異邦の騎士

まだ病気になるずっと前、母は言った。

「……作家になりたい? 作家ってのはね、選ばれたものの神聖な職業よ」

 あんたに小説なんて書けるわけないでしょ、と言わんばかりだった。けれども、作家になりたいという俺の夢に反対はしなかった。かつて読書少女だった母は、心のどこかで、息子が作家になることを期待していたのかもしれない。

 母は作家『島田荘司』のファンだった。一番好きな小説は『異邦の騎士』で、登場する名探偵『御手洗清』は母の理想の男だった。

 異邦の騎士。この国の一般常識や、世俗の価値観、当たり前の判断基準、月並な行動様式、流行、世論。そんなものには一切縛られず、流されず、己の矜持と自由にのみ殉ずる、異なった世界の理に生きる探偵。

「そりゃ、こんな時代だもん。ちゃんとした会社入って、安定した収入稼いで、姑に意地悪しないお嫁さんもらって、人並みに暮らして欲しいとは思うわよ」と母は笑った。「でも、私の望みは、息子に好きなことを好きなようにやって、幸せに生きてもらうことだけ。あとは、『異邦の騎士』みたいな男になってくれたら、言うことないかな」

 ことごとく焼き尽くされた母の夢。

 でも、たったひとつだけ、死なずに生き残った夢があった。


「私立探偵?」

 久しぶりに会ったサエキが驚いた声を出した。「なにそれ。ぼく初耳なんだけど」

「言ってなかったっけ?」俺はしれっと答えた。

「なんでまた、そんな仕事を?」

「一応、ガキの頃からの夢だったんだけどな」

「でも、作家はどうするの? あんなに真剣だったのに」

「やめた」

「やめた? そんなあっさり……作家になるために頑張った時間はどうするの?」

「べつに無駄にはならないさ」

 作家になろうと闇雲に過ごした日々。言葉を追い求めさまよった毎日。おまえやレラとのかけがえのない時間。それは決して無駄なんかじゃない。けれども、俺に必要なのはもはや物語じゃない。言葉の魔法を手に入れ、追及する努力は、この世界のどこかで、別の誰かがやるだろう。俺は、俺にしかできないことをやるべきだ。

「探偵って食べていけるの?」サエキが怪訝そうに言った。

「さあ? でも、作家だって同じようなもんだろ」

 俺が以前会った興信所の所長は言ったものだ。

『あたしらの稼業は、依頼人からどう絞り取るか。他人をどれだけゼニに換えられるか。なりふり構ってちゃ、食っていけないんだよ』

 納得いかない顔の俺を見下すように半笑いで『それともボクちゃんにはできんのかい?』

 ……できるかはわからない。でも、やってみようとは思う。

 金のためにレラの居所を暴いたあの探偵……あれがプロ本来の姿だというのなら、俺はもっと別のものに。矜持と信念を貫く探偵に。異邦の騎士に。

「じゃあ、ぼくは弁護士にでもなるかな」

 サエキはあっさり言って笑った。

「……じゃあって、おまえな……かんたんに言うなよ」俺は呆れた。「そっちのほうが何十倍も難しいだろ」

「いいよ。それをぼくの新しい夢にするから」

「新しい夢?」

「うん。ちゃんと地に足の着いた、現実的な夢」

「いままでの夢ってのは? そっちこそおれ、初耳だぞ」

「タキにはちゃんと聞かせたけどな」

 サエキは意味深なことを言って、妙に色っぽい目でくすっと笑う。

「じゃあ、そろそろぼくは行くよ」しばらくしてサエキは立ち上がった。「口だけじゃないってこと証明したいから、司法試験に受かるまでタキの前には現れない」

「はあ?」

「だから。最後にひとつお願いがある。ぼくがあのドアを開けて、ここから去るまで、なにがあっても絶対に目を開けないこと」

「なんだそりゃ」どこかで聞いたようなお願いだ。

「ぼくは本気だよ。タキ」とサエキは怖いくらいに真剣な顔で言った。

「………………」

 俺は、肯定の意を表すため、黙って目を閉じた。

「そのまま」とサエキがささやいた。

 言われた通りにした。

 ぷちゅっと柔らかい何かを唇に押し付けられた。

 俺の全身が一気に硬直した。まさかとは思ったが、本当にやるとは。

 でも、その感触には、遠い日の郷愁があった。初めてじゃない。俺はこの感触を知っている。けど、おい、待て。舌までからめてくるんじゃねえ。

 心臓が情けなくなるほどバクバク鳴っていた。

 ガチャンとドアが閉まってからも、俺のまぶたは接着したみたいに開けられなかった。

 ようやく目を開けたとき、もちろんサエキは居なかった。

 茹だった頭をどうにもできないまま、俺はしばらく放心していた。

 そして、机に向かい、引き出しの奥に直しこんだ手帳の束から、一冊を抜き出した。

 レラやヤエと過ごしたかけがえのない時間に、俺が持ち歩いていた手帳。たくさんの紙片が挟まっている。ヤエの筆談メモだ。

 その中から、ある一枚のメモを探した。

 ――のろってやる――

 そして、別の手帳に挟んでおいた、サエキがカルディさんに託した俺宛のメモをつまみ上げた。

 ――のろってやる――

 二枚を見比べて、そして俺は、そこでようやく、不思議なトリ少女の正体と、親友が俺に対して秘めていた想いがなんであるかを知ったのだった。


 福海町を出る日、マグナム商店街のひとびとに挨拶してまわった。

「そうか。探偵か」とカモさんは言った。「なんかカッコいいな」

「ごめん、カモさん。作家の夢、いろいろ応援してくれたのに」

「なあタキ」とカモさんは、コーヒー豆の並んだガラスケースに両肘をついた。赤いチェックシャツの胸元が盛り上がる。「……私や、あの魔女や、商店街のほかの連中が、お前によくしたのって、なぜだと思う?」

「………………」

「私な、今でこそしがない珈琲屋のねえちゃんだが、本当は絵で食っていきたかった。でもダメだった。夢は叶わなかったんだ。世の中、そんなやつばかりだ。みんな、夢をしくじるんだ。だから、お前みたいなやつ見ると、『コイツはやれる男かもしれない』って、世話を焼きたくなる」

 カモさんは続けた。口元には皮肉な笑みが張り付いていた。

「けど、私の中には、クソみたいにイジけた自分も居るんだよ。おまえも失敗してほしい。で、『夢なんてなかなか叶うもんじゃねーよな』って、ふたりで傷をなめ合いたい。……そう考える、狭量な自分が」

 カモさんの顔に、たぶん俺が初めて見るような表情が浮かんだ。

「だからタキ。うまくやれ。そして、そんな情けない私を、おまえがめちゃくちゃにしてくれ。コイツはやっぱり違ってたって、精いっぱい悔しがらせてくれ」


 はっぱねこのオーナーは、トングをカスタネットのようにカチカチやりながら嬉しそうに言った。

「ボクねえ、本当はドラマーになりたかったんだよ。才能は皆無だったけどねえ」

 ほんとにこのオッサンは最後までなにを言い出すか読めない。

「ついでに告白すると、ボクはパンって食べ物が大嫌いなんだ。週七でご飯さ。だけど、神様からもらえた才能は、なぜか美味しいパンを焼けることだけだった。才能って、皮肉で、うまくいかないものだよね」カチカチ。

「信じられない」と俺はうなった。「こんなに美味いパンを作れるのに?」

「美味しいパンを焼いたら、若い女の子がいっぱい店に来てくれるからね。これはこれでいいよね」

「あんた、そういうのさえ言わなけりゃな……」急に寂しさがこみ上げてきた。

「今度、眺めのいい高台に移転するんだ。女子高生のぱんつが見えそうな坂の上にね。そっちにも顔を出してね」

 最後に、オーナーはカニのように両手のトングを肩の上でカチカチやりながら、大真面目な顔で言った。

「もしまた来てくれたら、そのときは、女の子をトロットロにして、離れられないくらい夢中にさせるテクニックを伝授してあげる」

「……次来てみたら、性犯罪でブタ箱にぶち込まれてて閉店とか、勘弁してくださいよ」


 アーケードの一角、たくさんの花が咲き乱れるそこは、森の中の魔女の家のように現実離れしている。

 カルディさんに町を出ることを告げるのは特に辛かった。

「……どうしても、この町を出るんですか……?」

 最後のハーブティーを淹れながらカルディさんは眉根を寄せた。「ここではダメなんですか? ……探偵事務所」

「はい」と俺は神妙に答えた。「ここを出なくちゃダメな気がするんです」

 寂しそうに笑うカルディさんを見て、ふとカモさんの言葉が思い浮かんだ。

「どうしてカルディさんは、俺にいろいろしてくれたんです?」

 カルディさんにも俺に重ねる破れた夢があったのだろうか。

 カルディさんは不思議な表情で俺を見た。それは、旅立つ息子を見送る母のような、自分の身長を追い越した弟を見る姉のような顔だった。

「タキさんみたいなひとは、『女の子の夢』なんです」

 女の子。俺よりもずっと年上のカルディさんは、そう言った。

「きっとレラさんにとってもそうだったと思います」

 俺にはその意味がよくわからなかった。でも、それが、女性からの最大級の賛辞であることは疑いようもなかった。

 カルディさんは目を細めて穏やかな声で。「……ずっと、そのままで居てくださいね」

「やってみます」

 魅入られたように俺はぼんやりと、でも即答していた。魂の契約を結ぶみたいに。

 その言葉もまた、俺の心の深い場所にしっかりと刻み込まれた。

 いつか、どうしようもなく追い詰められ、自信を失ったとき、俺はこの言葉を切り札として使うだろう。

 麗しの魔女への感謝と共に。

「私はあきらめませんから」とカルディさんは優雅に微笑んだ。「『タキさんコーナー』のスペースは開けたまま、ここであなたを待ってます」

「また来ます。必ず」

「私もそれまで頑張らなくちゃ。ぶっちゃけ、赤字なんですけれどね……トホホ」


 福海町を出て、探偵事務所の看板を掲げた最初の冬。俺はカエデの墓を参った。深い意味はない。ちょっとした感傷とケジメのためだ。

 薄い青空と刷毛でひいたような雲の下、線香の煙が静かな墓地に細い糸のように立ち上った。白い薔薇の花束がなんだか場違いだった。

 でも、そんな俺の目の前にカエデは現れた。

「ごめんな。作家にはなれなかったよ」

 俺は墓の前で佇む制服姿のカエデに言った。

『いいよ』とカエデは笑って、少し意地悪な顔をした。『まあ、もともとタッキーには向いてなかったと思うよ。作家は。性格的に』

 俺は肩をすくめる。同感だ。

『けど、『花仮面の騎士』は発表してくれたね。見たよ。人形劇』

「ああ。すごい女の子と出会って、その子のおかげで実現できた。俺もカエデの描いてくれた漫画、穴が開くくらい読んでたからな。うまく演じられたよ」

『……そっか。うれしいな。ありがと』

「もっとちゃんとした形で発表できたらよかったんだけどな。小説で出版とか」

『いいよ』とカエデは納得するように二三度うなずき『それに、きっと誰かの心には届いたよ』

「ああ。だからもう悔いはない。それで、あらためて私立探偵になることにしたよ。今日はその報告だ」

『タッキーは夢を叶えたんだね』

「名乗るのは簡単だよ。まずは三年生き残れるか。話はそれからだ」

『タッキーなら大丈夫』

 カエデの輪郭がぼやけ、身体が薄くなり始めた。俺に残った最後の想像力が尽きようとしていた。

『元依頼人の私が太鼓判押したげる』

 ゆっくりと浮かび始めるカエデの身体を見上げた。

「ありがとな。カエデ。たいしたことはできねーだろうけど、依頼人のためなら、どんな場所にだって入るし、なんだってやる。ちょっとくらいヤバい橋も渡る覚悟さ」

『うんそれ、《異邦》の騎士ってより、《違法》の騎士だから』

 見事なツッコミと親愛の微笑を残して、カエデは冬空に消えた。

 思わず吹き出した俺の笑顔の上を、とっくに枯れたと思っていた涙が伝い落ちた。

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