともしない。

「お前、高校生だったのか」

「………………」

「驚いたよ。大学生くらいかと思ってた」

「わるい?」

「いや。悪いとか、そういうことじゃないけど……」相変わらず気位の高いお嬢さんだ。「観覧車乗るのか?」

「うん」

「ひとりで?」

「わるい?」とまたレラは繰り返す。

「いいや。俺もよくひとりで乗るんだ」

「あっそう」

 話しながら俺たちは券売機でチケットを買い、乗り場へと歩いた。

 マリモには、小さな屋上遊園地があり、そこには全長七十メートルほどの観覧車が立っている。丘の町にあるモールの一番高い場所だけあって、すこぶる眺めがよく、山の斜面にびっしり建つ家々と、福海大の敷地ぜんぶと、巨大な鏡のような黒髪湖と、町の南部の山脈と、果てしなく広がっていく北の水平線が広く見渡せる。

 乗り場には、よく見かける係員のオッサンが立っていた。客の姿はあまりなく、すぐ乗れるようだ。

「はい。どうぞ」と係員が言った。

 レラは俺の方を一瞬だけ振り返って、そのまま何も言わずゴンドラに入った。

 係員が俺を見たが、俺は立ったまま。

 それを見て、係員はドアを閉めた。

 レラはゴンドラの中からチラチラこっちを見ている。

 次のゴンドラが来て、俺も乗り込んだ。

 向かい合ったシートの、隣のレラのゴンドラが見える右側に座った。レラも俺が見える左側に座っていたから、俺たちは別々のゴンドラの中から、二枚の窓越しに向かい合う形になった。

 ゆっくりと動き出す。一周は約十二分。

 無表情のままじっとこっちを見ているレラに笑顔で手を振ってみた。レラはぷいっとわざとらしく顔をそむけた。

 レラの乗るゴンドラが上昇し、その姿が少しずつ視界から消えていく。

 思わず席を立ち、向かい側の窓に顔を張り付けて、ちょうど真上の位置にあるレラのゴンドラを見上げると、レラもまた、窓にへばりつき真下を見ていた。

 目が合う。

 ものすごくバツが悪そうな顔をしたレラは、「べっ」と小さく舌を出してから、さっと身体を引っ込めた。

 俺は苦笑してシートに腰かけた。ゴンドラは静かに夕風に揺れている。

 頂上付近に近付くにつれて、再び窓からレラのゴンドラが見えてきた。

 膝の上に両手を置いたお行儀のいい姿勢で無表情にこっちを見るレラの姿が、上からスライドするように現れた。

 窓からは、キラキラ輝く海と、平たく浮かんだ黒い島が見えた。薄桃色の空は、蒼や紫の染料を流し込んだような複雑なグラデーションに彩られ、足元の町には散らばった宝石のような灯が瞬き始めていた。落日に照らされた丘の斜面には、細々した建物が広がっている。俺は、レラに向かって微笑みながら、窓の外を指さした。

 そして、うんうんと何度も頷き、すごくきれいだな、と伝えるジェスチャー。

 レラが理解できたかはわからない。でも、こわばった美しい顔が、少しだけリラックスしたようにも思えた。

 俺たちは、観覧車の天辺をゆっくり横に移動しながら、お互いのゴンドラが再び視界から消えるまで、じっと見つめ合っていた。

 あっという間の十二分の空の旅。

 先にレラが身軽に飛び降り、次に俺も自分のゴンドラから降りた。外は、乗ったときよりもずっと暗くなっていた。レラは券売機のところで、見るともなしに俺を見ていた。

「キレイだったな」

「え? ……うん。まあ」

「なんか、ずっとお前と目が合って、ちょっとおかしかった」

「……ずっとこっち見てるんだもん」

 レラが少し恥ずかしそうな顔をした。いつも憮然としてるだけに、そんな表情は珍しかった。けれど、それだけにものすごくキュートだった。

「おまえだろ、見てたの」

「そっちが見るから」

「そうか? どっちかといや、おまえじゃないか」

「そっちだってば」

「にしても、俺以外にもマリモの観覧車をオヒトリサマで楽しむモノ好きが居るとはね。気が合うな。レラも観覧車好きなのか?」

 レラは物憂げにうつむくと、「まあ」と短く答えた。

 再び券売機の前で財布を開く。どうやらもう一回乗るつもりらしい。

「へえ。お前ももう一回乗るのか。俺もなんだ」

 俺はレラの手を押しとどめて、財布から五百玉を取り出し、カップル用の二枚セットのチケットを買って一枚をレラに渡した。カップルチケットを買うと二枚で四百円とお得なのだ。

「はいよ。おごりだ」

「か、カップル……?」

「安く乗れるし、別にいいだろ」

「……まあ……いいけど」

 ぼしょぼしょとレラは言って、足早に乗り場へと向かった。

 俺ものんびりその後ろについていく。

 観覧車に続けて二度乗る客だというのに、係員は顔色ひとつ変えず、さっきとまったく同じ調子で「はい。どうぞ」と言った。

 レラがゴンドラに乗り込み、俺も続いて一緒に乗った。驚いた顔をされたが、気にせずさっさとレラの向かい側に座った。

「せっかくだ。一緒に乗ろうぜ」

 憎まれ口のひとつでも叩くかと思ったレラは、「いいよ」と意外に素直な返事をした。 

 そんなに広くはないゴンドラだが、白いブラウスにえんじ色のチェックのスカートという制服姿のレラは、細くて、小さくて、なんだかゴンドラが広く感じる。

 ゴンドラに内蔵されたスピーカーからBGMが流れていた。俺の好きな曲のオルゴールバージョンだ。刻々と暮れていく風景に、その、どこか懐かしいような哀愁を帯びたメロディーはとても合っていた。

 俺がその曲に合わせて鼻歌を歌っていたら、

「これ、知ってる曲?」とレラが聞いてきた。

「ああ」

「なんて名前?」

「『恋はみずいろ』」

「知らない曲だ」

「古っるい曲さ」

「いい曲だね」

「お。レラにもよさがわかるか」

「でも、なんで恋が水色?」

「さあな。ピンクってイメージはあるけど」俺は苦笑。

 恋が何色かなんて、本気で誰かを好きになったことがない人間にはわかりっこない。

「この曲って、なんか、終わりのない散歩道を、大切な誰かとずっと歩いてるみたいな気がしてこないか?」と俺は言ってみた。

「………………」

「夕暮れの海辺とか、雪の日の公園とか、天気のいい朝の並木道とか、場面のイメージは聞くたびに変わるんだけどな」

「わかんないよ。大切な誰かなんて居たことないし」

「そっか」と俺は笑った。「まあ、実は俺もそうなんだけど」

「なにそれ」

「そんな相手ができたら、恋は何色なのかわかるかもな」

 言いながら、カバンの中から愛用の小さなポットを取り出し、湯気のたつ熱いコーヒーをふーふーと飲む。夏だけど、ゴンドラの中はクーラーが効いて寒いくらいだから、ホットでも美味い。

 レラが遠い目でそんな俺を見て言った。

「またコーヒー」

「また?」

「あそこでも飲んでた」

「……ああ」例のテーマパークの廃墟。

「なんかいつもコーヒー飲んでるイメージ」

「まあな。お気に入りの場所で飲むのが好きなんだよ」

「へんな趣味」

 外が暗くなり、鏡のようになった黒い窓にレラの整った顔が映っている。

「もうすぐ夏休みだね」唐突にレラが言った。

「そうだな。楽しみだ」

「なんにも楽しくないけどね」

「そうか?」

「ひとりだし。本読む以外……特にやることもないし」

「そんなことはないだろ。なにしろ夏だぞ。それに、俺だってひとりだし、本は読むけど、ほかにやることはいくらでもあるし、毎日すごく楽しいぞ」

「ひとりでなにするの?」

「なにって、そりゃ、色々な場所に行って、色々なものを見て、色々なこと考えるのさ」

「それ、楽しいの?」

「少なくとも俺はな。ほかのやつは……知らん」

 ……その頃の俺は、作家になるには、『ひとりでいること』が必要だと思っていた。そこら中に隠された秘密の言葉を見つけ、、拾い集め、誰にも邪魔されずに手帳に書きつけるためには、孤独じゃないといけない。その言葉の声は小さく、騒々しいのを嫌うからだ。

「へんなひと」レラは肩をすくめた。

「よく言われる」俺は苦笑した。

 その後、俺たちはもう一度観覧車に乗った。そしてずっと恋はみずいろを聴いた。

 三度目のゴンドラを出たとき、レラは星が瞬く澄んだ夜空を見上げて、

「もう帰らなきゃ」と言った。「遅くなるとお母さんうるさいから」

 でも、レラは居づらそうに立ったまま、動こうとしない。

 チラチラ顔色をうかがうように俺を見ている。

「どうした?」と俺はへんにそわそわするレラに言った。「帰らないのか?」

「………………」レラは、何が不満なのか、機嫌悪そうに眉間にしわを寄せた。

「…………」どうしていいかわからずぼーっとレラを見た。

「あのさ」とレラは言って、片足を浮かせて、見えない何かを蹴るようにブラブラ。

「?」

「ええと」とレラは俺を見て、視線を外して、また俺を見て、パクパク小さく口を開けて、ふーっと苦しそうに息を吐いて。

「……なあ」心配になってきた。「さっきからどうした?」

「ああもうっ」レラはいきなり声を荒げた。「なまえっ」

「あ?」

「だから、なまえ! そっちの!」

「あ」

「あ、じゃないよ。なまえ! 聞いてないし」

「そういやそうだったな」

「それでよく友達になろうぜとか言ったよね」とレラは憐れむような顔。

「ははは」と俺は笑い「いや、毎回、別れたあとで、そういや名乗ってなかったって気づくんだけどな」とごまかして「おまえと居ると、話が楽しくてさ。つい夢中になって、忘れちまうんだ」

 レラは、くーっと綺麗な顔の中心に力を入れて、思いきりしかめた。

「タキ」と俺は気取った口調で言った。

「たき?」

「俺の名前さ。蒼きレラ」

「タキ」とレラは手触りを確かめるようにその名を呼んだ。「……タキ……タキか」

「好きに呼んでいいぜ」

「年上でしょ? タキくんて呼ぶ」

「そっか。普通だな」と言いながらも、レラから「タキくん」と呼ばれると妙に嬉しかった。

「タキくん」レラはあらたまった口調で「……これで、やっと、ちゃんとした友達になれた」

 その何気ないひと言は、胸の真ん中にバスケットボールでもぶつけられたみたいな、どごんと重たい衝撃をもたらした。可愛い女の子ってのは、ほんとに罪な存在だ。本人にそのつもりはなくても、きっと男心を振り回す。

「……なあ、レラ。おまえ、また観覧車乗りに来るんだろ?」

「……そのつもり」

「どうせなら、俺とまた一緒に乗ろうぜ」

 俺は笑顔で言った。もっとレラと話がしたい。また会いたい。

「……どうして?」

 どうして、と言うわりには嬉しそうな顔……だと思うことにした。

「カップルチケット買ったら、オトクだろ」

「………………」

「明日また今日くらいの時間にマリモに居るよ」

「考えとく」

 高校生にしてはあまりにも高飛車なセリフを残して、煌びやかに輝くメリーゴーランドと、無人で回り続けるコーヒーカップの間を駆け抜け、レラは去っていった。

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