夏が来る

 冷静に思い返すと、レラはとても美しい少女で、そんな子と幻想の街で出会い、不思議な時間を過ごしたことに俺は浮かれていた。

 やっぱりそれなりに緊張していたのだろう。三つのミスを犯したことにあとで気づいた。

 ひとつめ。さんざんレラの名前をイジっておきながら、俺は、レラに自分の名前を告げるのを忘れていた。これはまだいい。

 問題はもうひとつ。レラにあげた百年文庫の中に、俺は、いつか小説の素材に使おうと書いた『言葉のスケッチ』を挟んだままだったのだ。(『青風』というタイトルの、悶絶級のポエムでございます……)

 失敗といえば、もうひとつ。

「友達になってくれ」なんて言っておきながら、俺はレラと連絡先の交換もしなかった。

 なんとなく、そんな俗っぽいことをしたくないという気持ちがあったのかもしれない。

 カッコつけたといえばそれまでだけど。


 満開の桜の出会いからあとも、俺はコーヒーを入れたポットと、ふたり分のサンドイッチと、百年文庫のほかのお気に入り(『湖』とか『妖』とか『響』とか)を持って、あの街を訪れた。桜の花が寂しく散って葉桜に変わり、楠の森が若葉を漲らせ、何かを求めるように枝葉をぐっと広げるころになっても、レラの姿はなかった。

 誰も居ない廃墟の港町で、俺は本を読み、コーヒーを飲み、ふたり分のサンドイッチをたいらげ、ふと頭に浮かんだセンテンスを手帳に記したりして、ひとりの時間を過ごした。そして、日が暮れるとバイクに乗って家に帰った。

 一度だけ、夜のこの街に行ってみた。

 テーマパークがまだ完成された夢として成立していた頃の、記憶の忘れ形見のように生き残ったガス灯が、ほのかなオレンジ色の光を闇の中に浮かび上がらせていた。

 街まで降りる森の中の空中木道にも、夢の案内人のような光が、点々と道を示していた。

 春の温かい夜風が吹き、頭上で緑がざわめく。

 黒緑の厚い天蓋も、荒涼とした無人の廃墟も、不気味とは感じなかった。そこはまるで自分自身の夢のように思え、だから全然恐怖を感じなかったのかもしれない。夢の中ならなにも怖くはない。

 レラもきっと俺と同じじゃないか、と奇妙な期待があった。レラは俺と似た世界に生きている。そんな気がした。まだ、あの子のことなんて、なにも知らないのに。

 風が薫った。

 絹のような手触りの湿気が身体を包んだ。

 雨が降るな、と思った。

 はたして、音のない雨が、廃墟の街を静かに濡らし始めた。カラフルな積木を並べたようなのっぺりした欧風家屋には、ひさしというものがなく、俺はオープンカフェの入り口の、破れたビニール屋根の下で雨宿りしながら雨を眺めた。そして、ため息をつき、肩をすくめた。

 こんな時間、こんな場所に、若い女の子がひとりで来るわけがない。

 夜の雨は、やがてぽとぽとと大粒の水滴になり、頭上の赤いビニール屋根はバタバタと景気のいい音を立てた。雨が去ると、石畳は濡れて黒く艶やかに光り、オレンジ色の街灯が照りかえって、視界の隅々までが明るく輝き、息をのむほど美しかった。

 この光景を、あの、綺麗な瞳の仏頂面の女の子に見せたら、どんな顔をするだろう。

 今度は笑ってくれるだろうか。


 梅雨に入ると、通学以外でバイクに乗るのが億劫になり、あの廃墟の街からも自然と足が遠のいた。レラのことも、いい本を読んだあとの熱を帯びた感傷のような、現実味を欠いた思い出として、普段は触れない秘密の場所にしまいこんだ。

 俺の通う福海大学ふくみだいがくは、夏休み前に前期試験がある。

 一限目の『民法4』が終わり、伸びをしながら教室を出た。これに関してはテストも大丈夫だろう。問題はサボって本読んでばかりの他の教科だ。

 二限目が終わるまで読書で時間を潰したあと、語学棟へ向かった。クラスメイトの『サエキ』を捕まえるためだ。サエキは、学食に行く相手すら事欠く俺にとって、唯一ノートを借りられそうな相手だった。とは言え、俺から話しかけることはあまりない。

 校舎から大量に吐き出される、似たような学生の群れの中でも、容姿の美しいサエキは圧倒的に目立っていた。たぶん俺とも同じクラスであろう、見覚えのあるチャラい学生ふたりと話しながら出てきたサエキに声をかけた。

「よう。おつかれ」

「あ。タキ」とサエキは嬉しそうに立ち止まる。

 ふたりの連れは無感情に俺をイチベツすると、「俺たち先行くわ」と言って、そのまま歩き去った。

「こんなときだけ友達ヅラして、ノート借りに来たぜ」

「……自分で言うあたり、タキらしいけどね」サエキは鷹揚にうなずくと、目を細めて苦笑した。「そろそろ来る頃だろうと思ったよ」

 ノートだけ借りてさっさと去ろうと思ったが、サエキから昼飯を誘われた。

「さっき一緒だった奴らはいいのか?」

「あいつらは別にいいよ」

 どうでもよさそうな顔で、あっさりそう言う。

 虫も殺さないような顔に反して、サエキには強い毒があった。だが、それを知る人間は少ない。誰もがサエキを天使か何かのように見ている節がある。その見る目のなさが俺には不思議だった。ひと目見たときから、サエキには暗くて深い穴があると俺は直感していた。だから、誰からも大切にされる人気者のサエキを、俺はわりとぞんざいに扱った。

 サエキが妙に俺を特別視してきたのは、そういうところが理由かもしれない。

 学食名物の安くて美味い『韓国風チーズささみかつ定食』をがつがつ食いながら、俺はサエキのどうでもいいおしゃべりを適当に聞き流した。物欲しそうな俺の顔を見て、サエキはため息をつき、カバンから数冊のノートを取り出すと、「……もう。わかったよ。はい。ご希望のノート」

「さんきゅー」さっさとノートを取ろうとしたが、サエキは手を放そうとしない。「あ?」

「でも、条件がある」サエキは口元に貴族のような笑みを浮かべた。

「なんだよ。条件って」

 サエキはニッコリ笑うと、女の子のように首を傾げて言った。

「今度の黒髪湖の花火大会、ぼくと一緒に行くこと」

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