最後の武器は

 探偵事務所の看板を掲げて三ヶ月が経った。

 壊れてるのかと思うほど沈黙していた電話が鳴り、ようやく一件の依頼が舞い込んだ。

 依頼人は、自分とそう年の違わない若い男で、依頼自体はシンプルだった。

 ある人物の、ある場所での、ある行為をしている写真が欲しい。

 仕事はまったく問題なく完了した。

 数日後、また電話が鳴り、横柄な中年男から「事務所に来い」と呼びつけられた。男は興信所の社長だと名乗り、若くして独立開業した気鋭の探偵に会いたいのだと言った。

 その興信所は、都心のオフィス街の一等地にあった。

「どうも」と言って受付に現れたのは、数日前に俺の依頼人だった若い男。

 あたかも初対面のような顔で差し出してきた名刺には、『調査部主任』という肩書と、俺に依頼したときとはまったく別の名前が記されていた。


 通された社長室は、ブラインドが格子状の光を漏らす薄暗い部屋で、黒檀のデスクの立派な椅子には、小太りの男がふんぞり返っていた。茶髪で、ぎょろりと目が大きく、太い首と太い腕に、下品な金のネックレスとロレックスを巻いた、見本のようにガラの悪い男だったが、決して見くびれないだけの威圧感も漂わせていた。

「いい腕らしいやん」

 男が切り出した。俺が手がけた報告書をぞんざいにめくりながら、甲高いくせに妙に貫禄がある声で言った。あいさつも自己紹介もなかった。

 社長は、クリアファイルを俺に差し出した。

 中には、数行の文字が印刷された書類が一枚だけ。

 調査対象者の氏名、住所、会社。そして、どんな情報が欲しいかという簡単な指示。地元じゃ知らない人間など居ない有名な食品会社の社長だった。

 俺が書類から目を上げると、社長は引き出しから札束を取り出して、無造作にデスクに放った。

「とりあえず五十万。足らんかったら言って」

 そこで初めて俺をジロリとねめつけた。

 射すくめるような視線で「やる?」

 学生時代の俺なら、「試されるのは嫌いでね」とかカッコつけたことを言って、その場を辞しただろう。

 だが、現実と向き合って生きていくと決めた俺は、こう答えていた。

「やります。ぜひやらせてください」

 まずは目の前の仕事をこなすこと。そして、現金を稼ぎ、食費とローンの支払いと来月の家賃を確保すること。それが生きるということだ。


 目の前の男が元の依頼主から受け取った正規の報酬は三百万だったと、あとで知ったが、それまで時給850円でしか働いたことのなかった俺には、五十万は充分すぎた。

「言っとくけどな」と社長は、裏社会の人間が時折見せる、人懐っこさの向こうに冷酷な本性をにじませたどう猛な笑顔で言った。「ヘタ打ってもウチは一切関わらん。ケツもたんからな。自分でなんとかせえよ」

「もちろんです」

 俺は答え、五十万とそのクリアファイルを持って部屋を出た。

 こうして俺は、その社長が逮捕されるまでの数年間、「安く、どんな仕事も引き受け結果を出す、使い勝手のいい探偵」として利用され、何十もの依頼をこなしていく。


 それは、疑いようもなく悪党からの依頼だった。だが、調べる対象者もまた、どう見ても悪党だったから、気はとがめなかった。半分以上中抜きされても、ギャラはそれまで学生の感覚で生きていた若者にとっては破格だった。

 いつしか社長は、様々な案件を次から次に俺に振るようになった。

 時は過ぎ、意図せず場数を踏み、修羅場を潜り抜けた俺は、いつのまにか、すっかり一人前の探偵になっていた。

 あるとき、その社長から、とつぜん連絡が途絶えた。

 干されでもしたのかと思ったが、実は社長が逮捕されたのだと、調査部主任の男から連絡を受けた。まあ無理もない、と苦笑した。

 しばらく経ち、その男から珍しく飲みに誘われた。

 依頼人のフリをして俺の事務所に来て以来、何度も顔を合わせ、時にはコンビを組んで現場に出たこともある男だったが、一緒に飲むのは初めてだった。


「それにしても、たいしたもんですよ」

 その男はカウンターに並んでグラスを舐めながらしみじみ言った。「ウチの社長、あんたを潰す気で、ヤバい仕事ばかり押し付けていたんですよ……今だから言えるんですがね」

 俺は、そうなんですか、と言った。

「気づきませんでした? 若造が生意気にもいきなり看板出したから、『どら。潰したろ』って。で、ウチで手に負えないヤバい案件を、片っ端からやらせようとしたらしいです。でも、あんた、証拠も痕跡こんせきも残さず、結果を出し続けて、けっきょく生き残っちゃってね。社長も『あいつ何者や。しぶとすぎるやろ』って逆に驚いて」

「ははは」と俺はあいまいに笑った。そんな裏事情知らなかったし、考えたこともなかった。「駆け出しのぼくに、なんでこんなに仕事まわしてくれるんだろうって、不思議に思ってました」

「……ま。そんな社長のほうが、先に潰れちまいましたが」

 男はグラスの中の琥珀の液体を、まわすように揺すった。

 俺も黙ってグラスに口を付けた。

「もしヘタ打ってたら、本気で見捨てられてましたよ。よくあんな無茶な仕事、引き受けてましたね」

「まあ、探偵なんてそんなものかと。ほら。『現場のエージェントが捕まったり殺されたりしても、当局は一切関知しない』って」

「ミッションインポッシブルでしたっけ? それ」と男は笑った。

 本気で言ったのだが、完全に冗談と思われたようだった。

「あんたがあまりにしぶといもんだから、最後のほうは、社長もなんとなく親心みたいなの、感じてたようですよ」

 その男はフォローするように言った。

「海の物とも山の物ともつかないぼくに色々な経験を積ませてくれましたから。あのひとには感謝してます」

「……めげないひとだ」とその男はひとり言のように言って苦笑した。「でもあんたみたいなのがけっきょくは最後に残るのかもな」


 以降、話は特に盛り上がらなかった。男は、屋号を変えて社長の興信所を継ぐらしい。つまりこれからは商売敵になる。

「……そう言えば、ミスタ・ハント」

 バーテンにチェックを指示しながら、その探偵は、冗談めいた呼び名で俺に言った。「なんでこの業界に入ろうと思ったんですか?」

 そして俺の返事を待たず勝手に続ける。

「……自分の場合は金と女、ですね」たいして面白くもなさそうに言った。「ヤクザになるよりはスマートだと思ったんですがね」

 金と女。そんな探偵志望者を、それまでに何十人も見てきた。みんな生き残れずに業界から消えた。

「で。そちらさんは?」とその男がたいして興味なさそうに言った。

「……子供のころにやったテレビゲームの探偵に憧れて」と俺は席を立ちながら正直に答えた。「一匹狼の貧乏探偵だけど、金よりも、名誉よりも、己の矜持と恋人のために仕事しててね。そんな風にカッコよく生きられたらな、と思った」

「はっはっはっ。ゲーム?」とそのベテラン探偵はさも可笑おかしそうに言った。「あんた、冗談なんて言いそうにない顔して、冗談しか口にしませんね。探偵、向いてますよ」


 嵐の中で命を燃やす日々。

 誰も裏切らないと決めた。

 追いつめられ、壁にぶつかり、何度もくじけそうになった。

 それでも最後の最後で俺を支え続けてくれたものがあった。

 どんなに否定したって、やっぱりそれは、『物語』だったのかもしれない。

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