そしてもう一度
時が過ぎるのも忘れて、俺はサエキから渡された『青イナツ風』を読みふけった。
読書に夢中になるのはいつ以来だろう。
それがどんなに幸せなことか、俺はすっかり忘れてしまっていたのだ。
それは、俺のよく知る物語。そして、俺の知らなかったレラの物語。
あのとき、俺のすぐそばで、泣いたり笑ったりふて腐れた顔をしていた綺麗な瞳の少女が、何を考えていたのか。どんな風に過ごしたのか。
レラの書いた『青イナツ風』は不思議な小説だった。
それはまずレラの一人称で始まり、最後はタキの幻影との会話劇になった。レラの想像が生み出した架空のタキは、いつしか俺自身と重なり、俺は自分が本当に、長い間レラと一緒に過ごしたように錯覚した。それは、失った大切なものを取り戻せたような、幸せで心が温まる体験だった。
小説の終わりに、俺たちは再会し、ハッピーエンドで物語は終わった。
気が付いたら夜が明け、自宅の窓の外が明るくなっていた。
いつのまにかサエキが家に来て、勝手に部屋に上がり込んでいた。
徹夜明けの俺の顔をじろじろ見つめ、満足そうに頷くと、キッチンで湯を沸かし、手際よくコーヒーを淹れてくれた。
そんなサエキの足元に、飼っているメス猫が「なー」とじゃれついた。
「おはよ。れら」サエキは見惚れるほど美しい笑顔で、柔らかな首筋を撫でながら、猫の名前を呼んだ。「ご主人さまは寝不足みたいだね」
俺たちはソファに座って、コーヒーを飲んだ。
カップから上る湯気を見つめながら、サエキの話し声をぼんやり聞いていた。
昨日からずっと、覚めない夢を見続けている気分だった。
「どうだった?」
どうもこうもねーよ。
「泣いた?」
ノーコメントだ。
「すごいよね。レラちゃん」
サエキは、細身の身体を背もたれに預け、ひざの上のふわふわの毛皮を撫でながら、頭上に向けて大きなため息を吐いた。
「彼女は、世界中に向けて発信してる。はっきりと。気持ちをちゃんと言葉にして、形にして、本にまでして、堂々と、胸を張って宣言してる……タキが好き。好きだーって」
思わず顔を背けた。全身が灼けた鉄みたいに熱い。
「うらやましいよ」追い打ちをかけるようにサエキは言った。なぜか怒ってるような口調で「……そんなことができる女が、この世界に何人居る?」
小説を読んだのは、本当に久しぶりだった。
母が死に、作家になるのをあきらめてから、俺はまったく本を読まなかった。書店に近寄りもしなかった。自分が、作家なんてものを目指していたことすら忘れかけていた。
けれど、レラは、その間もずっと、たくさんの本を読み続けたのだ。
たぶん、何度も壁にぶつかっただろう。自分を見失い、打ちのめされ、否定され、自信をなくしたことだって何度もあったに違いない。暗闇の中を彷徨うような日々。それでも自分の世界を大事に守り、言葉のかけらを集め、繋いで、紡いで、文章の魔法を追い求めた。小説を書き続けた。決してあきらめなかった。一冊の本が世に出るまで、並大抵じゃないものを乗り越えなくちゃいけないはずだ。レラはそれをやってみせた。
ふと、ソファの空いたスペースを見ると、レラがそこにちょこんと座っていて、あの、深く透き通った美しい瞳で、『そ。わたし頑張ったんだよ。すごい?』と、俺をじっと見つめているような幻影が浮かんだ。枯れた俺の想像力も、まだ少しだけ残っていたらしい。
レラは言った。
『ねえタキくん。この世界には、タキくんが信じていいものだって、ちゃんとあるんだよ』
「ああ。……レラがそれを教えてくれた。すごいよ、レラは」
まさか、こんな形で証明するなんて。
サエキは優しげに微笑んでいる。
ふだん他の人間に見せる、うわべだけの笑顔とは全然違う。その素直な表情を見て思った。こいつにとっても、レラは特別な存在だったんじゃないかと。
手にした青い本に再び目を落とすと、レラの姿は笑顔の余韻を残してふっと消えた。
「……にしても、こんなラブレターみたいな小説、出版社もよく書籍化に踏み切ったよね。よほど理解のある編集者に見いだされたのかもね」
確かにサエキの言う通りだ。
「作家になったタキと同じ世界に自分も行けば、また会えるかも。本になって世に出れば、タキが見つけて読んでくれるかも。迎えに来てくれるかも。……その一心で、レラちゃんはこんなものを書き上げたんだ」
わかってる。
「すごいことさせたよね、タキ。どうやって責任取るんだろ?」
わかったからそうイジメるなって。
「……なのに、肝心のタキは、いまや超リアリストの探偵さんで、小説になんてまったく興味がないときてる」
その通りだ。小説を読むのは辛い。わざわざ本を読まなくたって、この世には、死と病と毒と別れがまん延している。泣いたり感動するよりも先に、俺たちはそれに対処しなくちゃならない。そう思っていた……レラの小説を読むまでは。
「……なあサエキ。知ってたか?」
「なにを?」
「俺は……レラを好きなんだ」
サエキは呆れ笑いを浮かべながら、
「……とっくに知ってるよ」と言った。「……そういえば、ちゃんと言葉で聞くのは、初めてだけど」
「そして」俺はおもむろにサエキに抱きついた。「俺はおまえのことも大好きだ」
サエキが息をのむ。その顔は見ない。
「……おまえが『青イナツ風』を見つけてくれなかったら、俺はそれがあることも知らないままで、なにもかも手遅れになっていたかもしれない」
「………………」
「ありがとな。サエキ」
「………………」
「ずっとそばに居てくれて」
「………………」
「おまえに会えてよかった」
サエキの身体が大きく震えるのを感じた。
全身が波打つみたいにガクガク震えて。
やがて、「ふええええん」と猫のうなり声みたいな声がして、なにごとかと思わずサエキを見ると、信じられないことに、サエキの切れ込んだ形のいい瞳から、涙がドバドバあふれていた。
「うおっ。なに泣いてやがんだおまえっ」俺はドン引き。猫の『れら』もササッと逃げる。
「……なに言ってんだよっ」サエキはぐしぐし泣きながら「自分がそんなこと言うからだろっ。まったくズルい男だよ……そんな言葉で、これまでのこと、ぜんぶチャラにするつもり……?」ひっくひっくと涙声。
「…………ごめん」と俺。たしかに。
「でも……」サエキは俺にしっかり抱き着いたまま、耳元でささやいた。妙に色っぽい声で「……やっとむくわれた」
「や、ヤエにもそう伝えてくれるか」
照れながらもなんとか精いっぱいそう言って、俺はサエキの背中をぽんぽんと叩いた。
そのまま、目を閉じ唇を突き出してちっとも離れようとしないサエキを無理やりひっぺがし、俺は、もう一度、その小説『青イナツ風』の青いカバーを見た。
実は、あと少しだけページが残っている。
文句なしのハッピーエンドのあとの、作者あとがきだ。
レラの生の声。なんとなく読むのが怖くて取っておいた。
……意外にも、それは詩だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
【~青イナツ風~】
紫色に
泣き濡れる森 時凍る山
孤独の草原 悲しき雨降る
けたて、はしれ、駆け、歩け、裂け
おれは風になる 疾き鋼の青い風
わたしは風に乗る 純白のつばさ素直に広げて
ひとつになって
おれたちはさすらう
手を取りあって
わたしたちは往く
赤銅の大地 蒼き森
虹色の空 緑の風
夢の舞台 無限の世界
きみとならどこまでも
あなたとならいつまでも
それはけっして終わらない物語
それは誰も裏切らない物語
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
小説の最後の最後に記された、少しとっぴなレラの詩。
俺はそれを知っていた。でも今の今まで忘れていた。
それは、初めてレラに会ったあの日、レラに渡した『五十年後』に挟んでおいた、俺の恥ずかしいポエム。
大学生の自分が書いた『
それにレラが自分の言葉を継ぎ足し、『青イナツ風』という詩として、ラストを飾っていた。
思わず噴き出した。笑いの微風は、やがて、爆笑の嵐となって俺の口からあふれた。どうしようもなく、俺は笑い続けた。発作でも起きたみたいに腹を抱えて大笑いした。そんな俺を、サエキと『れら』は怖がるような顔で見る。
「た、タキ……? どうしたの?」
やってくれる。
レラのやつ、俺の恥ずかしいポエムを、まさか世界中に公開しやがるとは。
それにしても、なんてヒデー詩だ。
俺がもし作家をあきらめず小説を書き続けていたとしても、きっとこんな、わけのわからない自己満足の文章しか書けなかったことだろう。やめといて正解だった。恥ずかしい。でもなんだこれ。面白い。最高の気分だ。
「サエキぃ」と俺は涙目でサエキを突き飛ばした。「……俺の書いた文章が、本に載ったぞ!」
変わったタイトルの小説だと思ったが、まさかそういうことだったとは。
そのタイトルの由来がわかるのは、世界中の読者でただひとり、俺だけだ。
なんてすごいことだろう!
ソファの上でしばらく笑い転げた。
何年もの間、無理して、我慢して、溜まりに溜まった笑いが一気に噴出したみたいに。
小説なんて俺には向いてない。俺には私立探偵が性に合ってる。だけど、そんな俺ならば、どんなものからもレラを守ってやれる。誰が相手だろうが、どんな壁だろうが、きっと切り抜けてみせる。絶対に幸せにしてやる。
空想の世界でじゃない。
俺たちが生きるこの場所で。
レラを守り続ける騎士として。
俺の発作が収まるのをしかめっ面のまま待っていたサエキが、ため息とともに口を開いた。「……で?」
「ん?」
「……それで。タキはどうするつもりなの? これから」
「決まってんだろ」
言いながら立ち上がる。
「レラには、呪いを解いてもらわなくちゃいけないからな!」
そして、俺は、俺たちは、今度こそ幸せになる。
この世界には、信じられるものだってちゃんとある。今度は俺が証明する番だ。
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