屋上のお茶会
水曜日がまた来て、悩んだあげくそのビルに行き、おそるおそる屋上のドアを「ごぐん」と開けると、燃えるようなオレンジ一色の空と、そんな光に照らされながら、屋上の薄汚れた灰色の床の上にギンガムチェックの敷物を広げ、行儀よくチョコンと座った女の子が見えた。
傍らにはバスケット。畳んだ膝の前には皿やポット、コップが置いてある。誰がどう見てもピクニックだ。
「あら」という顔で、前回と同じような時代がかった黒の洋装に身を包んだ女の子がこっちを見た。
風の走り抜ける屋上に出て、後ろ手にドアを閉める。
刻々と変化していく美しい夕空と、複雑な光で彩られた福海町が見渡せた。
黒髪湖が赤い雫を溜めた地表の穴のように輝いていた。
俺たちは、お見合いで知り合ったあと、初デートするカップルのように正対した。
女の子からは今日も強い女物の香水の匂いが漂ってきた。
『こんにちは』とにっこり笑いながらいつもの筆談。
「こんにちは」と俺も場違いな返事。今から何が始まるんだろう。
『またあえたね』
「ああ。そうだな」
『やっぱりきてくれた』
「来させられたんだけどね。正確には」じゃないとぼく、とんじゃうよ、なんて言われてあれはまるで脅迫だ。「なあ、それで、きみはなにしてんの?」
どう見てもピクニックだが、俺は念のため聞いてみた。
『おちゃでもしようかとおもって』
やっぱりお茶会か、と俺は呆れた。いそいそと籐のバスケットからお菓子を取り出して皿に並べ、ポットから飲み物をカップに注ぐ女の子を見つめる。
『くっきーやいてきました』
と彼女は紙に書いた。それにしても、何枚メモを使うんだろうと感心する。一応、全部取っておいて、ポケットに畳んで入れている。
「へえ。手作り?」
コクン、と大きく頷く。相変わらず綺麗な肌と長い髪。黒を基調としたシックな装いは、呪われた美しい西洋人形のようにも見える。
差し出されたカップには、ほどよい温度の紅茶が入っていた。アールグレイだ。
『たきはこーひーがすきそうだけど』
「そうだな。ふだんはコーヒーばっかかな」
『ぼくはこうちゃがすき』
「へえ。紅茶派なのか」
『たまにはこうちゃもね』
「そうだな。たまにはいいな」
気の抜けたやり取りをしながら、この子は何がしたいんだろうと考えた。
クッキーはアーモンドとチョコとココナッツで美味かった。
美味しい? と問いたげな顔だったから、
「うん。美味いよ」と言ってみたら、嬉しそうな表情になる。
こういうのも悪くないでしょ? と言いたげな顔をしたから、
「こういうのも悪くないな」と言ってみた。
でしょでしょ、という顔。確かに信じられないくらい綺麗な子なんだけど。
「なあ。それで、きみは俺とどうしたいんだ?」
彼女はメモにさらさらと書きつけた。大きな黒い瞳が寄り目になって可愛い。
『たきにはいっしょにかんがえてもらいたいの』
「何を?」
『どうしたらぼくがとびたくなくなるか』
「は?」
『トリじゃなくてにんげんでいたいとおもえるか』
「いや、そんなこと言われても……」
あまりに突拍子もない台詞に、どうしても間の抜けた返事しかできない。
『すきなひとをつくるべき?』
俺がそれについて考えていたら、メモが追加され、
『ゆめをもつべき?』
俺は二枚のメモをトランプみたいに重ねて答えた。
「うん。好きなひとを作って、夢を持つことはいいことだと思う」
『たきにはすきなひといる?』
一瞬、ひとりの女の子の顔が浮かんだ。答えられず黙り込んでしまうが、今度は追加のメモが来ない。人形のように無表情のままじっと俺を見ている。
「夢ならあるよ」と俺はしぶしぶ答えた。
『どんなゆめ?』
「それは……ないしょ」
彼女は声には出さず、「ええー」と不満そうな顔をした。それから、ふっとイタズラっぽい顔になった。またもや、嫌な予感がする。
『たきのことすきになっていい?』
なんでこの子はこうもぐいぐい来るんだろうと呆れながら、俺は、「だめ」と短く答えた。
その子は少し傷ついた顔をした。冗談みたいな場所、冗談みたいな服装、冗談みたいな筆談のやりとりなものだから、そんな顔も半分は冗談に見えた。
『ぼくかわいくてきれいでしょ? ふつうそんなへんじする?』
自分で言うか、と呆れながらも、「あのな。好きとかってそういうもんじゃないだろ。もっと、こう、時間をかけてお互いのことを知ってだな……」
『じゃあそうする』とその子は書いた。日は完全に沈み、山の端に焔のような残照がたなびいて、そんな文字も読みにくくなっている。
「そうしてくれ……」と俺はため息。
黙って紅茶を飲みながら、海の底のような藍色の空を見上げた。
そろそろ終わりの時間だった。
「そんなわけで、きみのことをもっと知るために、とても大切なことを聞きたい」
え。なになに。
ボールを拾ってきた犬のような顔でその子は俺を見る。
「きみの名前」と俺は言った。「まずはそれからだろ」
そして差し出されたこの日最後のメモには、こう書かれていた。
『キサラギヤエともうします』
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